宿命の章 (5)  鬼と悪魔の一騎討ち

「お久しぶりです、富士川さん」
 鷹山はにこりともせず、淡々と言った。
 兄弟子の富士川が驚いているのは明らかだった。眼鏡の奥の切れ長の目が、これほどないまでに見開かれている。
「お前……今頃、何をしに来たんだ。忙しくて帰国なんかできないんじゃなかったのか」
「僕は招かれざる客、ということですか? ハッ、仕方ないじゃないですか。僕だってウィーンで遊んでいるわけじゃありません。演奏会のスケジュールだって立て込んでいるんです。第一、演奏会を放ってまで、弔事に参加しろとは英輔先生には教わりませんでしたからね、僕は。……まあ、あなたはどうか知りませんけど」
 綺麗な顔からは想像もつかないほどの辛辣な言葉の数々を、鷹山はためらうことなく紡ぎ出す。次々と口をついて出る言葉は止まることを知らない。非常に弁の立つ男だ。
 その横柄とも言える二番弟子の迫力に、団員たちは微動だにできないでいる。
 やはり鷹山という男の存在は、ごく一部の古参団員にしか知られていないようだった。鷹山の氏素性をささやき合う声が、取り巻く人垣の中から漏れる。
 鷹山はその周囲の反応などまるで気にすることなく、透き通った大きな瞳を、目の前の兄弟子からそらそうとはしない。
「どうしてあなたが指揮なんかしているんです?」
「どうして――だと?」
「あなたはヴァイオリン弾きで、コンサートマスターだったはず。指揮者が死んだからといって、そう簡単に後釜に座ることができるんですか?」
 富士川は確実に、鷹山の言葉に動揺しているようだ。眉間にしわを寄せ、眼鏡を持ち上げ直す。
「便宜的に……代役を務めているだけだ。後釜だなんて、そんな言い方されるのは心外だ」
 努めて冷静さを保とうとしているが――この二番弟子の前では何の意味もなさない。それどころか、二番弟子の口調はいっそう厳しさを増す。
「便宜的な代役ですって? 馬鹿馬鹿しい! あなたには自信がないんですか? この交響楽団を背負っていく自信ですよ。主人のいなくなった城を築き上げて、その土地の民衆を引っ張っていく城主になる自信が」
 華音の心臓の鼓動が、どんどん高鳴っていく。
 目を覆ってしまいたい。耳をふさいでしまいたい。
 多くの楽団員たちに囲まれて、一番弟子は二番弟子に統率力の無さをさらけ出される。この上ない富士川の屈辱感が、見守る華音にも伝わってくる。
「お前の言葉を借りて言えば、俺は崇拝するべき城主を失った参謀長だ。長い間その城主に仕えてきた参謀長が、じゃあ城主になってくださいと言われて、簡単になれると思うか? 先生の存在があまりに大きすぎて、はっきり言って俺はもう潰されそうだ! 何年もこっちに寄りつかなかったお前に、いったい何が分かるというんだ」
「分かりませんよ、あなたの考えてることなんか」
 二人とももう止めて、と華音は思わず叫びそうになった。しかし、声を出す勇気が出てこない。ただ、悪魔の横柄な振る舞いから目をそらせずに、その場で固まってしまっていた。
 そのときである。
 人垣を掻き分けて、富士川の前に進み出てきたのは、藤堂あかりだった。
「いったいあなたは何なんですか! いきなり現れて、富士川さんを愚弄するような真似、失礼じゃないですか?」
 富士川をかばうようにして、鷹山に対して負けず劣らずの迫力だ。
 辺りはいっそう緊迫感を増した。
 鬼と悪魔が睨み合うその真ん中に、己が立場を省みず切り込んでいく。まさに、一触即発だ。
 鷹山は、目の前に進み出たその若い女性団員を、訝しげな眼差しでじっと見据えている。
「君こそ誰なんです。……別に、興味なんかこれっぽっちもないですけど」
 あかりが何かを言い返そうと口を開きかけたそのとき――。
 富士川が再び前へ進み出た。あかりを背にかばうようにして、鷹山に対して努めて冷静な対応を試みる。
「彼女は去年音大を出たばかりのメンバーだ。お前が知らなくて当然だ。……藤堂、かばってくれるのは嬉しいけど、この男は一応、芹沢先生の弟子だから」
「弟子? この人が、芹沢先生のお弟子さんなんですか?」
 あかりは富士川の肩越しに、鷹山の顔をいぶかしげに見つめている。驚きと途惑いを隠し切れていない。
 その反応に、鷹山は肩をすくめてみせた。
「どうやら『一応』と冠されてしまう程度の扱いのようですけど。……まあいいでしょう、込み入った話は、後程また」
 鷹山はあかりと富士川に背を向けた。そして、取り囲んでいる人垣に道を開けてくれと言い、そのままホールを出て行った。
 あかりは、横柄な二番弟子を複雑な表情で見送っていた。
 そして富士川に出過ぎた行動を詫び、他の団員たちと一緒に、再び後片付けの作業に戻った。


