宿命の章 (6) 憎しみが全てを支配する
コンサートマスターの富士川が退団したという話は、その日のうちに楽団員たちの間に広まった。
指揮者が亡くなり、コンサートマスターである一番弟子まで――楽団に激震が走った。
次の日、説明を求める楽団員たちが、次々と芹沢邸へ集まってきた。
昨日のうちに事情を説明されていた美濃部青年が、朝から一人その対応に追われることとなった。
楽団員たちは入れ代わり立ち代わり、応接室へと通されてくる。
華音は部屋の隅の椅子に腰かけて、じっと成り行きを見守っていた。
「皆さんにはもうしばらく状況を見極めてもらい、冷静な判断を望みます」
説明をする美濃部の態度は、あくまで淡々としたものだった。
一人一人に現在の状況を説明し、何とか納得してもらおうと試みている。
しかし、先行き不透明な楽団の行く末を案じてか、楽団員たちの表情は一様に冴えなかった。
正午近くになって、ヴァイオリン副首席である藤堂あかりが芹沢邸へやってきた。
執事に案内されて、美濃部と華音のいる応接室へと入ってくる。
水色のワンピースに身を包み、初夏の暑さに涼風を添えているが、美しく整ったあかりの顔は、能面のように固まったままだった。
「いったい、何があったんですか」
あかりは部屋に入るなり、正面で待つ美濃部ではなく、部屋の隅の椅子に座っていた華音へ詰め寄った。
「富士川さんがどうして辞めることになったのか、華音さんはご存知なのでしょう? あの鷹山という人が、何かしたからではないですか? 教えてください!」
美濃部はあかりの背後に寄り、両肩に手をかけた。
「あかりさん、落ち着いて。華音さんを責めるのは筋違いだと思うよ」
美濃部青年の言葉に、あかりは一瞬、口をつぐんだ。しかし、師の芹沢英輔を誰よりも敬愛していた彼が、どうして退団届けを出してしまったのか――あかりにはまるで納得できないらしい。
「あの男はどこに行ったんですか? 直接、話をさせてください」
あかりの言う『あの男』とは、富士川祥に食ってかかった『悪魔の二番弟子』のことだと、華音にはすぐ分かった。
華音は負けじとあかりの顔を見据えた。そして、事実だけを淡々と告げる。
「鷹山さんは、実家へ顔を出すって、おとといから北海道へ行ったみたいです。今日の午後に、楽団の売買契約の話し合いに一緒に出ることになってますから、もうじき戻ってくると思いますけど」
華音のただならぬ勢いに押されて、あかりはようやく冷静さを取り戻したようだ。やり場のなくなってしまった怒りが、ため息となって吐き出されていく。
「あかりさん、鷹山さんに文句言うのは止めといたほうがいいよ? それより富士川さんを説得して連れ戻してくれたほうが嬉しいんだけどな?」
美濃部は躊躇せずに言った。しかし、あかりの表情は冴えない。
「それは……できません」
「どうして?」
「富士川さんが自分でお決めになったことです。私が口を挟むことではありませんから」
「あかりさんまであとを追うなんてことないよね? 君がいなくなっちゃったら、困るよ」
美濃部の語調は優しいものだったが、いつになく力がこもっている。
あかりにもそれが感じ取れたのか、幾分困ったような表情をしてみせた。
「今はまだ、分かりません。ただ、あの男に……これ以上好き勝手な真似、させません」
あかりは再び『あの男』と言った。
鷹山という男に対する並々ならぬ敵対心か、それとも――。
「でも、これでよかったのかもしれないって、思うんです。コンサートマスターの重圧からも、華音さんの面倒をみるという義務からも逃れることができたんですから。富士川さんは自由を手に入れたんです」
義務から逃れ、自由を手に入れた――。
あかりの言葉が、華音の胸にずしりと重くのしかかった。
夕方近くになって、高野は鷹山を空港まで車で迎えに行き、そのまま芹沢邸に寄って、さらに華音を拾って車に乗せた。
向かう先は「赤城エンタープライズ」本社ビルである。
これから赤城という男との、楽団の売買契約交渉が待ち受けている。
車中は無言だった。運転する高野はピアノ曲のCDに合わせて鼻歌をふんふん言わせているし、助手席の鷹山も居眠りを始める始末。
華音は後部座席で、鷹山の大きなボストンバックに挟まれて、ただ黙っていた。
高野も鷹山も、富士川祥が退団届けを出したことは知っているはずだ。それを知っていてあえて話題に出さないのは、かえって不自然なことだった。
赤城エンタープライズ、到着――。総ガラス張りのモダンなビルだ。
受付に話をすると、三人はすんなりと社長室に通された。
眺望の素晴らしい部屋に大きなデスクがあり、革張りの椅子に男は座っていた。
確かにそこにいるのは、告別式にやってきた端整な佇まいの大男だ。
高野が一歩前に出た。そして右手を軽く挙げてみせる。
「お久しぶり、麗児君」
高校時代の同級生だと、高野はそう言っていた。同い年なのだから三十代後半だろう。しかし、無駄のない体つきとその溌剌とした表情は、二十代と見紛うほど若々しい。
「和久、お前全然変わってないな! 同窓会以来だから、十年振りか?」
そう言って、男は椅子から立ち上がり颯爽と近づいてきた。そして力強く高野の肩を二度叩いてみせる。
「奥さんと子供は元気か? 確かあのとき、和久は結婚したてで、もうすぐ父親になるとか言っていた気がするが」
微妙な間があいた。
高野は何の気なしに華音のほうを振り返った。もちろん華音も、事情を知っているだけにその表情は複雑だ。
高野は再び赤城麗児のほうに向き直り、言いにくそうに首を傾げてみせた。
「まあ、きっと元気にしてるとは思うけど……いろいろあって俺、五年前に独身に戻ったから。麗児君はまだ結婚してないの?」
「ああ。別に不自由はしていないんでね。ああ、内輪話はこれくらいにして、話を進めようじゃないか。芹沢華音さんね、お嬢さんはこちらの席にどうぞ。それと君は……もう一人のお弟子さんだったね」
「鷹山楽人です。英輔先生の一番弟子は理由あって退団いたしました。僕が代わりに話をうかがいますが、不都合は?」
鷹山はにこりともせずに、言い切った。その大きな瞳は、赤城の顔を直視し、友好的態度は少しも見せない。持ち前の綺麗な顔が、いっそう冷たさを際立たせている。
赤城は余裕たっぷりに微笑んでみせた。
