宿命の章 (10)  深く脆く美しい世界へ

 鷹山は今日から毎日、芹沢邸へとやってくる。
 祖父が生前書斎代わりに使っていた二階の奥の部屋を、当面の間活動の拠点とすることに決めたからだ。
 そして今日は土曜日。華音のバイト初日である。

 昨晩、緊張でよく眠れなかった。
「楽ちゃん、もうすぐここに来るって」
 皺だらけのパジャマに身を包んだ高野和久が、あくびをしながら芹沢邸の食堂へと現れた。
 一方、先に席についてクロワッサンをちぎっていた華音は、高野の言葉に思わず手の動きを止めて、壁掛け時計に目をやった。
 針は八時半ちょうどをさしている。
 鷹山の要望で、華音の学校が休みのときは、朝九時から夕方五時まで身の回りの雑用をすることになった。もちろん、リハーサルや演奏会などの予定があるときは、それにあわせてバイト時間を延長することも、要望にはしっかりと盛り込まれている。
 華音はため息をついた。今朝からもう何度目だろう――すでに数えられないほどのため息をついている。
「鷹山さんって、時間にうるさそうだよね。休みの日の朝くらい、ゆっくりすればいいじゃない?」
「そういうところはね、楽ちゃんと富士川ちゃん、似てるんだよねえ……」
 目覚めきらない両目を瞬かせながら、高野はいつもどおり緊張感のない能天気な返事をする。
「んもう、高野先生! あの人と祥ちゃんを一緒にしないでよ。祥ちゃんのは『時間に正確だ』って言うの」
「俺から見たら、二人とも一緒だって。予定通りに行動できることには変わりないんだからさ」
「高野先生に比べたらね……そうかもしれないけど」
 二人の弟子のことを、この高野は以前から『似たもの同士』と称していた。
 華音にはそれがどうしても納得ができない。似て非なるもの――いや、そもそも似ているはずなど、ないのである。


 華音と高野が食堂で喋っている間に、鷹山はすでに芹沢邸にやってきたようだった。執事の乾に声をかけて、すぐに書斎にこもったらしい。
 お陰で、挨拶をするタイミングもつかむことができなかった。
 いきなりこれでは、バイトの初めからやりにくい。
 華音はとりあえず指定されている九時ちょうどになるのを待って、二階奥の書斎に向かうことにした。
 自分の家なのに、まるで別世界のように感じられる。廊下の窓から見える英国式の庭園の鬱蒼とした緑が、いっそう華音の気分を沈鬱とさせた。

 音を発てないようにして書斎の中へと入ると、鷹山は一人、設えのソファに腰をかけて、古い資料に目を通していた。
「コーヒー、淹れてくれないか?」
 ドアの開く音で華音がやってきたことを悟ったのだろう。よろしくと挨拶を交わすこともなければ、華音のほうに顔を向けようともしない。友好的雰囲気は皆無だ。
「じゃあ今、乾さんに――」
 華音が執事の名を口にすると、言い終わらないうちに鷹山が遮った。
「君が淹れるんだ。お茶汲みはアシスタントの基本だろう?」
 華音は思わず息を飲んだ。そして、以前鷹山に言われた言葉を思い出す。
『迷惑なんだよ。君のその、すぐに誰かに頼ろうとする根性が』
 早くも挫折しそうだ。
 二人だけのこんな重苦しい雰囲気に、とても耐えられそうにない。
 華音は分かりましたと小さな声で答えると、すぐに書斎をあとにして階下のキッチンへと向かった。

 ――ええと……コーヒーって、どこにあるんだっけ?