 それまで人垣の後ろで傍観していた華音と高野は、皆が散らばったあと、ようやく富士川のもとへと辿り着いた。
「楽ちゃんやるねえ、相変わらず。ああ富士川ちゃん、俺ちょっと楽ちゃんと話してくるよ」
 楽団関係者の中で、唯一まともにあの『二番弟子』と話せるのがこの、高野らしい。
 富士川もそれを承知しているためか、素直に首を縦に振った。
「そうしてもらえますか? 俺では収拾がつかなくなりそうですので」
 途惑いと呆れが入り混じったような、大きなため息をつく。
「華音ちゃん、驚いただろう? 手のつけようがない『悪魔』さ」
 悪魔だ――悪魔以外の何者でもない。
 顔は綺麗なくせに、その心は歪みきっている。
 華音に対する憎悪の伴った威圧的な態度は、いったい何を意味するものなのか――。
「本当にあの人、おじいちゃんの弟子なの?」
「あいつを弟子にしたのは、芹沢先生の唯一の失敗だったんじゃないか、と俺は思うよ」
 富士川は、力なく首を横に振ってみせた。

 そこへ、先ほどまで受付にいた美濃部が、手に大きな封筒を携えて、二人のもとへとやってきた。
 美濃部は、落ち着きなく辺りを見回している。
「あれ? 高野先生はどちらです?」
「鷹山っていう人と一緒に行っちゃったよ。どうしたの、美濃部さん?」
 さっきのアレですよ、と美濃部青年は華音に説明し、持っていた封筒を富士川に渡した。
「富士川さん、実はさっきですね、うちの楽団を買い取りたいっていう方がいらしてですね、楽団の責任者と話がしたいって、その封筒を置いていったんですけど」
「楽団を……買い取る、だって?」
 ざっと表と裏を眺め、不審げな面貌で中身を簡単に確認する。
 富士川はため息混じりに、眼鏡を上げ直した。どうしていいのか分からずに混乱しているようだ。
「俺は……俺は決められないよ。そんな、買収なんて……まいったな」
 そこへ、ようやく高野が戻ってきた。
 すでに黒のネクタイは緩められ、シャツの第二ボタンまで外されている。だらしないことこの上ない。
「とりあえずホテルにチェックインしてからさあ、芹沢邸まで来るように言っといたよ」
「すみません。高野さんも同席してもらえますか?」
 富士川の申し出に、高野はもちろん、と二つ返事で了承してみせた。
 華音は胸をなで下ろした。
 一番弟子と二番弟子だけでは、また先ほどのような争いになりかねない。ただ、高野がいたところで二人を仕切ることはできないだろうが――いないよりははるかにマシである。
「高野先生、この人知ってる?」
 華音は富士川が手にしていた封筒を、高野のほうに向けてやった。
 美濃部がそれに補足する。
「歳は高野先生と変わらないくらいで、物凄く長身の、キリリとした佇まいの男の人でしたよ。赤城エンタープライズ代表、だそうで」
「赤城エンタープライズ……あかぎ……赤城?」
 高野は美濃部青年の言葉を繰り返した。そして、さらに確認する。
「ひょっとして、赤城麗児?」
 高野の言葉に、富士川が反応した。
「高野さんのお知り合いですか」
「知り合いっていうかまあ、高校の同級生なんだよなあ」
 高野は煮え切らない表情をしている。『友達』と言わないあたり、その微妙な関係が想像できる。
「ああ、そういうことなんですか。でしたら、高野先生が間に入ってくれたら、いくらか交渉しやすくなるんじゃないですか?」
「ええ? 俺が? そんなの無理無理。俺、麗児君には何言われても逆らえないから」
 高野は片手を振ってみせた。
 事態はどんどん悪化の一途を辿っている。
 芹沢英輔という大指揮者が死んだという事実――それによって、富士川と華音の運命は、予想だにしなかった方向へと、どんどん流されていっている。
「祥ちゃん……」
「心配しなくていいから。俺が何とかするから、華音ちゃんは何も考えなくていいんだ」
 富士川の右手が、優しく華音の頭をなでるようにして置かれた。
 頼れるのはもう――富士川しかいないのである。
 華音の脳裏に、赤城という大男と悪魔の二番弟子の顔が錯綜していた。


