Lesson 7 恋わずらいの妙薬 (6)
それからしばらく、梨緒子は仕事に没頭する日々を送っていた。
ショックを引きずっていないと言えばそれは嘘になる。しかし、もともとが遠距離恋愛で、日常生活に密着した付き合いではなかったため、梨緒子の普段の生活リズムは以前と何も変わらなかった。
違うことと言えば、日課として送ってきていた『晩御飯メール』が届かなくなった――その程度である。
お陰でほとんど未練を感じることはなかったが、だからといって、新しい恋愛をする気にはまったくなれなかった。
とにかくいまは、ひたすら仕事に没頭し、一日でも早く一人前の看護師となることが、梨緒子の目標だ。
それからしばらく経った、ある日の深夜――。
梨緒子は準夜勤の勤務を終え、病院正面玄関前のタクシー乗り場へと向かった。
普段はバスを利用しているが、準夜勤の帰宅時と夜勤の出勤時にはタクシー利用が認められている。
玄関を出てタクシーへ乗り込むまでの道すがら、梨緒子は自分の携帯電話を取り出し、いつものようにデータをチェックをした。
メールが一件。着信が一件。
梨緒子は先にメールを確認した。美月からである。
久しぶりの食事のお誘いに、梨緒子のテンションはあがった。
秀平とのことは美月にまだ打ち明けていなかったが、もう自分の気持ちも落ち着いてきたので、美月にすべてを話すいい機会だと、梨緒子は思った。すぐにOKのメールを返信する。
梨緒子は次に、着信履歴の画面をなにげなく開いた。
次の瞬間――梨緒子の息が止まった。
目に飛び込んできたのは、『永瀬秀平』の四文字である。
時間は23時55分。かなり遅い。
しかも、呼び出し時間は二秒。ほとんどワンギリに近いだろう。
一気に心臓の鼓動が高鳴った。期待と不安が入り混じっているが、はるかに不安のほうが大きい。
いったい、何なのだろう。
秀平の部屋に置き忘れてきた物の処分など、それが事務的な用事なら、メールを送ってくればいいだけのはずである。すべてが嫌になって、梨緒子のアドレスを消去していたとしても――それなら電話もかけてくるはずはない。
呼び出し時間、二秒。
それがすべてを物語っている。
――間違ってかけちゃって、慌てて切ったのかもしれない。そう……だよね。そうに決まってる。
梨緒子はそう言い聞かせた。
自分から電話をかける気には、とてもなれない。
別に用はなかったと冷たくあしらわれたら――きっともう、立ち直れない。
明け方。
枕元で携帯が鳴っている音で梨緒子は目覚めた。
いつもは寝覚めが悪い梨緒子も、このときばかりはすぐに目が開いた。
ひょっとして、というわずかな期待と、どこか胸騒ぎにも似た不安が、梨緒子の胸を駆け巡る。
かけてきた相手の名前が、ディスプレイに表示されている。
その意外な名前に、梨緒子は驚いた。
成沢圭太。
札幌にいるであろう、秀平の友人からだ。
もちろん、かかってきたのはこれが初めてだった。
その昔、挨拶代わりにと番号を交換したことを、いまになって思い出す。
梨緒子はすぐに電話に出た。
『梨緒子ちゃん? 成沢です。久しぶりー』
朝からハイテンション全開の、陽気な声が流れてくる。
その声に、梨緒子は確かに聞き覚えがあった。
「ビ、ビックリしたー。どうしたの?」
『永瀬、そっちに帰ってたりする?』
「ううん……帰ってきてないと思うけど。どうして?」
当然といえば当然のことなのだが、圭太が梨緒子にわざわざ電話をかけてくる理由は、一つしかない。
