宿命の章 (9)  甘えは決して許さない

 日常が、どんどん非日常へと変化していく。

 朝目覚めるといつもの天井が見えて、庭の木々を渡り歩く小鳥のさえずりが遠くから聞こえてくる――これは日常。
 学校へ遅刻しないようにと、いつも執事の乾が華音の部屋のドアをノックして、優しく起こしてくれる――これも日常。
 顔を洗おうとタオルを携え、パジャマにカーディガンを羽織っただけの状態で、自室のある二階から一階へ螺旋階段を下りていくと、頭はぼさぼさ寝惚け眼の高野和久と遭遇――これはちょっと非日常、しかし日常になりつつある。

 そして、突然目の前に立ちはだかる、壁のような大男。
「君たち、いま何時だと思っているんだ?」

 ――これは完全、非日常。

 まだ朝の六時半である。
 普通の人間が一日の生活を始める前の早い時間に、この大男は仕立てのいい三つ揃えのスーツをきっちりと着込み、他人の家の中を我が物顔で颯爽と歩き回る。
 赤城麗児――高野和久と高校時代の同級生という青年実業家だ。赤城エンタープライズの代表取締役社長であり、この芹沢交響楽団のスポンサーとして、全面的な資金提供を約束した。
 確かに、芹沢家にまったく無関係の人間ではないが、早朝から上がりこんでこられて、寝起きの姿を見られていい相手ではない。
「……こんな時間に……いったい、何しに来たんですか?」
 華音は手ぐしで髪を必死に整え、何とか取り繕おうと努力する。
 高野は特に気にならないらしい。ぼさぼさの頭をさらに掻き、大きなあくびをしている。
「私には本業がある。君たちのように悠長に寝惚けている暇などないのだよ。――五分だけ待つ。さっさと着替えて、手前側の応接室まで来てくれ。芹沢君と、ほら和久もだ」
「俺も? ……俺、トイレに起きただけだから、今からまた寝るトコなんだけど」
「お前という奴は……まったく」
 赤城は呆れ返ったようにため息をついた。


 急いで顔を洗い普段着に着替え、再び一階へ下りていくと、応接室にはすでに赤城と高野が待っていた。
 高野は先ほどと何ら変わっていない。着替えもせずぼさぼさ頭のまま、ソファに横たわり二度寝している。
 赤城はそんな高野にもはや構うことなく、華音を上座の一人掛けの椅子に座らせた。
 そして、大きな身体をゆっくりと背もたれに預け、前置きもなく唐突に用件を話し始める。
「芹沢君には、今日から私の下で働いてもらうことにした」
 思いがけない赤城の言葉に、華音は唖然となった。
「……言ってる意味が分かんないんですけど」
「どこが分からないんだ? 高校生が理解できないような難しい言葉は、ひとつも使っていないと思うが?」
「違う、言葉の意味じゃなくて! 働くって、だって、学校はどうするの!?」
 いくら天涯孤独になったとはいえ、今すぐ働かなくてはならないほど経済的に苦しいわけではないはずだ。
「高校には今までどおり通ってもらう。ただし、部活はやめること。課外補習も受けなくてよろしい。もちろん友達と寄り道して遊ぶなんてもっての他だ。そんなに怖い顔をしなくても、ちゃんとアルバイト代は支払う。ギブアンドテイクだ、分かるな?」
「麗児君らしいね……まあ、くれるって言うんだから、ノン君もらっとけば?」
 寝ていると思ったら、耳だけは起きていたらしい。高野は目を閉じたまま、相変わらず能天気なことを言う。
 しかし、華音はとりあえず安堵した。学校をやめずにすむのであれば、大した問題ではない。
「でもアルバイト……って。ウチの学校、アルバイト禁止なんですけど」
「じゃあ仕方がない。無報酬で、ボランティアで働いてもらおうか?」
 赤城はふざけたように言った。もちろん、ただ働きさせる気などないという前提での戯言だ。
「何が何でも、私を働かせたいんですか?」
「新しい音楽監督からの、要望のひとつなのでね。運営スタッフの一員に、君を加えること」
 新しい音楽監督――華音の脳裏に、あの悪魔のような男の綺麗な顔がよぎっていく。
「……鷹山さんの要望なの? どうして」
 なぜあの男が華音に対して――楽団のために働けと言うのだろうか。まるで分からない。
「楽団員は音楽だけに集中させたいんだそうだ。今まで雑用はコンサートマスターだった彼や、今いろいろ動いている美濃部とかいう青年がやっていたようだが……独自に運営チームを立ち上げて、楽団員をバックアップする専門要員を、ということだ。まあ、鷹山君の考え方は悪くない」
 より良い音楽作りのために。ある種の理想論だ。
 確かに、華音はこの芹沢家に生まれ育ちながらも、自分で楽器を演奏することをしなかった。もちろん素養程度に高野からピアノを教えてもらうことはあったが、将来の職業にしようと努力することはなかったし、祖父の英輔も富士川も、それを強要することは決してなかった。
 楽団における華音の存在意義が薄いのはそのためである。
 赤城が言うとおり、自分が芹響のために何かをするとしたら、楽団員たちのサポートや演奏会の企画など、運営業務の手伝いだろう。
「それに私も、君のような可愛らしいお嬢さんと一緒に働くのは、雰囲気が華やいでいいと思うのでね。今日学校が終わったら、すぐに帰って来なさい。新しい音楽監督と楽団員たちとの打ち合わせを、ここで行う予定だ。君の仕事についてもそのときに説明する」
「打ち合わせ? ここで?」
 華音は途惑いを隠せなかった。
 正直、楽団とは極力関わりを持ちたくないと思っていたのに、どんどん思いも寄らぬ方向へと進んでいく。
 あの鷹山という男が何を考えているのか、華音にはまったく理解できなかった。
 怖い。
 怖くて怖くて――たまらないのだ。



