宿命の章 (13)  嫉妬に狂う悪魔

 暑くなりそうな一日の始まりだった。
 今日は日曜日。定期演奏会まではあと三週間に迫った。
 公会堂の一件ではいろいろと揉めたが、音楽監督も定演の日程の変更に渋々同意し、ようやく新しいポスターやチラシ、チケットが出来上がってきた。
「華音様、どちらへお出かけですか?」
 夏らしい日除けの帽子に涼しげな編みこみバッグ、ビニールコーティングされた丈夫な紙袋には筒状に丸められた紙が何本か――華音の出で立ちを見て、芹沢家の執事は興味深そうに尋ねてくる。
「あちこちのプレイガイドにね、ポスターの張り替えとかお願いしにいかなくちゃ駄目なの。鷹山さん、今日はどっかの演奏会を聴きにいくって言ってたから、珍しく私は一人、外回り」
「それは大変ですねえ。おひとりではとても回りきれないでしょうに」
 そんなことはない。鷹山の相手を始終しているよりは、ずっと気楽な仕事だ。
「夏休みが終わる頃には、正式に運営チームを発足させるって言ってたから、それまでの我慢だよ。それに、それぞれのプレイガイドには、もう電話で古いのを撤去してもらうように頼んであるから、二、三日中に回れば平気だし」
「手際がよろしいですね。感心いたしました」
 執事の誉め言葉を聞いて、華音は照れくさそうに笑い、人差し指を口に当ててみせた。
「電話は美濃部さんがしてくれたの。鷹山さんには内緒ね?」
 執事は穏やかな笑顔を見せた。
「心得ております。ではお気をつけて行ってらっしゃいませ」



 陽炎が揺らめいている。
 逃げ水。そうとも呼ばれている。
 茹だるような暑さの中、華音はひたすら逃げ水を追いかけるようにして歩いていた。もちろん、いつまで経っても追いつくことはできない。

 華音が向かった先は、市内のプレイガイドではなく、よく見知った白亜のマンションだった。
 目的の部屋のドアの前で、しばらくの間立ち尽くしていた。
 心を決め、インターホンを押した。しかし応答はない。
 華音はバッグの中から、富士川からもらった合鍵を取り出した。

 ――何だか、とても後ろめたい。

 それは勝手に部屋に入るという富士川に対する気持ちではなく、むしろ鷹山に対しての気持ちであることに、華音は薄々気づいていた。
 富士川はきっと自分を受け入れてくれるだろう。
 でもそれが、鷹山に対する裏切り行為でしかないということが、華音の心を苦しめる。

 ――でも、どうしても確かめたい。

 富士川は間もなく帰ってきた。どうやら昼食の買い物へ出かけていたらしい。手には買い物袋を下げている。
 富士川は大袈裟に驚くことはなかった。むしろこの状況を予測していたかのような、そんな落ち着きを見せている。
「祥ちゃん。ごめんなさい、勝手に入っちゃって」
「謝る必要なんかないよ。ちょっと痩せたんじゃないか? ご飯、ちゃんと食べてる? 高野さんも、もう少し気遣ってくれないと」
「案外ね、原因は高野先生とひとつ屋根の下で暮らすことによるストレスだったりして」
 おどけたように言う華音に対して、富士川の表情は冴えない。
 原因はそこではない。それはお互いが分かっている。ただ、それをあえて口に出さずにいるのは、ひどく不自然だった。
 華音は一寸考えたあと、聞きたかったことをストレートに切り出した。
「あのね。今度の公会堂での演奏会のこと……なんだけど」
「驚いたかい、華音ちゃん」
 美濃部青年が入団してくるまでは、芹響の運営雑用は富士川が一手に引き受けていた。
 そのため、公会堂の使用許可申請の流れも、富士川は充分詳しいはずだった。
「じゃあやっぱり、公会堂のことはわざと……なの?」
 眼鏡の奥の切れ長の瞳が、わずかに大きく見開かれる。
 富士川は肯定も否定もしなかった。しかし逆に、それがなによりの肯定の返事となる。
「前にも言っただろう? あの楽団は、名前は『芹沢』でも中身は別物だ、って」
 その答えに、華音の心は虚しさとやりきれなさで埋め尽くされていく。
 富士川はさらに続けた。
「でもさ、芹沢という名前にこだわる必要はないといったのは、あいつのほうなんだよ。だったら俺が、芹沢先生が慣れ親しんだホールで、芹沢先生と縁のある大黒先生を指揮者として、芹沢先生を追悼する演奏会をやりたいっていう、それだけのことさ。悪気があってやったことじゃないよ」
 祖父を慕う気持ちは変わっていないようだ。それが唯一の救いだ。
「あいつに芹沢先生を偲ぶ気持ちなんて、あるわけがないしな」
 富士川は伏目がちにため息をついてみせた。
 確かに、この一番弟子は、何も間違ったことは言っていない。
「鷹山さんは、確かにおじいちゃんのことをあまりよく思っていないみたいだけど、でもね――」
「『あまり』じゃなくて『まったく』だろ?」

