Lesson 7  恋わずらいの妙薬 (4)

 札幌から戻ったその週末――。
 梨緒子はお土産を持って、親友の美月の自宅を訪れた。
 いつもであれば、外で待ち合わせをして行きつけのカフェで話をするのだが、今日はそういう開放的な場所へと出向く気分ではなかったのである。

 家族は出かけているようだ。梨緒子は居間に通され、しばし待つ。
 懐かしい。
 高校時代は何度となく遊びに来たことがある。学校帰りに寄るときは、大抵類がくっついてきて、三人でたわいもない話に花を咲かせていたものだった。

 やがて美月は、トレイにアイスティを載せてやってきた。二人分のグラスをテーブルの上に並べ、そのまま梨緒子と向かい合うようにして座る。
「札幌、どうだった? 楽しかった?」
「うん、まあ。はいこれ、美月ちゃんにお土産」
 梨緒子は空港で買ったチョコレートの詰め合わせを、紙袋ごと美月に手渡した。
 美月はすぐさま中身を確認し、顔を綻ばせる。気に入ったらしい。
「ありがと。すっごい美味しそう。そうそう、永瀬くんの欲しいもの、上手く探れた?」
「……なんか、よく分かんない」
「梨緒ちゃん?」
 美月はようやく梨緒子の態度がおかしいことに気づいたらしい。心配そうにして、梨緒子の顔を真っ直ぐ見つめてくる。
 梨緒子は手提げカバンから持ち帰った紙を取り出し、それを美月に見えるように押しやった。
 美月は書かれた文章に静かに視線を落とす。
「……何これ? 千里って誰?」
「秀平くんね、私が札幌に行く前の日の夜、この千里って女の人の部屋に行ってたみたい」
「えっ……」
 美月は驚きのあまり、唖然とした表情のまま固まっている。それ以外の反応は出てこないようだ。
 梨緒子はあくまで冷静を装って、美月に淡々と説明を続けた。
「携帯を届けにきたのを、私見ちゃったの。秀平くんに内緒で、この手紙だけ抜き取ったんだけど……秀平くんに聞いてみたの、昨日どこ行ってたの、って。そしたら、男友達と一緒だった――って」
「ちょっと待って。永瀬くんに限ってそんなこと、あるわけないでしょ? そのメモが嘘だって可能性も、ないわけではないし」
 美月は梨緒子の言うことが半信半疑のようだ。
 秀平に限って――確かに、梨緒子自身もそう思う。
 しかし。
「そんな、わざわざ秀平くんに嘘の手紙を書く必要ないでしょ? この内容からすれば、毎週水曜日に二人は会ってるってことでしょ。それにそれにだって、私が水曜日に行くって言ったら、秀平くん、なんか渋ってたんだよ、いま思い返してみると」
 これまでの言動が、どんどん疑わしく思えてしまう。
 美月に説明しているはずが、自分自身の言葉で梨緒子はどんどん不安に追い込まれていく。
「それに、忙しくて相手できないから、札幌に来なくていいって言うし……」
 すべては梨緒子を欺くための、言い訳だったとしたら。
「どうしよう、私……秀平くんのこと、信じられなくなってる」
「梨緒ちゃん……」
「確かにね、一緒にいるときは充分すぎるほど尽くしてくれてる。それはちゃんと分かってる。でも……本当は、自分がどこまでも都合のいい女になってて、いいようにあしらわれてるだけなのかな、なんて」

 秀平は、付き合い始めた当初に比べて、少しずつではあるが、確実に変わった。
 恋愛にあまり積極的ではなかった彼も、時を経るごとに、自分の感情を素直にぶつけるようになり――付き合いが長くなった現在では、愛情行為の主導権はすべて彼のほうにある。
 しかし、それはあくまで一緒にいるときの話だ。
 自分がいないときの彼が実際どんなふうなのか――梨緒子には分からないのである。

「美月ちゃん。私、来月また、札幌行ってくる」
 言葉の真意を問うようにして、美月の首がわずかに傾げられる。
 その理由は、ただ一つ。
「秀平くんには内緒で――確かめてくる」



 梨緒子がそう心に決めてから、すでに一ヶ月あまりという時間が経とうとしていた。
 計画を実行するには、水曜日でなくてはならない。
 しかし、いくら看護師の勤務形態が不規則だといっても、なかなか上手く水曜日に休みが取れなかったのである。

 先月札幌で逢って以来、秀平は一度も電話をしてこない。
 日課の晩御飯メールと、たわいもない一言二言のメールを何度かくれただけだ。
 彼の声を一ヶ月も聞いていない。

 落ち着いたら一度帰るから、その時に――。
 別れ際、秀平はそう梨緒子に言っていたが、いっこうに帰ってくる気配はない。
 やはり、あれは梨緒子を札幌から遠ざけるための口実だったのではないかと、梨緒子はどうしても勘繰ってしまう。



 計画実行の前日である火曜日に、梨緒子は一度下見をしていた百貨店の二階へ向かった。
 ほとんどプレゼントをしたことがないため、彼の反応があまり想像つかない。

 ――お財布か、ネクタイ……かな?

