Lesson 7  恋わずらいの妙薬 (3)

 梨緒子は改札口を出て、駅の構内をぐるりと見回した。

 ――うーん、おかしいな……。

【空港までは無理だけど、札幌駅までは迎えにいくから】

 あれは聞き間違いではなかったはずだ。
 先週、秀平に電話をしたときに、「水曜日」だと、梨緒子はちゃんと告げた。
 それだけではない。向こうから発ってくる前に、梨緒子は秀平にメールを送っていた。
 しかし、返事はまだない。
 飛行機に乗ってる間は電源を切っていたため、念のためにセンター問い合わせをしてみる。
 やはり、留守番電話の伝言もメールも届いていない。

 ――秀平くん、まさか忘れてるわけじゃ……ないよね?

 梨緒子は途端に不安に駆られた。
 几帳面で真面目な性格の彼が、約束の時間に遅れることはまずありえない。それに、仮に都合が悪くなったとしても、前もって連絡を寄越してくるはずなのである。
 梨緒子は秀平の携帯に電話をかけてみた。しかし無情にも、留守番電話の伝言を促すメッセージが流れてくるばかりだ。
 梨緒子は大きなため息をついた。
 考えられるとすれば――。
 梨緒子はあの時、ハッキリと具体的な日付を言わなかった。水曜日はどうか、と聞いただけである。
 ひょっとすれば、秀平は今週と来週を勘違いしているのかもしれない。

 ――とりあえず、アパートに行ってみよう。

 何度か訪れているため、もう一人でも歩いていくことができる。それに、梨緒子は秀平の部屋のスペアキーも持っているのだ。
 部屋の主が帰宅していなかったら、中に入って待ってればいいのである。
 連絡の取れない彼を、ただ札幌駅構内で待ち続けているよりも、そのほうが建設的だ。
 梨緒子はそう考え、荷物を肩にかけ直すと、夜の札幌の街をひとり歩き始めた。


 目的の場所には難なく辿り着くことができた。
 ざっとアパートの概観を確認する。すると、秀平の部屋に明かりはついていなかった。

 ――帰ってきてないんだ……忙しいのかな?

 梨緒子は手提げカバンの中から、携帯電話を取り出した。それには、ストラップ代わりにして、秀平の部屋のスペアキーがつけられている。
 実際に合鍵を使用するのはこれが初めてだった。
 簡単に行き来できるような距離でもなく、札幌へ遊びにきたときはずっと秀平が一緒にいるため、もちろんスペアキーを使うことはなかった。

 ――ちょっと、ドキドキしちゃうかも。

 勝手に入ることを許されているとはいえ、普通の半同棲カップルとはわけが違う。
 改めて、彼に鍵を託されたということの重さに、梨緒子はいまさらながら気づいてしまう。

 ふと、梨緒子の足は止まった。
 思わずすぐそばの植木の陰に身を潜め、アパートの様子を観察する。
 先客がいる。
 同じアパートの住人かと梨緒子は思ったが、どうやらそれは違う。
 その人物は、確実に秀平の部屋の前に立っている。
 梨緒子は息を潜め、じっとその人物の様子をうかがっていた。
 宅配便の業者のふうでもない。

 ――女?

 暗闇の中、一人の女が辺りを見回しながら、秀平の部屋のドアノブに、何か袋のようなものを下げている。
 そのまま若い女は立ち去った。

 梨緒子は、誰もいなくなってから、そっとドアに近づいた。そして、おもむろに袋の中をのぞいてみる。
 そこには、携帯電話らしきものが入っていた。秀平が使っている機種と同じものである。
 その携帯電話には、手紙が添えられていた。

『昨日の夜、私の部屋に忘れていってたよ。来週はいつもどおり水曜日ね。 千里』

 ――何これ……何なのこれ!?

 秀平からの連絡がない理由が、ようやく分かった。
 ここに秀平の携帯電話があるということは――いま頃札幌駅では、彼は携帯電話がない状態で、梨緒子のことを探している可能性が高い。
 それよりも何よりも。

 昨日の夜。
 忘れていった。
 昨日の夜?
 私の部屋に――?

