宿命の章 (7) 芹沢家の秘密
藤堂あかりに付き添われ、華音はようやく自分の部屋まで戻ってきた。
ただ呆然と立ち尽くしている華音を、あかりは半ば強引にベッドに腰かけさせる。
「今、高野先生に連絡をとりますから――」
「駄目。誰にも言わないでください」
あかりの言葉を遮るようにして、華音は叫んだ。
自分のしてしまったこと、そしてそれを周りの人間に知られてしまうことへの恐怖に怯え、身体の内側から震え出す。震えを抑えようと何度も深呼吸するも、収まる気配はない。
あかりはそっと華音の肩に手を置いた。ふわりと、神秘的な麝香の香りが漂う。
「あなたがあの男にしたことは、誰にも言いません。でも……このまま、あなたを一人にして帰れませんから。私では、富士川さんの代わりはつとまりませんけれど」
このような状況において、出して欲しくなかった大切な人の名前を、あかりは口にした。
「高野先生がお戻りになるまで――ここにいます」
お互いの心の内を探りあうような危うい沈黙が、二人の間に流れる。
一人にして欲しい、そう言うこともできた。
しかし――。
あの二番弟子がこの芹沢邸にいる限り、心の平安がもたらされることはない。
一人きりでいるのは、とても耐えられそうになかった。
華音が申し出を拒まずじっとしていると、あかりは安堵のため息をついた。そして、華音の隣に並ぶようにして、ゆっくりとベッドに腰かける。
こうやって自分の部屋であかりと一緒にいることに、華音はひどく違和感を覚えた。
あかりは、富士川のそばにいる華音をいつも冷たい眼差しであしらうばかりの、怜悧な美貌のヴァイオリニストである。華音の中における彼女のイメージは、決して良いものとはいえない。
しかし。
今夜引き起こされた出来事が、二人の距離をわずかに縮めることとなった。
二人の心の奥底に流れる、誰も踏み込むことのできない領域が、鷹山という男を通して共鳴しあったのである。
うねり狂う負の感情と、その感情に隠れる一筋の光――。
「悔しいですけれど、私は……あの男と同じ考えなのかもしれません」
長い沈黙を破り、あかりは自分自身の気持ちを確かめるようにして、その思いを口にし始めた。
「富士川さんには、辞めるという選択肢を簡単に選んで欲しくなかった――たとえそれが、あの男の存在のせいだとしても」
きっと、あかりの言うとおりなのだろう。華音はそう思った。
鷹山の慇懃無礼な振る舞いは、決して許せるものではない。しかし、彼の楽団に対する思いの深さは、並大抵のものではない。
それは、分からなくもないのだが――。
「富士川さんは、何でも一人で抱え込んで、悩んで、考えて、勝手に決めて……残される人たちの身にもなって欲しい」
あかりの声がわずかに震えている。
残されてしまった人――それは、当然あかり自身のことであり、大勢の楽団員たちのことでもあり、そして、そばに座っている華音へと向けられた言葉だった。
「だから、ショックだったんです。……今夜のことだって、富士川さんが残っていてくれたらきっと、起こり得なかったことですもの」
華音は思わず、あかりの顔を食い入るように見つめた。
あかりは、すべてに気づいているのだろうか――華音にそれを確かめる術はない。
「昼間あなたに、『富士川さんは自由を手にいれた』と言いましたけど……そんなのきっと、あの人にとっては虚しいだけです。いつか富士川さんご自身もそのことに気づかれると思います。だって、富士川さんは芹響になくてはならない人だもの」
真っ直ぐな想いが、よどみなくあふれ出す。
あかりは、嘘やごまかしのないその真摯な眼差しを、しっかりと華音に向けた。
「だからお願い、華音さん」
あかりは華音のほうを向くようにして、ベッドに浅く腰かけ直した。
「芹響を……私たちの楽団を残して」
――そんなことを、言われても。
「藤堂さん……でも、私は」
「お願い、なくさないで。あの人の帰る場所を」
あかりの懇願するような眼差しに、華音はひどく動揺した。
突如、頭の中をめぐる既視感。
記憶の断片が、少しずつ組み合わされていく。
【僕だって他の団員たちと同じように――】
そう、あのときと同じ。
悪魔の二番弟子が、華音を怒鳴りつけたあとに口にした、迷いのない言葉がふと、思い出される。