「まったく問題ない。……どうやら君は、噂どおりの曲者のようだな。まあ、そういうのは嫌いじゃない」
秘書らしき女性が、人数分のコーヒーを持ってやって来た。配り終えると会釈をし、社長室から出て行ってしまう。
ドアが閉められたのを確認すると、赤城は唐突に話し始めた。
その視線の先は、華音だ。
「君の家のことについて、いろいろと調べさせてもらったよ」
意外な言葉だった。緊張が一気に高まる。
「別に詮索しようというわけではない。資金を提供するに当たって必要なことを知りたかっただけだ。悪く思わないでくれ」
赤城はどこまでも強気な態度を崩そうとしない。
「芹沢英輔と、君のお父さんにあたる一人息子の芹沢卓人の関係についてだが――卓人は二十歳のとき、勘当同然に芹沢家を出ている。当時在学していた音大を勝手に中退してしまったことが原因らしいのだが、それには大きな理由があって、当時お付き合いしていた女性との間に子供ができたため、ということだ」
華音の祖母が生前に言っていた言葉を、華音は思い出した。
父親は『大学中退して、カケオチ同然に家を出た不義理の息子』。
母親は『どこのウマの骨だか分からない、大切な一人息子をたぶらかした魔性の女』。
今まで、詳しく教えてもらったことはなかったが、赤城の説明にさほど驚く点はなかった。
逆に、素直に納得してしまうほど――。
華音が冷静に話を聞いているのを確認しながら、赤城はさらに続けた。
「芹沢卓人はその彼女と子供を養うために、音大を中退したのさ。そしてそのまま引っ越し先も告げず、その後は新しい街で小さな出版社に就職し、二十八歳のとき、交通事故により二人は死亡。幼い子供二人が残されてしまう」
一瞬、空白があった。
華音は自分の耳を疑った。
――衝撃的な、言葉。
「二人? いま二人って言った?」
華音は思わず赤城に聞き返した。
ありえない。
そのような話は、聞いたことがない。
動揺隠せぬ華音に対し、赤城は眉一つ動かさず、あくまで平然と説明を続ける。
「君が一歳のときに両親が事故死して、祖父母に引き取られたということだったね。ということは、芹沢卓人が大学を辞めたときの子供は、このとき八歳になっている」
華音は言葉を失った。
そんなの、嘘。
心臓の鼓動が、物凄い勢いで脳天まで響いている。
「つまり、君には兄さんか姉さんがいるはずだ」
容赦なく、赤城の言葉が降り注ぐ。
それまで黙って話を聞いていた鷹山が、ようやく雄弁な口を赤城に向かって開いた。
「今あなたがおっしゃった芹沢家の私的事情は、この交渉に何の関係があるというんです? いたずらに彼女を動揺させるようなことは、まったくもって感心できませんね」
「彼女はまだ未成年だ。できることなら、その成人しているであろう華音さんの兄姉に、芹沢英輔の財産管理を引き受けてもらえると、話を進めるのが楽だと思うのだが?」
赤城は強硬な態度を、決して崩そうとしない。
高野はそんな同級生の発言に途惑い気味だ。
「麗児君、そんな無茶な……」
「無茶なものか。優秀な調査員を雇えば造作もないことだ」
赤城の言葉に、鷹山は首を横に振り、鋭く反論する。
「彼女が希望してるならまだしも、あなたが勝手に調べることではないでしょう。余計な詮索もいいところですよ」
「事実をはっきりさせることが、そんなに罪なことか? 何か困るわけでも? 調査費用を彼女に請求するわけではないのだから、そこまで目くじらを立てないでいただきたいが――」
分からない。
いったい何が正しくて何が正しくないのか、まるで分からない。
目の前の大人たちが話す言葉が、華音にはまるで理解できなかった。
「私は……お父さんもお母さんも、もちろん兄弟のことも、まったく憶えてない。知らない、そんなの」
赤城、鷹山、高野、三人の大人の視線が、いっせいに華音の顔へ注がれた。
先ほどまで言葉を失っていた反動であるのか、あふれる思いがどんどん口をついて出てくる。
「物心ついたときには、そばに祥ちゃんがいた。いつもそばにいてくれた。高野先生は暇さえあればしょっちゅうやってきて、ピアノ弾いて遊んでくれた。ドライブや遊園地に連れていってくれるのも高野先生だった。血の繋がっているおじいちゃんよりも安らげる場所なの。……いまさら捜してどうするの? 十五年も経ってるんだよ? もしその兄弟が今もどこかで生きているとしたらもう大人になってるよね。もしかしたら結婚だってしてるかもしれない。子供だっているかもしれない。それをいまさら、お祖父ちゃんが死んだから、芹沢の名を継げといったって、それは無理な話じゃないの?」
そこまで一気に言ってしまうと、華音の脳裏に富士川の顔が浮かんできた。
眼鏡の奥の優しい切れ長の瞳。知的な立ち居振る舞い。抱き締めてくれるその胸の温もり。
『華音ちゃんが俺を必要とする間は、……ずっとそばにいるから』
――嘘つき。
「それに、そんなの……」
華音は目の前に座る三人の男の顔を、順番に見据えた。
「血が繋がっているだけの、ただの他人でしょ」
何をいまさら。
誰も富士川の代わりになど、なれるはずがないのだから。
「楽団なんて、どうにでもなってしまえばいい」
この言葉が、華音の気持ちのすべてだった。
買収交渉は何の進展もないまま、終了した。
日を改めてもう一度話し合いを持ちたいと、赤城という男は申し入れてきた。しかし、華音の精神状態を考えて、高野は保留することを提案した。
鷹山は今日北海道から戻ったその足で、成田空港からウィーンへ向けて出発する予定だった。
しかし、この混乱した状況を収拾するために、三日間の滞在延長を決めた。そしてその三日間は――なんと芹沢家に宿泊することになったのである。
その理由は、実に単純なことだった。
もうじきウィーンで演奏会を控えているという彼には、ヴァイオリンの練習場所が必要だったのである。
いくら防音が施されているとはいえ、音響も悪く乾燥もひどいホテルの部屋の中で、弦を鳴らすのはためらわれることだろう。しかし、ここ芹沢邸は練習用の部屋が完備されている。
芹沢邸の練習室は、祖父が楽団員たちを呼んで個人レッスンをしたり、また富士川が居候していた頃は毎日ヴァイオリンの研鑽を積んでいた場所でもある。
鷹山がヴァイオリンの練習のために、この芹沢家に――華音は不安とも途惑いともつかぬ、複雑な思いに駆られていた。
