宿命の章 (8)  波乱の幕開け

 華音が富士川のマンションを訪れるのはこれが二度目だった。
 一度目は、初めて引っ越すことになった七年前、華音がまだ小学三年生のときだった。
 富士川が芹沢家からいなくなることがあまりにも悲しくて、泣きじゃくりながらここまで高野に連れてこられた日を、昨日のことのように思い出す。

 涙なんか――もう、出てこない。
 泣いてどうにかなるのなら、とっくに泣いている。

 インターホンを鳴らして名前を告げると、すぐに目の前のドアは開かれた。
「どうしたの、華音ちゃん」
 富士川は突然現れた少女の姿を見て、驚いたような声を上げた。
 華音が富士川と顔を合わせるのはひと月ぶりだった。
 あの芹沢邸の、手入れの行き届いた英国式庭園の見える応接間で、芹沢交響楽団のコンサートマスターを辞め退団すると告げられて以来のことである。
 もう、そんなに長いこと会っていなかったのか――華音は富士川の驚く顔を見つめながらふと、そんなことを思った。
 いつもなら、長くてもせいぜい一週間、芹響が演奏旅行に出かけるときだけだった。
 帰ってくるなり「お帰りなさい」と叫んで、富士川に抱きついてみせるのが華音の決まりだった。
 しかし、今は。

 手をのばせば、触れることのできる距離にいるのに、――それは叶わない。

「祥ちゃん、どうしてるかと思って。特に用事があったわけじゃないんだけど」
「暑かっただろう。さあ、中へ」
 富士川はためらうことなく、すぐに華音を部屋の中へと招き入れた。

 必要最低限のものしかない、殺風景な部屋だ。
 オーディオシステムとCD等の音源が詰まったラックが一番大きなもので、あとはベッドが隅にあるだけだ。
 テレビもテーブルも、もちろん観葉植物といった類のものも見当たらない。しかし、掃除は充分行き届いていて、いかにも几帳面な富士川らしい部屋だ。
 華音は富士川のベッドに腰かけた。
 とても落ち着く。芹沢家に居候していたときにはよくこうやって、富士川の部屋に遊びに行っていた。
 懐かしい香り――だから、落ち着くのかもしれない。

 富士川は一続きになっているキッチンへ向かい、冷蔵庫から飲み物を取り出した。
「話は大体聞いたよ」
 小さな食器棚からグラスを二つ取り出しながら、富士川は華音に話しかける。
「誰に? 高野先生?」
「いや、藤堂が教えてくれた」
 富士川が意外な名前を口にした。
 自分の知らないところで、藤堂あかりは彼と何を話したというのだろうか。一気に緊張が高まる。
「――嘘。……藤堂さん、何て?」
 まさか。
 あのことを。
 麝香の香りを振りまく、魔性の女。

【あなたが『あの男』にしたことは言いません。】

 そんな華音の動揺にも、富士川はまるで気づかない。飲み物を用意しながら、いつものように落ち着いた口ぶりで淡々と言う。
「赤城エンタープライズとスポンサー契約を正式に結んで、楽団存続の方向へ進んでるって」
 富士川は、ウーロン茶の入ったガラスのコップを華音へ手渡した。
「俺、ジュースは飲まないから、そんなものしかないけど」
「お茶のほうがいい。のど、渇いちゃって」
 華音がグラスに口をつけると、富士川は隣に並ぶようにして腰を下ろした。ベッドがわずかに揺れる。

 何を話したらいいのか、分からない。
 ここまで富士川を訪ねてきたのは、きっと何かを受け止めて欲しかったからだ。
 しかし。
 このひと月という時間が、二人の間の共有できる部分を、確実に失わせてしまっていた。
 もう、芹響を退団した『元』コンサートマスターに。
 もうこの世にはいない、祖父の一番弟子『だった』男に。

 すべてが、過去形だ――。


【兄貴? ハッ、笑わせてくれるな。夢でも見てるんじゃないのか】

 ――やめて。

【本当の肉親なら、どんなことがあっても君を見捨てて逃げ出したりはしないさ】

 ――私を、見捨てて、逃げ出した?