【この楽団をなくしたくない、と思っている】
あかりと鷹山の顔が重なって見える。
同じ眼差しだ。
【でもそれを、富士川さんが言い出すのでは駄目なんだ】
あの男の声がこだまする。
どうして。
分からない。
【『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ】
私たちの、楽団を。あの人の帰る場所を。
お願いだから――。
東の空から太陽が昇り、いつもと同じように朝がやってきた。
華音は神経が高ぶってなかなか寝つけずにいた。明け方近くまでずっとベッドの中で起きていたせいか、目覚めはすこぶる悪い。
体調がすぐれない。とにかく身体中が、だるくてだるくて仕方がないのである。
祖父が亡くなってから、華音はずっと学校を休んでいた。
祖父母の忌引は、校則で三日と決められている。しかし華音の場合、祖父が唯一の身内であるという特殊な状況を考慮され、身辺の整理がつくまで休むことを許可されていた。
学校を休みだしてから、かれこれ一週間あまり経っている。
とりあえず今日から普通に登校することを、高野には伝えてあった。しかし、あまりの体調の悪さに、華音は学校に行く気を失くしてしまった。
高野に事情を話すべく、高野が泊まっている芹沢家二階の客間を訪れた。
しかし。
昨夜遅く帰ってきたはずの高野の姿は、客間にはすでになかった。どうやら早々に外出してしまったらしい。
華音は困ってしまった。
このまま家にいて、鷹山と遭遇することだけは絶対に避けたかった。昨日の今日だ。合わせる顔がない。
華音は一人部屋に戻り、だるさと闘いながらのろのろと制服に身を包むと、耳をすませながら慎重に廊下を進んだ。
階段を降り、昨夜の惨劇のあった鷹山の客間のある廊下を、おそるおそる覗き見る。
幸いにも、そこに人の気配はなかった。
華音はその場から逃げるようにして家を出ると、高校へと向かって重い足を引きずるようにして歩き始めた。
どうも落ち着かない。このままで本当にいいのだろうか。
祖父は死に、富士川は華音のそばからいなくなってしまった。
――あの男。あの男が現れなかったら……いや、それは違う。
昨夜一晩頭を冷やし、華音はいろいろなことを考えた。
たとえ鷹山という男が現れなかったとしても、富士川が祖父の後継者として、楽団を率いていくことができたかどうかは分からない。
何の問題もなく、上手くやっていけたかもしれない。
失敗挫折の末に、楽団解散となったかもしれない。
師の存在が大きすぎて押しつぶされそうだと、感情に任せて鷹山にくってかかった富士川の姿は、いまだ華音の記憶に新しい。
いずれにしても、富士川がそのどちらの選択肢も選ばずに去ってしまった今――それらは訪れることのない未来の話となってしまった。
【お願い、なくさないで。あの人の帰る場所を】
いったい、自分に何ができるというのだろうか。
自分がしなければならないこととは、何だというのだろうか。
【『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ】
幾度となく反芻しつづける鷹山の言葉が、華音の胸にとどめを刺した。
華音は心を決め、ゆっくりと立ち止まる。そして、その場で大きく息を吸い込むと、最寄りの駅へと向きを変えた。
電車で四つ目の駅のすぐそばに、その目的地はあった。
赤城エンタープライズ本社ビル。昨日訪れたばかりの建物である。
高野や鷹山と一緒だった昨日とは違い、今日は一人きりだ。しかも平日の午前に、学校の制服姿で、である。
明らかに異質だ。
「社長はただいま来客中です」
淡々とした受付社員の言葉に、華音は途方に暮れてしまった。
アポもとらずにここまで来てしまったのだから、当然のことである。
しかし幸運なことに、受付の社員は華音の顔を覚えていたようだった。
「少し、お待ちいただけますか?」
そう言って、すばやく内線をコールし、二言三言、言葉を交わす。すると、驚くほどすんなり通されてしまった。
実のところ、これが正しい行動であるのか、華音にはよく分からなかった。
今、社長の赤城は来客中だということだった。はたして大丈夫なのか――すぐに追い返されることも充分ありえるだろう。
