宿命の章 (12)  一番弟子の報復

 華音はじっと、鷹山の背中を目で追っていた。
 富士川ほど長身ではないが、すらりとした細身の体つきだ。絹のように滑らかな栗色の髪は、誰もが羨むほどに美しい。

 血の繋がりなど、微塵も感じさせない。

 ひょっとしたら、オーナーの赤城が調査させた内容は間違いなのでは――そう思わずにはいられない。
 しかし、古くから芹沢家に出入りしている高野和久が、この二番弟子の鷹山を『芹沢英輔の実孫』とはっきり認めているのだから、覆しようのない事実なのだろう。

 今日の鷹山はいつになく静かだ。朝からひとことも喋ろうとしない。窓辺にもたれるようにして立ち、前庭の花壇を物憂げに眺めている。
 鮮やかな紅。冴えるような蒼。
 五年前に亡くなった芹沢英輔の妻が心身ともに壮健だった頃、愛でていた花々だ。今もなお、執事が亡き夫人を偲んで、定期的に庭師に手入れをさせている。
 鷹山は、何か考え事をしているのだろう――こういうときは、構うことなくそっとしておくのが最良の選択だ。
 最近ようやくコツがつかめてきた。
 華音はセンターテーブルのところで一人、オーディションに受かった新入団員の入団手続きの書類に不備がないか、のんびりとチェックをしていた。
 午前中の鷹山は、大概この調子だった。午後になれば、オケの合わせのために市民ホールへ出かけたり、練習のオフの日でもこの書斎でスコアの研究にいそしんだりと、音楽監督らしく多忙に過ごしている。
「芹沢さん、コーヒー」
 庭を眺めるのに飽きたのか、鷹山はようやく窓辺を離れて自分専用のデスクまで数歩戻り、革張りの椅子にゆっくりと腰かけた。

 カフェイン中毒の音楽監督のために、華音は居候中の高野に頼んで、部屋の隅にコーヒーを淹れるための専用スペースを作ってもらった。
 ホームセンターで売っているような組み立て式のキッチンワゴンに、コーヒーメーカーを載せただけの簡単なものだ。
 コーヒー豆は、高野が経営する楽器店に出入りしているクラシック喫茶のマスターから一週間分ずつ挽いてもらい、缶に入れてある。水は軟水のミネラルウォーターをペットボトルに入れて、豆の隣に用意している。
 ドリップにペーパーフィルターをセットし、コーヒー豆を2杯、水は400ミリリットル。
 あとはコーヒーメーカーが上手く淹れてくれるはずだ。

 緩慢な時間の流れだ。
 仕事をし始めた頃と比べて、随分と沈黙の苦痛が和らいだ。
 芳しき香気が書斎の中をゆるりと漂っている。
 鷹山はこのコーヒーを淹れるときの、豆が息づくような芳醇な香りがたまらなく好きだという。目を瞑り、深く呼吸を繰り返すさまは、思わず見惚れてしまうほどだ。
 綺麗な顔をしている。透き通るようなきめ細かな白い肌。ひげの剃り跡も分からない。もともと薄い体質なのだろう。
 眠っているのだろうか――華音は鷹山にそっと近づき、顔を近づけて確かめようとすると。
 突然、鷹山の大きな瞳が開いた。至近距離で目と目が合う。
「ビッ、ビッ、ビックリさせないでください!」
 華音は慌てて飛び退いた。
 鷹山は取り乱すことなく、柔らかに問いただしてくる。
「……それは僕のセリフじゃないのか? どうしたの? 僕の顔に何かついてた?」
「鷹山さんにしては随分静かだから、呼吸止まっちゃってるんじゃないかと思って」
 華音は取り繕うようにして、言い訳を試みた。そのまま鷹山に背を向け、半ば逃げるようにしてコーヒーメーカーのワゴンまで移動する。

 ――いったい私は、何を?

 そんな挙動不審な華音を、悪魔な鷹山は見逃すはずもなく、わざとらしく食いついてくる。
「ふうん。もしそうだとしたらきっと――死因は、君が僕を驚かせたことによるショック死、だよ。ああ、世界的に貴重な才能の損失だ」
 また始まった――と、華音は思った。
 いつだってこの男の言うことは、大袈裟なのである。
「……へえ。見かけによらず、随分と心臓が弱くていらっしゃるんですね」
「そうさ。僕の心臓はガラスでできている」
「ああ、それって防弾ガラスでしょ。それなら納得です」
 華音のテンポの良い返答に、鷹山は声もなく身体を揺らして笑っている。今日は珍しく、大層機嫌がいいらしい。
 調子がいいとこうやって、会話を途切れさせることなくいつまでもじゃれ合いを続けてくる。
 口では鷹山には勝てない。
 しかし、それを何とかやり込めようと考えをめぐらしているとき、わずかに自分の気分が高揚していることに、華音は最近になってようやく気づき始めていた。
 きっと、いいストレス解消になっているのだろう。