富士川のいなくなったこの家に、富士川を追い出した男が滞在するのである。
いったいどのような態度をとるべきなのか、華音はひたすら迷っていた。
どんな不敬不遜な態度をとろうとも、祖父の弟子だというのであれば、その立場は一番弟子の富士川と一緒だ。この家に滞在するのは不思議なことではないのである。
むしろ、当初鷹山がウィーンからやってきたときのように、わざわざホテルを予約するほうが不自然なことだった。
鷹山が滞在する間は、高野も楽器店の仕事が終わったら、芹沢邸に泊まり込むことになっていた。
しかし高野は、顧客との会食の約束が入ってしまったため遅くなる、と芹沢家の執事に連絡を入れてきたのである。
早く切り上げて芹沢邸にやってくるつもりらしかったが、酒席となればあの高野が予定通りに行動してくれるのか――過度な期待はできないだろう。
華音は一人で夕食をすませ、すぐに自分の部屋に引きこもった。そして明かりもつけず、暗闇の中でただじっと、勉強机に身を伏せていた。
誰もいなくなってしまった。
孤独。これが孤独というものなのだろうか。
闇に飲み込まれそうになる。
――祥ちゃん……。
遠くから、ヴァイオリンの調べが聞こえてくる。
芹沢邸の音楽練習室は、完全な防音の造りではなかった。ただでさえ敷地の広い洋館である。近所迷惑になる心配はない。
弾いているのは、鷹山だ。
華音は身を伏せたまま、その繊細な旋律を聴いていた。
すごい音だ。ときに激しく、そして繊細な至上の旋律――ツィゴイネル・ワイゼン。
ヴァイオリンが鳴いている。泣いている、のかもしれない。
祖父が死んだときも、富士川がここからいなくなったときも出てこなかった涙が、突然、こらえられずにあふれてきた。止まることのない涙がシャツの袖を濡らしていく。
この哀しくも美しいヴァイオリンの音色は、鷹山という男がただならぬ才能の持ち主であるということを、如実に現している。
――なぜだろう。こんなにも、悲しみに満ちあふれてる。
【あいつは、あれを持つ資格はないんだ】
華音は、涙に濡れたままの顔をゆっくりと上げた。
富士川があの演奏会の夜に控室で言っていたことを、ふと思い出したのである。
そう。今まさに鳴っているのは――。
――ストラディバリ……ウ……ス? これが?
祖父が現役時代に使用した『特別な楽器』なのだと、富士川は華音に説明していた。
一番弟子の富士川が受け継ぐことのなかったヴァイオリンが、今宵、この美しき調べとなって華音の耳へ届いている。
――そうよ、どうしてあの人が。
華音は自分の部屋を出て、旋律に引き寄せられるようにして薄暗い廊下を歩いていった。
古い洋館の床がときおり鈍い音をたて、辺りに響く。
そのまま螺旋階段を降り、気がつくと、応接室の手前にある音楽練習室兼客間の前までやって来ていた。
ヴァイオリンの調べが途切れた。
華音はただ黙ったまま、ドアの前に立ち尽くしていた。
「どなたですか?」
中から鷹山の声がした。気づかれている。
しばらくすると、目の前のドアが開いた。
鷹山は左手にヴァイオリンを携えたまま、不審げな面貌で華音を見つめている。練習の邪魔をされて気が立っているのか、何か用? と吐き捨てるように言った。
「……あなた、本当におじいちゃんの弟子なの?」
「どういう意味だよ、それ」
「あなたに……弟子を名乗る資格なんかない」
鷹山は華音の言葉に反応しなかった。小娘の戯言と割り切っているのだろう。
それでも華音は、なおも食い下がった。
「それはおじいちゃんの物なんでしょ。……返してよ」
「嫌だね」
鷹山は大きな目を瞬かせ、はっきりと嫌悪感をあらわにした。そしてそのまま華音に背を向けると、部屋の中へと戻っていく。
もう、後には引けないのだ。華音は鷹山の後を追うようにして、部屋の中へと入っていった。
怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。しかし、もう抑えることのできない何かが、華音の心を支配していた。
富士川でさえ、この鷹山という男の容赦のない物言いに太刀打ちできないのだ。ましてや華音がかなう相手ではない。
歯をかみ締め唇をぎゅっと真一文字に結び、襲いくるであろう言葉の矢の嵐をひたすら待った。
「君は、僕からこのヴァイオリンをとって、どうするつもり?」
鷹山の心の奥底の触れてはいけない部分に、どうやら火をつけてしまったようだ。
もはや止めることなど不可能だ。その証拠に、鷹山の攻撃はいっそう激しさを増す。
「君はヴァイオリンをやらないんだろう? 大切に金庫にしまっておく? 馬鹿馬鹿しい! ストラディバリウスのような芸術品は弾かないでいるとすぐに音質が劣化してしまう。手入れを怠ってはならないんだよ。そもそも君は、僕がこの楽器を受け継いで、すでに十年もの間演奏活動をしてるってことを、ことごとくないがしろにしてるよね。何なんだよ、またあの男の入れ知恵か?」
怖い。鷹山の目が、怖い。
兄弟子の富士川に対する、並々ならぬ憎悪の心。
そしてその矛先は、富士川を慕う華音に対しても同様に向けられている。
「僕はね、『芹沢』の名を汚すような真似をする人間が、気に入らないんだよ」
「……祥ちゃんのことを言ってるの?」
「他に誰がいるというんだ」
富士川が、芹沢の名を汚す――などと。
鷹山の言っていることが、華音にはまったく理解できない。
「そして、『芹沢』の名を軽々しく口にする人間もね、気に入らない」
華音はあまりの恐怖心に思わず後ずさった。その場から逃げようと鷹山に背を向けると――強引に腕をつかまれ、引き止められてしまった。
振り向くと、そこには今にも飲み込まれそうな二つの大きな瞳。
「触らないで!」
振り解こうと必死に身体をよじる。しかし、そんな華音の抵抗も虚しく、鷹山は腕をつかんでいる手の力を緩めようとはしない。
もう、逃げられないのだ――華音は悟った。
間近に見える鷹山の綺麗な顔立ちが、なおのことその冷たさを際立たせている。
「すべて僕のせい? 英輔先生が死んだのも、富士川さんが芹響を退団したのも、楽団の経営が芳しくないのも」
「……祥ちゃんがいなくなったのは、あなたのせいでしょ?」
とうとう、思っていたことを口にしてしまった。