 この千里という女の部屋で、秀平は何をしていたというのだろう。
 混乱する梨緒子の頭にふと、数年前の記憶がよみがえった。

 ――ちょっと待って、この人確か……。

 梨緒子が初めて札幌まで来たとき、秀平の友人・成沢圭太とともに一緒にいた人間だ。『ちさと』という名前に聞き覚えがある。
 つまり、さっきまでいた人物は、秀平と同じ学科の同期の女子学生なのだろう。
 その女の部屋に、秀平はこの携帯電話を置き忘れた――なんて。
 梨緒子は、何がなんだかもう、訳が分からなくなってしまった。

 手紙を握り締めながらその場で立ち尽くしていると、ようやく梨緒子の携帯に、電話がかかってきた。公衆電話からだ。
『梨緒子、いまどこ?』
「連絡取れなかったから、勝手にアパートまで来ちゃった」
『ごめん。携帯、どこかに置き忘れたらしくてさ。心当たりを探してるんだけどまだ見つかってないんだ。俺もすぐ帰るから、待ってて』
 秀平は矢継ぎ早に言葉をつむいでいる。梨緒子と落ち合うことができない焦りと、無事を確認できた安心感とが入り混じっているようだ。
 それは梨緒子も同じである。秀平が約束を忘れていなかったことが分かり、幾分気持ちが落ち着いた。
 梨緒子は大きく息をつき、ドアに提げられている袋に視線やった。
「あのね、秀平くんの携帯、ここに届いてるよ」
『届いてる?』
「袋に入って、ドアのところに提げてあるよ。誰かお友達が届けてくれたんじゃないのかな?」
 梨緒子は試すように聞いた。
 すると。
『友達? 誰だろ。成沢かな』
 その声質から、秀平は置き忘れた場所に気づいていないようだ。
 梨緒子はあえて事実に触れなかった。さらりと流し相槌を打つ。
「そうかもね。じゃ、早く帰ってきてね。待ってる」
『分かった』
 梨緒子は電話を切ると、千里という女が書いた手紙を、そのまま自分の手提げカバンの底へと押し込んだ。


 秀平の部屋に泊まるのも、もう慣れたものだ。いまでは、緊張よりも安心感のほうが勝っている。
 持参する荷物も、以前に比べてかなり少なくなった。
 洗面台の棚には、梨緒子専用の歯ブラシもちゃんと置いてあるし、フェイスタオルもバスタオルもパジャマも、すべて梨緒子用のものを一式揃えて、クローゼットの隅に置いてある。
 その他に、マグカップや食器類も、梨緒子が使うためのものが用意されている。キッチンにある小さな食器棚には、両親がこの部屋に滞在した際使用したらしい食器がいつの間にか増えているが、一度使ったきりもう使われていないのだろう、奥のほうに押しやられてしまっている。
 しかし梨緒子の分は、きちんと秀平が普段使っている食器の横に並べられている。形もすべてお揃いで、色違いでまとめてある。秀平が梨緒子のために用意してくれたものだ。
 そう。
 彼の暮らす空間の隅々にいたるまで、梨緒子の『存在』がある。彼の愛情に疑問をいだく要素は、何一つ見つからない。
 秀平はいつもと変わらない。むしろ優しいくらいだ。
 梨緒子は秀平の勉強の邪魔をしないよう、適当にお風呂に入り、自由に部屋の中でくつろいでいた。
 深夜一時を過ぎた頃、秀平はようやくノートパソコンを閉じ、椅子の上で軽く伸びをすると、のろのろと立ち上がりベッドへと移動した。
 センターテーブルに肘杖をついて、手持ち無沙汰に雑誌を読んでいた梨緒子は、背後にいる秀平に、あくまでさらりと尋ねてみた。
「昨日の夜、どこへ行ってたの?」
「昨日? なんで?」
 逆に聞き返されてしまう。
 常日頃から、彼の行動を詮索するようなことは聞くまいと思っているが――今回ばかりは気持ちが抑えられない。
 梨緒子は特に意味はないという体を装って、なおも続けた。
「携帯をどこかに忘れたってことは、ここにはいなかったんでしょ?」
「うん。成沢と、一緒にご飯食べてた」
「ふうん……そう」

 いったい何が本当で、何が嘘なのだろうか。
 真実は一つしかない。つまり――。

 ――どちらかが、嘘をついてる?