『携帯繋がらないし、アパートもインターホン鳴らしても音沙汰ないし。今日さ、うちの教授と一緒に朝イチで出掛けることになってたんだけど、出発時間になっても来なくてさ。ああ、別に重要な演習でもないから、来られないなら来られないでいいんだけど。もし就職活動だったら、仕方ないしさ。予定変更したとか、梨緒子ちゃん聞いてない?』
「そんなこと私に言われても、私ね、もう……」
梨緒子が事実を告げようと口を開きかけると、電話の向こうから圭太のため息が流れてきた。
『梨緒子ちゃんさー、いい加減機嫌直してやってよ』
思わず呼吸が止まった。
具体的なことは口にしていないが、圭太の言わんとすることは――。
梨緒子は動揺を気取られぬよう息を押し殺し、その言葉の意味を問う。
「……機嫌、って?」
『永瀬、梨緒子ちゃんに怒られて、相当ショック受けてるみたいだよ?』
「お……怒られた? あの、私、別にそんな……」
何を言っているのか、分からない。
頭の中が真っ白になり、もう、続く言葉が出てこない。
あの状況ではむしろ、秀平のほうが一方的に別れを突きつけていたような気がしていたが――よくよく思い返してみると、その前にあれやこれやと尋問めいた問い詰めをしたのは、確かに梨緒子のほうだった気がする。
『俺も経緯全部聞いてるわけじゃないからまあアレなんだけど、要するに永瀬の携帯のせいだったんだろ?』
この男は、すべてを見抜いている。
秀平と自分がケンカし、別れたことも。
その原因が、何であるかも。すべてこの男は知っている。
怖い。もうすべて終わったことなのだ。
いまさら蒸し返されても困る。
もう、あんな惨めでつらい思いはしたくない。
止めて。
止めて止めて止めて止めて。
『あれ、千里の仕業だったんだよ。永瀬が自分の携帯を置き忘れるなんて、ありえないだろ』
もう終わったの。
もう、秀平くんのことは忘れたの。
『俺たち仲間内で、週イチでメシ食ったりしてんだけど、永瀬が加わるようになったのは四年になってからだし。千里にせがまれてせがまれて、俺がようやく口説き落としたんだから』
圭太の言葉と秀平の言動が、少しずつリンクしていく。
忘れようと努力して心の片隅に押し込めていたもやもやが、あっという間に逆戻りしてしまう。
梨緒子は携帯を耳にあて、ベッドの上でじっと目を瞑ったまま、圭太の説明を聞いていた。
『あの時、永瀬が集まりに参加できないって言い出して。水曜日に梨緒子ちゃんが来るからって。そしたら千里のヤツ、火曜日に前倒しするから絶対来てって。俺にも無理矢理火曜日にしろって言い出してさ。永瀬は一対一ではぜったい女の部屋に上がったりしないから、俺は完全釣り餌状態』
週イチで、晩御飯。
それが――水曜日。
唯一の友人の圭太にしつこく誘われて、仕方なく仲間の輪に加わる秀平の姿が、ハッキリと梨緒子の脳裏に浮かんでくる。
そう。自分の知っている秀平なら、きっとそれは正しい行動だろう。
『ここからはまあ俺の推測になるけど、千里のヤツ、永瀬の携帯をカバンから抜き取ったんだと思うよ。次の日に梨緒子ちゃんが来るのを知って、揉めさせて別れさせようとしたのかな、あくまで偶然を装ってさ』
携帯電話をどこかに置き忘れ。
それを届けにきたのは「成沢圭太」かもしれないと、あの時秀平は言っていた。
誰と一緒にいたかと梨緒子が尋ねたときも、圭太と一緒だったと言っていた。
それを梨緒子は、秀平が嘘をついたのだと思い、最後の最後で、彼を責めてしまった。