 普段は、執事の乾や家政婦が家事全般を担当しているため、華音はキッチンのどこに何があるのかまったく分からなかった。
 乾は今、食堂で高野の給仕をしている。家政婦は高野の部屋のベッドメーキング。コーヒーの在り処を聞こうにも、キッチンに人影はない。
 華音は適当に辺りを探し始めた。そして、食品庫の奥から、お歳暮でもらったらしきインスタントコーヒーの詰め合わせを見つけ、引っ張り出した。
 食器棚から来客用のウエッジウッドのカップを取り出し、木製のトレイの上に載せていく。
 ビンのラベルに書いてある分量と照らし合わせ、ティースプーン山盛り一杯をカップに入れ、電気ポットのお湯を注いでやる。
 できた。あたりに香気が漂う。
 こんなものだろう、と華音は一人納得していた。

 華音はコーヒーカップの乗ったトレイを携え、再び書斎へと戻ってきた。
 テーブルの上に高く積まれた書類の横に、細心の注意を払いながらゆっくりとカップを差し出した。
 鷹山は無言のままだ。資料を読むのに没頭しているためか、華音に目をくれようともしない。
 その場に立ち尽くしトレイを抱き締めながら、華音は目の前に座る鷹山に尋ねた。
「私は他に何をすればいいんですか」
 鷹山は資料から目をそらそうとはせず、淡々と答える。
「難しいことはない。僕のそばにいて、僕が何を考え、何を欲しているか――それを常に察して、気を利かせた行動をとってもらいたい。いちいち説明させるなんて野暮なことだけはさせないでくれ」
 言うのは簡単だが、実行するのは至難の業だ。
 ただでさえ鷹山の言動を理解できないでいるのに、何を欲しているか常に察して――なんて、華音にはまるで自信がない。
 その不安な気持ちが表情に出てしまったのか、鷹山は語調を緩め、付け加えるように言った。
「……まあ、最初から完璧にこなせるなんて思っちゃいないさ。ただ、努力だけは怠って欲しくない。いいな?」
「……分かりました」
 鷹山は華音の淹れたコーヒーにようやく口をつけた。口に含み、無表情のままカップをソーサーに戻す。
 何か言われるのではないか、と華音は内心動揺していた。しかし、鷹山は何かを考え込むようにしてソファの背に身を預けたままだった。
 しばしの間、気まずい沈黙があった。
 窓の外の庭園から聞こえてくる蝉の鳴き声が、はっきりと意識できる。
 居心地がとにかく悪い。当然のことだが、富士川相手とはまるで勝手が違う。

