Lesson 7  恋わずらいの妙薬 (5)

「これ、何?」
 秀平は机の上に置かれていた箱にようやく気づき、それを手に取った。
 梨緒子が秀平のために選んだネクタイのプレゼントである。
「いつもお世話になってるから、少しだけど私から秀平くんへプレゼント」
 すると。
 秀平はそれを開封することなく、そのまま机の上に戻してしまった。
 その表情は固いままだ。突然のプレゼントに喜び途惑っているふうではない。
 梨緒子はじっと秀平の反応を待った。
 すると。
「あのさ、お金使いすぎなんじゃないの」
「え? だって」
「飛行機の往復とその他諸々、月に五万もかけてどうするんだよ。それにプレゼントとか、そんな気を遣わなくてもいいから」
 しかし、というかやはり。
 昔から秀平はこうなのだ。
 突然お金の話を持ち出して、あれやこれやと説教したがる。
 梨緒子は深々とため息をついた。
「五万もって……秀平くんに会うためのお金だよ? どうしてそんなこと言うの? 借金してるわけでもないし、自分のお給料の中からちゃんとまかなってるんだし」
「そういう問題じゃないだろ」
 もちろん梨緒子にだって、五万というお金がどれだけの大金か、よく分かっている。
 たまにならまだしも、ひと月に五万も、と言いたくなる気持ちも理解できないわけではない。
 しかし、それとこれとは話が別だ。
「秀平くんに逢いに来たら駄目なの?」
「駄目だとは言ってないだろ。俺はただ――」
「ただ、何? 抜き打ちで来られたら困る? そういうこと?」
 とうとう――来るべき時が来た。
 梨緒子はじっと秀平を見据えた。

 秀平はあきらめにも似たため息を大きくつき、黙ったままベッドに腰かけた。
 言いたいことを最後まで言えないうちに、梨緒子からどんどん問い詰められ、説明するのが面倒臭くなってしまったようだ。
 毎日一緒にいたら起こらないであろう誤解を、解く方法が見つからない。
 息苦しい沈黙が延々と続く。

 梨緒子は自分のカバンの中から、千里という女の手紙を取り出し、それを秀平に突きつけた。
「これ、どういうこと?」
「……」
「この間、秀平くんの携帯をここに持ってきたの、成沢くんなんかじゃなかったけど」
 秀平は梨緒子から渡された手紙を受け取り、やがて息を飲んだような微妙な表情をした。
 事実をさらけ出されて途惑っているのか、それとも――梨緒子は真実を明かすべく、さらに問い詰めた。
「毎週逢ってるんでしょ、この千里って人と。毎週水曜日? じゃあ、今日もだよね。この人のところから帰ってきたから、こんなに遅くなったんだもんね」
「……」
「どうして黙ってるの?」
「……」
 秀平はベッドに腰かけて手紙を握り締めたまま、彫像のように固まっている。視線を落としたまま、目の前に立ちはだかる梨緒子のほうへ顔を上げようとはしない。
 梨緒子は幾分語調を和らげた。
「それに……先月だって、本当は地元に帰ってきてたんでしょ?」
「……そうだけど」
 初めて秀平が、肯定の意思表示を見せた。
 それも、もっとも事実であってほしくなかったこと――。
 つまり。
 類や美月の言っていたことが正しかったのだ。

 地元に帰ってきていた――しかも、女連れで。

 もう、何も信じられない。
 梨緒子は完全に頭に血が上ってしまっていた。嫉妬と怒りで、もう頭の中はぐちゃぐちゃだ。
「どうして、どうして連絡してくれなかったの?」
「遊びで帰ったわけじゃないから」
 理由にならない。
 そんな言い訳が、通用していいはずがない。
 ひどい。ひどすぎる。
「あの千里って女の人と一緒だったから?」
「……」
「そうなんでしょ? 違うの?」
 せめて、否定して欲しい。
 自分の言っていることは間違っていると、言って欲しい。
 しかし、いつまで経っても返事がない。
 気の遠くなるような沈黙の海に溺れたままだ。
 梨緒子はもう、完全に裏切られてしまったという絶望感でいっぱいだった。

「……もう、たくさんだ」
 ようやく、秀平が口を開いた。落ち着いた低い声で淡々と呟く。
 そして、これ見よがしに大きくため息をつくと、腰かけていたベッドから立ち上がり、そのまま部屋を出て行こうとした。
 とても、嫌な予感がする。
 梨緒子の頭の中に、黒くもやもやしたものが渦巻いている。
「どこ行くの?」
「……」
 梨緒子が呼び止めると、秀平はこちらに背中を向けたまま、部屋から半分出た状態で立ち止まっている。
「……あの女の人のところ?」
「別にどこだっていいだろ?」
 もの凄い勢いで、秀平がこちらを振り返った。
 秀平の刺し貫くような鋭い視線に、梨緒子の心臓は縮み上がった。
 そのあまりの迫力に、梨緒子は口が聞けなくなってしまう。
 自分の発した言葉が、彼の逆鱗に触れてしまったらしいことだけは、梨緒子は何とか理解できた。
「明日帰るんなら、それまではここにいればいい――俺はもう、疲れた」
「…………なに、そ……れ」
 梨緒子は震えた声で、必死に言葉を絞り出す。
「俺のことを信じられない人間と、この先一緒にいる意味なんか、ない」