『永瀬は全部気づいたんだろうなあ。千里が書いたメモ、無言で返して、それっきりまったく口聞いてないから。完全無視状態。永瀬のヤツ、一緒にメシはもちろん、一人でもあんまり食わなくなったし。いまにも倒れるんじゃないかって心配してるんだけどさ』
千里という女と一緒にいたのは事実だろう。毎週水曜日に、彼女の部屋で晩御飯を食べているのも、おそらく本当の話だ。
しかし。
そこには秀平の言っていたとおり成沢圭太がいて、秀平にとっては、「成沢圭太の友人」の部屋で、圭太と一緒に晩御飯を食べていた、という程度の認識だったに違いない。
『千里はようやく自分がバカなことしたって気づいたようだし。まあ、俺も悪かったわ。千里だって永瀬に彼女がいるの知ってたし、ただの一ファンというか、目の保養にしたいんだろうぐらいにしか、思ってなかったんだよ。まさか本気で狙ってたなんてな』
梨緒子は、いつか見かけた千里という女子学生の姿を、ぼんやりと思い出した。
毎日のように秀平のそばにいて、彼に好意をいだくのはまったく不思議なことではない。アプローチをしないだけで彼に思いを寄せている人間が他にもいるであろう事も、高校時代の例から見ても容易に想像がつく。
しかし、それはあくまで秀平の『外面』だ。端整な容貌や品のある立ち居振る舞いなど、目に見える部分に惹かれているにすぎない。梨緒子はそう断言できる。
『確かに、ちょっとおかしいなって思うこともあったんだよな。就職活動も永瀬と同じ会社を受けたりしてたし。永瀬の地元なんて、千里はまるで土地勘ないのにさ。永瀬もまあ、同じ会社受けるな、なんて言えなかったんだろうし――』
さらりと続けられる圭太の説明に、梨緒子はもうどうしてよいのか分からず、完全に混乱してしまっていた。
一緒に地元に帰ってきて、街を二人で歩いていたのは、土地勘のない大学の同期と、就職活動の都合で行動をともにしていただけ――。
遊びで帰ったわけではない。だから、梨緒子に連絡しなかった。
それは、仕事で忙しい梨緒子を気遣ってのことだったのかもしれない。おそらくそうだったのだろう。
「だ……だったらそうやってはっきり言えばいいじゃない。自分は潔白だって、そう言えばいいじゃない。ただ黙り込んで勝手にもういいとか疲れたとか、そんなことばかり言って」
『まあ……でもそれが永瀬、だからなー』
もう、言葉が出てこない。
自分は後悔しているのだろうか――おそらく違う気がする。
しかし確実に言えることは、秀平が心変わりをしたという事実はどこにもなかった、ということである。
『あのさ、梨緒子ちゃん』
「なに?」
『永瀬が何で就職活動し続けてるか、その理由、梨緒子ちゃん知ってる?』
「就職活動、し続けてる?」
秀平の専門分野の就職状況がどういうものであるか、梨緒子はよく分からない。
もう夏なのだから、決まっている人はすでに決まっているはずだ。
ただ、梨緒子は秀平の進路に関して、本人の口から聞いたことは一切なかった。
圭太の説明は淡々と続く。
『永瀬は成績いいからさ、大手企業からの内定をもういくつも取れているんだよ。でも、いろいろとこだわりがあって、あきらめ切れないんだろうな』
「こだわりって?」
『地元に支店・支社があって、転勤はあっても最終的にそこで働ける見込みがあること――』
もちろん、初めて聞く話だった。驚きを隠せないというのが梨緒子の本音だ。
続く圭太の言葉に、梨緒子はさらなる衝撃を受けた。
『どうしても梨緒子ちゃんのところへ帰りたいんだろ、永瀬は』
――嘘、わ……私?
