宿命の章 (7.5)  在りし日の思い出 2

 ――九年前。

 過ぎ去りし日々の情景。
 すべてが琥珀色に染まっている。


 高野和久が、新婚の愛妻と生まれて三ヶ月になる娘を連れて、芹沢邸を訪れた。
 この家の主人は、あいにく別な来客の応対をしている。しかし、この芹沢家にとって、高野はすでに客であって客ではない。
 そのため、居候中の一番弟子の富士川祥が、主人である芹沢英輔老人に代わって、若き夫婦と赤ちゃんを出迎えた。
 柔らかなブランケットに包まれた新しき生命を覗き込み、富士川少年はひたすら感動し、驚喜の声を上げている。
「うわ、うわ、ちっちゃいなあ。女の子、なんですよね?」
 高野の妻は母性に満ちた微笑みを富士川へと向けた。
「そう、ワカナっていうの。和久の『和』に『奏でる』で、『和奏』。富士川君、抱っこしてみる?」
「ええ? あ、いいんですか? 緊張するなあ……」
「ずーるーいー。華音も赤ちゃん抱っこするのー」
 華音は富士川のシャツの袖を引っ張って、何とか覗き込もうと一生懸命に背伸びをしている。
「華音ちゃんにはまだ無理だよ。もうちょっとでお昼寝しそうだから、待ってて」
「そうだよなあ? ノン君が赤ちゃんだもんな。ほーら、抱っこしちゃうぞ?」
 高野は華音を横たえるようにして抱えた。そして、赤ん坊をあやすようにお尻を数回軽く叩く。
「きゃーっ、センセイのえっちー」
「そんなこと言うと、こちょこちょしちゃうぞ?」
「ヤダー、やめて、きゃはははは」
「ああっ、高野さん、華音ちゃんを落とさないでくださいね」
 高野の腕に抱え上げられている華音を、富士川は心配そうに見つめている。
 小学校に上がってからの華音は、成長が特に著しい。
 いつまでも幼児だと思って油断していると、いつの間にか自分の手に負えなくなっていることに気づかされたりする。
「やっぱり慣れてるのねえ、富士川君は。この子、泣かないもの。和久君が抱っこするとね、ぎゃーぎゃー泣き出すんだから」
 富士川は赤ん坊を上手にあやしながら、高野の妻の話に耳を傾けていた。
「でも不思議なの。和久君のピアノは好きみたいでね、子守唄代わりに聴かせると安心して眠れるみたい」
「胎教の成果が出てるだろ? 俺の英才教育のお陰だな」
 華音と遊びながらも、一応話は聞いていたらしい、高野は得意げに妻に語りかけた。
 すると。
 高野の妻はため息をつき、一変して恨めしそうな拗ねた表情で、夫に嫌味を放った。
「ただし、それだけなのよ。和久君ったら、一度も父親講習受けに行かなかったし」
「そんなこと言ったって、俺の仕事は時間の融通がきかないんだよ。行けたら行ってたさ」
「うそうそ、そんなはずない」
 すべて見抜いているらしい。確かに高野はピアノの調律師として働いているため、顧客の都合でちょうどよい休暇が取れないこともあるが――基本的に暇なことが多い。
 暇ができるとふらりと芹沢家に立ち寄って、富士川青年や華音とともに時間を過ごしているのだから。
「何なんですか、その父親講習って?」
「病院でね、妊婦を対象に、母親になるための勉強会みたいなのを開いてるの。その父親版、かな。ダンナさんたちを対象にして、月イチで日曜日にやってるんだけどね。お風呂の入れ方とか、オムツの替え方とか。初めての子供のときにはなるべく参加するようにって、病院から指導されるのよ」
 富士川にとって未知の世界の話である。子供がいるような年齢の友人もいない。
 父親になるための心構えを学ぶための講習。
 もし自分に子供ができたら、きっと受けに行くのに――富士川は、不思議そうに首を傾げた。
「高野さん、行かなかったんですか?」
「俺に子供の世話なんてさせようとするのが間違ってる」
 高野は悪びれずに言い切ってみせた。
 もちろん妻は食いつく。
「ほら、やっぱりそうなんじゃない。ふふふ。ねえ和奏ー、和奏のパパは自分のことで精一杯なんだってよー?」
 富士川の腕の中で、すでに眠り始めている愛娘に向かって、高野の妻はささやくように優しく話しかける。
「だから。……ピアノならいつでも弾いてやるから。それで勘弁してくれよ」
 もう何度も言われているのだろう。高野は華音を床に下ろし、深々とため息をついた。

 やがて完全に眠った赤ん坊を、富士川は起こさぬようにそっと、柔らかなソファの上に横たえた。
 華音はようやく自分の目の高さに赤ちゃんがやってきて、嬉しいような怖いような複雑な表情で、何度も富士川の顔と赤ちゃんの顔を見比べている。
「怖がらないで、華音ちゃん。そっと触れば大丈夫だから」
 華音は富士川に言われたとおり、小さな手を伸ばして、あくまでそっと、眠る赤ちゃんの頭をなで始めた。
 高野夫妻はその微笑ましい光景を見守りながら、向かい側の離れた席に並ぶように腰かけた。
 妻は楽しげに言う。
「富士川君、うちに手伝いに来てよ。大歓迎よ?」
「まあ……高野さんよりは、マシだと思いますけど」
 答えながら富士川は、華音を赤ん坊のところに残し、少し離れた上座の一人掛けのソファに腰かけた。立場的に上座はどうかと迷いを見せていたが、赤ん坊を起こさぬためにはそれが最善だと判断したらしい。
 高野は「自分よりはマシ」という評価を受け、不服そうにため息をついた。
「そんな、富士川ちゃんは最近までやってた経験者じゃないか。比べるのはおかしいでしょ」
「いやいや……僕がここに来たときはもう、華音ちゃん二歳でしたから。お風呂入れるのもラクチンだったし」
「えええっ!?」
 高野は素っ頓狂な声を上げた。
「ふ、富士川ちゃん、カノン君と一緒にお風呂入ってたの!? ……ひょっとして、今も?」
 予想外に過剰な反応を受け、富士川はにわかに動揺した。
 明らかに、非常識な人間を見るような眼差しを、高野はこちらへ向けている。
「な、何ですか、その人を蔑んだような目は! べ、べ、別に俺、変なこと一切、してませんよ!? 消去法でいったら、俺が一緒に入るのが一番自然だったんですから!!」
「いやいや…………負けたわ。大学二年の男が、小学校上がったばかりの少女と一緒に、風呂に……ね」
「ちゃんと腰にタオル巻いてますし! やましい気持ちなんてこれっぽっちもありませんから!」
 純朴な青年は、むきになって言い訳をする。あまりにも真面目すぎる姿勢が、逆に周囲には滑稽に映ってしまうことが、当の富士川には分かっていないらしい。
「和久君、最初から勝負になってないわよ。あははは」
 妻は、夫とその弟のような存在の少年とのやり取りを見て、楽しそうに笑った。

 華音は、そんな大人たちの戯言など、まったく耳に入っていないらしい。先ほどからずっと、赤ん坊に張りついたままである。
「ショウちゃん見て見て、目ゴシゴシしてる。赤ちゃんカワイイ」
 そう言って、華音はようやく無邪気な笑顔で振り返る。
「ホントだ、可愛いね」
 富士川は相槌をうちつつも、小さな生命を愛でている華音のその成長ぶりに、どこか感慨深げに微笑んでみせた。