 鷹山は、読んでいた資料をテーブルの上に積んであった書類の束の上に置き、軽くため息をついた。そしてようやく、華音に向かいの席に座るよう勧めた。
 華音は鷹山に言われるがままに、トレイを抱えたまま向かい合うようにして腰を下ろした。
 鷹山は、今度はしっかりと華音の顔をじっと見つめてくる。華音も視線をそらせずに、鷹山が話し出すのをひたすら待った。
「和久さんから聞いたんだけど……君はヴァイオリンだけじゃなく、ピアノもろくに弾けないんだって?」
 何を言い出すのかと思えば、相変わらず人を小馬鹿にしたような言い草だ。華音は思わずむきになり、語調を荒げた。
「悪いですか?」
「別に悪くはないよ。ただ、どうしてなのか気になっただけさ」
「どうしてって……別に理由なんかないですけど」
「この『芹沢』の家に生まれて、音楽教育を受けない? そんな話、信じろと言うほうがどうかしてる」
 そのようなプライベートなところまで踏み込まれてこられても、困惑するばかりだ。
 この男が口にする『芹沢』の名は、そこはかとなく重い。重すぎる。
 華音は身じろぎもせず、ソファの上で石像のように固まっていた。
 その間も、鷹山は華音の様子をじっと観察している。おそらく鷹山も、華音との距離をつかむのに試行錯誤しているようだ。続ける言葉を慎重に選んでいるのか、幾分雰囲気を和らげてくる。
「君がどうしても音楽が嫌で嫌でしょうがなくて英輔先生に反抗していた、ということならまあ納得もするけど、そういう風にも見えないしね。和久さんや富士川さんのそばで暮らしてきたはずの人間にしては、随分と音楽に対する姿勢とか意識のレベルが低いんじゃないかなと思ってね」
 確かに、何も間違ったことは言っていない。鷹山の言うことは正しすぎるほどに的を射ている。
 しかし、華音は何だか釈然としない。
「鷹山さんには分からないと思いますけど、うちはホームドラマに出てくるような普通の家族とは違うんです。おじいちゃんは厳しく音楽をしつけることもなければ、優しく包んでくれることもなかったし」
「へえ。英輔先生のこと、嫌いだったの?」
 意外なことに、鷹山は華音の話を興味深げに聞き、そして食いついてきた。
「嫌いじゃないです。でも……大好きかと言われれば、それは違う気もするけど」
「英輔先生なりの罪滅ぼしなのかな。しかし、随分と自己中心的だと言うべきだな。自分が救われたいがために、今度は君の可能性をもぎ取ってしまうなんてね」
 何を言っているのか、華音には理解できなかった。
 仮にも自分の師匠だった人物を『自己中心的』と言い切るなど、普通では考えられない。
「罪滅ぼし? ……今度は――って?」
 一気に緊張が増し、膝の上で握り締めていた拳がじっとりと汗ばんでくるのを感じる。
「君、何も聞いてないのか? 自分の一人息子に、つまり君の父親に自分の音楽性を押しつけて、挙句に潰してしまったという罪さ。――大罪だよ」
 鷹山の最後のひと言に、華音の心臓は縮み上がった。
 出会ったときから変わらない容赦のない辛辣な言葉の数々――。
 華音は圧倒され、動悸を必死に押さえようと、ただひたすら呼吸を繰り返す。
「もっともっと、好きにさせてみせるさ」
「……え?」
「僕が君に、音楽とはいかに深く脆く美しいものであるか――嫌というほど思い出させてやろう」
 教える、ではなく思い出させる、と。鷹山は確かにそう言った。

 いかに深く。
 脆く、そして美しく。

 鷹山の心の奥底に潜む闇に、彼の音楽に対する美意識が垣間見える。
「あの男じゃ、無理さ。しかし、僕にはそれができる」
 どうして。どうして、こんなにも。
 気を強く持たないと、今すぐにでも飲み込まれてしまいそうだ。
「随分と自信過剰なんですね」
 華音は鷹山に不安な心を悟られまいと、わざと嫌味を込めてつけ離すように言った。
「少なくとも僕は、ウィーンで音楽修業をしていたんだからね。ウィーン国立歌劇場でね、初めて本場のオペラを鑑賞したとき僕は泣いたよ。感激のあまりね!」
 鷹山は意気揚揚と語りだす。
 彼がかなりの饒舌な男であることを華音は理解していたが、こんなにも明るく楽しげに弁舌を振るっている姿を見るのは初めてだった。
「……泣いたって、そんなに上手かったんですか?」
「そう。美味かったんだよ、ザッハートルテが」
「ざ、ざっはー――とるて?」
 予想していなかった鷹山の言葉に、華音は途惑いを隠しきれず、思わず声を裏返えらせてしまう。
 感動して泣いたという表現も大袈裟だが、その主語は――『ザッハートルテが美味かった』?
 まったくもって、意味不明だ。
 華音が二の句が継げずに黙ってしまうと、鷹山はさらに得意になって、自分の持っている知識を惜しげもなく披露してみせた。
「名前くらい聞いたことあるだろう? 要はチョコレートケーキのことなんだけど。何でザッハートルテっていうかって、ザッハーという名前のホテルで作られてるから、『ザッハートルテ』なんだよ。ホテル・ザッハーは歌劇場の目の前にあってね、ホテルのカフェでその本物のザッハートルテを食べることができるんだ。甘くないホイップクリームがたっぷりと添えられててね、カカオの香りと絶妙に溶け合うんだ。もちろんウィンナ・コーヒーも一緒にね」
 鷹山の大きな二重の目が輝いている。そしてよく喋る。
 話の展開が早すぎて、初めに何を話していたのか見失ってしまうほど――。
「……音楽の話はいったいどこに行ったんですか?」
「もちろん無関係ではないよ。ウィーンは音楽の都であり、お菓子の都でもあるからね。切っても切れない関係なのさ」
 鷹山が楽しそうな笑顔を見せた。華音が唖然としてしまうほどの、優しい笑顔だ。
 それは、スポンサーの赤城が見せてくれた写真の、華音の母親という人の顔にとてもよく似ていた。
 自分は父親似、生き別れの兄は母親似――。