「芹沢さん。君さ、シティフィルって知ってる?」
 華音は淹れたばかりのコーヒーをカップに注ぎ、ミルクのポーションをひとつだけスプーンの上に添え、それを鷹山へと差し出しながら、質問に答えた。
「知ってます。あそこの音楽監督はおじいちゃんの昔からの知り合いみたいです」
「大黒芳樹、ね。僕も名前は知っている。オケ業界では有名人だからね」
 そのとき、ふと。
 華音の心に、何か引っかかるものがあった。

【華音ちゃん、大黒芳樹って知ってるだろ?】

 富士川のマンションを訪ねたとき―― 一番弟子の彼が言っていたことを、華音は思い出した。

【こいつをいつまでも眠らせておくわけにはいかないからね】

 そう言って富士川は、師である芹沢英輔から与えられたヴァイオリン「ニコロ・アマティ」を、深き眼差しで見つめていた。
 そのときの情景がリアルによみがえってくる。

 鷹山は華音が淹れたコーヒーに口をつけた。
 液体を飲み込むたびに、喉が艶やかに動く。その様子に、華音はずっと見とれていた。
 鷹山はそんな華音の視線に、まったく気づいていないらしい。無造作にカップを元の位置に戻して、そのまま話を続ける。
「そのシティフィルが、うちにブッキングを仕掛けてきた」
「ブッキング? 何ですか、それ」
 鷹山はあきれ返ったように、嫌みったらしくため息をついてみせる。
「君の頭でも分かるように簡単に言うとね、演奏会の日時をぶつけてきたということだ。……常識がなさすぎだ。学校でいったい何習ってんだよ」
 口が悪い。いつものことなのだが――。
「演奏会の日時がかぶることくらい、別に珍しくないでしょ? そりゃ、お客さんの入りには多少影響があるかもしれないですけど。でも向こう、隣の市のオケだし」
 鷹山はデスクの上においてあったバインダーから、県の音楽連盟が取りまとめているイベントリストの紙を取り出した。そしてそれを華音に見えるように向けてくる。
「前もって決まっていたわけではなくて、あとひと月もないっていうこの時期に、突発的に開催を決めた演奏会なのに、か? その証拠にほら、ここ。場所も演目もまだ『仮』って書いてある。こんなの、誰かが作為的に仕掛けたに決まっているじゃないか」
「誰かって……?」
「『誰か』だって? そんな白々しい質問を僕にしようってのか?」
 鷹山が誰のことを言っているのか、華音には分かっていた。それでも、あえて知らないフリをする。
「だって、作為的ってつまり……わざとってことでしょ? そんなこと普通、ありえないですよ」
「つまり君は、富士川さんがそんなことをするはずがない――って言いたいのか?」
「別にそういうことじゃ、ないですけど」
 華音は鷹山に責められ、消え入りそうな声で返した。
 その言葉で、鷹山は何かの確証を得たらしい。納得したように数度、軽く頷いてみせる。
「へえ……富士川さんが移籍したってこと、やっぱり知ってたんだ。和久さんも口が軽いなあ」
 実のところ、華音は高野から聞いたわけではない。富士川本人の口から、それを聞いたのだ。
 しかし、それを鷹山に明かすことは、華音にはとてもできない。
「あの男以外ありえないよ。芹沢英輔先生を偲ぶ、なんてキャッチコピーもついているくらいだ。もちろん大黒氏の意向もあるとは思うけど。ハッ、何が芹沢先生追悼だよ。図々しい上に馬鹿馬鹿しい!」
 鷹山の表情が一変した。デスクを力任せに殴りつけると、半分ほど中身が残っているコーヒーカップとソーサーが派手な音を発てた。
 二番弟子の、兄弟子に対する相容れぬ感情が、時を経るごとに強まっていく。その事実が、華音の不安をなおいっそう掻き立てた。