 華音は赤城に言われたとおり、授業が終わるとまっすぐ芹沢邸へと帰ってきた。
 夕方になると、楽団員たちが続々と芹沢邸に集まってきた。
 全員ではなかったが、それでも三十名以上は揃った。急遽用意されて並べられたパイプ椅子に全員が着席すると、部屋はかなり窮屈となった。
 暑い。今は一年で一番暑い時期。閉ざされた空間に人間がひしめき合う――クーラーが追いつかないのは当然だ。
 赤城は華音の姿をとらえると、颯爽と近づき、優しく肩に手を回した。そして、部屋の隅に押し寄せられるようにして置かれていた、もともとこの部屋にあったソファへ座るように促す。
「ほら、芹沢君、私の隣においで。初めは楽団側の話し合いだから、私たちは部外者だ。隅でおとなしく見ているとしようか」
 楽団関係者はみな大人ばかりである。赤城の言うとおり、華音は集団の中で一人浮いている。華音は赤城の言うことを素直に聞き入れることにした。
 華音が軽く頷いて肯定の意思表示をすると、赤城は肩に回していた手を下へと滑らせ、そのまま華音の腕ごと抱き寄せてくる。
 移動を促すためとはいえ――このような大人の男のエスコートというものに、まったく慣れていない。華音は、動揺を気取られぬようあくまで平静を装って、赤城の隣に腰を下ろした。

 鷹山がこちらを見ている。

 大きな瞳を瞬かせ眉をひそめるようにしているのが、華音にははっきりと分かった。
 しかし、進行役の美濃部に促されて音楽監督就任の挨拶を求められると、鷹山は顔をそむけゆっくりと立ち上がり、楽団員たちの前へ進み出た。
 特に緊張したそぶりも見せず、淡々とそして流暢に喋りだす。簡単な所信表明のような鷹山流音楽論が展開されていく。
 華音と赤城は楽団員たちの後ろで、その様子をただ眺めていた。