華音は不安に駆られながら、エレベーターで最上階まで上がった。するとエレベーターの前で、すでに秘書の女性が華音を待ちうけていた。
華音はそのまま女性秘書に促されるようにして、社長室へと案内された。
ドアを軽くノックすると、中から『どうぞ』と低くはりのある声で返事があった。
おそるおそるドアを開けると、そこにいたのは――なんと。
「高野先生? お客って、高野先生のことだったの?」
華音が驚くのも無理はないことだった。自堕落な高野にしては珍しく、朝早くから活動していると思ったら、こんなところに――。
「あ、ノン君。学校サボったの? こらこら」
赤城は応接セットの奥の、一人掛けの椅子に座っていた。三人掛けの端、赤城寄りの席に高野は座っている。
赤城は、高野の向かい側の席を華音に勧めた。
華音が座るのを待って、赤城は挨拶も交わすとこなく、おもむろに尋ねてくる。
「さて、どうしたのかな。学校をサボってまで私に話したいこととは、いったい何だ?」
しばし沈黙があった。
それでも華音が話し出すまで、二人の大人はじっと待っている。
言うしかないのだ。
華音はゆっくりと息を吸った。自分でも驚くほど落ち着いている。
――言える。今なら言える。
華音は赤城のほうへ向き直った。そしてしっかりと目を合わせ、胸の内の言葉を迷いなく紡ぎ出す。
「おじいちゃんのものだった楽団を、『芹沢交響楽団』として残したいんです」
華音の言葉を聞いて、高野の表情が一変した。だらりとした空気が、にわかに緊張感を帯びる。
「の、ノン君それって……」
高野は、華音と赤城の顔を交互に見つめ、じっと成り行きを見守っている。
「この私に、ただのスポンサーに成り下がれと?」
赤城は眉をひそませ、小娘相手に容赦なく凄みをきかせた。
しかし、華音は不思議と怖くはなかった。むしろ、昨夜の鷹山の迫力のほうが、数段上だ。この程度でひるむことはない。
「私は、楽団を売るとか買うとか難しいことは分かりません。売ったらどうなるかとか、この先楽団がどうなっていくかなんてまったく想像つかないけど」
華音は一晩中考えていたことを、すべて赤城という男にぶつけた。
いま自分が考えることのできる、最上の在り方を。
「オーケストラは指揮者だけじゃない。もっともっとたくさんの楽団員たちがいるんです。おじいちゃんを慕って入団してきた人ばかりなんです。お客さんだってそう。『芹沢』の名前を、そして音楽を愛してくれている人たちがたくさんたくさん、いる」
芹沢の名のもとに集まる、多くの人々の思いのために。
そして。
かけがえのない大切な人がいつか帰る場所を、どんなことがあっても守り抜きたい。
誰よりも芹沢の名を愛する、一番弟子のために――。
華音は残る思いをすべて込め、赤城に懇願するように言った。
「だから私たちに、あなたの力を貸してください」
赤城はしばらくじっとしたまま、何かを考え込んでいる。
昨日この場所で、華音は言ったのだ。
――楽団なんてどうにでもなってしまえばいい、と。
それが今。
その変貌ぶりに赤城は驚いたようだ。興味深げに華音の顔を見つめている。
「……君はまだ子供だな。確かにそれは君の弱点だ。しかし、同時に武器でもある」
「武器……ですか?」
「そう、何も知らないお嬢さんだが、その純粋な思いが逆に人々の心を動かすということもあるんだと、知っておくといい」
赤城は口の端を上げ、不敵な笑みを見せた。
「あ……ひょっとして麗児君」
高野は二人のやり取りを聞いて、同級生の大男のこの先とるであろう行動が予想できたらしい。昔から、持ち前の気質は変わっていないのであろう。
ときに強引。ときに冷血。そして、ときに粋な計らいをする、戦国武将のような男だ。
華音の『純粋な思い』が、どうやら赤城の『粋』な部分を触発したらしい。
そして、赤城の口から出た言葉は――。
「君が『芹沢交響楽団』として残したいというのであれば、その心意気を尊重しよう」
事実上、ここで赤城エンタープライズと芹沢交響楽団との契約は成立した。
「あの二人の弟子のことは、今しがた和久からいろいろと聞いたよ」
赤城は傍らに腰かける高野を一瞬だけ見た。
溌剌とした物言いの赤城とは対照的に、なぜか高野の表情は冴えない。