 鷹山の笑顔に度肝を抜かれて言葉を失っている華音を見て、鷹山は何が気に障ったのか――ソファの背もたれにふんぞり返るようにして身を預けなおし、目の前に差し出されていたコーヒーカップを指差した。
「だから、僕に淹れるコーヒーにはもう少し心を込めてくれ。音楽を愛するのと同じようにね。悪いけどこのコーヒーは――飲めたもんじゃない。今すぐ淹れ直せ」
 鷹山は再びテーブルの上の資料を手にとると、空いた片方の手で書斎のドアを指差した。キッチンへ行け、ということなのだろう。

 ――淹れ直せ? この人……二重人格にもほどがある。

 華音は言われるがままトレイに下げたカップを載せ、そのまま書斎の外へ出ると、どっと疲れを覚え、深い深いため息をひとつついた。



 鷹山が音楽監督となってから、十日あまりが経とうとしていた。
 学校があるときは、平日は午後四時から、土日は午前九時から。鷹山が芹沢家をあとにするまで、華音は彼のそばについて身の回りの雑用をさせられていた。
 しかし。
 華音の通う高校では、今日から夏休みに入った。
 つまり八月末までは、四六時中鷹山のそばについていなければならない。
 華音は不安で一杯だった。
 それはもちろん鷹山との微妙な関係のことでもあったし、楽団の行く先のことでもあった。スポンサーが決まり金銭面に関する心配はなくなったとはいえ、まだまだ問題は山積している。
 自分のことで悩んで立ち止まっている余裕すら、今の華音にはなかった。
 とにかく一歩一歩、前へ進んでいくしかないのである。

 今朝は珍しく、鷹山は二階の書斎には姿を現さなかった。彼は執事の乾に声をかけると、そのまま一階奥の応接間へと消えたらしい。
 華音は書斎で一人、鷹山が来るのを緊張しながら待っていた。しかし、九時になっても悪魔な音楽監督は姿を見せない。五分前行動が原則の時間にうるさい彼が、何の連絡も寄越さないのは――ひょっとして、自分がスケジュールを聞き逃していたのではないか。華音は途端に不安に駆られてしまう。

 ――今度は何を言われるんだか……。

 ちょっと気を抜くと、打ちのめされ立ち上がれなくなるほどの辛辣な言葉を、鷹山はためらうことなく怒涛のように浴びせかけてくる。
 ともに時間を過ごすようになってからまだ十日あまり。気心が知れてるわけでもなければ、行動パターンが先読みできるわけでもない。
 華音は書斎を出て、洋館の長い廊下を早足で歩いた。
 中庭の芝生の緑が、太陽を反射してまぶしく光っている。開け放たれた窓からは、ぬるい真夏の風。暑くなりそうな一日だ。
 華音が階下へおりると、執事の乾がすれ違いざまに「会議だそうですよ」と説明し、奥の応接間のドアを指し示した。
 会議――やはり鷹山からは、そのような予定は聞いていない。
 どうするべきか一瞬迷ったが、「そのくらい指示される前に自分の頭で考えろ」などと嫌味たらしく言われるのも癪だ。華音はとりあえず鷹山のあとを追うようにして応接室へと向かった。