 一緒にいる意味なんか、ない。
 この先、一緒にいる意味がない――つまり、彼が梨緒子に告げた言葉の意味は。

 恋人関係の『終焉』だ。

 もう、疲れた。
 もう、疲れた。
 いったい何に?

 遠距離恋愛を続けることに?

 逢いたいときに逢えない。
 喜びも寂しさも快楽も、分かち合うことができない。
 だから、疲れた?

 ――なによ。私だってもう……疲れちゃった。

 家主がいなくなってしまった部屋の中で、梨緒子は泣き崩れながら、一人きりで朝を迎えた。



 それから半月ほど過ぎたとある平日の夜――。
 梨緒子は仕事が終わってから、飲食店の立ち並ぶ繁華街へと向かった。
 目指すは、何度か訪れたことのある洋風居酒屋である。
 待ち合わせをしている男は、梨緒子よりも先に店の中で待っているらしい。店まであと一分というところで、梨緒子の携帯電話に連絡メールが入ってくる。
 少しだけ緊張する。
 梨緒子は店の看板の前で一度立ち止まり、大きく深呼吸した。近くの店々の換気扇から流れてくる料理の香ばしい匂いが、辺りに漂っている。

 あらかじめ予約を入れていた名前を告げると、梨緒子はすんなりと案内され、四人掛けのボックス席が並んでいる中の一つに通された。
 テーブルの上は、すでにメニューが散乱した状態だった。先に通されていた友人・安藤類が、料理のメニューとにらめっこしている。
「飲み物、何にする? つまみはテキトウに頼んじゃっていいだろ」
 梨緒子が類と向かい合うようにして席に着くと、すぐに目の前にドリンクメニューが差し出される。
 気心知れた仲間だと、食べ物の好みに気を遣う必要もない。とても気楽な雰囲気が、いまの梨緒子にはとても心地いい。
「今日はね、思いっきり飲みたい。ワイン、ボトルで!」
 類はそれまで眺めていたメニューから目を離し、心持ち眉をひそめて、梨緒子の顔を見つめた。
「ボトル? ……何だよリオ、やけ酒か?」
「ルイくん、ワイン大丈夫だよね? 一緒にワイン付き合ってよ」
 類は絶対に断らないということを、梨緒子は感覚的に知っている。
 その証拠に、類はハイハイと梨緒子の願いを素直に聞き入れ、その通りに注文をした。
 この男はとても優しい。
 誰にでも優しい。
 それは決してマイナスの意味ではなく、誰に対してでも優しさをもって接することができる、という意味だ。
 だから、同性異性問わず友人がたくさんいる。相手に無理なく合わせることもできるため、こうやって突然誘っても、嫌な顔一つせずに応じてくれるのだ。