 突然、脳裏に『あの男』の声がよみがえってきた。

 ようやく、富士川が重苦しい沈黙を破った。
「鷹山が、音楽監督になるんだって?」
 華音はグラスから口を離し、思わず息を飲んだ。
 まるで華音の考えを読み取ったかのように、富士川は二番弟子の『あの男』の名を口にした。
 決して隠し通せることではないと分かっていたが――富士川自身の口からはっきりと問われると、どういう反応をすればいいのか途惑ってしまう。
「そんな困ったような顔をしないで、華音ちゃん。別に俺は何とも思っちゃいないさ」
 その言葉に嘘はないようだ。負け惜しみのような卑屈さもない。富士川は華音が考えていた以上にあっさりとしている。
「名前は芹沢でも、中身はまるで別物だ」
 その富士川のひと言に、華音は胸が締めつけられる思いがした。
 別物。確かに、そうかもしれない。
 しかし、変わったのは音楽監督だけである。芹沢の名を慕う大勢の楽団員たちのために、芹響の名を残そうとした自分たちの気持ちは、いったい――。
「祥ちゃんは……芹響が残るのが嬉しくないの? もう、芹沢の名前はどうでもよくなってしまったの?」
 華音の言葉に、富士川は肯定も否定もしなかった。
「あの団体が、もう俺のことを必要としてないってことさ。だから、芹響がどうなろうと、俺には関係のないことだ。鷹山の好きにさせるさ。ウィーン仕込みの音楽が日本でどれだけ通用するものか――見ものだな」
 そこまで言うと、富士川は突然立ち上がり、造りつけのクローゼットの前まで歩いていった。
 取っ手に手をかけたところで、いったん華音のほうを振り返る。
「華音ちゃん、大黒芳樹って知ってるだろ? 芹沢先生が親しくしていた元ヴァイオリニストで、今は隣の市で先生と同じようにオケを指揮している……」
「何となくは分かる。告別式にも来てたよね」
 祖父の古くからの友人だ。芹沢英輔と同様、音楽界の巨匠と呼ばれる人物である。
「こいつをいつまでも眠らせておくわけにはいかないからね」
 富士川がおもむろにクローゼットを開くと、そこには華音も見慣れたヴァイオリンケースがあった。
 富士川が芹沢英輔の弟子となったときに与えられた、正真正銘のニコロ・アマティ――細工のすぐれた美しき名器である。
「俺が芹沢先生にいただいたすべてが、このアマティに詰まっているんだ」
 富士川の目は澄んでいた。残された芹響への思い入れはなくても、師である芹沢英輔への忠誠心はいまだ失われていないらしい。いや、むしろその強さは増しているようだ。
 それが分かっただけで、もう――華音は充分だった。
 
 富士川は再び華音の隣へ腰を下ろした。そして、飲みかけのグラスを華音の手から取り上げると、それを静かに床の上に置く。
 華音はその富士川の行動をただ見守っていた。
 次の瞬間。不意に身体が浮くような感覚がしたかと思うと、そのまま何かに引き寄せられた。
 気づくと、華音は富士川の膝上に抱え上げられるようにして、彼の胸の中にしっかりと収まっていた。
 いつになく強引な富士川の行動に、華音は驚きを隠しきれずにいた。しかし、抗うことなく、そのまま彼の胸に身を預けた。
 別れの抱擁よりも、ずっとずっと力強い――幼い頃からこうやって何度も抱き締められてきたが、今日はいつもと勝手が違った。
 ひと月ぶりのせいなのか――それとも。
 華音の身体の内側が、震えている。
 こんなにも富士川の存在をはっきりと認識したのは、初めてだった。
「華音ちゃんが俺に会いにここまできてくれて――嬉しかった」
「迷惑じゃなかった? 藤堂さんは」
 思わず口をついて出た本音に、富士川は抱き締める腕の力を緩めることなく、言った。
「藤堂は電話をくれるだけだよ。第一、ここは他人を入れるようなところじゃないさ」
 他人を入れるところでは、ない――。
 そう、自分は他人じゃ、ない。であるなら。
 富士川にとって、自分の存在はいったい、何?
「どうしたの?」
 富士川はようやく華音の身体を離した。そして、冴えない表情の華音を、心配そうに見つめてくる。
「ううん別に……また、祥ちゃんに会いに来てもいい?」
「いいよ」
 富士川は再びキッチンへと歩いていき、引き出しを探ると、何かを持って戻ってきた。
 部屋の合鍵だ。
 華音は思わず、両目を見開いた。驚き、富士川の顔を見上げる。
 富士川は華音の前に膝をついた。そして華音の手をとると、その合鍵を握らせてやる。
 確かな、存在感――。
「前のようにね、いつも一緒にいることはできないけど、華音ちゃんのことはいつも気にかけている」
 富士川は華音の頭に自分の大きな右手を載せ、優しくなでた。
「本当だよ」
 しかし。
 富士川が優しくあればあるほど、なぜか華音の脳裏に浮かび上がるのは――。
「あのね、祥ちゃん」
 華音は心に引っかかったままの棘を抜きたかった。
 あの人が。
 あの不敬不遜な二番弟子が、富士川が敬愛する師・芹沢英輔の血の繋がった孫であることを――。
「……何でも、ない」
 言えない。今は、まだ。