 すでに上座には鷹山が着席していた。他に人の姿は見当たらない。
 真夏という時節柄にもかかわらず、オフホワイトの長袖シャツにきっちりネクタイを締めている。だが、幸いこの部屋は、廊下とは違いクーラーがきいている。
 綺麗な顔の悪魔は、執事に給仕されたらしいホットコーヒーのカップに口をつけ、暑いときには熱いコーヒーに限る、と大きい独り言を呟いてみせている。
 華音は返答していいものか困り、とりあえず聞こえなかったフリをしていた。
 重苦しい。怖い。緊張する。
「君も出る? つまらない会議だけど」
 華音がこの部屋へ来た理由を説明しようとするより先に、鷹山はすべてを察したかのように肩をすくめてみせ、からかうように言った。
「……私が出ても、いいんですか?」
 本当に会議に出たいと思ったわけではない。鷹山が華音に声をかけなかったということは、より音楽的な、選曲や練習日程などの話し合いなのだろう。
 だから華音も、冗談には冗談をと軽い気持ちで返してやったのだが――意外なことに、鷹山は大きな瞳を数度瞬かせ、嬉しそうに笑った。
「もちろん。僕の後ろに椅子を持ってきたらいい」

 ――そんな顔を、しないで。

 華音は言われるがまま椅子を探すふりをして、すぐに鷹山に背を向けた。
 一瞬、頭の中が真っ白になり、そして動悸が激しくなる。

 ――何でこんな……。嘘。こんなの嘘に決まってる。

 知らず知らずのうちに、鷹山のことを過剰なまでに意識しているということに、華音は気づき始めていた。
 それは、上手く距離感を取れないもどかしさゆえの緊張感だと、華音はそう思っていたのだが――どうやら違うようだ。
 おそらく。いや、きっと。
 鷹山の持つ極端なまでの二面性――冷酷で悪魔的な部分と、純粋でひたむきな部分との共存に、いつしか華音は翻弄されてしまっている。


 応接室へ、会議の出席者が執事に案内されて、一人また一人と集まってきた。
 新しいコンサートマスターの美濃部、藤堂あかり、そのほか金管木管各首席など、鷹山を入れて六名ほどの、会議というよりも打ち合わせといった雰囲気の集まりだ。
 鷹山のそばにいる華音を、あかりは意味ありげに見つめてくる。
 華音はわざと気づかないふりをして、鷹山の後ろで、ノートに簡単な議事録のようなものを書き綴っていくことにした。

 会議が始まった。挨拶もそこそこに、鷹山はすぐに案件を切り出す。
「来週早々にも、新入団員のオーディションを行いたいと思う。英輔先生が亡くなってから、芹響を退団した人数は――」
 鷹山の右手、一番上座に近いところに座っていた美濃部が、すかさず説明する。
「ヴァイオリンが三人、ヴィオラが一人、ホルンが一人……あとですね」
 美濃部のいつものような淡々とした対応に、鷹山は物憂げにため息をついてみせた。
 何かが気に入らなかったらしい。
「美濃部君、君はこれからコンサートマスターだ。楽団員のサポートや運営の雑用はここにいる芹沢さんにやってもらう。この会議が終わったら、引き継ぎをしてやってくれ」
「え? あ、はい。分かりました。でも私、できる限り手伝いますよ」
 鷹山の意図していることが、美濃部には充分理解できていないらしい。もともと事務仕事が好きな性質であるため、能天気に進言する。
「いや、楽団員たちには音楽だけに専念してもらう。コンサートマスターの君がそれを率先してやってもらわなければ困るんでね。芹沢さん、君もそのことを常に頭に置いてくれ。楽団員たちに余計な負担を強いるな。分かったか?」
 鷹山は振り返ることもせず、華音に指示を出してくる。二人きりのときとは違い、人目を気にしているためか、語調もいたって普通だ。
 いつもこうならどんなに精神的に楽だろうか。きっと、『悪魔』なんて陰口を叩かれることもなくなるに違いない。
「はい、分かりました。ではあとで美濃部さん、お願いします」
「了解です」
「もうじき運営サポート組織を正式に発足させるつもりだ。オーナーにはすでに申し入れてある」
「へえ、そうなんですか! すごいな、やはりスポンサーがデカイと違いますね。定期会員募ってるだけじゃ、そうそう大それたことできませんからね」
 また耳慣れない言葉を、鷹山は口にした。運営サポート組織。華音の知らないところでどんどん物事が進められている。
「もはや僕たちは英輔先生の名前では戦えないからね。これからは企画力で勝負さ」
 鷹山は皆の心積もりを確かめるようにして、一人一人の顔を順番に見た。
 異論を唱えるものはいない。淡々と、会議は進められていく。
「あと、今後の日程とスケジュールについてですが、定期演奏会は今までどおり月イチでいきましょう。演目はとりあえず三ヶ月先の分まで、定期会員向けに案内が出てるようだから、それはそのまま引き継ぎます。とりあえず八、九、十月の分ですね。それ以降の分は僕がいくつか案を出しますので、あなた方首席陣の意見も取り入れて、最終決定したいと思います」