 ――それは、違う。きっと。

 鷹山は、芹沢という名の重さを誰よりも知っている。芹沢という名を誰よりも愛し、そして憎んでいる。
 しかし、それを富士川に上手く伝えることができない。
「あいつに、辛い目に遭わされたりしてるの? いろいろ楽団の雑用を手伝わされてるって聞いたけど」
「また藤堂さん?」
 華音が露骨にうんざりとした顔をすると、富士川はそれを優しく諌めるように言った。
「そんな、藤堂のことを告げ口魔みたいに言わないの。チラッとそんな話が出ただけで、詳しくは藤堂も話してなかったし。華音ちゃんが楽団の仕事を手伝うだなんて、俺がいた頃はありえなかったからさ」
 詳しく話していない――しかし、何かと富士川に連絡をしていることは事実なのだ。おそらく、現在の芹響のことは、逐一話しているのだろう。
 華音のこと、そして鷹山のことを――。
「そう。分かんないことだらけなの。私、ホントに何にも知らなかったんだなーって、毎日毎日思い知らされてるよ。辛いなんて感じる余裕もないくらい。振り回されてるのは確かだけど、美濃部さんも助けてくれるし、大丈夫」
 自分の知らないところで、富士川祥と藤堂あかりが繋がっている。
 おぞましい。
 自分はただの部外者。もう――聞きたくない。
「華音ちゃん」
「大丈夫だから。まだ、頑張れるから。バイト代ね、結構いいんだよ? オーナーの赤城さんってね、羽振りがいいみたい。身寄りのない私に同情しちゃってるのかもしれないけど」
 ひとり喋りまくる華音の気持ちを知ってか知らずか、富士川は穏やかに頷いている。
「俺はね、芹沢先生と出会えたことが奇跡的で、本当に嬉しいと思っている。もちろん華音ちゃんともね」
「分かってる」
「俺、芹沢先生の一番弟子だっていうことを、誇りに思えるようになりたいんだ」
「うん」
「辛くてどうしようもなくなったら、俺を頼って。芹響を勝手に辞めた俺が言うセリフじゃないのかもしれないけど」
「ありがとう」
 もう、うわべだけの答えしか出てこない。
「どんなことがあっても、俺は華音ちゃんの敵にだけはならないから」
 敵ではなくても。
 もう、味方でもないのだ――と、華音は悟った。


 会いに行かなければよかった。
 そうすれば、こんなにも苦しまずにすんだかもしれない。
 富士川のマンションを出たあと、華音はひたすら後悔の念に駆られ、自己嫌悪に陥っていた。
 どんなに自分が頑張ってみたところで、富士川との以前のような関係は取り戻すことができないのだ。

 ――分からない。何やってるんだろ、私……。

 華音はその辺の適当なファストフード店に入ると、アイスカフェオレを注文し、一杯で延々と粘りながら、夕方までずっと思考の堂々巡りを続けていた。



 結局、プレイガイド回りはひとつもすませられなかった。
 華音は家に戻り、とりあえずポスターやチラシの入った紙袋を、二階の書斎まで置いてくることにした。
 疲れた。もう――疲れてしまった。
 華音は重い足を引きずるようにして、薄暗い書斎の中へ電気も点けずに入っていった。
「こんな時間まで、どこをほっつき歩いていた」
 華音は心臓が縮み上がるような思いで、とっさに声のほうを振り返った。
 夕闇の中に男の影が浮かび上がる。
 そこにいたのは――。
「た、高野楽器店まで、チケットとポスターを届けに」
 まさか鷹山が芹沢邸に顔を出すとは思っていなかったため、華音は完全に油断しきっていた。とっさに口をついて出た言い訳が、鷹山の声色をさらに強ばらせる。
「そんな陳腐な嘘、僕に通用すると思ってるのか?」
 夕陽の窓を背にして、鷹山の表情が分からない。
「僕は今日、和久さんと一緒だった。高野楽器のプレイガイドは開いてなかったはずだけどな」