 すぐに注文したワインが運ばれてきた。専用のグラスも二つ並べられる。大衆的な居酒屋のため、ソムリエもいなければ、テイスティングもない。
 類は二つのグラスに豪快に半分ほど注ぎ入れ、早々に乾杯を促した。
 ガラスのぶつかる透明な音が、二人の間に小さく響く。
 梨緒子は一口飲んで、思わず顔をしかめた。すぐに喉の奥が熱くなる。いつも飲んでいるカクテル系のお酒とはかなり違う。
 この分だと、すぐに酔うことができそうだ。
 とにかく酔いたい。
 酔って忘れてしまいたい。
 全部。すべて。何もかも――。
「リオ、お前さー、俺と二人で飲んでていいのかよ? 永瀬にばれても知らねーぞ」
 忘れてしまいたいと思っていた矢先に、忘れてしまいたいその単語が、類の口から吐き出される。
 梨緒子はもう一口ワインを飲み、舌を滑らかにしてから、さらりと真実を告げた。
「あのね、私……秀平くんと別れたの」
「は、冗談だろ?」
「冗談じゃないもん。いままでも何度もケンカしたけど、今回は修復不可能」
 類は二の句が継げなくなっている。
 まったく予想していなかったのだろう、呆気にとられたまま、じっと梨緒子の顔を穴の開くほど見つめている。
「……いつ?」
「先々週、かな」
「美月には言ったのか?」
「ううん。まだ誰にも言ってない」
「なんで、俺?」
 類の疑問はもっともだ。その答えは、梨緒子にもよく分からない。
「……なんでだろうね」
 梨緒子は深呼吸に合わせて、ひとつ大きくため息をついた。そして、グラスに残っていたワインを一気に飲み干し、空になったグラスをコースターの上に半ば叩きつけるようにして戻す。
「ここまで遠距離続けてきて駄目になったなんて、あまりに不甲斐ないというか惨めというか……言うに言えなくて、どうしようもなくなったって――感じなのかな。これでもかなり立ち直ったんだけど」
 酔いに任せて、どんどん言葉が口をついて出てくる。
 梨緒子は類が黙って聞いてくれているのをいいことに、ひたすら喋り続けた。
 別れる原因となったここ数ヶ月の出来事の経緯を、類に一通り説明し、そのあとさらに梨緒子は続けた。
「……なんかね、あやふやなことがたくさんありすぎて。もしかしたら秀平くんには何にも非がないかもしれないなって思うの。でもそれをね、信じきれなかった自分がいるの。それで、信じなかった私を秀平くんは責めるの。――合うわけないよね」
「なあ、リオ」
「なに?」
 類は梨緒子のグラスにワインを継ぎ足してやりながら、諭すように語りかけてくる。
「非が『ないかも』、じゃなくて『ない』、だろ」
「ルイくん……」
「言っとくけどな、俺にだって分かるぞ、そのくらいのことは。あいつは、人が見ていないからってズルするようなやつじゃない」
 痛い。
 胸の奥が、いちいち痛む。
「人通りのない道に一万円札が落ちてたとしても、永瀬ならちゃんと交番に届けるか、時間がなければ拾わずに見なかったことにして素通りするか、どっちかに決まってる。誘惑に負けることなんかないはずだし、そもそも誘惑される欲もあいつにはない」
 重い。
 胸の奥が、ずっしりと重苦しい。
「だから、リオが見てないところで他の女とどうこうということは、絶対にない。それとも永瀬は、浮気を認めたのか?」
「認めたわけじゃなかったけど……否定しなかったもん」
「否定しなかったイコール認めた、じゃないだろ」
 浮気という事実は、初めから存在しない。
 そう、目の前の男は言う。
「信じなかったリオが悪い。逃げてないでちゃんと自分と向き合えよ」
 『否定しなかった』ことを『認めた』とみなして、逆上してしまったのは確かであるが――。
「全部私のせいだって、そう言いたいの? 信じられなくなることをしてる秀平くんは、何も悪くないわけ?」
「信じるって、なんだよ? 信じる信じないは自分自身の問題で、他人の行動のせいにするものじゃねーだろ?」
 この男は、本当の優しさを持っている。
 梨緒子は、この『優しさ』が欲しかったのだ。
「どうした?」
「なんか……ルイくんだなーって」
「ハッ、なんだよそれ」
「たぶん美月ちゃんなら、秀平くんが悪い、別れて正解だって、そう言うと思うから。もちろん、私のことを励まそうとして、いっぱいいっぱい愚痴を聞いてくれて……でも、ルイくんはそんなことない。昔からずっとそう。悪いところは悪いって、ちゃんとハッキリ言ってくれる」
 そう。
 それが他でもない、今日の相手が美月ではなく、類である理由なのだ。
 梨緒子は、ようやくそのことに気がついた。
「いま、別れて良かったなんて言われたら……これまでの四年間がすべて否定される気がして。ううん、片想いしてた時期を含めたら六年以上だよ? 遠距離とか、寂しくて寂しくてホントに辛いことばっかりで……それでもね、楽しい事だってそれ以上にあったはずなの! 一緒にいる時間は短くてもね、付き合いが長くなればなるほど、好き嫌いだけじゃ量れない情も生まれてくるし……秀平くんはお酒にもお金にも女にもだらしなくないから、ダメな男でもワルイ男でもキケンな男でもいい加減な男でもなかったし……ううう。ぐすっ。よくよく考えたらね、あれだけちゃんとしてて頭も良くて見た目も良くて人気のある男の人が、四年間も自分の彼氏でいてくれたことを、ううう、ホントはもっとちゃんと感謝するべきなのかもしれないけど――ひっく、ぐすっ」
 完全にアルコールが回っている。
 思いつくままに言葉を紡いでいるうちに、涙が出てきた。
 もう、止められない。涙が次から次へとあふれ出し、頬を伝う悲しみのしずくは、やがてワイングラスを満たしていく。
「リオ、後悔してんじゃねーの?」
「後悔だなんてそんな……いいの、もう――終わったことなんだから」
「泣いて少しでも気が晴れるなら、泣けばいいさ。とことん付き合ってやるからよ」
 梨緒子は何度もしゃくりあげ、震える声でひと言「ありがとう」と類に告げた。