「――次に、新しいコンサートマスターについてですが」
 一瞬、楽団員たちがざわついた。
 そう。
 長いこと「コンサートマスターは音楽監督の愛弟子」という図式が崩れることはなかったため、まさかそのポストが空いてしまうとは、誰もが予想だにしていなかったのである。
 コンサートマスターといえば楽団の華。指揮者、ソリストの次に注目される重要なポジションだ。通常、第一ヴァイオリンの首席がコンサートマスターを務め、演奏会では必ず指揮者に一番近い客席側の目立つところに位置している。
 候補は何人かいる。芹響の第一ヴァイオリンはみな、音大を出たヴァイオリンの精鋭たちばかりだ。
 楽団員たちは鷹山の続く言葉を待っている。
 鷹山はざっと一通り楽団員の顔を見た。そしてゆっくり息を吸い、迷いなく言う。
「美濃部君、君にコンサートマスターをやってもらいたい」
 鷹山のそのひと言で、辺りは水を打ったように静まり返った。
 当の本人が、状況を上手く把握できずにいるらしい。皆の視線を集める中、進行役の美濃部はただ立ち尽くしていた。
「美濃部君?」
 もう一度鷹山が問いかけると、美濃部はにわかに動揺し始めた。
「わっ、えっ、私がですか!?」
 慌てふためくのも無理はない。美濃部は楽団員たちの中でも珍しい「非」音大出身という異色の経歴で、普段は専ら雑用を任されている。演奏に加わらないこともあるくらいである。
 楽団員たちが騒然とする中、鷹山は怜悧な表情のまま、淡々と説明を続けた。
「僕がコンサートマスターに求める条件を、君が満たしている」
「条件、ですか? はあ」
「キャリアや技術など、そんなものまったく用をなさないね。僕が求めるのは、一に音感、二に音感、三四がなくて五にも音感さ」
「口を挟むようですが」
 藤堂あかりだ。前列の一番端の席に座って、じっと鷹山を見つめている。
「絶対音感を持っている団員はたくさんおりますけど」
 彼女は候補者だった一人だ。鷹山の青天の霹靂ともいえる人選に、難色を示している。
 あかりの言わんとすることは予め予想できたのか、鷹山はあくまで穏やかに、すべての楽団員に向かって諭すように語りかけた。
「絶対音感、とは少しニュアンスが違うんだが。僕が言っているのは、指揮者が欲しいと思っている音を、常に客観的に判断できる者、ということさ」
 鷹山は、美濃部のほうへ向き直った。
「僕は、君にお願いしたい。今までコンサートマスターだった富士川さんのやり方は、気にしなくてもいい。美濃部君の思うとおり、自由にやったらいい。期待しているよ。それから、藤堂あかりさん――」
 一触即発。一気に緊張が走る。
「……何でしょうか?」
 あかりの冷たい返答にも臆することなく、鷹山は付け足すように淡々と言った。
「君は今までどおり副首席として美濃部君をサポートしてやってくれ。――富士川さん同様に、ね」
 同様に、という部分の若干の強調に、鷹山の牽制が込められている。
 あかりの美しい顔が、わずかに歪んだ。
「では、本日はここまでとしましょう。皆さん、お疲れ様でした」


 楽団員がすべて部屋を出ていってしまうと、先ほどまで窮屈だった室内は一気に広々となった。
 傍観者だった赤城と華音は、ようやくソファから立ち上がると、一人残った鷹山のもとへと歩み寄った。
「すみません、彼女と二人にさせてほしいんですが」
 鷹山は大きな瞳をゆっくりと瞬かせて、赤城に目配せをした。
 二人きりにされるのは困る――華音の胸に不安がよぎる。
 しかし高野と違い、この赤城という男は忙しい身分だ。簡単に引き止めるわけにもいかない。
 その証拠に、赤城のほうもあっさりと退席を了承した。ではまた明日、と手を挙げ挨拶しながら、颯爽と部屋から出ていってしまった。