 ――しまった。

 さすがに高野の予定まではチェックしていなかった。
 鷹山は立ち尽くす華音のもとへ、一歩また一歩、近づいてくる。
 いつもと何かが違う。
 ようやく薄暗闇に悪魔の顔が浮かび上がった。
「自分の口から言えないのか? やましい心があるからだろう。君が僕に嘘をつく理由は、ひとつしかない」
 鷹山は華音の持っていたバッグをぶんどり、そしてその中身を自分のデスクの上にぶちまけた。
「何するの!?」
「フン。何だよ、こんなもの」
 鷹山は目ざとく富士川のマンションの合鍵を見つけ、つかんで床に投げ落とした。そして、それをさらに足で蹴り飛ばした。
 書斎の床の上を、クローバーのキーホルダーが滑っていく。
 富士川の部屋の鍵のことは、華音は誰にも言ったことがない。
 けれども、それはどう見てもよくあるどこかの部屋の合鍵の形状だ。そして執事のいる芹沢邸では、家の鍵を携帯する習慣がない。
 鷹山はおそろしく勘のいい男だ。それらの状況をすべて踏まえたうえで、真実を導き出したらしい。
 怖い。鷹山の目が、怖い。
 華音は逃げようと鷹山に背を向け、ドアのほうへと駆け出そうとした。
 しかし、ものすごい勢いで腕をつかまえられたかと思うと、そのまま鷹山に背中から抱きすくめられてしまった。
「やめて……お願い……」
 懇願の言葉にも耳を貸さず、鷹山はいっそう腕の力を強めた。
 完全に動きを封じられてしまう。
「どうして僕が君をそばに置くと言ったのか、理由は想像ついただろう?」
 耳元で鷹山がささやくように言った。普段よりも幾分低い鷹山の声が、吐息とともに鼓膜に響き、華音の脳天を痺れさせる。
「いやあああああ!!」
 恐怖で身が張り裂けてしまいそうだった。震えが止まらない。
「誰の手も触れさせたくないんだよ。あの赤城という男も、追い出してやったあの兄貴面している男も。君の口からその名前を聞くのもおぞましいのに――何だよ、僕に隠れて密会か? ふざけるなよ!」
 鷹山は腕の力を緩めると、華音の背中を押してソファへと突き飛ばした。
 体勢を整える間もなく、鷹山は半ば圧し掛かるような形で、華音の両腕をそれぞれの手で押さえつけてくる。

 ――もう……駄目。

「僕のものになってよ」
 大きな大きな琥珀色の瞳。
「僕だけのものになれよ」
 怖い怖い怖い怖い。ああ。
 目の前の男が、壊れていく。
「助けて! 誰か!」
「呼んだって誰も来ない」
「……祥、ちゃん」
 華音の口から出た名前に、鷹山は蔑むようにして目を細めた。
「違うだろ。君がこんな目に遭っても、あの男は助けになんか来ない。君だって充分分かっているはずさ。あの男は君のことを見捨てたんだよ」
 止めて。もう止めて。
「あの男じゃなく、僕の名前を呼べ」
 そんなことを、言われても。
「呼ぶんだ、さあ!」

 もう、限界だ。
 我慢という名の糸が切れた。
 華音は圧し掛かる鷹山の身体の下で、残る力をすべてふり絞り、首を大きく横に振った。
「呼べない……そんな、呼べるわけないじゃない。だって……あなたは私の、本当の……お兄さん……なんでしょ!?」
 華音を押さえつけていた鷹山の手の力がふと緩んだ。
「何で君がそれを知ってるんだよ」