 次の日の朝、午前八時をまわった頃である。
 夏休み中のため、自室でまだ寝ていた華音のもとへ、執事の乾がやってきた。
「華音様。起きてくださいませ――お客様がお見えでございます」
 華音が呼び声に気づき布団から顔を出すと、乾がベッドの足元のところに一歩分距離を置くようにして立っていた。
 しかし、華音はまったく状況が理解できていない。こんな早い時間に誰かと約束などしていないし、鷹山のアシスタントをするようになってからは、いつ何があるか分からないため、プライベートで遊ぶ予定もまったく入れていない状態なのである。
「お客って……誰?」
「旦那様と古くからお付き合いのあった方ですよ。大黒芳樹様の秘書の方です。華音様も、お名前はご存知かと思いますが」
「おおぐろ?」
 昨日鷹山と話していたばかりだ。記憶に新しい。
 大黒氏本人ではなく、秘書を務める人物とはいえ、華音が対等に話をできる相手ではない。
「どうしよう……鷹山さんはまだ来てないよね?」
「さすがにこの時間ではお見えになられてないです。高野様を起こしてまいりましょうか?」
 執事の乾の提案は、かなり気がすすまなかった。
 ある意味、高野を起こすほうが重労働だ。華音は首を横に振った。
「きっと布団に包まってミノムシになるだけだよ。とりあえず、用件だけ聞いてみる」
 難しい話ならメモに書き留めておいて、あと一時間ほどでここに姿を見せる音楽監督にそのまま伝えればいい。
 華音は急いで着替えると、大黒氏の秘書の待つ階下へと向かった。


 秘書ということだったので、華音は芹響でいうところの美濃部青年のような若者を思い浮かべていた。
 しかし、実際客間に通されていたのは、オーナーの赤城よりも幾分年上の、小柄な中年男性だった。口ひげを豊かに生やし、その風体はまるで小熊だ。
 小熊男は礼儀正しくお辞儀をし、穏やかに微笑んでいる。
「このたびは突然のご無礼をお許しください。そちら様が演奏会の会場をキャンセルされたということで、私どもが第一土曜日を使用させてもらうことになりました」
「キャ…………キャンセル?」
 何を言われているのか、華音にはまったく分からなかった。
 小熊男は華音の反応に構うことなく、淡々と説明を続ける。
「ええ。いつも第一土曜日は芹響さんが使用されていたようですので、常連のお客様の混乱も避けられないでしょうから、もし何かございましたら私が窓口になりますので、ご連絡いただければと思います」
 そう言って、大黒氏の秘書は持参した大きな封筒から、モノトーンでデザインされたチラシとサインペンを取り出し、余白に自分の名前と連絡先を書いた。
 そして用件をすませると男は長居は無用、とすぐに帰っていった。
 残されたチラシには、確かに芹響が定期演奏会を予定していた日時が刷られていた。鷹山が説明していた「ブッキング」だ。
 そして、さらに。
 開催場所のところにはっきりと「市立公会堂」という、ありえない五文字が明記されていたのである。


 華音はいてもたってもいられず、鷹山に電話をすることにした。
 緊急連絡用にと、携帯番号を教えてもらっていたのだが、実際にかけるのはこれが初めてだ。
 たったの数コールが永遠に続くような、そんな錯覚を覚えてしまう。
 しかし意外にも、目的の人物はすんなりと出た。
「鷹山さんですか? あの、芹沢ですけど」
『何だ、君か』
「朝早くにすみません。寝てたのならごめんなさい」
『こんな時間まで寝てるわけがないだろう。僕は早起きなんだよ』
「……老人みたいなんですね」
『フン、確かに君よりは年くってるけどね。それより――』
 鷹山はただならぬ状況を察知したようだった。
『どうした? 何があったんだ?』
 何と説明したらいいのだろう。頭の中で、先ほど小熊男が話していたことを自分なりに必死にまとめようとするが、華音自身、今ひとつ理解できていない。
 とりあえず考えられることを、華音は恐る恐る尋ねてみる。
「今度の定期演奏会を、あの……勝手にキャンセルさせたりして……ないですよね?」
『君、なに寝惚けたこと言ってるんだよ。朝っぱらからそんな笑えない冗談を聞いてる暇はないんだけど。何で僕がそんなことをしなくちゃいけないんだよ』
 受話器の向こうで、相変わらずまくしたてている。
 華音は構わず続けた。
「シティフィルの方が先程お見えになって、うちの定演がキャンセルになったから、その空いた日に公会堂を使わせてもらうって、言ってきたんですけど」
 黙った。
 鷹山の呆気にとられている顔が目に浮かぶ。
 それでもすぐに状況を把握したのか、受話器の向こうから鷹山のすばやい指示が飛んだ。
『今からすぐそっちに向かう。詳しい話はそのとき聞く。状況確認が必要だな。公会堂の事務局の電話番号を調べておいてくれ』
 華音が返事をする暇もなく、鷹山は一方的に電話を切った。


