宿命の章 (10.5)  在りし日の思い出 3

 ――八年前。

 過ぎ去りし日々の情景。
 すべてが琥珀色に染まっている。


 芹沢邸には、若き音楽家たちが始終出入りをしている。
 このピアニストも、そんな芹沢英輔に気に入られた若き音楽家の一人――土曜日の昼下がりに芹沢邸に現れたのは、高野和久という青年である。

 高野は市内で小さな楽器屋を営みながら、ピアノの調律師として生計を立てている。基本的に、気ままな自由業だ。
 だから、ヒマさえあればこうやって芹沢邸に立ち寄り、勝手に昼食をともにしたりする。
 今日も、屋敷の主人が演奏旅行に出かけて留守なのをいいことに、執事に頼みこみ、芹沢家のお嬢様と居候の青年に混じって、昼食をたいらげていた。

 食堂と呼ばれる部屋のテーブルに、華音と富士川は隣り合うようにして席についている。華音の向かいには高野和久青年が座っていた。
 本日のメニューは五目あんかけ焼きそばとフルーツサラダ。
 芹沢夫妻には和食中心の別メニューを、富士川と華音は子供に人気のあるメニュー、というのが芹沢邸でのルールだ。
 高野は主人のいないことをいいことに、行儀悪くテーブルに肘をつきながら、焼きそばの麺を豪快にすすり上げるようにして口へと運んでいる。
 その様子を富士川青年は向かい側からじっと眺め、やがて呆れたようにそっとため息をついた。
 子供の前ではもう少し行儀良くして欲しい――そう言いたげなのは、その微妙な表情から伝わってくる。
「どうしたの富士川ちゃん、そんな辛気くさい顔して」
「辛気くさいって……いつもと変わりませんけど」
 富士川青年と高野は、富士川がこの芹沢家に居候を始めた頃からの付き合いだ。かれこれもう、六年である。
 二人は『友達』という間柄ではない。音楽界のキャリアで言えば、高野のほうがずっと立場が上だ。しかし、仲の良し悪しや上下関係だけでは量りきれない、むしろ歳の離れた兄弟のような関係に近い。
「なんかさあ、若年寄って富士川ちゃんのためにあるような言葉だよね」
「若年寄って、そんな……放っておいてください」
 高野は冷やかすように笑うと、今度は華音のほうへと視線を移した。
 そのまましばらく食事の様子を興味深げに眺めていたが、やがて皿の隅に除けられている『何か』に気づく。
「あー、ノン君、また残してる。ジイジイに見つかったら、怒られるんじゃないの?」
「だって……おいしくないんだもん」
「ちゃんと食べないと、ジイジイに言いつけちゃうぞー?」
 華音は怯えたような眼差しを高野に向けた。普段からあまり言葉を交わすことのない厳格な祖父は、少女にとって怖れる対象であるらしい。
 食べる手を止めうつむいてしまった華音に、富士川は隣から優しく包み込むようにして語りかけた。
「芹沢先生は華音ちゃんのことを叱ったりしないから、大丈夫だよ」
 そう言って富士川は、華音の皿に箸をのばし、かじったあとのあるシイタケを挟んで、そのまま自分の口の中へと放り込んだ。
 華音の顔は途端に晴れ晴れとなり、安心したような笑顔がこぼれる。
「じゃあ、これも祥ちゃんにあげる」
 華音は自分の皿に残っていたシイタケの欠片を箸でつかむと、そのまま富士川の口の前へと持っていく。
 富士川はハイハイと差し出されるがままに、まるで鳥のヒナのようにそれを食べた。
 その様子を眺めていた高野は、感心したように大きくため息をついた。
「甘いよねえ、富士川ちゃんは。それ、食いかけでしょ?」
「甘いですか……? 高野さんだってそうでしょう? 和奏ちゃんが残したもの、食べますよね?」
 愛娘の名を出せば納得するかと思いきや――高野はとんでもないといったふうに、激しく首を横に振ってみせる。
「いや、俺は食わないよ。子供が食い散らかしたあとなんかとてもとても……というかさ、富士川ちゃんたちが普通じゃないって。間接キスなんて日常茶飯事だろ?」
「センセイ、かんせつキスって?」
 富士川よりも先に、華音が反応をした。華音は目を瞬かせながら、向かいに座る高野に無邪気に尋ねてくる。
 高野は真面目に説明する気はさらさらないのか、唇を思いきり突き出して、華音の顔の真正面に近づけた。
「チューゥゥゥ、って」
「きゃーっ、先生、タコタコー」
 今にもキスをしてしまいそうなほどの近さでも、まだ小学二年の華音には、緊張やときめきとは無縁のようだ。至近距離での高野の変顔に、はしゃぎまくっている。
 富士川は、しばらく二人のやり取りを黙って眺めていたが、やがて面倒くさそうにツッコんだ。
「……それ、間接じゃないですから。それにしても、高野さんは大袈裟なんですよ」
「大袈裟あ? ……まあ、一緒に風呂にまで入ってるくらいだからね。間接キスくらい、どうってことないか、そっかそっか」
「…………高野さんって、かなりしつこいですよね。その悪意ある言い方、止めてもらえませんか?」
 含みを残したまま適当に相槌を打つ高野に、富士川は言葉少なに反論した。
 事実なだけに説得力はほとんどなかったりするのだが――。
「そりゃそうでしょ。大学三年の男が? 小学二年の女の子と? 親子でも兄妹でもないのに!? 犯罪だよ、富士川ちゃん」
「は、犯罪……って、そんな――」
 もはや二の句が継げず、富士川は唖然としたまま固まった。
 すると何を思ったか――突然、華音は大きな声を上げた。
「いいの! 祥ちゃんとカノンはしょうらいケッコンするんだもん。だから、一緒にお風呂入ってもいいんだもん」
「――え?」
 どこに反応してよいのか、大人の男二人は途惑いを隠せず、思わず顔を見合わせた。
 少なくとも富士川は、そのような感情で華音と入浴していたわけではないのだが――。
 高野は少女の夢を壊さぬよう、穏やかに頷きながら語りかけた。
「結婚して、一緒に風呂かー。じゃあ、ずーっと富士川ちゃんと一緒ってことか。よかったね、ノン君」
「うん!」
 華音はどこまでも嬉しそうな笑顔で、元気よく返事をしてみせる。
 一方の富士川青年は、なんと答えてよいのか分からないのか、皿に残されていたやきそばの麺を、箸でただぐるぐるとかき混ぜている。
「え、いや、まあ、その。ずっと一緒にいるのはともかくとして、お風呂はそろそろアレですよね、やっぱり」
 しどろもどろで言い訳をする富士川青年を見て、高野は声もなくただひたすら笑い続けた。