 とうとう――――。

 禁じられた言葉を、口にしてしまった。

 鷹山の両目は大きく見開かれたままだ。瞬くことも忘れ、華音の顔を凝視してくる。
 微かに震える鷹山の唇が、二人の間の空気をさらに張り詰めさせる。
「いつから知ってたんだよ。誰から聞いた?」
 あまりの恐怖に、華音の涙腺は完全に萎縮してしまっている。もはや泣き叫ぶことも、できない。
「放して……ちゃんと言うから――お願い」
 鷹山は呆然とした表情のまま、華音の願いを聞き入れ、ゆっくりと束縛を解き放った。ソファから下り、無作法構わずセンターテーブルに腰かける。
 華音はようやくソファから身を起こし、数度深呼吸を繰り返した。
「鷹山さんがいったんウィーンへ戻る前に……赤城さんが興信所の調査結果を教えてくれたの。高野先生は困ってた。鷹山さんはきっと言うつもりはないから、私に知らないフリを通せって……」
「言ったのかあの男に!? 富士川さんは」
 混乱隠せぬ鷹山に、華音はたたみかけるようにして訴えた。
「言えるわけないじゃない! 言ったら祥ちゃんはもう、ここへは戻ってこない。鷹山さんがおじいちゃんの孫だなんて知ったら、ますます居場所がないと思い込んで……」
「君はまだ、あの男がのこのこ戻ってくることを夢見てるのか?」
 吐き捨てるようにそう言うと、鷹山はまるで気が触れたかのように、突然大声で笑い出した。
「……何がそんなに、可笑しいの?」
「そんなことは絶対に起こりえない。僕がさせない」
 華音は言葉を失った。
「だったらもう、遠慮は無用だな。君には真実を知る権利がある。あの日僕たちの身に、何が起こったのかを」

 ――あの日僕たちの身に。

 鷹山は強引に華音の手首をつかみ立ち上がらせると、書斎の外へと連れ出した。
 華音は半ば引きずられるようにして廊下を歩かされ、階段を下り、やがて一階奥の応接室の前まで連れてこられる。
 華音はそのまま鷹山に応接室の中へと引きずり込まれた。そして、ようやくつかまれていた手が離されたかと思うと、床へと突き飛ばされた。
「な……何するの!?」
「ちょうど今、君がひざまずいている辺りだ」
 見下ろす鷹山の目は、無慈悲なまでに冷たい。

「十五年前、その場所で僕は――『芹沢』の名を捨てさせられた」



 十五年前の、あの日――。

【あのとき楽ちゃんはもう小学生だったからね】

 華音の脳裏に、高野の言葉がよみがえってくる。
「この家のことなんか何も知らない、その辺の小学生と一緒だった。優しい父さんと母さんと……そして、生まれたばかりの妹と、小さなアパートで家族仲睦まじく平和に暮らしていたよ。十五年前のあの日まではね」
 生まれたばかりの妹。それがきっと、私。
 鷹山の声は落ち着いている。
「お前のような悪魔は要らないと、初めて会った父さんの母親という人に言われた。お前は息子をたぶらかして死に追いやったあの魔性の女の分身だと。その場所で、僕の顔の真ん中をこうやって指差してね」
 鷹山は、床にひざまずいたままの華音の真正面に立ち、見上げている顔のちょうど鼻先の辺りに指をつきたてた。
 怖い。怖くてたまらない。
 しかしこの恐怖は、十五年前の鷹山少年の記憶の中の感情とシンクロしている。
 部屋の風景は、何一つ変わっていないはずだ。