 華音は、富士川と高野と一緒に、セレモニーホールから芹沢邸へと戻ってきた。
 一階奥の応接間で、三人はいまだ喪服のまま、会話もなく無言でソファに座っていた。重苦しい沈黙が流れている。色々なことがありすぎて、みな疲労の表情を隠せない。
 しかし、これからが正念場だ。
 もうすぐここへ、『悪魔の二番弟子』がやってくる。
 富士川は落ち着きなく、部屋の時計に何度も目をやっている。
 高野は相変わらず煙草をくゆらせ、何か考え事をしているようだ。

 そこへ、芹沢家の執事が、鷹山を案内してやってきた。
 執事には極上の笑顔で「どうもありがとう」などと愛想よく対応している。
 そして執事が去りドアが閉められると――鷹山は表情を一気に硬化させた。
 富士川が、華音に目配せをした。
 席を外したほうがいいのだ、と華音は察した。すぐに立ち上がり、自分の部屋へ戻ろうとドアのほうへと向かう。
 すると。
 鷹山とすれ違いざまに、華音はいきなり腕をつかまれた。
 驚きのあまり、つかまれた腕の先を辿ると――あの大きな威圧的な瞳がそこにはあった。
 鷹山は華音の腕をしっかりとつかんだまま、今度は富士川のほうを見据えた。
「彼女にだって『知る権利』はあります。いや、むしろ『知る義務』でしょう。英輔先生亡きあと、楽団の経営は決して芳しくないであろうことを、直系の彼女には受け止めてもらわなければ、皆が困る」
「華音ちゃんはまだ高校生だ。あまり無理難題を押しつけるんじゃない」
「話を聞くことが、無理難題なんですか? こんなに立派な耳がついている」
 また鷹山は、華音の顔を食い入るように見た。
 怖い。吸い込まれてしまいそうだ。
「まあ、いいじゃないの。ノン君も一人部屋にいるのはサビしいだろうしさぁ、俺の隣においで。楽ちゃんは上座にどうぞ。一応お客様だから」
 富士川は難しい顔をしていた。しかし、高野の勧めに、特に口を挟もうとはしなかった。
 鷹山はようやく華音の腕を放し、そのまま勧められた席へ腰を下ろした。華音も迷いがあったものの、ソファに戻って高野の隣へ腰かけた。

 近況報告もそこそこに、赤城という男が持ちかけてきた「楽団買収」の話し合いに入った。
 美濃部青年が用意してくれた書類のコピーを、富士川がそれぞれの前に置いていく。
 その書類に目を通し始めると、しばらく室内は無言になった。
 華音も少しだけ読んでみようと書類を手に取ったが、小難しい言葉の羅列がまるで理解できず、早々と諦めて書類をテーブルの上に戻した。こういうときに、自分はまだ子供なのだと華音は思い知らされる。
 難しい顔をしながらも、書類を淡々と読んでいく富士川や鷹山、高野たちとはやはり立場が違うのである。
 富士川は書類から目を離すことなく、高野に向かって尋ねた。
「赤城麗児とは、どんな人物なんですか? 我々のような芸術分野にスポンサー参入するのは初めてらしいですけど、信頼に足るんでしょうかね?」
「確かにねえ……あの麗児君がクラシック音楽って、全然イメージじゃないんだよね」
 高野は首を傾げている。
「高校の同級生って言ってましたよね? この方は音楽科ではなかったんですか?」
「うちのガッコウ特殊でさ、音楽科とスポーツ特進科ってのが、なぜか同じクラスだったんだよね。専門バカになるのを避けるためだったのかなあ……。で、麗児君はそのスポーツ特進科だったんだよ」
 いろいろ思い出しているようだ。懐かしい若き日々の姿――。
「俺が練習してるとたまに窓から覗いてたりしてさ、麗児君デカイからコワイのなんのって。しかも剣道の面つけながら『この間のアレ、弾け!』とか言って……そのアレってのが、いまだによく分かってないんだけどね」
「うちの団体に思い入れがあるというわけではないんですよね」
「ああ、ないない。麗児君に限ってそんなことはありえないよ。これでもかってくらい、ビジネスライクな思考の持ち主だから」
 富士川はううん、と唸るような声を上げた。
「そんな……芹沢先生の音楽をまったく理解してない人物に出資してもらうなんて、俺は賛成できません」
 そこまで黙っていた鷹山が、ようやく口を開いた。
「富士川さん、この提案書は『出資』ではなくて『買取』ですよ。確かに、このままでは納得できませんね。しかし、出資という方向に話を持っていけるのであれば、僕はおおいに賛成ですよ」
「そんな……芹沢先生が喜ぶとはとても思えない」
「芹沢芹沢と、なぜあなたが、そこまで名前にこだわるんです?」
「お前だって弟子を名乗るなら――芹沢という名に誇りを持ったらどうなんだ」
「受け継ぐべきなのは名前ではなくて、その音楽性なんじゃありませんか?」