 鷹山は三十分ほどで芹沢邸に現れた。
 デスクの上に用意した公会堂の事務局の電話番号に、彼は自分の携帯からすばやくコールする。
 まだ九時前だ。事務局が開いているのは午前十時から午後七時まで。催事があるときは午後十時までとなっている。
 電話に出たのは公会堂の守衛らしかった。おそらく事務局が閉まっている間は守衛室に電話が繋がることになっているのだろう。
 鷹山は来月の第一土曜日の予定を守衛に尋ねている。電話の向こうでもたつく守衛に、鷹山は眉を寄せていらつきをあらわにしている。
 ひとしきり話して電話を切ると、鷹山は携帯をシャツの胸ポケットへ戻し、難しい顔をしながらため息をついた。
「事態は深刻だ。ブッキングどころか、会場を乗っ取られた」
「乗っ取られたって……どういうことなんですか?」
 鷹山はデスクを両掌で叩きつけた。会館の電話番号を記したメモ紙がふわりと浮かび、床へ舞い落ちる。
「まだ分からないのか? シティフィルは僕らが定演を予定していた日に、市立公会堂で演奏会をしようとしてるってことだよ」
 鷹山の尋常ではない剣幕に、華音は一瞬ひるんだ。
 やり場のない怒りが、鷹山の大きな両の瞳に満ちている。
「ええ? そんな、だって……毎月第一土曜日は芹響が定演をやることになっているはずなのに」
「誰が決めたんだ、そんなこと? まさか、市の人間がそう決めて勝手にホールの使用許可をとってくれているなんて、君はそんな愚かなことを考えてるわけじゃないだろうね」

 ――使用許可? ……そんなことを、突然言われても。

 演奏会がどうやって運営されているかなど――もちろん、今の華音の仕事が運営業務を管理することだということは、承知している。
 演奏会を行う日付を決めて、曲目を決めて、ポスターとチラシとプログラムとチケットを作って、地元紙の催事欄に宣伝をお願いして。そのくらいなら分かる。
 しかし、会場を押さえる方法など、その知識は皆無に等しい。
「うちのホームグラウンドはどこだ? 定演は市立公会堂でずっとやってきているはずだな? そう、『市立』。公共の建造物だ」
 鷹山は華音の反応を待たずに、ひたすら弁を振るう。
「つまり、公会堂は行政機関の下に置かれてる。融通を利かせてくれることは――正直、期待できない」
 言葉が出てこない。
 自分が取り返しのつかないミスをしてしまったのではないか、という恐怖が華音を襲う。しかし、今の華音にはいったいどんなミスをしたのか、それすら見当がつかない状態だった。
 鷹山は混乱している華音に、容赦なくたたみかけるようにして言う。
「凹んでるヒマがあったら、行動に移せ。公会堂に直接行って、話を聞いてくるんだ。午前中のうちにすませろ。戻り次第、僕に報告すること。分かったか?」
「……分かりました。すぐにやります」
 厳しい指示も、今の華音にとっては救いの光だ。とりあえず何をすべきか分かるだけで、随分と動きやすくなる。
 華音の前向きな反応を見て、鷹山は幾分語調を和らげた。
「失敗したらやり直せばいい。分からないことはすぐに調べて覚えたらいい。君は大きな責任を背負っているが、それと同時に皆の期待も背負っているんだということを――忘れるなよ?」
 責任、そして期待。
 今まで華音の身にそのような重い言葉がのしかかったことはなかった。
 何もできない。何も期待されない。
 祖父母や執事、兄代わりの富士川や高野に甘やかされた、温室育ちの娘に過ぎなかった。
 だが、この悪魔の二番弟子が音楽監督となってからの自分は、随分変わった――華音はそう感じていた。
 それがはたしていいほうなのか悪いほうなのか、それはまだ華音には分からない。

 華音が書斎をあとにしようとドアノブに手をかけたとき、鷹山の声が背中越しに響いてきた。
「しかし、とんでもない『鬼』の仕打ちだな。あの人にはつくづく失望させられる」
 無慈悲な冷たい『悪魔』の声が、華音の背中に突き刺さる。
 華音は振り向くことができなかった。身を引き裂かれてしまいそうな感覚に苛まされ、逃げるようにしてドアの外へと出た。