 重苦しい空気がたちこめている。
 鷹山は並べられたパイプ椅子を二つ引っ張ってきて、少し離して向かい合うようにして置いた。話し合うというより、面接でもするような配置だ。
「そこへかけて」
 鷹山は自分で片方のパイプ椅子に座りながら、もう片方の椅子を指差し、立ったままの華音を呼び寄せた。
 華音は警戒を解かずにゆっくりと近づき、鷹山と向かい合うようにして、用意された椅子におずおずと腰かけた。
「話はオーナーから聞いているはずだけど?」
「楽団のために働け……と、いうことですか?」
「言っておくけど、僕はあの男のように下心があって君を指名したわけじゃない。やるからには完璧な仕事をしてくれ。『だって』とか『でも』とか『そんなこと言ったって』なんて台詞は聞きたくないからな」
 鷹山が打ち合わせの前に、華音と赤城に対して露骨に嫌悪感たっぷりの顔を向けていたことを、華音は思い出した。
「し、下心なんてあるわけないでしょ? 赤城さんは高野先生の同級生なんだもの」
 だから、華音にとって赤城と高野は同じようなものだ――そう言いたかったのだが。
「それは違うね」
 あっさり否定されてしまった。
「あの人は独身だ。何があってもおかしくない。歯止めをかける要素を持ち合わせていないということだ。和久さんは離婚したとはいえ子持ちだからね、そうそう間違いは起こらない。君はもう、十六になったんだろう? そんなことも分からないような子供か? とにかく、必要以上に奴に近づくのは――はっきり言って、不愉快だ」
 何が気に食わないというのだろう。華音のやることなすこと、すべてが気に入らないのか。
 それとも。
「別に私のことは、……鷹山さんには関係のないことじゃないですか」
 鷹山は一瞬、途惑うような微妙な表情を見せた。人に口答えをされることに慣れていないのか、それをさらに封じ込めようと、矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。
「楽団の士気が下がる真似はやめろと言ってるんだ。君が色目を使ってあの男をたらしこんで、お金を出させてるんだと、みんなに思われるのも時間の問題だ。富士川さんがいなくなったら次はあの男か?」
 信じられなかった。
 この男は。何ということを口にするのだろうか。
 いったい自分が、何をしたというのだろうか。
「迷惑なんだよ。君のその、すぐに誰かに頼ろうとする根性が」

 ――迷惑、だなんて。

 自分のことを何も知らない人間に、どうしてここまで辛辣な言葉をぶつけられなくてはならないのだろうか。
 華音が反論もできず黙り込んでしまうと、鷹山はようやく気がすんだのか、唐突に本題に入った。
「君には、僕の専属アシスタントになってもらう」
 鷹山の目はしっかりと華音をとらえている。
 依頼でも懇願でもなく――これは命令だ。
 専属。その言葉は華音にとって「地獄」を意味する。

 音楽監督の、専属アシスタントに。

「ちょっと待ってください! そんな、専属とか言われても学校だってあるし、それに……いくらおじいちゃんの孫だからって、楽団のこと、何にも知らないんだもん。全部祥ちゃんがやってて――」
 鷹山は華音の台詞を遮るようにして、きっぱりと言い切った。
「いいか、できない言い訳を考えるよりもまず、できる方法をその頭で考えろ」
「そんな突然言われても――あ」
「できないなんて言葉、聞きたくないと言っただろう? 僕の言うことが分かったら、ちゃんと返事をしろ。いいな?」
 もはや、絶句。絶句するしかない。
 赤城にアルバイトをしろと言われたときは、もっと事務的な――チケットの販売業務や楽団員たちの小間使いなど、雑用をこなせばいいのだと単純に思っていた。美濃部青年がしていたような仕事の、「お手伝い」程度に考えていたのだ。
 しかし。
 音楽監督の専属アシスタントとなれば、芹沢英輔と富士川祥のような関係に近い。四六時中、そばに付き従い、音楽監督の要求はすべて受け入れる。
 それを承知で、この鷹山という男は華音に、容赦のない要求を突きつけてくるつもりなのだろうか。

 ――負けられない。負けてなんかいられない。

「もう、分かったよ! やればいいんでしょ、やれば!」
 半ば自棄になって、怒鳴るように声を張り上げて返事をした。
 とにかく首を縦に振らなければ、いつまでもしつこく言ってくるに違いない。華音はもうすでにうんざりしていた。
 やると言えば、きっと鷹山は勝ち誇ったような満足げな笑みを浮かべて、自分を見て蔑むように笑うんだ――そう、華音は想像していたのだが。