遠距離でいるのは四年間だけ――梨緒子も初めはそう思っていた。
しかし秀平のほうも、その約束を守ろうとひそかに努力をしていたことを、梨緒子はまったく知らなかったのである。
『とにかくさ、梨緒子ちゃんに連絡がいったら、俺にも知らせてくれるとありがたいんだけど。よろしくね』
圭太からの電話を切ったあとも、梨緒子はしばらく携帯を握り締めたまま、ベッドの上で固まっていた。
はたして、自分に連絡してくることなど、あるのだろうか――。
――あの、真夜中の着信。
梨緒子はじっと考えた。
成沢圭太の話が、すべての真実を物語っているとすれば。
あの電話が、間違いではなく、かけようとしてかけたものだとすれば――。
彼のことを誰よりもよく知っている自分の、これまでの経験を総動員する。
あんな時間に電話をしてくるなんて、秀平では考えられないことなのである。
それでもかけてきた理由。
そして、それをすぐに切った理由。
そしていま、携帯が繋がらない理由――。
ひどく胸騒ぎがする。
梨緒子はすぐに職場に電話をした。
そして、無理矢理シフトチェンジをしてもらい、可能な限りの休みをとった。
ショックを引きずっていないと言えばそれは嘘になる。しかし、もともとが遠距離恋愛で、日常生活に密着した付き合いではなかったため、梨緒子の普段の生活リズムは以前と何も変わらなかった。
違うことと言えば、日課として送ってきていた『晩御飯メール』が届かなくなった――その程度である。
お陰でほとんど未練を感じることはなかったが、だからといって、新しい恋愛をする気にはまったくなれなかった。
とにかくいまは、ひたすら仕事に没頭し、一日でも早く一人前の看護師となることが、梨緒子の目標だ。
それからしばらく経った、ある日の深夜――。
梨緒子は準夜勤の勤務を終え、病院正面玄関前のタクシー乗り場へと向かった。
普段はバスを利用しているが、準夜勤の帰宅時と夜勤の出勤時にはタクシー利用が認められている。
玄関を出てタクシーへ乗り込むまでの道すがら、梨緒子は自分の携帯電話を取り出し、いつものようにデータをチェックをした。
メールが一件。着信が一件。
梨緒子は先にメールを確認した。美月からである。
久しぶりの食事のお誘いに、梨緒子のテンションはあがった。
秀平とのことは美月にまだ打ち明けていなかったが、もう自分の気持ちも落ち着いてきたので、美月にすべてを話すいい機会だと、梨緒子は思った。すぐにOKのメールを返信する。
梨緒子は次に、着信履歴の画面をなにげなく開いた。
次の瞬間――梨緒子の息が止まった。
目に飛び込んできたのは、『永瀬秀平』の四文字である。
時間は23時55分。かなり遅い。
しかも、呼び出し時間は二秒。ほとんどワンギリに近いだろう。
一気に心臓の鼓動が高鳴った。期待と不安が入り混じっているが、はるかに不安のほうが大きい。
いったい、何なのだろう。
秀平の部屋に置き忘れてきた物の処分など、それが事務的な用事なら、メールを送ってくればいいだけのはずである。すべてが嫌になって、梨緒子のアドレスを消去していたとしても――それなら電話もかけてくるはずはない。
呼び出し時間、二秒。
それがすべてを物語っている。
――間違ってかけちゃって、慌てて切ったのかもしれない。そう……だよね。そうに決まってる。
梨緒子はそう言い聞かせた。
自分から電話をかける気には、とてもなれない。
別に用はなかったと冷たくあしらわれたら――きっともう、立ち直れない。
明け方。
枕元で携帯が鳴っている音で梨緒子は目覚めた。
いつもは寝覚めが悪い梨緒子も、このときばかりはすぐに目が開いた。
ひょっとして、というわずかな期待と、どこか胸騒ぎにも似た不安が、梨緒子の胸を駆け巡る。
かけてきた相手の名前が、ディスプレイに表示されている。
その意外な名前に、梨緒子は驚いた。
成沢圭太。
札幌にいるであろう、秀平の友人からだ。
もちろん、かかってきたのはこれが初めてだった。
その昔、挨拶代わりにと番号を交換したことを、いまになって思い出す。
梨緒子はすぐに電話に出た。
『梨緒子ちゃん? 成沢です。久しぶりー』
朝からハイテンション全開の、陽気な声が流れてくる。
その声に、梨緒子は確かに聞き覚えがあった。
