夢幻の章 (1)  どんなに欺いても

 夏休みが明けたばかりの土曜日だというのに、華音はわざわざ学校へ行き、全国模試なるものを受けさせられていた。
 午前三科目、午後二科目。まさに地獄だ。
 最終科目を受け終えたときには、もう脳が疲れ果てていた。硬い椅子に座りっぱなしでお尻も痛い。歩いて帰るのも億劫だった。
 外に出ると、初秋の風が心地よい。華音はのんびりと家に向かって歩き出した。
 ふと見ると。
 校門のところにツヤの美しい黒の高級車が停まっている。
 BMWの青と白のエンブレムが、そのクオリティを主張する。通りすがりの下校中の生徒から、早くも声が上がっている。
「ビーエムだ、ビーエム」
「お迎え? うわ、誰だよ?」
 明らかに異質である。
 華音が通うのは、どこにでもある公立の普通高校だ。裕福な家庭の生徒も中にはいるかもしれないが、限りなく少数だ。
 その珍しい光景に、華音も目を奪われていた。歩きながらその車の脇を通り過ぎようとした、そのとき――。
 身なりの整った男が運転席から降りた。
 すらりとした長身。父兄とは思えぬ若さ。再び周囲の視線を集めている。
 華音は思わず絶句した。
 目の前に現れたのは、赤城麗児という青年実業家だった。とてもよく見知った男だ。芹沢交響楽団のオーナーであり、華音のアルバイトの雇い主でもある。
「……何やってるんですか、こんなところで」
「見れば分かるだろう。迎えに来た」
「誰をですか」
「この学校関係者に、私は君しか知り合いはいないよ。さあ、乗りたまえ」
 話がまったく見えない。そもそも、この青年実業家と華音は、送り迎えをする関係にはなかったはずだ。
「歩いて帰りますから結構です。今日は鷹山さん出かけるから、急いで帰る必要もないし」
「だったら、なおさら好都合じゃないか。いいからさあ、早く助手席へ」
 華音は赤城に強引に腕をつかまれ、無理矢理助手席のシートに押し込められてしまう。
 逆らうのも面倒だったので、華音はすぐに観念してしまった。騒いでみたところで、見ている他の生徒たちに良からぬ誤解をされるだけだ。それは何としてでも避けたい。
 適当に親戚のオジサンってことにしておこうか――華音はそれらしい言い訳をあれこれ考えた。


 何の衝撃もなく緩やかに車体は動き出す。滑らかな加速、そして減速。慣れた操作だ。
 この赤城という男は、身なりから振る舞いに至るまで、どこにも隙がない。
「赤城さん、自分で運転するんですか」
「自分で運転するのが一番安全で安心だ」
 多忙な大企業のトップには、運転手が付き物だ、と華音は勝手に思っていた。
 自分でできることは、決して他人の手に委ねたりしない――赤城のそういう部分は、いかにもやり手の青年実業家らしい。

 気がつくと、車はまったく見覚えのない風景の中を走っていた。ちょっと遠回りなど、そんなレベルではない。
「この道、違いますけど」
 華音の問いに、赤城は答えない。
「ちょっと赤城さん、どこに行くんですか? 降ろしてください!」
「途中下車は許されない」
 ハンドルを握る赤城の横顔が、いつにもまして冷たい。
 見知った男だからと、簡単に車に乗ってしまったことを、華音はようやく後悔していた。しかしすでに――――遅すぎる。
 華音は口を閉ざし、ドアに身を寄せるようにして、襲いくる不安と必死に戦っていた。
「私が怖いか? ふふん、そんな怯えた顔しなくても、もうすぐ着く」
 助手席でうずくまるようにしている華音を見て、赤城は可笑しくなさそうに笑った。

「降りなさい」
 赤城に言われるがまま車を降りるとそこは、高級感あふれる佇まいのブティックだった。華音が普段買い物するような百貨店のテナントとは一線を画している。
 表通りから一本奥に入った落ち着いた雰囲気。確実に顧客を選ぶ店構えだ。
 間違っても制服姿の高校生がうろついていい店ではない。

「この娘に似合いそうなドレスを見立ててやってくれないか」
 店長らしき女性は訝しげな眼差しで、華音と赤城を交互に見た。
「どうした?」
 赤城が理由を尋ねると、女店長は躊躇せずに言った。
「こんなに大きな姪御さんもいないはずだし、ひょっとして、援助交際なのかしら、って」
「馬鹿言え。取引先のご令嬢で、私の婚約者だ」
 何を言い出すのかと思えば、この男ときたら――華音はすかさず反論した。
「ちょっと赤城さん! 何笑えない冗談言ってるんですか? 婚約者なんかじゃありません。ましてや援助交際なんて……ひどすぎる」
 どうやら赤城と女店長は顔馴染らしい。くだけた調子の会話がひたすら続く。
「あらあら、随分と嫌がられたものね?」
「照れてるだけだ。まだまだ子供だからな」
「照れてなんか、い、ま、せ、ん」
 華音はしかめ面をしながら、赤城の顔を見上げた。一方の赤城は、悪びれずに肩をすくめてみせる。
 ブティックの女店長は、そんな二人の様子を見て、楽しげに声を上げて笑い出した。
「ごめんなさいね。私は赤城先輩と学生時代からの知り合いなの。あなたをからかうつもりはなかったんだけど」
 言っているそばから、女店長は次々とドレスをあてがっていく。そして、その中から手馴れたふうに一着選び出すと、華音を試着室へと無理矢理引っ張っていった。
 華音はもう何が何だかわけも分からず、されるがままになっていた。

