Lesson 7  恋わずらいの妙薬 (7)

 幸いにも、札幌行きの飛行機はわずかに空席があった。
 そのため、圭太から電話を貰ってから二時間半後には、梨緒子は北海道の地へと降り立っていた。
 もう二度と、この場所を訪れることはないと思っていた。
 泣き腫らした目でこの新千歳空港のエントランスを歩いていたのを、梨緒子は昨日のことのように思い出す。

 梨緒子は、新千歳空港駅から札幌駅行きの快速列車に乗り込み、空いている席に腰を下ろした。
 札幌まではもうすぐだ。
 梨緒子は持っていた手提げカバンの中から、秀平のアパートの鍵を取り出した。
 携帯電話からはすでに取り外してしまったが、この鍵をまだ処分していなかったことに、梨緒子の未練が表れている。
 そして、秀平も鍵を返せとは言わなかった。鍵を渡したことをすでに忘れてしまっているということも考えられるが――。
 梨緒子は気を取り直した。
 これは未練でもなんでもない。
 今からこの先目にするものを、絶対に驚かないし、気にもしない。
 秀平は部屋にいるのかいないのか、それだけを確かめて、成沢圭太に連絡をして、それで終わりだ。
 そう。
 もう、終わってしまったことなのだ。
 たとえ、圭太の話がすべて本当だったとしても、二人の間に修復不可能な亀裂が入ってしまったことは、覆しようのない事実なのである。

 ――もうたくさんだって、この先一緒にいる意味なんかないって、そう言われちゃったんだから、私。

 だったら――どうして自分はいま、札幌行きの列車に乗っているのだろう。
 梨緒子は列車の中で鍵を握り締めながら一人、ぐるぐると考えをめぐらせていた。


 また、ここまで来てしまった。
 秀平のアパートの前で、梨緒子はしばらく立ちすくんでいた。
 悩む。しかし、仕事をシフトチェンジしてもらってまでここまでやって来て、何もせずに帰るというのはあまりにも情けない。
 真夜中のたった二秒の着信――それだけが、いまの梨緒子がすがることのできる事実だ。

 梨緒子は秀平から貰った合鍵を使い、部屋の中へ入った。
 玄関には、秀平が普段はいている靴がきちんと揃えられている。靴箱を覗くと、サンダルや革靴、ブーツなど、すべてがきちんと並べられていた。
 つまり。
 彼は外出していない。部屋の中に、いる。
 キッチンと部屋を仕切るドアの向こうに、いるはずなのだ。
 梨緒子はごくりとつばを飲み込んだ。
 口から心臓が飛び出してしまいそうなほど、激しい緊張に襲われる。
 梨緒子は覚悟を決め、ドアノブに手を掛けた。