 華音は富士川と鷹山のやり取りをじっと見つめていた。見つめる他なかった。
 すると、なぜか鷹山の矛先は華音へと向けられた。
「君、ちゃんと話を聞いているのか?」
「聞いてます。聞いてるけど……よく分かんないもん」
「鷹山! この問題は華音ちゃんには関係のないことだろう? なにより華音ちゃんは芹響の楽団員でもない」
 富士川の牽制にも、鷹山は耳を貸そうとはしない。
「むしろ君だ」
 鷹山は華音を見据えた。
「君の問題だ、これは。富士川さんが考えてくれる、じゃなく、君がこの先どうしていきたいのか――」
「だって」
「『だって』なんだ?」
 鷹山の目は真剣そのものだ。決して甘えを許さない、突き刺すような視線。
「だって……楽団はおじいちゃんのもので、私がどうこうできるものじゃないもん」
「だったらそうみんなにはっきり言って、楽団を解散させたらいい。みんな君と同じことを、心の底では思っている。――英輔先生が死んだらどのみち楽団は廃れる運命にあるとね」
「止めろ鷹山! 華音ちゃんには何も関係ないと言ってるだろう!」
 富士川が滅多に出さないような大きな声を上げ、華音をかばった。
 それが火に油を注いだ。鷹山は読んでいた書類を、テーブルの上に叩きつけるようにして置いた。
「何も関係ないなんてことはないでしょう? むしろ大ありだ。未成年だから? 高校生なら充分自分で考えることができる。あなたはこの人の何なんです? 保護者気取りも大概にして欲しいですね。少し――黙っててもらえませんか」
「なっ……」
「まあまあ、二人とも落ち着いて。ノン君が驚いてるじゃないの」
 高野にそう言われて、華音はそこでようやく自分が震えているということに気がついた。高野が気遣って、そっと背中をなでさすってくれる。
 もはや富士川は、言葉を発する力は残っていないようだった。口を真一文字に固く結び、じっと何かに耐えている。
 一方の鷹山は、語調を少し緩めると、なおも華音に語りかけるように言った。
「このままでは確実に廃れてしまう。けどね、僕だって他の団員たちと同じように、この楽団をなくしたくない、と思っている。でもそれを、富士川さんが言い出すのでは駄目なんだ。『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ」

 『芹沢』の名を持つ君が――。
 『芹沢』の名を持つ君が――。

 鷹山の言葉が、華音の頭の中でいつまでもこだましている。
 自分は、芹沢英輔の唯一の血縁者。
 芹沢という姓を名乗っているということの重さを、これほどまでに感じたことはなかった。
 芹沢交響楽団の行く末は、存続か解散か――。
 百名をこえる団員、数多の定期会員の聴衆たち。