 終始和やかな雰囲気で話し合いは進み、会議は三十分ほどで終了した。
 出席者が次々と応接室から出ていく。
 鷹山は、最後に部屋を出ていこうとしていた藤堂あかりを呼び止めた。
「藤堂さん、ちょっと話がある。残ってくれないか」
「……何でしょうか?」
 あかりがゆっくりと振り向いた。鷹山の後ろにいる華音の顔を一瞬だけ見て、続いて鷹山のほうへ、その美しく怜悧な眼差しを向ける。
 鷹山はあかりの挑発的な視線から目をそらそうとせず、背後に控える華音に指示を出した。
「芹沢さん、ちょっと席を外してくれないか。ああ……美濃部君に引き継ぐ仕事の内容を確認しておいてくれ」
 大人同士の話なのだ、華音はすぐに察した。
 ちょっとしたことで子供扱いされるのが正直悔しかったが、華音はそれを心のうちに秘めて、そのまま二人を残して応接室をあとにした。


 華音は応接室から廊下へと出て、先に出ていった美濃部を捜した。
 玄関から入って左側に雑談スペースがある。観葉植物で簡単に遮られた空間で、ガラスのセンターテーブルと一人掛けのソファが、向かい合うようにして置かれている。応接室に通すまでもない、ちょっとした来客に便利だ。
 美濃部はその雑談スペースで華音を待っていた。
「よかった。何だか元気そうですね」
 華音が美濃部と言葉を交わすのは、美濃部がコンサートマスターに指名された夜以来だ。一週間ぶりである。
 相変わらずの社交辞令を交わすだけの関係だが、それでも美濃部はいつもテンションが変わらないので、鷹山とは違い一緒にいて和むことができる相手だ。
 華音は大きく息をつくと、美濃部の向かい側のソファに腰かけた。
「悲しんでいるヒマもないほど、こき使われてるもん。鷹山さんは人使いが荒いし、赤城さんは細かいマナーにうるさいし、高野先生はだらしないカッコでうちの中うろうろしてるし」
「相変わらずなんですねえ、高野先生……。私だったらきっと、同じ屋根の下で暮らせないですよ」
 美濃部の言葉は哀愁を帯びている。
 こまごまと姑のように注意する美濃部と、ばつが悪そうにしながらもそれを適当に聞き流している高野――。
 思わず想像してしまい、華音は思わず噴き出した。
「美濃部さんと高野先生って、案外好相性かもよ?」
 そう言って楽しげに笑い続ける華音の姿に、美濃部は驚いたように目を瞬かせた。
「何か……華音さんが笑ってるの、久しぶりに見た気がしますね。芹沢先生の告別式のとき、喋っていたこと覚えてますか?」
「そういえば、美濃部さんと二人だったね」
「芹沢先生が亡くなっても悲しくないって、言ってたんですよね。でも、富士川さんがいなくなってからの華音さんは――とても悲しそうだったから」
 美濃部は淡々と言う。理系出身らしい理路整然とした物言いが心地いい。
「何だか、祥ちゃんがそばにいたのが、ずっと昔のことのような気がする」
「そうですね。でも、まだひと月やそこらの話なんですよ」
 そう、たったひと月の間で――。