 薄暗い部屋の中に、ベッドにうつぶせの状態で秀平は横たわっていた。
 掛け布団が半分掛かっているが、普段着に身を包んだままである。寝るときには必ずパジャマに着替える習慣がある秀平にとっては、かなり異様な光景といえるだろう。
 呼吸が荒い。携帯は床に落ちたままだ。意識が朦朧としているらしい。
 梨緒子はすぐさま秀平に近づき、首筋に手を当てた。高熱が手の平を通して伝わってくる。
 秀平がうっすらと目を開けた。遮光カーテンが閉まっている状態のため、室内は薄暗い。
「もう大丈夫。安心して」
「り……お」
「喋らないで」
 梨緒子は大まかな症状をすばやく見極める。
 この程度のことではいちいち驚きはしない。梨緒子は看護師となって、毎日毎日多くの患者と接しているのである。病人の苦痛を取り除く手助けをすべく、自然と体が動く。
「まずは水分補給ね。ちょっと待ってて」
 梨緒子は部屋を出てキッチンへと向かい、冷蔵庫を開け――唖然となった。
 中には、かろうじてペットボトルのお茶が入っているだけで、ほとんど食料は入っていなかった。
 まめに自炊をしていたはずの彼が、どうしてこんなことになっているのか、梨緒子にはまるで見当がつかない。
 しかし、いまはその理由を考えている時間はない。
 お茶のペットボトルを取り出し、中身をコップに移す。キッチンの引き出しからストローを取り出して、それを飲み込みやすいようにコップへ差してやる。
 それを持って、梨緒子は秀平の横たわるベッドまで戻った。ストロー口を向けると、秀平は素直に口をつけた。
 コップに半分ほどの水分を補給したあとは、着替えだ。
 梨緒子はクローゼットに向かい、秀平の着替えを見繕った。
「汗かいてるから、これに着替えようね」
 梨緒子は掛け布団をはぎ、秀平の着ていたシャツの前ボタンを外し始めた。
 すると、秀平は梨緒子の手をどけるようにして、残りのボタンをのろのろと外していく。
「自分……で、やる……から」
 梨緒子は秀平が上半身の作業をしているのをいいことに、今度は秀平のズボンのベルトを外して、それを下着ごと一気に引き下げた。
 梨緒子の大胆な行動に驚いたのか、ベッドの上で秀平が暴れた。
「何……するんだ……よ」
 息も絶え絶えに精一杯の抵抗をする半裸の秀平を、梨緒子は押さえつけ、一喝した。
「私に見られたって、いまさら恥ずかしがることなんかないでしょ! 秀平くんのなんか、もう見慣れてるんだから!」
 目と目が合う。秀平は意地を張ったようにじっと梨緒子を睨みつけていたが、やがて抵抗を止め、梨緒子に手伝われながらの着替えをすませた。
 秀平はよろめきながら起き上がり、ベッドの端へ腰かける。
「救急車呼ぶ? それとも百メートルくらいは歩ける?」
 秀平はわずかな首の動きだけで、意思表示をする。
「じゃあ、すぐそこの角に内科のクリニックがあったから、そこまで頑張ろう。保険証は机の引き出しの中だよね。借りていくよ」
 梨緒子は財布と保険証を持ち、秀平を支えるようにして、歩いて数分とはかからないであろう近所のクリニックへ向かった。


 クリニックの待合室は空いていた。すぐに診察室へ通される。
 梨緒子は、数人の通院患者に混じって待合室にいた。するとしばらくして、若い看護師が梨緒子を呼びにきた。
「処置室のほうで点滴をしますので、少しお時間かかりますが」
「分かりました。様子を見ててもいいですか?」
「どうぞ。こちらです」
 案内された処置室は、白いカーテンで四つに仕切られた部屋だった。中にはそれぞれ処置台が置かれている。
 使われていないところはカーテンが開けられている。一番左端だけ、カーテンが閉じられていた。中に処置を受けている人間がいるということだ。
 カーテンの隙間から覗くと、秀平は点滴の管に繋がれた状態で、処置台の上に仰向けで横たわっていた。ぐったりと身体を投げ出した状態で、目を瞑っている。
 梨緒子はそっと中へと入り込み、点滴している薬液の種類と量を確認した。
「この量だと、一時間くらいかな……大丈夫、すぐに楽になるから、もうちょっとだけ頑張って、ね?」
 秀平は、梨緒子の声に反応するように一瞬だけまぶたを開くと、またすぐに目を閉じた。

 このまま側についていても仕方がない――梨緒子は早々に処置室をあとにした。
 高校時代であればつきっきりで看病したいと言っていたところだが、看護師となったいま、時間を有効に使うということを梨緒子は覚えたのである。
「すみません、あとでまた迎えに来ます」
 梨緒子は担当の看護師にそう伝えると、秀平をひとり残し、クリニックを出た。


 とりあえず、食料を調達しなければならない。
 梨緒子が向かった先は、アパートの近くにあるスーパーだ。クリニックからもさほど離れていない。
 ここは、秀平と一緒に何度か買い物をしたことがある。
 梨緒子はかごを携えると、お茶やジュース、レトルトのおかゆ、卵や牛乳、ヨーグルト、果物――目に付くものを片っ端から放り込み、大量の買い物をすませた。
 重い荷物を両腕に提げ、一人アパートに戻り、空になっていた冷蔵庫を、買ってきた食料品で満たした。