 華音は重い足取りで、富士川のマンションから歩いて芹沢邸まで帰ってきた。たった十分の道のりが、永遠に続く気がしていた。
 帰りたくない。
 富士川に会いに行ったのは、どうしてよいか分からない自分の心を、少しでも落ち着かせようと思ったからだ。しかし、それは一時的な安らぎでしかなかった。

 今日の午後、祖父の二番弟子・鷹山がウィーンから正式に帰国をしてくる。

 あの日の夜から。
 芹沢家の客間で、華音が鷹山の腕を刺したあのときから、鷹山とは顔を合わせていない。
 鷹山は修業と称して、すでにウィーンを拠点に演奏活動をしている。向こうで予定されていた演奏会のキャンセルや引っ越しや帰国の手続きなど、どうしてもいったんウィーンへ戻る必要があった。
 そしてひと月あまり経った、今日――。

 あの悪魔がやってくる。
 芹沢交響楽団の新しい音楽監督として。



 高野は車で空港まで迎えに行き、そのまま挨拶がてら、芹沢邸に寄ると言っていた。
 寄ると言っても、高野は華音の未成年後見人として選定され、すでに芹沢家に居候している状態だ。そのため、帰ってくると言ったほうがしっくりくる。
 華音は不安な心を抱えたまま、芹沢邸正面の鉄の門扉をゆっくりと押し開くと、玄関のポーチにはすでに高野のRV車が横づけされていた。

 ――どうしよう。

 華音は自分のとるべき行動に迷っていた。一応、挨拶をしておかなくてはいけないのだろうか――しかし自分は楽団員でもなく、出資者でもない。
 今となっては、「芹沢」という名前を持つ唯一の人間、というだけの話だ。
 それが本当の意味での「天涯孤独」というのであれば、である。しかし、事実を知ってしまった今となっては――。

 一通り一階の応接室や客間を覗いたが、すべてドアは開け放たれており、使用している形跡はなかった。
 華音は執事の乾を捜した。
 乾は芹沢家の一切を取り仕切る、老執事である。祖父・英輔が自分の身に何かあったときのためにと、この執事の賃金は終身保障されていた。
 だから華音は今までどおり、この家から高校に通えるし、不摂生でだらしのない高野が居候しても身の回りの世話を任せられるのだった。
 もちろん、お金のためだけではない。執事の乾にとっても、華音は自分の身内のようなもの。亡くなった主人の英輔のためにも、華音が成人するまではどんなことがあっても仕えると決めているらしい。

 乾はキッチンで、通いの家政婦と打ち合わせしている最中だった。夕食の準備を一名多く、と指示を出している。それが鷹山の分であることは容易に推測できた。おそらく今日は、ここへ泊まるつもりなのだろう。
 華音は執事の乾に声をかけた。
「ねえ、乾さん……高野先生たちは?」
「ああ、華音様、お帰りなさいませ。お二人でしたら早々に、二階のほうへと向かわれましたよ」
 乾は品の良い笑顔を華音に向けている。華音の曇る心中にはまったく気づいていない。