 華音は一階の廊下をあてもなくうろついていた。
 時間だけが空しく過ぎていく。
 自分一人で公会堂まで行くのは、あまりにも荷が重すぎる。
 音楽監督の鷹山が、楽団の人間は音楽だけに集中させるという主義であるなら、現況を相談すべきなのは――美濃部達朗でも、藤堂あかりでもない。

 ――どうしよう。ホントに、どうしよう……。

 ちょうどそこへ、ようやく起き出してきたらしいぼさぼさ頭の高野が、頭を掻き回しながら階段を下りてきた。
 華音は藁にもすがる思いで高野をつかまえると、今朝起こった出来事をかいつまんで話して聞かせた。
 まだ夢見心地の高野は、ときおり頷くだけの適当な反応をしていたが、やがて驚いたように目を瞬かせた。さすがに眠気が吹き飛んだようだ。
「ええ? 公会堂の乗っ取りだって? そんな、ジャック犯みたいな……それにしても、何でまた富士川ちゃんが……」
 それは華音にも分からない。
 誰よりも芹響を愛していたはずの人間が、どうして――にわかに信じられる話では、ない。
「公会堂の使用許可手続きのこととか、鷹山さんが公会堂まで行って聞いてこいって言うんだけど、何をどう聞いたらいいのか分かんなくて」
「とりあえず、俺もついていこうか? 公会堂の事務局まで乗っけてくよ」
 願ってもない話だ。期待していたとおりの展開に、華音は胸をなで下ろした。


 高野の身支度に手間取り、公会堂の駐車場へと滑り込んだときには、午前十時をまわっていた。
 事務局はすでに、通常通り開いている時間だ。
 公会堂正面の重厚なガラスの二重ドアから入りエントランスに出ると、正面に大階段がある。上がった先は大ホールの二階席、三階席へとつながっている。
 この大階段を上がらずに左のほうに延びる通路を進んでいくと、どこにでもありそうなオフィス空間へと変化する。公会堂の事務局は、その辺りにあるはずだ。

 高野は壁にはめ込まれた案内プレートを一部屋ごとに確認し、奥へ向かって先にどんどん歩いていく。
 華音は辺りを落ち着きなく見回しながら、高野の背中を追いかけた。
 ようやく目的の部屋を見つけたらしい。高野は得意げな笑顔で、華音を手招いた。
「オハヨーございます」
 高野の能天気な挨拶に、誰も答えようとはしない。
 公会堂の事務職員たちは無愛想だ。誰がやってきたかと確認するために、それぞれが持ち場のデスクで顔を上げ、視線を向けてくるだけだ。
 その中で、受付カウンターの一番近くにデスクのある男が、ゆっくりと立ち上がり、近づいてきた。
 恰幅のいいビヤ樽のような青年である。クーラーがきいている会館の事務室で、暑そうに額から汗を流している。ノーネクタイにサンダル履き。首からタオルを提げている。
「高野さんですね? 今日はどういった御用ですか?」
 その事務職員の青年は、どうやら高野の顔を知っているようだ。
 さすがに地元ではピアニストとしてそこそこ顔が売れているだけある、と華音は感心した。
「御用っていうか、まあ……芹響のさ、定演のことについてなんだけど」
 高野の煮え切らない説明で、事務職員の青年はすぐに察したようだった。
「このたびの一件ですよね? こちらといたしましても、使用規約に基づいて使用許可を出しているものですから……芹響さんのほうもいろいろと事情がおありでしたでしょうし」
「ここ何年もさ、毎月第一土曜日は芹響が大ホールを押さえてたよね? それはここの職員の方々も承知してたと思うんだけど」
「ええ、それはもちろん」

 職員の青年の説明によれば――。
「使用予約は半年前から受け付けております。その時点ではまだ仮受付状態で、使用予定日の一ヶ月前までに会館使用料をお支払いいただいた時点で、正式受付となるんですよ」
 別に難しいことは何もない。
 要するに。
 高野は確認するようにして、事務職員に訊き返す。
「ということは……一ヶ月前までに会館使用料を払わないと?」
「仮受付はキャンセルとなります」
 胸の鼓動がひときわ大きく、高鳴った。