 それらすべての人間の望みそして運命が、弱冠十六歳の華音の肩にのしかかっている。

 芹沢家の応接室は、異様な雰囲気に包まれていた。
 富士川は、硬く口を閉ざしたまま、身じろぎもせずに座っている。
 華音はどうしてよいのか分からず、高野の隣で震えていた。
 そんな状況も、上座に座るこの男にとって動じる材料とはなりえない。
「では、その赤城という方と話し合いを持ちましょう」
 いつの間にか、話し合いの主導権を握っているのは、この鷹山楽人という『悪魔の二番弟子』だった。
「大丈夫かなぁ……」
 ソファの背もたれに身を預けるようにして、高野はゆっくりとため息をついた。素直に肯定できない何かが、そこには存在しているらしい。
「いやさ、麗児君がいい加減な男じゃないことは俺がよく知ってるけどさ、同時に一筋縄じゃいかない男だというのも、よく知ってるんだよねえ」
「芹沢先生亡き今、芹響には資金力が足りません。夢ばかり語っていても、芸術は廃れるんです。我々が音楽に集中するためにも、運営ビジネスのエキスパートを引き入れたほうがいい。もちろん、お互い対等な立場で話し合えることが最低条件ですけどね。スポンサーだからといって、選曲まで口を挟まれたら困りますし。いつでも緊張感を保てる関係でないと、芸術としての音楽ビジネスは腐るだけです」
 鷹山が一気にまくしたてるように言った。迷いは見られない。
 どうやら鷹山という男は、思っていることを論理的にすべてを吐き出さなければ気がすまない性質らしい。相手に反論する隙を与えないのだ。
 もちろん、華音に入り込む余地などあるはずもない。
 高野は慣れているためなのか、鷹山の意見をすべて飲み込んだ上で、自分なりの意見を展開していく。
「じゃあ、最初からそんな危険をおかさないで、今までどおり定期会員募って、規模縮小してやっていくほうが、楽団員にとって幸せなんじゃないの?」
 高野の言うとおり、芹沢交響楽団には少なからず固定ファンがついている。
 たとえ指揮者が替わっても、今までどおり高野が客演していれば、そこそこの動員は見込めるはずだ。
 ただ、それ以下にもならない代わりに、それ以上の発展も難しい。
 それでも今の状況を考えたら、現状維持が最良の選択のように思えるが――。
 しかし、鷹山の答えは『ノー』だった。
「和久さん、それはどうでしょう。今のままでは現状維持はありえません。団員も減るでしょう。しかしスポンサーを取りつければ、オーディションで優秀な団員を引き入れることができる。別に英輔先生の門下生じゃなくたって、僕はいいと思うんですよ」
 鷹山は両腕を組み、大きな瞳を瞬かせ、高野を説得するように言う。
「もう……」
 それまで黙っていた富士川が、ようやく口を開いた。その表情にはまるで精気がない。
「俺が口を挟む余地はなさそうだな。お前にはいろいろと言いたいことはあるが……今の俺の力じゃ、その資格もない。しかし……お前が頑張ったところで、無駄骨だ」
 心なしか、眼鏡の奥の瞳は潤んでいる。
「もう、終わりだ」
 力のない富士川の悲しげな心の声が、応接室内に響いた。
 しかし、そんな兄弟子の言葉を、二番弟子は無常にも切り捨てる。
「一番弟子のあなたがそんな調子だと、助かるものも助からない。楽団員たちの意見も聞かずに、あなたの感情的意見だけで『終わり』だなんて、結論を出さないでいただきたいですね」
「芹沢先生がいなくなったのに……楽団を続けようとするのがそもそもの間違いなんだ。買収されてまで、続ける意義などどこにある? そんなの……俺は御免だ」
 高野が慌てて、睨み合う二人の弟子たちの仲裁に入った。
「落ち着いてよ二人とも。買収の件はさ、まあ、とりあえず話を聞いてみるだけなら……麗児君はまったく知らない人間でもないし、気楽に会ってみるのも悪くないと思うよ? 俺もついていくからさ。そうだ、ノン君も一緒に行こう!」
「わ、私も?」
 意外な話の展開だった。華音は正直なところ、部外者を決め込んでいたのである。
「麗児君はフェミニストなんだよ。女の子連れて行ったほうが、和やかに話せると思うから」
「……フェミニスト?」
 告別式に現れたあの長身の青年実業家が、フェミニストだとは、華音にはとても想像しがたい。
 気は進まなかったが、高野が一緒なら心強い。
 もちろん僕もついて行きます、と鷹山がひとことつけ加えるようにして言った。
 富士川は、最後まで黙ったままだった。