「ビ、ビックリしたー。どうしたの?」
『永瀬、そっちに帰ってたりする?』
「ううん……帰ってきてないと思うけど。どうして?」
当然といえば当然のことなのだが、圭太が梨緒子にわざわざ電話をかけてくる理由は、一つしかない。
『携帯繋がらないし、アパートもインターホン鳴らしても音沙汰ないし。今日さ、うちの教授と一緒に朝イチで出掛けることになってたんだけど、出発時間になっても来なくてさ。ああ、別に重要な演習でもないから、来られないなら来られないでいいんだけど。もし就職活動だったら、仕方ないしさ。予定変更したとか、梨緒子ちゃん聞いてない?』
「そんなこと私に言われても、私ね、もう……」
梨緒子が事実を告げようと口を開きかけると、電話の向こうから圭太のため息が流れてきた。
『梨緒子ちゃんさー、いい加減機嫌直してやってよ』
思わず呼吸が止まった。
具体的なことは口にしていないが、圭太の言わんとすることは――。
梨緒子は動揺を気取られぬよう息を押し殺し、その言葉の意味を問う。
「……機嫌、って?」
『永瀬、梨緒子ちゃんに怒られて、相当ショック受けてるみたいだよ?』
「お……怒られた? あの、私、別にそんな……」
何を言っているのか、分からない。
頭の中が真っ白になり、もう、続く言葉が出てこない。
あの状況ではむしろ、秀平のほうが一方的に別れを突きつけていたような気がしていたが――よくよく思い返してみると、その前にあれやこれやと尋問めいた問い詰めをしたのは、確かに梨緒子のほうだった気がする。
『俺も経緯全部聞いてるわけじゃないからまあアレなんだけど、要するに永瀬の携帯のせいだったんだろ?』
この男は、すべてを見抜いている。
秀平と自分がケンカし、別れたことも。
その原因が、何であるかも。すべてこの男は知っている。
怖い。もうすべて終わったことなのだ。
いまさら蒸し返されても困る。
もう、あんな惨めでつらい思いはしたくない。
止めて。
止めて止めて止めて止めて。
『あれ、千里の仕業だったんだよ。永瀬が自分の携帯を置き忘れるなんて、ありえないだろ』
もう終わったの。
もう、秀平くんのことは忘れたの。
『俺たち仲間内で、週イチでメシ食ったりしてんだけど、永瀬が加わるようになったのは四年になってからだし。千里にせがまれてせがまれて、俺がようやく口説き落としたんだから』
圭太の言葉と秀平の言動が、少しずつリンクしていく。
忘れようと努力して心の片隅に押し込めていたもやもやが、あっという間に逆戻りしてしまう。
梨緒子は携帯を耳にあて、ベッドの上でじっと目を瞑ったまま、圭太の説明を聞いていた。
『あの時、永瀬が集まりに参加できないって言い出して。水曜日に梨緒子ちゃんが来るからって。そしたら千里のヤツ、火曜日に前倒しするから絶対来てって。俺にも無理矢理火曜日にしろって言い出してさ。永瀬は一対一ではぜったい女の部屋に上がったりしないから、俺は完全釣り餌状態』
週イチで、晩御飯。
それが――水曜日。
唯一の友人の圭太にしつこく誘われて、仕方なく仲間の輪に加わる秀平の姿が、ハッキリと梨緒子の脳裏に浮かんでくる。
そう。自分の知っている秀平なら、きっとそれは正しい行動だろう。
『ここからはまあ俺の推測になるけど、千里のヤツ、永瀬の携帯をカバンから抜き取ったんだと思うよ。次の日に梨緒子ちゃんが来るのを知って、揉めさせて別れさせようとしたのかな、あくまで偶然を装ってさ』
携帯電話をどこかに置き忘れ。
それを届けにきたのは「成沢圭太」かもしれないと、あの時秀平は言っていた。
誰と一緒にいたかと梨緒子が尋ねたときも、圭太と一緒だったと言っていた。
それを梨緒子は、秀平が嘘をついたのだと思い、最後の最後で、彼を責めてしまった。
『永瀬は全部気づいたんだろうなあ。千里が書いたメモ、無言で返して、それっきりまったく口聞いてないから。完全無視状態。永瀬のヤツ、一緒にメシはもちろん、一人でもあんまり食わなくなったし。いまにも倒れるんじゃないかって心配してるんだけどさ』
千里という女と一緒にいたのは事実だろう。毎週水曜日に、彼女の部屋で晩御飯を食べているのも、おそらく本当の話だ。
しかし。