一気に緊張が高まる。
目をそらすことができない。蛇に睨まれた蛙の如く――。
「あの人には今の芹響を支える力はない。その言葉を撤回する気はないね。英輔先生のゴーストだけを追い求めて、周りが何も見えていない。今この楽団がどうあるべきか、これからどういう方向へ進むべきか……」
すでに喉はからからだった。華音はごくりと生唾を飲み込んだ。
鷹山の勢いはさらにエスカレートする。
「ただ英輔先生しか見えず、英輔先生の言うことだけが絶対で、英輔先生の言うことさえ聞いてりゃ間違いないだなんて、そんな他力本願な奴……人の命は永遠ではないんだ。出会いがあり、そして別れのときがいつか必ずやって来る。君だって心のどこかでは覚悟していただろう? それなのに英輔先生がいなくなったら、どうだ? ガタガタじゃないか! あれだけ英輔先生が積み上げてきたものを、一番弟子であるあの人が、こうも簡単に崩すとは……正直、思い切り失望したよ。僕ね、本当は葬式が終わったらすぐにウィーンへ戻るつもりだったんだよ」
一通り言いたいことをまくしたてると、鷹山はようやく落ち着きを取り戻し、華音の腕を放した。
「どうして君は、そんなにあの男にこだわるんだ?」
「あなたに――私の気持ちなんか分からない。分かるわけない」
自分にとって富士川祥という男が、どれほどの大きな存在であるかを。
この鷹山という男は、知るはずもないのだ。
「両親も兄弟もいない私にとって、祥ちゃんは、父親代わりで兄代わりだった。いつだって、いつだってそばにいてくれたのに――」
すると。
鷹山は何が可笑しいのか、嘲るように鼻で笑った。
「父親? 兄貴? ハッ、笑わせてくれるな。夢でも見てるんじゃないのか。本当の肉親なら、どんなことがあっても君を見捨てて逃げ出したりはしないさ」
この男は。どこまで無責任なことを。
華音は自分自身の感情を、もはや抑えることができなかった。
「何よ! あなたが、それを滅茶苦茶にしたんじゃない!」
華音は部屋を見回すと、手つかずのままワゴンに乗せられたままのディナーセットへ近寄った。
そして、おもむろに果物ナイフをつかみ――やり場のない怒りと悲しみが、涙となって華音の両目からあふれ、両頬を濡らしていく。
「なっ……?」
鷹山のかすかに震えるうめき声――華音はそれを、すぐそば耳元で聞いた。
「あ、あなた! 何をやってるの!」
突然、女の叫び声が、凄惨な修羅場に響き渡った。
部屋の入り口に立ち尽くしていたのは、藤堂あかりだった。
鷹山の両目は、これほどまでにないほど見開かれている。驚き動揺していることは、傍目から見ても明らかだ。
「君、どうしてこんなところに……」
あかりは昼間ここへ訪れたとき、鷹山と話をさせてほしいと華音に詰め寄っていた。芹沢邸に再びやってきたのは、そのためなのだろう。執事がここまで案内してこなかったところをみると、込み入った話をするためにそれを断ったに違いない。
「私はあなたとどうしても直接話がしたかったので……そんなことより」
あかりの続く言葉を遮るようにして、鷹山は必死の形相で叫んだ。
「いいか。今ここで見たことは絶対に他言無用だ! 特にあいつには……富士川さんには」
「何をふざけたことを。あなたの脅しにのるとでも思ってるんですか?」
「君もあの男を愛しているのなら――分かるだろう? 僕の言うことが」
――君『も』、あの男を。君『も』、愛しているのなら。
何てことを――してしまったのだろう。華音は自分のとった行動にただ愕然としていた。
鷹山の左腕を押さえていた右手の指の間から、深紅の液体があふれ流れ伝い、やがてストラディバリウスを染めていく。
この男が悪いのだ。自分から富士川を奪った、この男のせいなのだ。
みるみるうちに、ストラディバリウスに幾筋もの血痕がついていった。
華音は持っていたナイフを床に落とした。絨毯に音を吸い込まれて、派手な音はしない。
華音は鷹山の顔をまともに見ることができず、うつむきじっとしているのが精一杯だった。
「いい加減、覚悟を決めたらどうなんだ」
鷹山は痛みを表情には出さず、しっかりと華音の顔を正面にとらえた。刺された左腕を押さえながら、力強くそして諭すように華音に言う。
「昼間、君も言ってただろう? いまさら英輔先生のもう一人の孫を探してどうするんだって。だったら、君がこの芹沢の名前をもって、楽団の運命を背負っていくんだ。――あの男はそれを放棄したんだからな」
あかりの表情が変わった。何やら込み入った芹沢家の事情と、華音が背負わなければならない宿命の重さを知り、途端に同情する素振りを見せる。
あかりはゆっくりと試すように聞いた。
「あなたが、芹沢先生の後を引き受ける――ということなの?」
「それは……僕が決めることじゃない」
鷹山の発言は、肯定も同然だった。
しかし、誰よりも富士川のことを尊敬しているあかりに、それをはっきり言うのはためらわれるのか、鷹山は柄にもなく言葉を濁した。
曖昧に言ってみたところで、富士川がいなくなったあと、この藤堂あかりのとる道は想像に難くないのであるが――。
「あなたがもし、芹響の音楽監督になるというのなら」
あかりは鷹山を鋭く睨みつけた。
「――私は、残ります」
あかりの口から次に出てきた言葉は、意外なものだった。
華音は驚き、うつむいていた顔を思わず上げた。
もっと驚いていたのは鷹山だった。柄にもなく、唖然とした表情を見せている。
「あなたの好き勝手には、させたくありませんから。今夜のことは『貸し』ですので」
鷹山とあかりの間に流れる奇妙な空気――。二人は不退転の領域に足を踏み入れてしまったことに、お互いが気づいていた。
華音をめぐってこれから繰り広げられるであろう、修羅の道――ここから先は、決して後戻りはできない。
「すまないが、彼女を……連れていってくれないか。頼む」
「――ええ」
あかりに促されるようにして、華音が音楽練習室から出ようとしたとき、鷹山は言った。
「別にこの家を乗っ取ろうと企んだわけじゃないし、君を困らせようとしてるわけでもない」
驚くほど、柔らかな口調だ。
華音が振り返ると、彼は背を向けて、床に落ちた果物ナイフを拾い上げているところだった。
「だからそんなに嫌わないでくれ。――好きじゃなくていいから」