 秀平へのプレゼントを選んでいると、少しだけ気がまぎれる。
 展示されているスーツのセットをひとつひとつ眺め、それを秀平が着ているところを想像し、梨緒子は一人テンションが上がってしまった。

 ――やっぱりネクタイかなー。秀平くんはスタイルいいから、スーツ似合いそう。

 高校時代のブレザーの制服で、ネクタイを無造作に緩めていたときの仕草を思い出し、いまさらながらにときめいてしまう。
 梨緒子は売り場の中でもっとも高価な部類のブランドネクタイを選ぶと、それを購入し、贈答用の包装をしてもらった。



 次の日、梨緒子は秀平に黙ったまま、一人札幌へと向かった。
 千里という女が書いた手紙の真偽を、この目で確かめるためである。

 所要時間、一時間あまり。
 移動時間などを考慮しても、二時間半である。あっという間だ。午後一番で地元の空港を発って、午後四時前にはもう札幌駅へと到着した。
 秀平はきっと、大学のどこかにいるだろう。まだ帰宅していないはずだ。
 梨緒子はどこにも寄り道せず、そのまままっすぐに彼のアパートを目指した。
 そして、合鍵を使って部屋の中へと入り、ばれないよう自分の靴を紙袋に入れて隠し、秀平が帰ってくるのをひたすらじっと待った。

 七時。そろそろ?

 八時。日課である晩御飯メールが届く。
 今日は画像なしだ。場所によっては写真が撮れないこともあるため、そういう場合は食べたものの単語を羅列しただけのメールが送られてくる。
 ここへ帰ってきていないということは、外食しているのだろう。
 そう考え、ふとあることに気づく。
 梨緒子は、ここ数ヶ月やり取りしたメールをチェックした。

 ――やっぱり。

 水曜日のメールには、ここで自炊している写真がついていない。
 それだけではなく、外食の写真もついていないのである。
 ここ数ヶ月、水曜日はいつも文字でメニューを打っているだけだ。

 つまり。
 毎週水曜日に、秀平はあの千里という女の部屋でご飯を一緒に食べている――当然、彼女が作ったご飯を。

 だから、写真を送ってこない。

 秀平の行動は、限りなく黒に近いグレーに染まっていく。
 いや、これは黒なのだ。
 黒なのだ。
 黒だ。
 黒だ。

 地元での目撃情報。女連れ。梨緒子に連絡なし。
 忘れた携帯。それについていた手紙。
 そして――水曜日というキーワード。


 梨緒子は部屋の電気もつけず、暗い部屋の中でただじっと、両膝を抱え座って待っていた。
 ときおりアパートの前を、学生たちが談笑しながら通り過ぎていく声が聞こえてくる。

 どのくらい時間が過ぎたのか分からなくなった頃、ドアの鍵穴に鍵が差し込まれる物音が聞こえてきた。
 一気に緊張感が高まる。
 ドアが開き、そして閉じる音。
 玄関の明かりのスイッチが押され、梨緒子がいる部屋がその明かりで照らされた。玄関先で靴を脱ぐ彼の影が動いている。
 郵便物を確認する物音。
 秀平は一人だ。誰かを連れて帰ってきたわけではないようだ。
 梨緒子は薄明かりの中、携帯で時刻を確認した。もう午後十時をまわっている。

 ようやく部屋のドアが開いた。秀平はまだ気づいていない。
 電気がつくと同時に、梨緒子は秀平が立っているであろうドア付近を振り返らず、膝を抱えたままの状態で淡々と告げた。
「随分遅かったね」
「り、梨緒子!? 何? どうしたの?」
 いるはずのない人間が突如目の前に現れ、いつも冷静で淡々としている秀平が珍しく取り乱している。
 その態度が、梨緒子にはいっそう怪しく思えた。
「勝手に入っちゃってゴメンなさい」
 秀平はいまだ事態が飲み込めていないながらも、あっさり冷静さを取り戻したらしい。膝を抱えている梨緒子のもとへ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「それは別にいいけど……いつ来たの?」
「夕方」
「夕方? どうして連絡くれなかったんだよ」
 連絡をしたら、真っ直ぐに帰ってきたのに――そんな秀平のどこか言い訳めいた言葉が、梨緒子のささくれた心にいちいち引っかかる。
「いきなり来ちゃったし、邪魔しちゃいけないと思って。こんなに遅くなるって、思ってなかったから」
 勘繰るように、言葉の終わりに不自然な力をこめる。
 秀平はそれに対して、何も答えなかった。

 逢えて嬉しいという様子は、そこにはない。
 梨緒子の言葉の奥にあるものを、秀平はすでに感じ取っているに違いなかった。