 キャンセル――ああ。

 そのような事務的な手続きが存在していることすら、華音はまったく分かっていなかった。
 申し込んだら手続き完了、料金はすべて後払い――というわけにはいかないのだろうか。予約だの仮受付だの正式受付だの、ややこしくて何がなんだかわけが分からない。
「どこでもそんなもんですよ? 客の入りが悪いからといって、あとからお金が払えなくなった、なんてことになっても困りますし。それに、諸事情で上演できなくなる団体さんというのもまれにあるんですよ。そのときは使用希望の団体さんに、という感じでですね……」
 半ば同情したような事務職員の言葉を聞きながら、華音はことの重大さに気づかされていく。
 すでに告知している演奏会が、事務手続きのミスで開催不能に陥ってしまったなどと――あの悪魔の音楽監督に何と説明すればいいのだろう。
「指揮者の方が亡くなって、だから会館使用料の支払いが遅れたんだと思って……予約がいったん取り消されてから、その次の日に富士川さんがお見えになったんですよ。で、シティフィル、なんて聞き慣れない団体だったんで、あれ? とは思ったんですよね。私、てっきり楽団の名前が変わったんだと思って、何の疑問もなく手続きしてしまったんですけど……まさか芹響さんが別でやってるなんて」
「その、まさかなんだよねえ……」

 富士川さんだったから――、そう。
 もし手続きをしたのが他の人間だったなら、いくらなんでも乗っ取りなどということには、ならなかったのではないだろうか。
 先に仮予約を入れていた団体に確認も取らずに、別の団体に使用許可を出すなどと――。

「もともと予約は入れてあったんだよね? じゃあ今からでもさあ……」
 あまり説得力のない高野の言葉に、事務局の青年は必死に汗を拭いながら、渋い顔で首を横に振る。
「そう仰られましてもね。シティフィルさんもすでに正式な手続きを踏んでいますし……それに規則は規則ですから」
「そこを何とか! お願い!」
 華音も必死で食い下がった。
 しかし、やはり決定は覆らなかった。
「困りますね。それぞれの団体さんで話し合っていただくしかないですよ。前日の金曜か、次の日の日曜なら空いてますから、そちらでよろしければ手続きしますけど――」



 高野は、華音を芹沢邸の門前まで車で送り届けると、そのまま仕事に出かけていった。
 二階の書斎で、鷹山が華音の報告を待っている。
 このままどこか遠くへ逃げ出してしまいたい。
 華音はため息をつきつつ、前庭の中の歩道を重い足取りで歩いていた。

 ふと、顔を上げると。
 華音を待ち受けるようにして、玄関のところで美濃部が立っていた。心配そうな表情で、華音に合図するように片手を挙げてみせる。
 華音はいてもたってもいられずに、美濃部のもとへ駆け寄った。
「どうしよう、美濃部さん。私……大変なことしちゃったみたい」
「鷹山さんから、大方の話は聞きましたよ。すみません、私もうっかりしてました。華音さんのせいじゃないですよ。私から鷹山さんに説明してきますから」
 美濃部は鷹山の状況説明だけで、何が起こったのかを正確に把握したらしい。決して華音を責めることはせず、そのまま音楽監督のもとへ引き返そうとする。
「待って。でもそれじゃ火に油を注いじゃう、きっと」
 この美濃部青年が自分をかばって謝ったりしたら――。
 自分の失敗を咎められるよりも辛い責め苦が待っている。それは容易に想像がつくことだった。
「大丈夫、一緒に行きましょう。そんな心配そうな顔、しないでください。起こってしまったことは仕方がないですよ」
 美濃部は華音が気にかけている本当の理由を知らずに、華音をなだめた。