 梨緒子は、いつかここで一人泣き明かした夜を、ふと思い出した。
 秀平と仲直りをしたわけではない。いまはただ、看護師として病人を放っておけなかった。
 食糧を買ったのも、病人に体力をつけさせるため。それ以上のことではない――はず。

 梨緒子は揺れ動きそうになる気持ちをぐっとこらえ、しっかりと気を持ち直す。
 とにかく、病人の看病が先だ。感傷に浸っている場合ではないのである。
 梨緒子はクローゼットの中から予備のシーツを取り出して、汗で汚れたシーツをはぎとるため、枕に手をかけた。
 すると――。

 梨緒子は思わず息を飲んだ。

 枕の下から出てきたのは、梨緒子が見たことのあるものばかりだった。
 はちまきで作った星のストラップや、梨緒子が看病で使ったハンカチ、この前迷惑そうにしていたネクタイまでもが、そこには並んでいたのである。
 すべてが梨緒子との思い出の品であるということは、もちろん梨緒子自身も分かった。

 ――な、何これ? いったい、何なの?

 あれほどひどい言葉をぶつけておいて――もちろんすべて捨ててしまえとは言わないが、枕の下へしのばせておくなど、あまりにも子供じみた秀平の行動に、梨緒子は驚きを隠せなかった。
 もう一度クローゼットを開けて、確認する。
 よくよく見ると、梨緒子のパジャマも捨てられたりせず、いつもの場所に置かれたままだ。
 梨緒子は洗面所に向かった。
 歯ブラシもタオルもそのまま。
 今度はキッチンのほうへ移動する。
 梨緒子の使う食器も、ちゃんと秀平の食器の隣に置かれていた。

 まるで、二人が別れたあの日から、この部屋の時間が止まってしまったかのように――。

 梨緒子は呆然としたまま部屋へと戻り、のろのろとした手つきで、ベッドのシーツを取り替えた。
 もう、頭が働かない。機械的に身体を動かすだけだ。
 薄手のタオルケットも来客用のものと取替え、汗で汚れたものはすべて洗濯機へと放り込む。
 一人暮らしであるが、洗濯機は大きめだ。すべてまとめて洗濯できそうである。
 梨緒子は、先ほど脱がせた秀平の下着もまとめて洗濯機に入れ、洗剤を入れてスタートボタンを押した。
 あとは脱水まで自動的に進んでいくはずだ。

 梨緒子はふと一息つき、メーキングしたばかりのベッドに腰かけた。
 何気なく、机の上の時計に目をやる。もうじき一時間が経とうとしている。
 また秀平を迎えにいかなければならない――そう思い腰を上げ、梨緒子はふと、あるものに目が留まった。
 ベッドのすぐ側の床には、秀平の携帯電話が落ちたままになっている。
 梨緒子は秀平の携帯に手を伸ばし、ゆっくりと拾い上げた。
 すべては、この携帯が原因だったのだ。
 勝手に中を見るのはいけないことだと分かっている。
 しかし、梨緒子はどうしても確かめたかった。

 それは彼の――発信履歴。

 カチカチと、ボタンを数度押して履歴を表示させる。
 そのデータを見て、梨緒子はもう、隠していた自分の感情を抑えることができなくなってしまった。

 ――何なのもう……馬鹿じゃないの? ううん、秀平くんは馬鹿なんかじゃないけど、でも大馬鹿。

 涙が止まらない。
 次から次へと涙があふれ、声にならない嗚咽が喉の奥から漏れてくる。

 近くにいる人に、自分から助けを求められない。
 一人きりで心細く、どうにもならなくなって――それでも助けを求めた相手は、たったの一人。

 ――私が必要なんだ。私がいないと駄目なんだ、この人。

 梨緒子は携帯を元に戻し、涙を拭った。
 涙とともに、自分の中のもやもやしていた思いもすべて吹っ切れた。