 十分後――。
「なかなか似合うじゃないか。見違えたよ」
 赤城は店内にあるちょっとした休憩スペースの椅子に座り、別の店員に給仕されたらしい紅茶を飲みながらくつろいでいた。そして、試着を終えたばかりの華音に「優等生な彼氏」的反応を見せる。
「誉め言葉なんか要りません。それよりなんでこんな……」
 華音は落ち着きなくドレスを触っていた。艶のある綺麗なピンクだ。同色のミュールもあわせてコーディネートしてもらった。
 赤城は満足そうに目を細め頷くと、淡々と説明した。
「これも仕事のうちだ。鷹山君にはちゃんと了承を得てある。これから、ちょっとしたパーティーにね」
「嘘。私、何も聞いてないんですけど」
「だったら今ここで、彼に電話をかけて聞いてみたらいい」

 今日の音楽監督のスケジュールは、十八時より外出。
 本来であれば、今日は芹沢交響楽団の月例定期演奏会のはずだった。しかし、いろいろな経緯で、別団体に会場である市立公会堂を明け渡すこととなったのである。
 今日、市立公会堂ではシティフィルハーモニー管弦楽団による「芹沢英輔追悼の夕べ」が上演される。
 鷹山は指揮者を務める大黒芳樹氏と面識があり、芹沢英輔の弟子という立場上顔を出さないわけにもいかないからと、コンサートマスターの美濃部と二人で敵陣に乗り込んでいくことになっていた。
 店内の壁掛け時計を確認する。この時間では、まだ公会堂の外にいるはずだ。

 鷹山の携帯電話にかけると、すぐに本人が出た。
 とりあえず赤城の言っていたことを確かめようと説明をすると、あっけないほど簡単に答えが返ってくる。
『本当だよ。コンタクトを取って欲しい人物がいる』
「どうして、鷹山さんが直接会わないんですか?」
『仕方ないじゃないか。身体が一つしかないんだから。……ところで、君は今どこだ?』
 今この状況をどう説明したものか――華音は一瞬途惑ったが、とりあえずありのままを説明した。
「あの、赤城さんに連れてこられて、なんかお洒落なブティックにいますけど」
『誰が服なんか買えって言ったよ。パーティーに着ていくようなワンピースくらい、幾らでも持ってるだろ? 僕はそこまで許した覚えは無い。君も君だよ。どうしてそう簡単にあの男の言いなりになるんだ?』
 鷹山は持ち前の饒舌を十二分に活かし、携帯電話が壊れてしまいそうなほどの勢いで喋りまくる。その剣幕は、予想以上だ。
「……だから、無理矢理連れてこられたんですって。パーティーのことなんか聞いていなかったので、どうしていいのか分かんなかったんです。……そんなに怒鳴らなくたっていいじゃない」
『フン。君とは充分話す必要があるらしいな。帰ったらまっすぐ僕のところへ来るんだ。分かったな?』

 心臓の鼓動が一つ、跳ね上がった。

 いったい何を言われるのだろう。
 いったい何を――――されるのだろう。

 華音の頭の中はもうぐちゃぐちゃだ。返事をしようにも言葉が出てこない。
「貸してくれ」
 状況を見かねた赤城が、華音の背後から携帯をぶんどった。そして、つけ入る隙を与えずに店内に響き渡るような大声で、まくしたてた。
「これは仕事だと言っただろう。彼女の衣装代もきちんと必要経費として計上する。パーティーのエスコートは私に任せて、君はせいぜい敵情視察に精を出したらいい。では失礼する」
「あ、切っちゃった……んもう、赤城さん! あとでフォローするの、大変なんですから!」
 鷹山の不機嫌最高潮の顔が目に浮かび、華音は絶望的な気持ちになった。
 一人取り乱す華音を、赤城は冷静に眺めている。
「私はね、君の倍以上の時間、生きているんだ」
 華音は十六歳、赤城は三十七歳、その歳の差は二十歳以上だ。
 親子でも充分にありえる。しかし、赤城の外見は実年齢よりずっと若い。婚約者だとうそぶいても、違和感はない。
「何があった?」
「なにも――――無いですけど」
「じゃあその首についてる痕はどう説明する?」
 華音はとっさに右手で首の左側を触った。
 制服のシャツを着ているときには見えない位置だったが、大人っぽいデザインの薄桃色のカクテルドレスは、首筋があらわにされたデザインだ。
 華音は油断していた。つけられた『痕』は、ほぼ九割方消えかかっている。
「おいおい……嘘だと言ってくれ」
 おそらく赤城も確信があって言ったわけではなかったのだろう。しかし、痕がついた「理由」は分からなくても、その「原因」が何であるかは、大人の男にとっては疑問の余地もないこと。
 なにより華音のその反応が、赤城の予想を裏付ける結果となる。
「君たちは本当の兄妹なんだぞ? 承知の上か? それとも――――私の力が必要か?」
「どういう……意味ですか、それ」
「合意の上か、それとも強いられているのか。簡単なことだ。もちろん答えたくなかったら、答える必要はない」