 華音は公会堂の事務職員から説明をされたことをそのまま、鷹山に伝えた。
 鷹山はデスクの端に腰をかけるようにして、腕を組み、無言で華音の話に耳を傾けている。
 身動き一つせず、相槌を打つことさえしない。ときおり、その大きな瞳を瞬かせるだけだ。
 説明を終えて華音が黙ってしまうと、悪魔な音楽監督は待ってましたと言わんばかりに、怒り文句の集中砲火を浴びせ始めた。
「話は分かった。つまり、事務手続きを怠ったことによって、告知どおりの演奏会はできないというわけだな?」
「金曜か日曜ならまだ空いているそうです……けど」
 鷹山の勢いに押されるようにして、華音は恐る恐る提案を試みる。しかし、すべてを言い終わらないうちに鷹山の怒声は一段とエスカレートする。
「僕たちが日程をずらす? そんな、あの男にしてやられるなんてご免だよ! 美濃部君、君はどう思う? こんな卑怯なやり方、許されると思うか? 富士川さんはこっちの内部事情を知っているんだ。知っててこんな真似を……許されるべきじゃない」
 兄弟子の名を口にするときにあえて、華音のほうに目線を向けた。
 大きな両の瞳が、華音を威圧する。
「そもそもこれは公会堂側の落ち度だろう? 予約していた団体から会館使用料の支払いがなかったなら、キャンセルしてもいいか確認の電話一本入れればすむ話じゃないか? それをだ、『よく見知っている富士川さんだったからてっきり名前が変わったと思って』、だと? 何なんだよてっきりって?」
 鷹山は怒りが収まらぬようだ。得意の弁舌を振るい、華音と美濃部をただ圧倒させる。
「もういい! 僕が行く」
「行くって、どこへです?」
「決まってるじゃないか、公会堂の無能な連中にひとこと言ってやるんだよ!」
 鷹山と美濃部のやり取りを聞き、思わず華音は呟きを漏らした。
「…………ホントにひとことですむんですか?」
「何? いま何て言った? 僕は地獄耳なんだからな! 君という人は、どうして僕の揚げ足をとるようなことばかり言うんだ。ああそうだよ。この僕がひとことですむわけがないじゃないか。会館側が決定を覆さない限り、僕はどこまでもわめき続けてやる!」
 もう、誰も止めることができない。
 華音はいたたまれない気持ちで、鷹山の機関銃のような喋りにじっと耐えていた。
 その時である。
「フン。やはり君は、まだまだ若造だな」
 部屋の中に突然、凛とした声が響いた。
 三人が声のするほうを同時に振り返ると、いつからいたのであろうか、書斎のドア付近に身なりの整った大男が立っていた。
「赤城さん? どうしたんですか?」
「あ、オーナー。お疲れ様です」
 華音と美濃部の言葉に、赤城は軽く頷いて応える。
 一方の鷹山は、露骨にうんざりとした顔をしてみせた。
「……またあなたですか。誰に断っていつもいつもここまで入り込んでるって言うんです?」
 赤城は三人のもとへ颯爽と歩み寄った。
「和久が教えてくれたんだ。本来なら、音楽監督の君から、オーナーである私に報告があってしかるべきだと思うのだが?」
「報告に至る前に、あなたが勝手にここまで来たんでしょう? まるでこらえ性のない……目の前にバナナをつるされた猿と一緒ですよ。いちいち出張って来るまでもなく、眺めのいい自室のデスクでおとなしく報告を待っていたらいいじゃないですか」
 赤城は鷹山の顔をじっと見据え、眉ひとつ動かそうとはしない。
 冷静だ。
 オーナーは頭に血が上っている若き音楽監督を一喝した。
「世の中には法というものがある。規律と秩序で満たされている。法や規律に縛られて身動きが取れず暴れるのは、若造のやることだと言ってるんだ」
 それに対して、鷹山の反論はなかった。白々しくそっぽを向いてみせる。
 赤城は一転して表情を緩め、今度は華音と美濃部のほうへと向き直った。
「思い通りに演奏会場が押さえられないというのであれば――芹沢君、君ならどうしたらいいと思うかな?」
 まるで先生と生徒のやり取りだ。華音は思っていたことを素直に答えた。
「会館の職員の人が言ってたみたいに、日程がぶつかった相手と話し合って説得してみる……とか」
「美濃部君は?」
「僕なら日にちをずらす方向で話を進める、でしょうかね。折衝にも手間がかかりますから、なるべく避けたいです」
「鷹山君はどうだい?」
 赤城は最後に、鷹山に同じ質問をした。
 怒鳴られ若造呼ばわりされたことがはなはだ不本意であったのか、鷹山は不機嫌な表情のまま、つけ離すように言った。
「…………公会堂の責任者に袖の下でも渡して、便宜を図ってもらったらどうです? 僕はやりませんけど」

「君たちのは本当、青二才の模範解答だな!」
 赤城が突然、大声を出した。

「……何なんです? 僕を挑発して怒らせたいのなら迷惑なだけです。早々に帰ってください」
 一触即発。
 華音は傍らにたたずむ美濃部青年の腕をつかんだ。そして、目の前で睨み合う二人の男の横顔を交互に見た。
 鷹山は凄んだ表情で赤城を見据えている。
 しかし赤城まったくひるむことなく、それどころか唇に笑みさえ浮かべ、さらりと言ってのけた。

「我々の自由になるホールを――造ればいいんだよ、鷹山君」

 二人の間に流れる微妙な空気。
 美濃部と華音はじっとやり取りを眺めていた。
 目の前の男が突然おかしなことを言い出したので、鷹山は唖然とした表情をみせた。

 造ればいいんだよ。造れば――。

「…………簡単に言いますけど、どれだけお金がかかると思っているんですか? いくらあなたが資金提供者だからといって……桁が三つは違いますよ?」
「もちろん大金だ。だから、音楽監督が中途半端な気持ちでは困るのだよ」