赤城と高野が朝早くからひそかに話し合っていたのは、二人の弟子たちのことらしい。
「どちらかを選ばなければならない、ということがそもそも間違っている。どちらかを選ぶということが自分を苦しめているのなら、どちらも選ばないまたはどちらも選ぶという選択肢もある。ただ、それには多大な労力を要するかもしれないが……」
赤城の説明は、華音には難しかった。言いたいことは何となく理解できるのだが、具体的な例えがないと、なかなか話についていくことができない。
華音は素直に聞き返した。
「私はどうしたらいいんですか?」
「それは自分で考えることだ。ただ私が言いたいのは、どんなことでも、選択肢が必ず複数存在するということだ。たとえ今は一本の道しか見えなくても、その先に広がる世界は無限大だ」
そう言って赤城は、華音に向けて空中に無限大のマークを書いてみせた。
赤城は理論的かつ合理的な物事の考え方ができる人間であるらしい。向上心にあふれ、とにかく前向きだ。
芸術を愛する楽団の人間には、決して見られないタイプだ。
「もっと簡単に言おうか。君は今、どちらか片方を選ぶということができないでいる。であるなら、君はどちらも選ばずに、私にすべての運営権を委ねればいい。あとは私が一流の指揮者と優秀なプレイヤーを引き抜いて、新しい団体として生まれ変わる」
「そんなの、イヤ」
華音が首を横に振って否定すると、それを予想していたかのように、赤城は笑顔で頷いてみせる。
「ではもうひとつ。それは――どちらも選ぶことだ」
華音は驚いた。そんなこと、考えもつかなかった。
まさに一刀両断。のし上がった男の言葉には力がある。
赤城はさらに表情を緩め、ソファの肘掛に置かれた華音の手の上に自分の手を重ね、しっかりとつかんだ。
「自らの意思を持って引き寄せたらいい。君が、君自身の手で、二人の頑固な弟子たちをね。それができるのは、たぶん――君だけだろう」
君自身の手で。
そう言って、赤城は華音の手をさらに強く握り締めた。
「まあ、今すぐにとはいかないかもしれないが、できることから始めるのは悪くない」
今、できること。
一番弟子の富士川が去ってしまった芹響を、率いていくことのできるもう一人の弟子。
「鷹山さんに――おじいちゃんの跡を?」
赤城はその言葉を待っていたようだった。
すでに赤城の中ではいくつかのシミュレーションができていて、その最善策ともいえるルートを華音が選ぼうとしていることを、見逃さなかった。
赤城は、ためらうことなく言う。
「むしろ彼が跡を継ぐのが、自然なことだろうからね」
「止めろよ、麗児君!」
高野が珍しく大きな声を出した。
芹沢英輔が十五年もの間、隠しつづけてきた秘密――。
「……止めろ?」
赤城は人に命令されるのが心底嫌いらしい。眉をひそめ、挑戦的な鋭い眼差しを高野に向けている。
その勢いに押され、高野はしどろもどろになりながら、すがるように言った。
「あ、いや……止めてくれないか。今はまだ」
「お前はどうしてそんなに甘いんだ。じゃあ、いつならいいんだ。いつかその日が来るのをじっと待つ? そんなの私の主義ではない」
赤城はおもむろに立ち上がり自分のデスクへ向かった。サイドキャビネットの一番上の引き出しを開け、そこから大きな白い封筒を取り出す。
「れ、麗児君、待ってくれ――」
赤城は高野の懇願にもはや耳を貸さず、ためらうことなくその封筒の中に手を差し入れた。
「君の母親の写真だ。十五年前、君の父親とともに事故で亡くなった、芹沢鞠子さんだ。当時二十七歳、たおやかで美しい人だ」
赤城はもう一度ソファに戻り腰かけると、華音のほうへその写真を差し出した。
そこに写った一人の若い女性――。
「……嘘」
これが真実なのだ。
すべてを物語っている。
自分たちのよく知る男に、そっくりだった。大きな瞳、長い睫、透き通るようなきめこまやかな肌に、栗色の髪。
もう一人の、兄もしくは姉の存在――。
「おそらく、……いや確実に、君の『お兄さん』は母親似、ということだな」
赤城がとどめを刺すように言った。
高野はもうどうしてよいのか分からず、ただ困惑の表情を浮かべるばかり。
「嘘だよ、そんなの……だって、あの人は」