そう言って鷹山は、血に染まったヴァイオリンとナイフを、テーブルの上にそっと並べるようにして置いた。
指揮者が亡くなり、コンサートマスターである一番弟子まで――楽団に激震が走った。
次の日、説明を求める楽団員たちが、次々と芹沢邸へ集まってきた。
昨日のうちに事情を説明されていた美濃部青年が、朝から一人その対応に追われることとなった。
楽団員たちは入れ代わり立ち代わり、応接室へと通されてくる。
華音は部屋の隅の椅子に腰かけて、じっと成り行きを見守っていた。
「皆さんにはもうしばらく状況を見極めてもらい、冷静な判断を望みます」
説明をする美濃部の態度は、あくまで淡々としたものだった。
一人一人に現在の状況を説明し、何とか納得してもらおうと試みている。
しかし、先行き不透明な楽団の行く末を案じてか、楽団員たちの表情は一様に冴えなかった。
正午近くになって、ヴァイオリン副首席である藤堂あかりが芹沢邸へやってきた。
執事に案内されて、美濃部と華音のいる応接室へと入ってくる。
水色のワンピースに身を包み、初夏の暑さに涼風を添えているが、美しく整ったあかりの顔は、能面のように固まったままだった。
「いったい、何があったんですか」
あかりは部屋に入るなり、正面で待つ美濃部ではなく、部屋の隅の椅子に座っていた華音へ詰め寄った。
「富士川さんがどうして辞めることになったのか、華音さんはご存知なのでしょう? あの鷹山という人が、何かしたからではないですか? 教えてください!」
美濃部はあかりの背後に寄り、両肩に手をかけた。
「あかりさん、落ち着いて。華音さんを責めるのは筋違いだと思うよ」
美濃部青年の言葉に、あかりは一瞬、口をつぐんだ。しかし、師の芹沢英輔を誰よりも敬愛していた彼が、どうして退団届けを出してしまったのか――あかりにはまるで納得できないらしい。
「あの男はどこに行ったんですか? 直接、話をさせてください」
あかりの言う『あの男』とは、富士川祥に食ってかかった『悪魔の二番弟子』のことだと、華音にはすぐ分かった。
華音は負けじとあかりの顔を見据えた。そして、事実だけを淡々と告げる。
「鷹山さんは、実家へ顔を出すって、おとといから北海道へ行ったみたいです。今日の午後に、楽団の売買契約の話し合いに一緒に出ることになってますから、もうじき戻ってくると思いますけど」
華音のただならぬ勢いに押されて、あかりはようやく冷静さを取り戻したようだ。やり場のなくなってしまった怒りが、ため息となって吐き出されていく。
「あかりさん、鷹山さんに文句言うのは止めといたほうがいいよ? それより富士川さんを説得して連れ戻してくれたほうが嬉しいんだけどな?」
美濃部は躊躇せずに言った。しかし、あかりの表情は冴えない。
「それは……できません」
「どうして?」
「富士川さんが自分でお決めになったことです。私が口を挟むことではありませんから」
「あかりさんまであとを追うなんてことないよね? 君がいなくなっちゃったら、困るよ」
美濃部の語調は優しいものだったが、いつになく力がこもっている。
あかりにもそれが感じ取れたのか、幾分困ったような表情をしてみせた。
「今はまだ、分かりません。ただ、あの男に……これ以上好き勝手な真似、させません」
あかりは再び『あの男』と言った。
鷹山という男に対する並々ならぬ敵対心か、それとも――。
「でも、これでよかったのかもしれないって、思うんです。コンサートマスターの重圧からも、華音さんの面倒をみるという義務からも逃れることができたんですから。富士川さんは自由を手に入れたんです」
義務から逃れ、自由を手に入れた――。
あかりの言葉が、華音の胸にずしりと重くのしかかった。
夕方近くになって、高野は鷹山を空港まで車で迎えに行き、そのまま芹沢邸に寄って、さらに華音を拾って車に乗せた。
向かう先は「赤城エンタープライズ」本社ビルである。
これから赤城という男との、楽団の売買契約交渉が待ち受けている。
車中は無言だった。運転する高野はピアノ曲のCDに合わせて鼻歌をふんふん言わせているし、助手席の鷹山も居眠りを始める始末。
華音は後部座席で、鷹山の大きなボストンバックに挟まれて、ただ黙っていた。
高野も鷹山も、富士川祥が退団届けを出したことは知っているはずだ。それを知っていてあえて話題に出さないのは、かえって不自然なことだった。
赤城エンタープライズ、到着――。総ガラス張りのモダンなビルだ。
受付に話をすると、三人はすんなりと社長室に通された。
眺望の素晴らしい部屋に大きなデスクがあり、革張りの椅子に男は座っていた。
確かにそこにいるのは、告別式にやってきた端整な佇まいの大男だ。
高野が一歩前に出た。そして右手を軽く挙げてみせる。
「お久しぶり、麗児君」
高校時代の同級生だと、高野はそう言っていた。同い年なのだから三十代後半だろう。しかし、無駄のない体つきとその溌剌とした表情は、二十代と見紛うほど若々しい。
「和久、お前全然変わってないな! 同窓会以来だから、十年振りか?」
そう言って、男は椅子から立ち上がり颯爽と近づいてきた。そして力強く高野の肩を二度叩いてみせる。
「奥さんと子供は元気か? 確かあのとき、和久は結婚したてで、もうすぐ父親になるとか言っていた気がするが」
微妙な間があいた。
高野は何の気なしに華音のほうを振り返った。もちろん華音も、事情を知っているだけにその表情は複雑だ。
高野は再び赤城麗児のほうに向き直り、言いにくそうに首を傾げてみせた。
「まあ、きっと元気にしてるとは思うけど……いろいろあって俺、五年前に独身に戻ったから。麗児君はまだ結婚してないの?」
「ああ。別に不自由はしていないんでね。ああ、内輪話はこれくらいにして、話を進めようじゃないか。芹沢華音さんね、お嬢さんはこちらの席にどうぞ。それと君は……もう一人のお弟子さんだったね」
「鷹山楽人です。英輔先生の一番弟子は理由あって退団いたしました。僕が代わりに話をうかがいますが、不都合は?」
鷹山はにこりともせずに、言い切った。その大きな瞳は、赤城の顔を直視し、友好的態度は少しも見せない。持ち前の綺麗な顔が、いっそう冷たさを際立たせている。
赤城は余裕たっぷりに微笑んでみせた。