 華音は、「黙秘」を選択した。


 再び車に乗り込み、鷹山の言う『パーティー』に出発する。会場は、市内で最も格調の高い欧風ホテルらしい。華音も名前は知っているが、建物の中に入るのは初めてだった。
 車内はしばらく無言のままだった。
 赤城の運転は丁寧だ。もちろん車が高級だということもあるのだろうが、騒音も振動も少なく乗り心地がいい。こうやって黙っていると、今にも眠ってしまいそうだ。
 窓の外の流れる景色を眺めながら、華音は頭の中でいろいろなことを考えていた。
 もちろん、先程ブティックで赤城に言われたことから、端を発している。
 ちょうど信号が赤になり、BMWは停車した。
 赤城は手持ち無沙汰なのか、ハンドルの弧を何度も指でなぞる仕草をしている。
 走行中はさほど気にならないのだが、停車しているときの沈黙はこの二人の組み合わせでは苦痛だ。
 華音はようやく、重い口を開いた。
「――上手く言えないんですけど。私よりも鷹山さんのほうが、私たちが兄妹だってこと意識してる気がする」
「そりゃそうだろう。君には親兄弟の記憶がない、鷹山君には記憶がある。それだけのことだ」
 赤城はさらりと簡単に言ってのける。
「彼は君以上に分かっているはずなんだが――その罪の重さを」

 華音には、鷹山のことを好きだという自覚がある。そして、同時に彼に愛されているんだということも、感じている。
 しかし。
 彼に対する気持ちを公言することは、華音には憚られることだった。
 一緒にそばにいるという選択が、彼の気持ちへの精一杯の答えだ。

「君にとっては他人にしか思えなくても、彼が君のことをそういう対象としてとらえるのは、言い方が乱暴だが――理解に苦しむ」
「だって」
 華音は思わず反論する。
 それを聞いて赤城は、運転席から助手席のほうに顔を向けた。
 至近距離で、二人の目と目が合う。
「私には他に頼れる人がいないんです。赤城さんだって言ってたじゃないですか。今となっては唯一の――」
「そうだ。唯一の、『実』の兄だ」
 後ろから軽くクラクションを鳴らされた。信号が青になったことに気がつかなかったためだ。
 赤城はルームミラーで後続車を確認しため息をつくと、冷静に車を発進させた。


「忘れているようだから、確認のために言っておくがね」
「何ですか?」
「私は両方選べと言ったはずだ。こうも簡単にどちらかに引きずられては……困るんだが」
 確かに、そんなことを言われたような気もする。
 しかし、両方の手を取って引き寄せようとしても、今の華音の力ではどうすることもできない。どちらかの手を離さないと、華音の身体はいずれ引き裂かれてしまうことになっただろう。
 自分自身を守るためには、こうするしか方法がなかったのだ――華音は必死に自己弁護を試みる。
「まあ、君はまだ若いからな。仕方がないところもある。ただ、忘れてはならないのは――そんな君を支えるために、私たちのような人生経験の積んだ人間が周りにたくさんいる、ということだ」
 何を言いたいのだろう、この男は。
 分かっている、言われなくても分かっている。

 いや、やっぱり分からない。そんな綺麗ごと――分かりたくもない。

「一番弟子の彼が悲しむようなことはもう、しないことだな」
 赤城の容赦ないひと言が、華音の胸に突き刺さった。

 一番弟子の、彼が。
 悲しむような――ことを。

 自分がしていると、この目の前の大男は言う。

「だ……だって、もう祥ちゃんはウチとは関係がない人だし」
 もうすでに、記憶の片隅に追いやろうとしていた名前を、華音は口にした。
 いま自分のそばには、鷹山がいる。
 鷹山が、その名を口にするなと。すべてを忘れろと。
 そう、華音に言ったのだ。

 ――だから私は今、こうしているのに。

「鷹山君が芹沢英輔氏の実の孫だと聞かされるより、君がそういう目にあっているということを聞かされるほうが、一番弟子の彼にとってはショックなんじゃないかと思うがね。まあ、私は彼と面識がないから、明言はできないが」

 ――祥ちゃんが、悲しむ。どうして。

 ――鷹山さんはずっと私のそばにいると言った。

 今は何も考えられない――不釣合いなドレスに身を包んだ華音は、静かに走行するBMWの車内でそっと、両瞼を閉じた。