よみがえる鮮血の記憶は、いまだ生々しく脳裏に焼きついている。
ただ呆然と立ち尽くしている華音を、あかりは半ば強引にベッドに腰かけさせる。
「今、高野先生に連絡をとりますから――」
「駄目。誰にも言わないでください」
あかりの言葉を遮るようにして、華音は叫んだ。
自分のしてしまったこと、そしてそれを周りの人間に知られてしまうことへの恐怖に怯え、身体の内側から震え出す。震えを抑えようと何度も深呼吸するも、収まる気配はない。
あかりはそっと華音の肩に手を置いた。ふわりと、神秘的な麝香の香りが漂う。
「あなたがあの男にしたことは、誰にも言いません。でも……このまま、あなたを一人にして帰れませんから。私では、富士川さんの代わりはつとまりませんけれど」
このような状況において、出して欲しくなかった大切な人の名前を、あかりは口にした。
「高野先生がお戻りになるまで――ここにいます」
お互いの心の内を探りあうような危うい沈黙が、二人の間に流れる。
一人にして欲しい、そう言うこともできた。
しかし――。
あの二番弟子がこの芹沢邸にいる限り、心の平安がもたらされることはない。
一人きりでいるのは、とても耐えられそうになかった。
華音が申し出を拒まずじっとしていると、あかりは安堵のため息をついた。そして、華音の隣に並ぶようにして、ゆっくりとベッドに腰かける。
こうやって自分の部屋であかりと一緒にいることに、華音はひどく違和感を覚えた。
あかりは、富士川のそばにいる華音をいつも冷たい眼差しであしらうばかりの、怜悧な美貌のヴァイオリニストである。華音の中における彼女のイメージは、決して良いものとはいえない。
しかし。
今夜引き起こされた出来事が、二人の距離をわずかに縮めることとなった。
二人の心の奥底に流れる、誰も踏み込むことのできない領域が、鷹山という男を通して共鳴しあったのである。
うねり狂う負の感情と、その感情に隠れる一筋の光――。
「悔しいですけれど、私は……あの男と同じ考えなのかもしれません」
長い沈黙を破り、あかりは自分自身の気持ちを確かめるようにして、その思いを口にし始めた。
「富士川さんには、辞めるという選択肢を簡単に選んで欲しくなかった――たとえそれが、あの男の存在のせいだとしても」
きっと、あかりの言うとおりなのだろう。華音はそう思った。
鷹山の慇懃無礼な振る舞いは、決して許せるものではない。しかし、彼の楽団に対する思いの深さは、並大抵のものではない。
それは、分からなくもないのだが――。
「富士川さんは、何でも一人で抱え込んで、悩んで、考えて、勝手に決めて……残される人たちの身にもなって欲しい」
あかりの声がわずかに震えている。
残されてしまった人――それは、当然あかり自身のことであり、大勢の楽団員たちのことでもあり、そして、そばに座っている華音へと向けられた言葉だった。
「だから、ショックだったんです。……今夜のことだって、富士川さんが残っていてくれたらきっと、起こり得なかったことですもの」
華音は思わず、あかりの顔を食い入るように見つめた。
あかりは、すべてに気づいているのだろうか――華音にそれを確かめる術はない。
「昼間あなたに、『富士川さんは自由を手にいれた』と言いましたけど……そんなのきっと、あの人にとっては虚しいだけです。いつか富士川さんご自身もそのことに気づかれると思います。だって、富士川さんは芹響になくてはならない人だもの」
真っ直ぐな想いが、よどみなくあふれ出す。
あかりは、嘘やごまかしのないその真摯な眼差しを、しっかりと華音に向けた。
「だからお願い、華音さん」
あかりは華音のほうを向くようにして、ベッドに浅く腰かけ直した。
「芹響を……私たちの楽団を残して」
――そんなことを、言われても。
「藤堂さん……でも、私は」
「お願い、なくさないで。あの人の帰る場所を」
あかりの懇願するような眼差しに、華音はひどく動揺した。
突如、頭の中をめぐる既視感。
記憶の断片が、少しずつ組み合わされていく。
【僕だって他の団員たちと同じように――】
そう、あのときと同じ。
悪魔の二番弟子が、華音を怒鳴りつけたあとに口にした、迷いのない言葉がふと、思い出される。
【この楽団をなくしたくない、と思っている】