「まったく問題ない。……どうやら君は、噂どおりの曲者のようだな。まあ、そういうのは嫌いじゃない」
秘書らしき女性が、人数分のコーヒーを持ってやって来た。配り終えると会釈をし、社長室から出て行ってしまう。
ドアが閉められたのを確認すると、赤城は唐突に話し始めた。
その視線の先は、華音だ。
「君の家のことについて、いろいろと調べさせてもらったよ」
意外な言葉だった。緊張が一気に高まる。
「別に詮索しようというわけではない。資金を提供するに当たって必要なことを知りたかっただけだ。悪く思わないでくれ」
赤城はどこまでも強気な態度を崩そうとしない。
「芹沢英輔と、君のお父さんにあたる一人息子の芹沢卓人の関係についてだが――卓人は二十歳のとき、勘当同然に芹沢家を出ている。当時在学していた音大を勝手に中退してしまったことが原因らしいのだが、それには大きな理由があって、当時お付き合いしていた女性との間に子供ができたため、ということだ」
華音の祖母が生前に言っていた言葉を、華音は思い出した。
父親は『大学中退して、カケオチ同然に家を出た不義理の息子』。
母親は『どこのウマの骨だか分からない、大切な一人息子をたぶらかした魔性の女』。
今まで、詳しく教えてもらったことはなかったが、赤城の説明にさほど驚く点はなかった。
逆に、素直に納得してしまうほど――。
華音が冷静に話を聞いているのを確認しながら、赤城はさらに続けた。
「芹沢卓人はその彼女と子供を養うために、音大を中退したのさ。そしてそのまま引っ越し先も告げず、その後は新しい街で小さな出版社に就職し、二十八歳のとき、交通事故により二人は死亡。幼い子供二人が残されてしまう」
一瞬、空白があった。
華音は自分の耳を疑った。
――衝撃的な、言葉。
「二人? いま二人って言った?」
華音は思わず赤城に聞き返した。
ありえない。
そのような話は、聞いたことがない。
動揺隠せぬ華音に対し、赤城は眉一つ動かさず、あくまで平然と説明を続ける。
「君が一歳のときに両親が事故死して、祖父母に引き取られたということだったね。ということは、芹沢卓人が大学を辞めたときの子供は、このとき八歳になっている」
華音は言葉を失った。
そんなの、嘘。
心臓の鼓動が、物凄い勢いで脳天まで響いている。
「つまり、君には兄さんか姉さんがいるはずだ」
容赦なく、赤城の言葉が降り注ぐ。
それまで黙って話を聞いていた鷹山が、ようやく雄弁な口を赤城に向かって開いた。
「今あなたがおっしゃった芹沢家の私的事情は、この交渉に何の関係があるというんです? いたずらに彼女を動揺させるようなことは、まったくもって感心できませんね」
「彼女はまだ未成年だ。できることなら、その成人しているであろう華音さんの兄姉に、芹沢英輔の財産管理を引き受けてもらえると、話を進めるのが楽だと思うのだが?」
赤城は強硬な態度を、決して崩そうとしない。
高野はそんな同級生の発言に途惑い気味だ。
「麗児君、そんな無茶な……」
「無茶なものか。優秀な調査員を雇えば造作もないことだ」
赤城の言葉に、鷹山は首を横に振り、鋭く反論する。
「彼女が希望してるならまだしも、あなたが勝手に調べることではないでしょう。余計な詮索もいいところですよ」
「事実をはっきりさせることが、そんなに罪なことか? 何か困るわけでも? 調査費用を彼女に請求するわけではないのだから、そこまで目くじらを立てないでいただきたいが――」
分からない。
いったい何が正しくて何が正しくないのか、まるで分からない。
目の前の大人たちが話す言葉が、華音にはまるで理解できなかった。
「私は……お父さんもお母さんも、もちろん兄弟のことも、まったく憶えてない。知らない、そんなの」
赤城、鷹山、高野、三人の大人の視線が、いっせいに華音の顔へ注がれた。
先ほどまで言葉を失っていた反動であるのか、あふれる思いがどんどん口をついて出てくる。
「物心ついたときには、そばに祥ちゃんがいた。いつもそばにいてくれた。高野先生は暇さえあればしょっちゅうやってきて、ピアノ弾いて遊んでくれた。ドライブや遊園地に連れていってくれるのも高野先生だった。血の繋がっているおじいちゃんよりも安らげる場所なの。……いまさら捜してどうするの? 十五年も経ってるんだよ? もしその兄弟が今もどこかで生きているとしたらもう大人になってるよね。もしかしたら結婚だってしてるかもしれない。子供だっているかもしれない。それをいまさら、お祖父ちゃんが死んだから、芹沢の名を継げといったって、それは無理な話じゃないの?」
そこまで一気に言ってしまうと、華音の脳裏に富士川の顔が浮かんできた。
眼鏡の奥の優しい切れ長の瞳。知的な立ち居振る舞い。抱き締めてくれるその胸の温もり。
『華音ちゃんが俺を必要とする間は、……ずっとそばにいるから』
――嘘つき。
「それに、そんなの……」
華音は目の前に座る三人の男の顔を、順番に見据えた。
「血が繋がっているだけの、ただの他人でしょ」
何をいまさら。
誰も富士川の代わりになど、なれるはずがないのだから。
「楽団なんて、どうにでもなってしまえばいい」
この言葉が、華音の気持ちのすべてだった。
買収交渉は何の進展もないまま、終了した。
日を改めてもう一度話し合いを持ちたいと、赤城という男は申し入れてきた。しかし、華音の精神状態を考えて、高野は保留することを提案した。
鷹山は今日北海道から戻ったその足で、成田空港からウィーンへ向けて出発する予定だった。
しかし、この混乱した状況を収拾するために、三日間の滞在延長を決めた。そしてその三日間は――なんと芹沢家に宿泊することになったのである。
その理由は、実に単純なことだった。
もうじきウィーンで演奏会を控えているという彼には、ヴァイオリンの練習場所が必要だったのである。
いくら防音が施されているとはいえ、音響も悪く乾燥もひどいホテルの部屋の中で、弦を鳴らすのはためらわれることだろう。しかし、ここ芹沢邸は練習用の部屋が完備されている。
芹沢邸の練習室は、祖父が楽団員たちを呼んで個人レッスンをしたり、また富士川が居候していた頃は毎日ヴァイオリンの研鑽を積んでいた場所でもある。
鷹山がヴァイオリンの練習のために、この芹沢家に――華音は不安とも途惑いともつかぬ、複雑な思いに駆られていた。