 鷹山の表情は硬いままだった。逆に、いっそう強ばりが増している。
 華音の態度が癪に障ったらしい。その大きな瞳で華音を見据えている。無慈悲で冷たい、悪魔の眼差しだ。
「いい加減にしろよ。自分の置かれている立場をきちんとわきまえろ。英輔先生の孫娘なら、そのくらいのことは分かってるはずだ。楽団にとって、音楽監督のポジションがどういうものなのか」
 鷹山の剣幕に、華音は再び言葉を失った。
「……」
 分からない。
 どういう人間なのか、何を考えているのか、まったく読み取れない。
 暑い――。もうすでに日は暮れ、窓から見える芹沢家の庭園は漆黒の闇夜へと変貌する。
 二人だけの世界。
「もう一度だけ聞く。僕の言うことが分かったな?」
 楽団にとって音楽監督は――神にも等しい。
「………………はい」
 どうして肯定の返事をしてしまったのか、よく分からなかった。
 完全に拒絶できない何かが、華音と鷹山の間には存在する。
 壊れそうだ。
 しかし、後戻りできないのだ。
「僕は富士川さんとは違う。甘えは決して、許さないからな」
 鷹山の容赦のない言葉が、刃となって華音の心を深く深く突き刺した。
 
 富士川祥との、優しい思い出もろとも――刃はもう、抜けない。


 その夜。
 静けさを取り戻した芹沢邸で、華音は自室で一人、机の引き出しの中を探っていた。
 お土産でもらった未使用のキーホルダーが入れられた箱を取り出すと、その中身を一つ一つ確認していく。
 富士川は演奏旅行に出かけるたびに、華音のためにキャラクター物のキーホルダーをお土産に買ってきた。お陰で、箱の中はたくさんのキーホルダーで一杯だ。
 幼い頃から続いている習慣なのだが、中学に上がる頃になるとさすがにキャラクターものは子供っぽく感じられ、実際に使用することはほとんどなく、すぐに箱にしまわれることが多かった。
 ふと、上部の隅のほうに寄せられるようにして入れられたひとつのキーホルダーに目が留まった。
 驚いた。
 それは、これから華音がキーホルダーをつけようとしているものに初めからついていたそれと、とてもよく似ていたからだ。
 透明なクリスタルの中に四葉のクローバーの葉が閉じ込められている。明らかに今までの可愛らしいものとは雰囲気が違っている。

 ――いつもらったんだろう?

 比較的新しいものだというのは分かる。一番上に置かれていたところをみると、ごく最近なのかもしれない。
 明らかに他のものとは異質で、どことなく大人っぽい雰囲気を纏わせている。
 華音が高校に上がって、さすがにキャラクターものを喜ばないということを、富士川が悟ったから――おそらくそうに違いない。
 別に、大した意味があるわけではないのかもしれない。

 だが、しかし。

 富士川がいつもとは違い、同じものを二つ購入して、ひとつを華音のお土産に、ひとつを何となく自分のマンションの合鍵につけていた。
 たったそれだけのことが――。
 華音は箱の中をじっと見下ろしながら、やりきれない思いで下唇を噛んだ。

 どうして。
 自分のそばにいるときに気づかなかったのだろう。
 それは、富士川祥という人間が当たり前のようにそばにいたから、そんなちっぽけなものに込められた意味など、華音は気づくことができなかったのだ。

 ――お揃い……だったんだ、これ。

 華音はその真新しいキーホルダーを取り出すと、元からついていたクローバーに並べるようにして、富士川からもらったカギに取りつけた。

 これがあれば、いつでも富士川のところへ行くことができる。
 富士川は精一杯の優しさで、華音のことを包み込んでくれるはずだ。

 ――祥ちゃん……私、どうしよう。

【君には、僕の専属アシスタントになってもらう】

 突然、鷹山の威圧的な瞳と横柄な声が、華音の脳裏によみがえってきた。

【僕は富士川さんとは違う。甘えは決して――許さないからな】

 ――やめて、やめてやめて。

 華音は鍵をベッドの掛け布団の上に投げ出し、とっさに両耳を塞いだ。

 会いたい。今すぐに。
 そばにいて欲しい。
 しかし、その願いは叶うはずもない。

 この状況をどう説明していいのか、今の華音にはまったく見当がつかなかった。