 華音を取り巻く環境は、がらりと変貌を遂げた。
 あるはずのものがなくなり、ないはずのものが突如現れて。
「華音さん、私も頑張りますから。前向きにいきましょうよ、ね?」
 うつむく華音を励まそうと、美濃部はひときわ明るい声を出した。
「富士川さんほどいいアニキじゃないですけど、団員のことちゃんと引っ張って、鷹山さんがやりやすいようにしっかりとついていきますから」
 その名前を聞いて、突如現実に引き戻されてしまう。
 そう、これが――現実。
「ねえ、美濃部さんは鷹山さんのこと、どう思う?」
 華音は努めて冷静さを保って、美濃部に問いかけた。
「私は高野先生とまったく同じ意見ですね。鬼と悪魔、でしたっけ? 妙に納得させられますよねえ。でも、音楽に対するひたむきな姿勢とか、二人はとてもよく似てると思いますよ」
 あくまで飄々と、美濃部は自分の意見を述べていく。
 どうも腑に落ちない。
 華音から見れば、富士川と鷹山が似ているようには、微塵も思えないのであるが――。
「祥ちゃんって、楽団の中では『鬼』だったの?」
 こんなことをいまさら美濃部に聞くのは変かもしれない、そう華音は思った。
 富士川と長く時間をともにしていたのに、楽団での富士川のことは、演奏会以外では何も知らなかったということを、いまさらながら思い知らされる。
「自分に厳しかったですよね、富士川さんは。決して人当たりが悪いというわけではなかったですけど、芹沢先生のことをリスペクトしてましたからね。こと音楽性に関しては、他の楽団員たちの意見は聞く耳持たないって感じでしたから」
 それがきっと、『鬼の一番弟子』と呼ばれる理由なのだろう。
 富士川は華音に対して厳しい顔を見せることはなかった。そのため、逆にこういう「仕事の鬼」的な富士川の話を聞くと、演奏家としての実力も相当なものなのだと、改めて尊敬してしまう。
「でも、それでよかったんですよ。指揮者とコンサートマスターが絶対の信頼関係で結ばれているってことは、私たち平団員にとっても好ましいことでしたし」
 それは、華音にもよく分かる。
 祖父の芹沢英輔が生きていて、音楽監督として芹響を率いていたときは、揺るぎない結束力でひとつにまとまっていた。
「実際ね、鷹山さんと私がそういう関係になれるかと聞かれたら、答えはノーですよ。師弟関係にあるわけでもないですし、鷹山さんのことを何も知らないし。まあ、それはお互い様ですけどね」
 美濃部は白黒はっきりとした口調で、明るく喋りまくる。
「でも感じるんですよ。彼の中に芹沢先生の音楽が生きている。私は外様の団員ですけど、それでも三年間芹沢先生の下でいろいろと勉強させてもらいました。芹沢英輔という人間を通して、鷹山さんと私は繋がっていると感じるんです――何か上手く言えませんけど」
 華音は美濃部の話にひたすら耳を傾けていた。
 そして、何となく。
 鷹山がどうして美濃部青年をコンサートマスターに指名したのか、分かった気がした。