富士川のいなくなったこの家に、富士川を追い出した男が滞在するのである。
いったいどのような態度をとるべきなのか、華音はひたすら迷っていた。
どんな不敬不遜な態度をとろうとも、祖父の弟子だというのであれば、その立場は一番弟子の富士川と一緒だ。この家に滞在するのは不思議なことではないのである。
むしろ、当初鷹山がウィーンからやってきたときのように、わざわざホテルを予約するほうが不自然なことだった。
鷹山が滞在する間は、高野も楽器店の仕事が終わったら、芹沢邸に泊まり込むことになっていた。
しかし高野は、顧客との会食の約束が入ってしまったため遅くなる、と芹沢家の執事に連絡を入れてきたのである。
早く切り上げて芹沢邸にやってくるつもりらしかったが、酒席となればあの高野が予定通りに行動してくれるのか――過度な期待はできないだろう。
華音は一人で夕食をすませ、すぐに自分の部屋に引きこもった。そして明かりもつけず、暗闇の中でただじっと、勉強机に身を伏せていた。
誰もいなくなってしまった。
孤独。これが孤独というものなのだろうか。
闇に飲み込まれそうになる。
――祥ちゃん……。
遠くから、ヴァイオリンの調べが聞こえてくる。
芹沢邸の音楽練習室は、完全な防音の造りではなかった。ただでさえ敷地の広い洋館である。近所迷惑になる心配はない。
弾いているのは、鷹山だ。
華音は身を伏せたまま、その繊細な旋律を聴いていた。
すごい音だ。ときに激しく、そして繊細な至上の旋律――ツィゴイネル・ワイゼン。
ヴァイオリンが鳴いている。泣いている、のかもしれない。
祖父が死んだときも、富士川がここからいなくなったときも出てこなかった涙が、突然、こらえられずにあふれてきた。止まることのない涙がシャツの袖を濡らしていく。
この哀しくも美しいヴァイオリンの音色は、鷹山という男がただならぬ才能の持ち主であるということを、如実に現している。
――なぜだろう。こんなにも、悲しみに満ちあふれてる。
【あいつは、あれを持つ資格はないんだ】
華音は、涙に濡れたままの顔をゆっくりと上げた。
富士川があの演奏会の夜に控室で言っていたことを、ふと思い出したのである。
そう。今まさに鳴っているのは――。
――ストラディバリ……ウ……ス? これが?
祖父が現役時代に使用した『特別な楽器』なのだと、富士川は華音に説明していた。
一番弟子の富士川が受け継ぐことのなかったヴァイオリンが、今宵、この美しき調べとなって華音の耳へ届いている。
――そうよ、どうしてあの人が。
華音は自分の部屋を出て、旋律に引き寄せられるようにして薄暗い廊下を歩いていった。
古い洋館の床がときおり鈍い音をたて、辺りに響く。
そのまま螺旋階段を降り、気がつくと、応接室の手前にある音楽練習室兼客間の前までやって来ていた。
ヴァイオリンの調べが途切れた。
華音はただ黙ったまま、ドアの前に立ち尽くしていた。
「どなたですか?」
中から鷹山の声がした。気づかれている。
しばらくすると、目の前のドアが開いた。
鷹山は左手にヴァイオリンを携えたまま、不審げな面貌で華音を見つめている。練習の邪魔をされて気が立っているのか、何か用? と吐き捨てるように言った。
「……あなた、本当におじいちゃんの弟子なの?」
「どういう意味だよ、それ」
「あなたに……弟子を名乗る資格なんかない」
鷹山は華音の言葉に反応しなかった。小娘の戯言と割り切っているのだろう。
それでも華音は、なおも食い下がった。
「それはおじいちゃんの物なんでしょ。……返してよ」
「嫌だね」
鷹山は大きな目を瞬かせ、はっきりと嫌悪感をあらわにした。そしてそのまま華音に背を向けると、部屋の中へと戻っていく。
もう、後には引けないのだ。華音は鷹山の後を追うようにして、部屋の中へと入っていった。
怖かった。怖くて怖くてたまらなかった。しかし、もう抑えることのできない何かが、華音の心を支配していた。
富士川でさえ、この鷹山という男の容赦のない物言いに太刀打ちできないのだ。ましてや華音がかなう相手ではない。
歯をかみ締め唇をぎゅっと真一文字に結び、襲いくるであろう言葉の矢の嵐をひたすら待った。
「君は、僕からこのヴァイオリンをとって、どうするつもり?」
鷹山の心の奥底の触れてはいけない部分に、どうやら火をつけてしまったようだ。
もはや止めることなど不可能だ。その証拠に、鷹山の攻撃はいっそう激しさを増す。
「君はヴァイオリンをやらないんだろう? 大切に金庫にしまっておく? 馬鹿馬鹿しい! ストラディバリウスのような芸術品は弾かないでいるとすぐに音質が劣化してしまう。手入れを怠ってはならないんだよ。そもそも君は、僕がこの楽器を受け継いで、すでに十年もの間演奏活動をしてるってことを、ことごとくないがしろにしてるよね。何なんだよ、またあの男の入れ知恵か?」
怖い。鷹山の目が、怖い。
兄弟子の富士川に対する、並々ならぬ憎悪の心。
そしてその矛先は、富士川を慕う華音に対しても同様に向けられている。
「僕はね、『芹沢』の名を汚すような真似をする人間が、気に入らないんだよ」
「……祥ちゃんのことを言ってるの?」
「他に誰がいるというんだ」
富士川が、芹沢の名を汚す――などと。
鷹山の言っていることが、華音にはまったく理解できない。
「そして、『芹沢』の名を軽々しく口にする人間もね、気に入らない」
華音はあまりの恐怖心に思わず後ずさった。その場から逃げようと鷹山に背を向けると――強引に腕をつかまれ、引き止められてしまった。
振り向くと、そこには今にも飲み込まれそうな二つの大きな瞳。
「触らないで!」
振り解こうと必死に身体をよじる。しかし、そんな華音の抵抗も虚しく、鷹山は腕をつかんでいる手の力を緩めようとはしない。
もう、逃げられないのだ――華音は悟った。
間近に見える鷹山の綺麗な顔立ちが、なおのことその冷たさを際立たせている。
「すべて僕のせい? 英輔先生が死んだのも、富士川さんが芹響を退団したのも、楽団の経営が芳しくないのも」
「……祥ちゃんがいなくなったのは、あなたのせいでしょ?」
とうとう、思っていたことを口にしてしまった。
一気に緊張が高まる。
目をそらすことができない。蛇に睨まれた蛙の如く――。