あかりと鷹山の顔が重なって見える。
同じ眼差しだ。
【でもそれを、富士川さんが言い出すのでは駄目なんだ】
あの男の声がこだまする。
どうして。
分からない。
【『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ】
私たちの、楽団を。あの人の帰る場所を。
お願いだから――。
東の空から太陽が昇り、いつもと同じように朝がやってきた。
華音は神経が高ぶってなかなか寝つけずにいた。明け方近くまでずっとベッドの中で起きていたせいか、目覚めはすこぶる悪い。
体調がすぐれない。とにかく身体中が、だるくてだるくて仕方がないのである。
祖父が亡くなってから、華音はずっと学校を休んでいた。
祖父母の忌引は、校則で三日と決められている。しかし華音の場合、祖父が唯一の身内であるという特殊な状況を考慮され、身辺の整理がつくまで休むことを許可されていた。
学校を休みだしてから、かれこれ一週間あまり経っている。
とりあえず今日から普通に登校することを、高野には伝えてあった。しかし、あまりの体調の悪さに、華音は学校に行く気を失くしてしまった。
高野に事情を話すべく、高野が泊まっている芹沢家二階の客間を訪れた。
しかし。
昨夜遅く帰ってきたはずの高野の姿は、客間にはすでになかった。どうやら早々に外出してしまったらしい。
華音は困ってしまった。
このまま家にいて、鷹山と遭遇することだけは絶対に避けたかった。昨日の今日だ。合わせる顔がない。
華音は一人部屋に戻り、だるさと闘いながらのろのろと制服に身を包むと、耳をすませながら慎重に廊下を進んだ。
階段を降り、昨夜の惨劇のあった鷹山の客間のある廊下を、おそるおそる覗き見る。
幸いにも、そこに人の気配はなかった。
華音はその場から逃げるようにして家を出ると、高校へと向かって重い足を引きずるようにして歩き始めた。
どうも落ち着かない。このままで本当にいいのだろうか。
祖父は死に、富士川は華音のそばからいなくなってしまった。
――あの男。あの男が現れなかったら……いや、それは違う。
昨夜一晩頭を冷やし、華音はいろいろなことを考えた。
たとえ鷹山という男が現れなかったとしても、富士川が祖父の後継者として、楽団を率いていくことができたかどうかは分からない。
何の問題もなく、上手くやっていけたかもしれない。
失敗挫折の末に、楽団解散となったかもしれない。
師の存在が大きすぎて押しつぶされそうだと、感情に任せて鷹山にくってかかった富士川の姿は、いまだ華音の記憶に新しい。
いずれにしても、富士川がそのどちらの選択肢も選ばずに去ってしまった今――それらは訪れることのない未来の話となってしまった。
【お願い、なくさないで。あの人の帰る場所を】
いったい、自分に何ができるというのだろうか。
自分がしなければならないこととは、何だというのだろうか。
【『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ】
幾度となく反芻しつづける鷹山の言葉が、華音の胸にとどめを刺した。
華音は心を決め、ゆっくりと立ち止まる。そして、その場で大きく息を吸い込むと、最寄りの駅へと向きを変えた。
電車で四つ目の駅のすぐそばに、その目的地はあった。
赤城エンタープライズ本社ビル。昨日訪れたばかりの建物である。
高野や鷹山と一緒だった昨日とは違い、今日は一人きりだ。しかも平日の午前に、学校の制服姿で、である。
明らかに異質だ。
「社長はただいま来客中です」
淡々とした受付社員の言葉に、華音は途方に暮れてしまった。
アポもとらずにここまで来てしまったのだから、当然のことである。
しかし幸運なことに、受付の社員は華音の顔を覚えていたようだった。
「少し、お待ちいただけますか?」
そう言って、すばやく内線をコールし、二言三言、言葉を交わす。すると、驚くほどすんなり通されてしまった。
実のところ、これが正しい行動であるのか、華音にはよく分からなかった。
今、社長の赤城は来客中だということだった。はたして大丈夫なのか――すぐに追い返されることも充分ありえるだろう。