 十五年前。大好きだった両親がいなくなった日――。
 初めてつれてこられた広い洋館の、前庭の見える応接間の一室で。知らない大人たちに囲まれて。

 そう。
 あの日、まさにこの場所に、鷹山と華音はいたのだ。

 九歳になったばかりの小学生と、まだ歩くこともできない一歳の赤ちゃんと。

「母さんのことを悪く言うのは許せなかった。引き取られるなんて、こっちから願い下げだった」
 すっかり日が落ちた。
 暗闇の中で、鷹山の声だけが室内に響き渡る。
「英輔先生は……父さんにとても厳しかったようだから、あまりいい印象を持っていなかったよ。それでも毎年北海道まで会いにきてくれた。初めは鷹山の父さんも僕と会わせようとしなかったけど。君と離れてから三年かな、僕が中学生になろうというときにね、英輔先生は僕の前にあのストラディバリウスを持って現れた」
 遠い遠い昔の話をするように、鷹山は淡々と説明を続ける。
「英輔先生がどんなに父さんを愛していて、そして自分の愛用したヴァイオリンを使って欲しかったのか。どうして父さんがヴァイオリンをやめて芹沢の家を出たのか――」
 以前オーナーの赤城から聞いていた、左指が不自由だったという父親の話を、華音は思い出した。
「母さんと、まだお腹の中にいた僕を守るためにね。ひょっとしたら、ヴァイオリンをやめる理由を必死に探していたのかもしれないけれど」
 両親の話をするときの鷹山の顔は、天使のような穏やかさだ。
 華音の知らない、自分「たち」の両親の話。
「だから僕は、ヴァイオリンをやることを受け入れた。君も知っているだろうけど、富士川さんは僕のストラディバリウスをやっかんでいる。ハッ、こればかりは仕方がないじゃないか。弟子の順番が問題なんじゃない。実力の差でもない。あれは僕ではなくて本当は父さんのものだからだ!」

 芹沢先生が現役時代に使用していた特別な楽器。
 どうして。どうして芹沢先生は、あの不敬不遜な二番弟子なんかに。
 一番弟子の気概と内なる情熱。
 あいつがあれを持つ資格はない、と悔しそうにもらす富士川の顔を、華音ははっきりと思い出す。

 ――そういうことだった、なんて。

「僕が実の兄だと知っていたのなら、きっと不思議に思っていただろう? どうして僕が、芹沢の名を名乗ることができずに、二番弟子なんてありがた迷惑な肩書きを与えられているか、ってことを。英輔先生は僕に言ったんだよ。『今はまだ孫として認めてやれなくても、妻もいつか分かってくれる日が来るから』ってね。それを僕は受け入れた。英輔先生の孫としてではなく弟子の一人として扱われることをね。どんなに屈辱でもどんなに無様でもどんなに憎んでいても――この芹沢の家との繋がりを無くしたくなかった」
 これが真実。
 これがすべて。
「君だよ」
 時間が二人を越えていく。
 十五年という長き時間の呪縛から今、解き放たれようとしている。
「君がこの家に引き取られたからさ。たった一人の妹をそばに留め置けない、自分の非力さを嫌というほど痛感させられた。どうして自分は子供なんだろうと――」
 鷹山の声が震えている。その振動が華音の胸まで伝わってくる。
「僕は一日だって君のこと、忘れたことはなかったのに」
 優しい優しい、慈しむような声。

 ――こんなの、嘘。

「気づけばあの男が君のそばで、しかもこの家に居候までして家族同然の暮らしを送っていた。君のはしゃぐ姿を陰からそっと見てどんなに心が締めつけられたか!! 嫉妬と憎悪で狂いそうだった。いや――僕は狂ったんだよ」
 冷たく悲しい、蔑み嘲るような声。

 富士川祥が一番弟子として、芹沢家に居候としてやってきて、華音と実の兄妹のように過ごしていた優しい優しい記憶が今、音もなく崩れゆく。

 ――だって。

 ――だってそんなこと、知らなかった。

「僕ね、あの日までは――芹沢楽人だったんだよ」
 鷹山が、苦しんでいる。
 大きな瞳、長い睫毛、白い肌に栗色のクセのない髪。
 綺麗に整ったその顔が、母親から受け継いだ類い稀なる美貌が、幼き兄妹の運命を分けてしまうことになった。
 自分の息子に似ていた赤ちゃんには、芹沢の名を。
 大切な息子を奪った魔性の女の分身に、その名を名乗る権利はない。
 それまで芹沢楽人として生きてきた少年は、養子に出された先の『鷹山』を名乗ることを余儀なくされ――。

【芹沢芹沢と、なぜあなたが、そこまで名前にこだわるんです?】

【僕はね、芹沢の名を汚すような真似をする人間が、気に入らないんだよ】

【そして、芹沢の名を軽々しく口にする人間もね、気に入らない】

「君と僕は『芹沢』という名で繋がっている。そう――君は、僕のものなんだよ」
 違う。この感情は、絶対に違う。
 華音はわずかに残る理性で、必死に抵抗を試みた。
「そんな……いまさら、お兄ちゃんだなんて、思えるわけないじゃない!」
「それは奇遇だな――僕もだ」
 薄暗闇の中で、彼の焦げ茶色の大きな瞳に自分の顔が微かに映るのを、華音は見た。
 瞬間。
 鷹山は強引に華音の両手首をつかみ、そのまま身体ごと床へと押しつけた。
 突如襲う逃れられぬ恐怖に、華音は半狂乱で叫ぶ。その悲鳴はすぐさま、鷹山の唇で塞がれた。
 重い。鷹山の身体が容赦なく圧し掛かってくる。
 逃れようともがいても、床に後頭部を擦りつけるばかり。
 あまりの恐怖に震えが止まらず、見開いたままの華音の両目からは涙があふれた。