「あの人には今の芹響を支える力はない。その言葉を撤回する気はないね。英輔先生のゴーストだけを追い求めて、周りが何も見えていない。今この楽団がどうあるべきか、これからどういう方向へ進むべきか……」
すでに喉はからからだった。華音はごくりと生唾を飲み込んだ。
鷹山の勢いはさらにエスカレートする。
「ただ英輔先生しか見えず、英輔先生の言うことだけが絶対で、英輔先生の言うことさえ聞いてりゃ間違いないだなんて、そんな他力本願な奴……人の命は永遠ではないんだ。出会いがあり、そして別れのときがいつか必ずやって来る。君だって心のどこかでは覚悟していただろう? それなのに英輔先生がいなくなったら、どうだ? ガタガタじゃないか! あれだけ英輔先生が積み上げてきたものを、一番弟子であるあの人が、こうも簡単に崩すとは……正直、思い切り失望したよ。僕ね、本当は葬式が終わったらすぐにウィーンへ戻るつもりだったんだよ」
一通り言いたいことをまくしたてると、鷹山はようやく落ち着きを取り戻し、華音の腕を放した。
「どうして君は、そんなにあの男にこだわるんだ?」
「あなたに――私の気持ちなんか分からない。分かるわけない」
自分にとって富士川祥という男が、どれほどの大きな存在であるかを。
この鷹山という男は、知るはずもないのだ。
「両親も兄弟もいない私にとって、祥ちゃんは、父親代わりで兄代わりだった。いつだって、いつだってそばにいてくれたのに――」
すると。
鷹山は何が可笑しいのか、嘲るように鼻で笑った。
「父親? 兄貴? ハッ、笑わせてくれるな。夢でも見てるんじゃないのか。本当の肉親なら、どんなことがあっても君を見捨てて逃げ出したりはしないさ」
この男は。どこまで無責任なことを。
華音は自分自身の感情を、もはや抑えることができなかった。
「何よ! あなたが、それを滅茶苦茶にしたんじゃない!」
華音は部屋を見回すと、手つかずのままワゴンに乗せられたままのディナーセットへ近寄った。
そして、おもむろに果物ナイフをつかみ――やり場のない怒りと悲しみが、涙となって華音の両目からあふれ、両頬を濡らしていく。
「なっ……?」
鷹山のかすかに震えるうめき声――華音はそれを、すぐそば耳元で聞いた。
「あ、あなた! 何をやってるの!」
突然、女の叫び声が、凄惨な修羅場に響き渡った。
部屋の入り口に立ち尽くしていたのは、藤堂あかりだった。
鷹山の両目は、これほどまでにないほど見開かれている。驚き動揺していることは、傍目から見ても明らかだ。
「君、どうしてこんなところに……」
あかりは昼間ここへ訪れたとき、鷹山と話をさせてほしいと華音に詰め寄っていた。芹沢邸に再びやってきたのは、そのためなのだろう。執事がここまで案内してこなかったところをみると、込み入った話をするためにそれを断ったに違いない。
「私はあなたとどうしても直接話がしたかったので……そんなことより」
あかりの続く言葉を遮るようにして、鷹山は必死の形相で叫んだ。
「いいか。今ここで見たことは絶対に他言無用だ! 特にあいつには……富士川さんには」
「何をふざけたことを。あなたの脅しにのるとでも思ってるんですか?」
「君もあの男を愛しているのなら――分かるだろう? 僕の言うことが」
――君『も』、あの男を。君『も』、愛しているのなら。
何てことを――してしまったのだろう。華音は自分のとった行動にただ愕然としていた。
鷹山の左腕を押さえていた右手の指の間から、深紅の液体があふれ流れ伝い、やがてストラディバリウスを染めていく。
この男が悪いのだ。自分から富士川を奪った、この男のせいなのだ。
みるみるうちに、ストラディバリウスに幾筋もの血痕がついていった。
華音は持っていたナイフを床に落とした。絨毯に音を吸い込まれて、派手な音はしない。
華音は鷹山の顔をまともに見ることができず、うつむきじっとしているのが精一杯だった。
「いい加減、覚悟を決めたらどうなんだ」
鷹山は痛みを表情には出さず、しっかりと華音の顔を正面にとらえた。刺された左腕を押さえながら、力強くそして諭すように華音に言う。
「昼間、君も言ってただろう? いまさら英輔先生のもう一人の孫を探してどうするんだって。だったら、君がこの芹沢の名前をもって、楽団の運命を背負っていくんだ。――あの男はそれを放棄したんだからな」
あかりの表情が変わった。何やら込み入った芹沢家の事情と、華音が背負わなければならない宿命の重さを知り、途端に同情する素振りを見せる。
あかりはゆっくりと試すように聞いた。
「あなたが、芹沢先生の後を引き受ける――ということなの?」
「それは……僕が決めることじゃない」
鷹山の発言は、肯定も同然だった。
しかし、誰よりも富士川のことを尊敬しているあかりに、それをはっきり言うのはためらわれるのか、鷹山は柄にもなく言葉を濁した。
曖昧に言ってみたところで、富士川がいなくなったあと、この藤堂あかりのとる道は想像に難くないのであるが――。
「あなたがもし、芹響の音楽監督になるというのなら」
あかりは鷹山を鋭く睨みつけた。
「――私は、残ります」
あかりの口から次に出てきた言葉は、意外なものだった。
華音は驚き、うつむいていた顔を思わず上げた。
もっと驚いていたのは鷹山だった。柄にもなく、唖然とした表情を見せている。
「あなたの好き勝手には、させたくありませんから。今夜のことは『貸し』ですので」
鷹山とあかりの間に流れる奇妙な空気――。二人は不退転の領域に足を踏み入れてしまったことに、お互いが気づいていた。
華音をめぐってこれから繰り広げられるであろう、修羅の道――ここから先は、決して後戻りはできない。
「すまないが、彼女を……連れていってくれないか。頼む」
「――ええ」
あかりに促されるようにして、華音が音楽練習室から出ようとしたとき、鷹山は言った。
「別にこの家を乗っ取ろうと企んだわけじゃないし、君を困らせようとしてるわけでもない」
驚くほど、柔らかな口調だ。
華音が振り返ると、彼は背を向けて、床に落ちた果物ナイフを拾い上げているところだった。
「だからそんなに嫌わないでくれ。――好きじゃなくていいから」
そう言って鷹山は、血に染まったヴァイオリンとナイフを、テーブルの上にそっと並べるようにして置いた。