華音は不安に駆られながら、エレベーターで最上階まで上がった。するとエレベーターの前で、すでに秘書の女性が華音を待ちうけていた。
華音はそのまま女性秘書に促されるようにして、社長室へと案内された。
ドアを軽くノックすると、中から『どうぞ』と低くはりのある声で返事があった。
おそるおそるドアを開けると、そこにいたのは――なんと。
「高野先生? お客って、高野先生のことだったの?」
華音が驚くのも無理はないことだった。自堕落な高野にしては珍しく、朝早くから活動していると思ったら、こんなところに――。
「あ、ノン君。学校サボったの? こらこら」
赤城は応接セットの奥の、一人掛けの椅子に座っていた。三人掛けの端、赤城寄りの席に高野は座っている。
赤城は、高野の向かい側の席を華音に勧めた。
華音が座るのを待って、赤城は挨拶も交わすとこなく、おもむろに尋ねてくる。
「さて、どうしたのかな。学校をサボってまで私に話したいこととは、いったい何だ?」
しばし沈黙があった。
それでも華音が話し出すまで、二人の大人はじっと待っている。
言うしかないのだ。
華音はゆっくりと息を吸った。自分でも驚くほど落ち着いている。
――言える。今なら言える。
華音は赤城のほうへ向き直った。そしてしっかりと目を合わせ、胸の内の言葉を迷いなく紡ぎ出す。
「おじいちゃんのものだった楽団を、『芹沢交響楽団』として残したいんです」
華音の言葉を聞いて、高野の表情が一変した。だらりとした空気が、にわかに緊張感を帯びる。
「の、ノン君それって……」
高野は、華音と赤城の顔を交互に見つめ、じっと成り行きを見守っている。
「この私に、ただのスポンサーに成り下がれと?」
赤城は眉をひそませ、小娘相手に容赦なく凄みをきかせた。
しかし、華音は不思議と怖くはなかった。むしろ、昨夜の鷹山の迫力のほうが、数段上だ。この程度でひるむことはない。
「私は、楽団を売るとか買うとか難しいことは分かりません。売ったらどうなるかとか、この先楽団がどうなっていくかなんてまったく想像つかないけど」
華音は一晩中考えていたことを、すべて赤城という男にぶつけた。
いま自分が考えることのできる、最上の在り方を。
「オーケストラは指揮者だけじゃない。もっともっとたくさんの楽団員たちがいるんです。おじいちゃんを慕って入団してきた人ばかりなんです。お客さんだってそう。『芹沢』の名前を、そして音楽を愛してくれている人たちがたくさんたくさん、いる」
芹沢の名のもとに集まる、多くの人々の思いのために。
そして。
かけがえのない大切な人がいつか帰る場所を、どんなことがあっても守り抜きたい。
誰よりも芹沢の名を愛する、一番弟子のために――。
華音は残る思いをすべて込め、赤城に懇願するように言った。
「だから私たちに、あなたの力を貸してください」
赤城はしばらくじっとしたまま、何かを考え込んでいる。
昨日この場所で、華音は言ったのだ。
――楽団なんてどうにでもなってしまえばいい、と。
それが今。
その変貌ぶりに赤城は驚いたようだ。興味深げに華音の顔を見つめている。
「……君はまだ子供だな。確かにそれは君の弱点だ。しかし、同時に武器でもある」
「武器……ですか?」
「そう、何も知らないお嬢さんだが、その純粋な思いが逆に人々の心を動かすということもあるんだと、知っておくといい」
赤城は口の端を上げ、不敵な笑みを見せた。
「あ……ひょっとして麗児君」
高野は二人のやり取りを聞いて、同級生の大男のこの先とるであろう行動が予想できたらしい。昔から、持ち前の気質は変わっていないのであろう。
ときに強引。ときに冷血。そして、ときに粋な計らいをする、戦国武将のような男だ。
華音の『純粋な思い』が、どうやら赤城の『粋』な部分を触発したらしい。
そして、赤城の口から出た言葉は――。
「君が『芹沢交響楽団』として残したいというのであれば、その心意気を尊重しよう」
事実上、ここで赤城エンタープライズと芹沢交響楽団との契約は成立した。
「あの二人の弟子のことは、今しがた和久からいろいろと聞いたよ」
赤城は傍らに腰かける高野を一瞬だけ見た。
溌剌とした物言いの赤城とは対照的に、なぜか高野の表情は冴えない。