そこには秀平の言っていたとおり成沢圭太がいて、秀平にとっては、「成沢圭太の友人」の部屋で、圭太と一緒に晩御飯を食べていた、という程度の認識だったに違いない。
『千里はようやく自分がバカなことしたって気づいたようだし。まあ、俺も悪かったわ。千里だって永瀬に彼女がいるの知ってたし、ただの一ファンというか、目の保養にしたいんだろうぐらいにしか、思ってなかったんだよ。まさか本気で狙ってたなんてな』
梨緒子は、いつか見かけた千里という女子学生の姿を、ぼんやりと思い出した。
毎日のように秀平のそばにいて、彼に好意をいだくのはまったく不思議なことではない。アプローチをしないだけで彼に思いを寄せている人間が他にもいるであろう事も、高校時代の例から見ても容易に想像がつく。
しかし、それはあくまで秀平の『外面』だ。端整な容貌や品のある立ち居振る舞いなど、目に見える部分に惹かれているにすぎない。梨緒子はそう断言できる。
『確かに、ちょっとおかしいなって思うこともあったんだよな。就職活動も永瀬と同じ会社を受けたりしてたし。永瀬の地元なんて、千里はまるで土地勘ないのにさ。永瀬もまあ、同じ会社受けるな、なんて言えなかったんだろうし――』
さらりと続けられる圭太の説明に、梨緒子はもうどうしてよいのか分からず、完全に混乱してしまっていた。
一緒に地元に帰ってきて、街を二人で歩いていたのは、土地勘のない大学の同期と、就職活動の都合で行動をともにしていただけ――。
遊びで帰ったわけではない。だから、梨緒子に連絡しなかった。
それは、仕事で忙しい梨緒子を気遣ってのことだったのかもしれない。おそらくそうだったのだろう。
「だ……だったらそうやってはっきり言えばいいじゃない。自分は潔白だって、そう言えばいいじゃない。ただ黙り込んで勝手にもういいとか疲れたとか、そんなことばかり言って」
『まあ……でもそれが永瀬、だからなー』
もう、言葉が出てこない。
自分は後悔しているのだろうか――おそらく違う気がする。
しかし確実に言えることは、秀平が心変わりをしたという事実はどこにもなかった、ということである。
『あのさ、梨緒子ちゃん』
「なに?」
『永瀬が何で就職活動し続けてるか、その理由、梨緒子ちゃん知ってる?』
「就職活動、し続けてる?」
秀平の専門分野の就職状況がどういうものであるか、梨緒子はよく分からない。
もう夏なのだから、決まっている人はすでに決まっているはずだ。
ただ、梨緒子は秀平の進路に関して、本人の口から聞いたことは一切なかった。
圭太の説明は淡々と続く。
『永瀬は成績いいからさ、大手企業からの内定をもういくつも取れているんだよ。でも、いろいろとこだわりがあって、あきらめ切れないんだろうな』
「こだわりって?」
『地元に支店・支社があって、転勤はあっても最終的にそこで働ける見込みがあること――』
もちろん、初めて聞く話だった。驚きを隠せないというのが梨緒子の本音だ。
続く圭太の言葉に、梨緒子はさらなる衝撃を受けた。
『どうしても梨緒子ちゃんのところへ帰りたいんだろ、永瀬は』
――嘘、わ……私?
遠距離でいるのは四年間だけ――梨緒子も初めはそう思っていた。
しかし秀平のほうも、その約束を守ろうとひそかに努力をしていたことを、梨緒子はまったく知らなかったのである。
『とにかくさ、梨緒子ちゃんに連絡がいったら、俺にも知らせてくれるとありがたいんだけど。よろしくね』
圭太からの電話を切ったあとも、梨緒子はしばらく携帯を握り締めたまま、ベッドの上で固まっていた。
はたして、自分に連絡してくることなど、あるのだろうか――。
――あの、真夜中の着信。
梨緒子はじっと考えた。
成沢圭太の話が、すべての真実を物語っているとすれば。
あの電話が、間違いではなく、かけようとしてかけたものだとすれば――。
彼のことを誰よりもよく知っている自分の、これまでの経験を総動員する。
あんな時間に電話をしてくるなんて、秀平では考えられないことなのである。
それでもかけてきた理由。
そして、それをすぐに切った理由。
そしていま、携帯が繋がらない理由――。
ひどく胸騒ぎがする。
梨緒子はすぐに職場に電話をした。
そして、無理矢理シフトチェンジをしてもらい、可能な限りの休みをとった。