「梨緒子」
「なに?」
「おいで」
 彼の艶めいた低い声が、梨緒子を誘っている。
 梨緒子は読んでいた雑誌を閉じ、部屋の電気を消した。そして、暗い部屋の中を探るようにして、先にベッドに横たわっている秀平のもとへと歩み寄った。
 待ち受けるようにして、暗闇の中に彼の両腕が伸ばされる。捕らえられてしまうと、もう梨緒子に主導権はない。
 力任せに荒々しく――ということは絶対にない。秀平は梨緒子をしっかりと捕らえたまま、優しくゆっくりとその体勢を変えていく。
 梨緒子は、そのまま秀平の行動に身を任せていたが、やはりどうしても昨夜どうしていたのかが気になってしまい、とても集中できない。
 梨緒子は反射的に顔をそむけ、秀平のキスを拒んだ。
 
 梨緒子の『拒絶』に、秀平はすぐに気持ちが萎えてしまったらしい。人一倍相手の反応を気にする性格のため、先を続ける気を完全に失くしてしまったようだ。
 わずかな空白のあと、秀平は梨緒子から離れ、隣に転がるようにして横たわった。
 梨緒子はあわてて、秀平の身体にすがりついた。
「ごめんなさい。あの、違うの……嫌とかそういうんじゃなくて」
「別にいいよ。俺も少し疲れてるし」
 そう言って、梨緒子に背中を向けるようにして寝返りを打った。
 本当に疲れているのだろう。すぐに彼の寝息が聞こえてくる。
 眠る秀平の背中を眺めながら、梨緒子の目は冴えたまま、ひたすら自問自答を繰り返していた。

 もしかしたら――類や美月の言っていたことは間違ってはいなかったのではないか。
 自分に内緒で帰ってきていた? しかも女連れで?

 ――さっきの千里って人だったりして……まさかまさかそんな。


 梨緒子はいつのまにか眠りに落ち、目が覚めたときにはもうベッドに一人だけとなっていた。
 首だけ動かしてあたりを確認すると、部屋の中に秀平の姿はない。しかし、かすかに人の気配がする。
 梨緒子はようやく身を起こし、掛け布団の中から這い出して、ベッドの端へ腰掛けた。
 寝つきが悪かったせいで、寝覚めもよくない。梨緒子は何もする気が起きず、ただぼうっと座っていた。
 しばらくするとドアが開き、秀平が部屋の中へと入ってきた。
 寝起きのパジャマ姿の梨緒子とは対照的に、秀平は完全に着替えてしまっている。
「……ごめん秀平くん。寝坊しちゃったね、私」
「よく寝てたから、起こすの止めておいた。とりあえずご飯はキッチンに作ってあるから、食べて」
 秀平はそう説明しながら、机の上の資料や本をまとめ、通学に使っている黒いカバンに入れ、それを肩から提げた。
「もう大学に行っちゃうの?」
「うん。梨緒子、部屋出るときに戸締りしていって」
「分かった。私もお昼前には空港に向かうから」
 部屋を出て行こうとしていた秀平が、ふと立ち止まった。そして、その場でゆっくりと振り返る。
 その表情はいつもながらに淡々としたものだったが、どこか寂しげだった。焦げ茶色の透き通った瞳をゆっくりと瞬かせ、梨緒子をじっと見つめている。
「せっかく来てくれたのに、ほとんど相手してやれなかったな」
「いいよ別に。来月また来るし」
「来月も? ……そんな、来なくていいよ」
「どうして?」
「いろいろやることがあって、ちょっと身辺落ち着かないし。落ち着いたら一度そっちに帰るつもりだから、そしたら二人でゆっくり過ごそう」
 梨緒子が素直に頷くと、秀平は肩から提げていたカバンを床へと置いた。
 そして、ベッドに腰掛ける梨緒子のそばへ近寄ると、すぐ隣に腰掛ける。
 秀平の重みでベッドが揺れた。
 彼の瞳の中に、自分がハッキリと映っている。
 梨緒子は、目蓋をそっと閉じた。
 すぐさま、唇が重ねられる感触がする。梨緒子は昨夜のように避けることはせず、秀平のキスを受け止めた。
 もう何度も経験しているのに、決して慣れることはない。優しく、甘く、それでいてどこか冷たさの残るキスだ。
 余韻に浸る間もなく、唇は離れていく。温もりはすぐに失われ、残るのは空虚な感触だけだ。
 秀平はおもむろに立ち上がり、再びカバンを肩から提げると、梨緒子を振り切るようにして部屋から出て行ってしまった。

 梨緒子は中途半端な気持ちを抱えたまま、ひとり秀平の背中を見送った。