 オーナーは、試している。
 そして音楽監督は、試されている――。

「考えさせてください」
 さすがの鷹山も、途惑いを隠せずにいるようだ。
 確かに、即答しかねるほどの大きなプロジェクトである。
「もちろん今も中途半端だなんて決してそんなことはありませんが――正直、始めたばかりで将来的な展望すらまだつかめない状態なんです」
「即答してくれ」
 赤城はなおもたたみかけるようにして鷹山に迫った。
「将来的な展望がつかめない? つかめてから着手するのか? 人生、ときには大きな勝負も必要だ。自分自身の可能性を信じてすべてを賭けるのだ――さあ、答えてもらおう」
 それでも鷹山は、答えない。
 美しく透き通った両瞳に、惑いがみられる。

「造ってください」
 それまで黙って成り行きを見守っていた華音が、ためらう音楽監督に代わるようにして、オーナーの赤城に答えた。
「なに勝手なことを言ってるんだよ君は!」
「よし。ではこれからすぐに着手しよう」
「勝手に決めないでいただきたいですね。そんな無謀なこと、僕は絶対に認めませんよ」
 うんざりとした顔で、鷹山が釘を刺した。どう贔屓目に見ても鷹山のほうが正論である。
 しかし、この男の常識は型破りだ。
「芹沢君がいいと言っているんだ。私にとって、音楽監督の意見は二の次なんでね」
「……どういう意味です?」
「そのままの意味だよ。私は彼女に請われて最終的に出資の条件をのんだのだ。だから彼女の意見を優先する。簡単なことだよ」
 再び緊迫した雰囲気となる。
 華音は美濃部の背中に隠れるようにしながら、二人の男のやり取りをじっと固唾を飲んで見守っていた。見守る他はなかった。
「私は君のように天邪鬼ではないんでね。気に入ったら、愛情も金も惜しみなく注ぐさ」
 赤城は華音に目配せをし、一寸口の端を上げてわざとらしく愛想笑いをしてみせた。
 冗談なのか本気なのか、分からない。
 華音は怖々と鷹山の反応を待った。
 すると意外にも、鷹山は赤城に負けず劣らずの愛想笑いをしてみせた。
 極上の、天使の笑顔だ。
「あなたが注ぐのは、お金だけで結構ですよ?」
「フン、それが君の本心か――まあ、いいがね」
 赤城はそれ以上食いつくことはせず、肩をすくめた。そして、持ち前の采配手腕を披露してみせる。
「今回の演奏会にはさすがに間に合わないから、素直に規則に従い彼らに会場を譲りたまえ。次の日、日曜日の午後でいいじゃないか。日程をずらしたことによる過剰な出費は私が責任を持って負担しよう。これで芹沢君の失敗はチャラだ。何か意見はあるかな、音楽監督殿?」
「……好きにしてください」
 鷹山は半ば諦めの表情で、深く嘆息をもらした。


 赤城と美濃部が帰ってしまうと、鷹山は再び怒りがぶり返してきたのか――華音に向けて八つ当たり気味にわめき散らす。
「まったく、馬鹿げている! いいか、ああいう大劇場を運営するのは超一流の楽団や歌劇団を持つところばかりなんだぞ。こんな日本の吹けば飛ぶような半分アマチュアに足突っ込んだ団体じゃないんだよ。僕は海外で暮らしてたからよく分かっている。新しい劇場を建設してそれを運営していくなんて無謀もいいところだ! あのパトロン男ももう少し経営に関して分別のある人間だと思ったんだが……見込み違いだったようだ」
 鷹山は持ち前の饒舌を十二分に発揮し、息もつかせぬ勢いで一気にまくし立てる。
 何なんだろう、この男は。手当たり次第に悪意をむき出しにして、周囲の人間を困らせる。
 友好的に物事を進める――たったそれだけのことが、何故できないのであろうか。
 華音はもう、我慢ができなかった。
「鷹山さんが、芹響をその器に見合うだけの団体にさせればいいじゃない」
「……何だって?」
 怒った――。
 アシスタント如きに口答えをされたことが気に入らなかったのか、それとも。
 しかし、もうあとには退けない。
「できないんですか? あれだけの勢いで祥ちゃんに啖呵きっておいて、いまさらできないなんて……言えないと思うけど」

 歪んだ。
 この空間も。二人の関係も。
 そしてその、綺麗な音楽監督の顔も――。

 どうしてそんなことを言ってしまったのか。
 複雑な感情が入り混じる鷹山の表情を見て、華音は激しく後悔した。
「僕の前で二度と、その名前を出すな」