 華音は螺旋階段を上り、二階へと向かった。
 長い廊下を歩いていると、曲がり角で高野と遭遇した。
 華音の緊張は一気に高まる。しかし、高野の背後には誰もいなかった。
「楽ちゃんさ、いま芹沢のオヤジの書斎、物色してるから。楽譜とかいろいろね。遭遇しても驚かないでやってね」
「ねえ、高野先生」
「どうしたの?」
 あの赤城という大男から衝撃的なひと言を告げられて以来、華音はそのことについて一切触れることはなかった。当の本人が、顔を合わせることなくウィーンへ戻ったため、すぐに何事もなかったような日常が戻り、聞くタイミングを逃していたのである。
 しかし。
 華音はとうとう、その事実を口にした。
「高野先生は……最初から知ってたの?」
「知ってたって、何のことだい?」
 高野はとぼけるように言った。華音が何を言わんとしているのか、高野には分かっているはずだった。
「赤城さんが言ってたこと――」
 高野はしぃと、口に人差し指を立てて、華音の言葉を遮った。そして、ここじゃアレだから、と華音を促した。


 二人は、祖父の書斎とは別棟にある、華音の部屋へと移動した。
 華音がベッドに腰かけると、高野はドアがちゃんと閉まっているかドアノブをひねって確かめている。高野にしては珍しく慎重だ。
「ノン君が聞きたいのは、楽ちゃんのこと? …………だよね」
 高野は腕組みをしながらドアに寄りかかるようにして立ち、困ったような表情を見せている。
「私に兄弟がいることだって、つい最近聞かされたばかりなのに……どうしてなの? 兄弟ならどうして苗字が違うの? 私だって何も分からない子供じゃない。事情があって親がいなくなれば別々に育てられることだってあると思うけど……でもね? あの人、おじいちゃんの弟子なんでしょ? そんなのおかしいじゃない!」
「ノン君……まあ、驚く気持ちも分かるけど……まさか、あそこで麗児君が言うなんて、思ってもみなかったからさあ」
 高野にとっては甚だ不本意な出来事だったらしい。
 確かに、高野を責めてもしょうがないことである。華音は心を落ち着かせようと、質問を変えた。
「このことを知ってるのは、他に誰がいるの」
「俺と、麗児君と……あとは執事の乾さん、そのくらいかな。芹沢のオヤジが死んだ今となっては、あのときのことを知ってんのは俺くらいだもんなあ……ああ、あと」
「あと、誰?」
「当たり前だけど、本人も知ってる」
 付け足すように言った高野のひと言に、華音は背筋が凍る思いがした。
「あの人……自分がおじいちゃんの孫だって……私が自分の妹だって――――分かってるの?」
 それなのにあの態度。並々ならぬ敵愾心。他人を受け入れぬ、蔑むような目。
 まるで理解できない。
「まあ、ノン君はまだ赤ちゃんだったけど、あのとき楽ちゃんはもう小学生だったからね……」
 先ほどから、高野は何度か『あのとき』という言葉を口にしていた。
「ねえ、何? 何なの高野先生、あのときって?」
「……いや。もうかなり昔の話だから、俺の記憶も曖昧なんだよねえ。その頃は今みたいな付き合いもなかったしさ」
 明らかにはぐらかそうとしていることは華音にも分かった。高野とは付き合いも長い。暗に聞いて欲しくないと言っていることは、その表情から伝わってくる。
「あのさあ、ノン君」
 高野はおずおずと言った。
「楽ちゃんはさ、ノン君も富士川ちゃんも、自分が芹沢の血を引いているということを知らない、って思ってるから」
「え?」
「本人はきっと、言うつもりはないと思うよ。だから、ノン君も今まで同様、知らなかったフリを通してくれないかなあ?」
「……意味分かんない」
 高野の説明は、釈然としないものだった。
 このままずっと、他人として。知らなかったフリを。
「フリも何も……この間初めて会ったばかりの、まったくの他人だよ? きっと赤城さんに言われなかったら、一生気がつかなかったと思うし。第一、全然似てないじゃない?」
「そうだね。ノン君は卓人さんにそっくりだし、楽ちゃんは…………鞠子さんに瓜二つだからね。まるで生き写しさ。――あまりにも良く似ていたから……なあ」
 華音は赤城が見せてくれた写真の中の人物を思い出す。美しく、繊細で、西洋人形のような――。
 華音は初めて母の名を知りそして、顔写真を見た。
 それは、祖母が息子をたぶらかした『魔性の女』と口にしていたイメージとは程遠い、優しい表情だった。
 ただ、顔のつくりは恐ろしいまでに、あの男にそっくりだ。誰が見ても、血の繋がりの存在を認識できるほどだ。
「私のお母さんだった人……鞠子っていうんだね」
「そうだよ。ホントに美男美女の、お似合いのカップルだったんだよ……」

 華音の頭の中に、鷹山の言葉がどんどんよみがえってくる。忘れようとしても忘れることができない。

【僕はね、芹沢の名を汚すような真似をする人間が、気に入らないんだよ】

 ――あの人が言う「芹沢の名」って?