「どこまで高慢なのかしら! 富士川さんとは大違いだわ……あの男を弟子にした芹沢先生のお気持ちが量りかねます!」
 応接室から飛び出すように出てきたあかりが、華音たちのいる談話スペースへとやってきた。
 あまりの勢いに、二人は呆然と彼女の顔を見つめるばかりだ。
 背中の中ほどまである美しい黒髪を振り乱し、興奮のためか呼吸も乱れている。
「そんなに怖い顔をしてたら、せっかくの美人が台無しだよ、あかりさん?」
 美濃部がいつものようにさらりと言うと、あかりは怒りの矛先をそちらへ向けた。
「からかうのは止めて頂戴。そんなのん気なこと言って……あなたのことを聞かれていたのよ?」
「私のことを? あかりさんに? へえ、鷹山さん何て?」
 あかりは口ごもった。本人を目の前にしては言いにくいことなのだろう。
「……いえ。とにかくあの人は、私が富士川さん寄りなのが気に入らないのよ。何がいけないの? 今まで何年も楽団を引っ張ってきたのは、他の誰でもない、富士川さんなのよ? それなのにとことん排除しなければ気がすまないなんて、まともな人間の考えることじゃないわ」
 華音は、あかりと美濃部のやり取りを、そばでじっと眺めていた。入り込む隙間はない。
 若き楽団員たちの言い合いは続く。
「あかりさん、鷹山さんのことになると何だか、人が変わったように感情的になるよね」
「それは……あの人が本当に芹響に必要な人かどうか、私には分からないからなんだと思います」
「あかりさんが富士川さんのことを尊敬してるのは知ってるし、鷹山さんが富士川さんのことをよく思っていないことも分かるんだけどさ。でもさ、鷹山さんは芹響のことを大切に思ってくれているよ? それはあかりさんにだって分かるよね?」
「音楽性は認めます。楽団員たちを率いていく力もあるんでしょう、きっと。でも美濃部さん、それが誰かの犠牲の上に成り立っているというのに、あなたは黙っていられるの?」
 あかりが一瞬、華音のほうに視線を向けた。目と目が合う。
 心臓の鼓動が、ひときわ大きく高鳴った。
「誰かの犠牲?」
 美濃部はまったく合点がいっていない。しらけたような顔であかりに聞き返す。
「美濃部さんはどうしてそうなんですか。いつだって冷静で、いつだって物分かりがいい。私には到底、真似できないわ。理解できないとまでは……言わないですけど」

 ――誰かの、犠牲の上に、成り立っている。

 あかりの言葉が、華音の胸を締めつける。
 犠牲?
 悪魔な音楽監督の餌食となった、可哀想な犠牲者。

「それより華音さん、あなた――大丈夫なの?」
 あかりは、華音が鷹山の腕をナイフで刺したことを知る、唯一の人物だ。
 大丈夫なのかという問いは、あの夜の一件が負い目になって鷹山の言いなりになっているのではないか、ということなのだろう。
 しかし、二人が切るに切られぬ近しい血縁関係にあるということを、あかりや美濃部を始めとする楽団員たちはまだ、知らない。
「また祥ちゃんに、このことを言うんですか?」
「このこと?」
 あくまで知らない振りを通そうとするあかりに、華音は苛立ちを覚えた。
「私が鷹山さんの専属アシスタントにさせられた、ってことです」
「黙っていたって、いつかは知れることでしょう? 不自然に隠すほうがおかしいわ」
 やはり。
 自分の知らないところで、富士川とあかりは繋がっている――いろいろと楽団の情報を教えているのは、この女なのだ。
「言うときが来たら、自分で言いますから」
「分かったわ」
 あかりは軽くため息をついた。
「あの男に何かされて困ったら、私に相談してください。華音さんの周りは無粋な男の人ばかりだから、心配なんです。女同士でなければ分かり合えないことも……あると思うので」
 そう言い残し、あかりはそのまま芹沢邸の玄関へと消えていく。
 美濃部はしばらくあかりの背を目で追い、一人惚けていた。
「ああ見えて、優しい人なんだよ――あかりさん」
 そう、と華音はそっけない返事をした。
 藤堂あかりが投げかけた犠牲者という言葉、そして彼女と富士川の関係に、華音は一人心を痛めていた。