赤城と高野が朝早くからひそかに話し合っていたのは、二人の弟子たちのことらしい。
「どちらかを選ばなければならない、ということがそもそも間違っている。どちらかを選ぶということが自分を苦しめているのなら、どちらも選ばないまたはどちらも選ぶという選択肢もある。ただ、それには多大な労力を要するかもしれないが……」
赤城の説明は、華音には難しかった。言いたいことは何となく理解できるのだが、具体的な例えがないと、なかなか話についていくことができない。
華音は素直に聞き返した。
「私はどうしたらいいんですか?」
「それは自分で考えることだ。ただ私が言いたいのは、どんなことでも、選択肢が必ず複数存在するということだ。たとえ今は一本の道しか見えなくても、その先に広がる世界は無限大だ」
そう言って赤城は、華音に向けて空中に無限大のマークを書いてみせた。
赤城は理論的かつ合理的な物事の考え方ができる人間であるらしい。向上心にあふれ、とにかく前向きだ。
芸術を愛する楽団の人間には、決して見られないタイプだ。
「もっと簡単に言おうか。君は今、どちらか片方を選ぶということができないでいる。であるなら、君はどちらも選ばずに、私にすべての運営権を委ねればいい。あとは私が一流の指揮者と優秀なプレイヤーを引き抜いて、新しい団体として生まれ変わる」
「そんなの、イヤ」
華音が首を横に振って否定すると、それを予想していたかのように、赤城は笑顔で頷いてみせる。
「ではもうひとつ。それは――どちらも選ぶことだ」
華音は驚いた。そんなこと、考えもつかなかった。
まさに一刀両断。のし上がった男の言葉には力がある。
赤城はさらに表情を緩め、ソファの肘掛に置かれた華音の手の上に自分の手を重ね、しっかりとつかんだ。
「自らの意思を持って引き寄せたらいい。君が、君自身の手で、二人の頑固な弟子たちをね。それができるのは、たぶん――君だけだろう」
君自身の手で。
そう言って、赤城は華音の手をさらに強く握り締めた。
「まあ、今すぐにとはいかないかもしれないが、できることから始めるのは悪くない」
今、できること。
一番弟子の富士川が去ってしまった芹響を、率いていくことのできるもう一人の弟子。
「鷹山さんに――おじいちゃんの跡を?」
赤城はその言葉を待っていたようだった。
すでに赤城の中ではいくつかのシミュレーションができていて、その最善策ともいえるルートを華音が選ぼうとしていることを、見逃さなかった。
赤城は、ためらうことなく言う。
「むしろ彼が跡を継ぐのが、自然なことだろうからね」
「止めろよ、麗児君!」
高野が珍しく大きな声を出した。
芹沢英輔が十五年もの間、隠しつづけてきた秘密――。
「……止めろ?」
赤城は人に命令されるのが心底嫌いらしい。眉をひそめ、挑戦的な鋭い眼差しを高野に向けている。
その勢いに押され、高野はしどろもどろになりながら、すがるように言った。
「あ、いや……止めてくれないか。今はまだ」
「お前はどうしてそんなに甘いんだ。じゃあ、いつならいいんだ。いつかその日が来るのをじっと待つ? そんなの私の主義ではない」
赤城はおもむろに立ち上がり自分のデスクへ向かった。サイドキャビネットの一番上の引き出しを開け、そこから大きな白い封筒を取り出す。
「れ、麗児君、待ってくれ――」
赤城は高野の懇願にもはや耳を貸さず、ためらうことなくその封筒の中に手を差し入れた。
「君の母親の写真だ。十五年前、君の父親とともに事故で亡くなった、芹沢鞠子さんだ。当時二十七歳、たおやかで美しい人だ」
赤城はもう一度ソファに戻り腰かけると、華音のほうへその写真を差し出した。
そこに写った一人の若い女性――。
「……嘘」
これが真実なのだ。
すべてを物語っている。
自分たちのよく知る男に、そっくりだった。大きな瞳、長い睫、透き通るようなきめこまやかな肌に、栗色の髪。
もう一人の、兄もしくは姉の存在――。
「おそらく、……いや確実に、君の『お兄さん』は母親似、ということだな」
赤城がとどめを刺すように言った。
高野はもうどうしてよいのか分からず、ただ困惑の表情を浮かべるばかり。
「嘘だよ、そんなの……だって、あの人は」
よみがえる鮮血の記憶は、いまだ生々しく脳裏に焼きついている。