【別にこの家を乗っ取ろうと企んだわけじゃないし、君を困らせようとしてるわけでもない】

 ――祥ちゃんを追い出したくせに、何言ってるの。


【だからそんなに嫌わないでくれ。――好きじゃなくていいから】

 ――血染めのストラディバリウスと、果物ナイフ。


【だからそんなに嫌わないでくれ】

 ――そんなこと言われたって。

【そんなに嫌わないでくれ】

 ――もう、止めて。

【嫌わないでくれ】

 ――――ああ。



 高野は玄関に停めたままの車を、駐車場に移動させてくると言い残し、華音の部屋をあとにした。
 高野の足音が階段を下りていくのを確認し、華音は部屋から廊下に出た。そして、二階の廊下をさらに奥に進み、目指す先は――。

 華音は祖父の書斎だった部屋のドアを、ノックもせず、音を発てないようにして開いた。
 奥の壁一面に、天井まで届く重厚な書棚が設置されている。そこには祖父が生前使っていた音楽関係の書籍が詰まっている。
 鷹山は書棚に向かって楽譜を漁っているようだった。涼しげなブルーグレーのスーツで、ジャケットとネクタイはすぐそばのソファの背にかけるようにして置いてある。
「……あの」
 鷹山が驚いたように、勢いよく振り返った。大きな瞳がさらに大きく見開かれる。
「心臓麻痺で僕を殺す気か! ノックくらいしたらどうなんだよ」
「――腕はまだ……痛みますか?」
 華音が懸命に言うと、鷹山は手にしていた楽譜をソファの上に投げるようにして置き、自分の左腕を右手でさするようにして押さえた。
「切りつけられたら誰だって痛いに決まってるじゃないか。おかげで商売上がったりだ。左手は弦を押さえるのに繊細なポジショニングを要求されるんだ。分かってるのか? ああこれで、演奏家生命絶たれたね」
 相変わらず横柄で毒舌、相手に反論の隙を与えずにまくしたてる。
「……ごめんなさい」
 今は謝ることしかできない。
「それよりどうしてくれるんだ、僕の相棒。言っておくけど、あれは時価にして何千万いや、ヘタすれば億は下らない代物だ。あの状態じゃとても演奏には使えない」
 いったい、どうしろというのだろう、この男は。
 金銭的なことを言っているのではない、それは華音にも分かる。
 しかし。
「メンテナンスに出してください。お金は……乾さんに何とかしてもらいますから」
「あんな血だらけのシロモノ、どう説明するつもりなんだよ」
 限界という名の糸が、切れた。もうあとには退けない。そう、負けていられないのだ。
「あなたがこの先、もっともっと有名になればいいじゃない」
「……何だって?」
「そうすれば、あの血の痕だって、プレミアになるでしょ」
 鷹山は目を見開いた。そしてそのまま二三、瞬く。
 珍しく反論に困ったのか、半ば呆れたような表情で華音の顔を見つめてくる。
「馬鹿じゃないのか、君は……」
 華音は勢いづいて、さらにたたみかけるように言う。
「やってみせればいいじゃない。祥ちゃんができなかったこと、あなたにはできるって言うんなら」
 信じられない。いったい何がどうなったら、この男が――芹沢の血を引く人間であるというのだろうか。
 血を分けた実の兄。そんなの――嘘。
 嘘に決まっている。

 華音が自分に負けじと必死になるのが、鷹山の何かをつかんだのか――悪魔の二番弟子は突然、声を上げて笑い出した。
「ようやく君の本当の声が聞けたようだな」
 鷹山の口から発せられたのは、意外な言葉。
「……え?」
「あの男に支配されない、君の心の声だよ。たとえそれが僕に対する憎しみでも――甘んじてそれを受けよう」
 鷹山の言う「あの男」とは、兄弟子の富士川祥のことを指している。

 ――支配、だなんて。

「さあ、幕開けだ」
 鷹山の自信に満ちた声が、祖父・英輔の書斎に響き渡った。