 ――もう……ダメ。

 富士川への想い。
 鷹山との断ち切れぬ鎖。

 ――拒みきれない。

 初めて受ける濃厚な口づけの感触に途惑いつつも、抗う力がどんどん失われていく。
 やがて完全に抵抗を止めてしまうと、鷹山は華音の気持ちの変化を確かめるように、ゆっくりと唇を離した。
 華音の両こめかみに伝う涙を、悪魔は繊細な指先で優しく拭う。
「本当に君だけを愛している。誰の手も触れさせたくないほどに。毎日毎日僕は君のことだけを考え、君のことだけを支えにして生き抜いてきたんだ」
 華音は鷹山の言葉をうわの空で聞きながら、荒い呼吸を繰り返していた。

 鷹山は身を起こし華音を解放すると、すぐそばのソファに華音を腰かけさせた。そしてゆっくりと華音の正面に回り込み、片膝をついて座る。
「僕のそばからもう二度と離れるな」
 鷹山は左手で優しく華音の髪をすくうようにして、頭をなでた。
「祥ちゃんには言わないで……言わないって約束して、お願い」
 それが華音の、精一杯の返事だった。
 しかし悪魔には、その言葉は不服だったらしい。
 華音の髪をすくい上げていた手が止まった。
「僕と君が本当の兄妹で、僕が正当な芹沢の血を持つ人間であることか? 君が僕の腕を刺してヴァイオリンを弾けなくさせたことか? それとも僕が今――君にしたこと? どれだよ、あの男に言って欲しくないことは!?」
 鷹山の吐き捨てるような言葉に、華音は新たな衝撃を受けた。
「い、いま何て……ヴァイオリンが……弾けなくなった……って、そんな」
 華音の髪をもてあそぶようにしていた鷹山の左手に、こわごわと自分の右手を重ね合わせた。
 細く長い繊細そうな指。
 だが、華音の手よりもずっと大きく骨っぽい。やはり男だ。
 鷹山は華音の手を握り返してくる。
 やはり、薬指と小指の力が幾分弱いのが、はっきりと感じられた。
「元通りにはならない。奇しくも、父さんと同じ左手だ」
 鷹山は手の力を緩めると、華音の手は力なくソファの座面へと下ろされた。

 父さんと同じ、左手が。

 鷹山はもはや言葉を失っている華音に寄り添うようにして、ソファに腰かけた。華音の肩に手を回し、そっと包み込むようにして華音の身体を抱き寄せる。
 鷹山の腕の中で、華音は罪の意識に苛まされていた。
 ヴァイオリンを駄目にしただけではなかった。
 鷹山の腕を、弦を押さえるための左指を駄目にしてしまっていた、なんて――。
 忌まわしき一夜の惨劇が、再び華音の脳裏によみがえる。

 あのとき、二人はすでに――堕ちていたのだ。

「別にいいんだよ、もう弾く理由もない。君が僕のそばにいてくれるのなら、そして君と一緒に僕たちの楽団を守っていけるのなら、それでいいんだ」
 優しく耳元でささやく鷹山の顔を、華音は見つめた。
「君を手に入れるためなら腕の一本や二本、惜しくなんかない――あの男のことはもう、忘れてしまえ。これからはずっと、僕が君のそばにいる。そう、ずっとだ」
 鷹山の腕に再び力が込められる。
 華音はもはや抵抗する力もなく、優しい富士川の顔をかき消すように両目を閉じ、鷹山の口づけを受け入れた。
 もう何も見えない。
 月も照らさぬ漆黒の闇の中で、鷹山の重みは徐々に増していく。伴うソファの軋む音を、華音は実兄の温もりの中で聞いた。


(宿命の章 了)