夢幻の章 (2) 未知の世界
程なくして、二人はパーティー会場となる欧風ホテルに到着した。
赤城は華音を先にホテルの正面玄関へ降ろすと、駐車場へ向けて再びゆっくりと車を動かしていく。
華音はBMWを見送った後、慣れないドレスとミュール姿で落ち着きなく辺りを見回し、煌びやかな入り口をひとり、怖々とくぐり抜けた。
ホテルのエントランスには、大理石でできた大きな噴水池があった。正面の大きな螺旋階段の両脇を水が小川のように流れ、その噴水池に注ぎ込んでいる。池を取り囲むようにしてソファが並べられており、ちょっとした待ち合わせにちょうどいい。
華音は赤城が来るまで、そこに座って待っていることにした。
「待たせたな」
噴水の水の流れを目で追っているうちに、待ち人は現れた。
薄桃色のドレスに身を包んだ少女は、この高級ホテルの佇まいにも似合う身なりの整った端正な男に声をかけられ、思わず頬を赤らめる――――はずもなく。
「そんなドス利いた声、出さないでください。それじゃまるで密談の料亭に現れた、変な頭巾かぶったどこぞのワルいお奉行様じゃないですか」
可憐な容貌の少女に投げかけられた言葉に、赤城は面食らったように額を押さえてみせた。
「芹沢君、言うことが音楽監督に似てきたな……」
「一緒にいる時間が長いもので」
「……そう、か」
赤城がついたかすかなため息は、当然の如く華音の耳にも届いた。
それが何を意味するかは、言わずもがな――。
赤城は華音の右側に隣り合うようにしてソファに腰かけた。
噴水の清涼な響きが二人を包む。
赤城は、自分の左腕にはめられた腕時計で時間を確認した。華音がそれを覗き込もうとすると、赤城は黙ったまま文字盤が見えるように左腕を構えた。
現在十八時三十分。開始の十九時までわずかに時間がある。
「鷹山君が言っていたコンタクトを取って欲しい人物について、説明させてくれ」
「あ、はい」
そうだった、と華音は気を取り直した。
まずそれを聞かないことには話が始まらない。これはあの音楽監督から頼まれた『仕事』である。
「新しいホールのこけら落としに、世界的に有名なプレーヤーを客演として招こうという企画を立てている。そのオファーも兼ねて、コネクションを持とうということなんだ」
赤城はあくまでさらりと説明してくる。
しかしその、荷が重過ぎるあまりの大役に、華音はすでに気後れしていた。
「あの、私英語全然ダメですよ? オファーどころか挨拶だって怪しいんですけど」
ただでさえこの高級ホテルの雰囲気に圧倒され、萎縮してしまっているというのに、海外で活動する演奏家と対等に話をするなど、たかが高校生の華音の能力では不可能に近い。
華音の不安が伝わったのか、赤城は補足を入れた。
「世界的に有名と言っても、目的の人物は日本人だよ。愛嬌さえあればコンタクトは取れるさ」
日本人――ということは、とりあえず言葉は通じるのだろう。
国際的という言葉で勝手に外国人をイメージしていた華音は、完全に拍子抜けしてしまった。
「あの、こけら落としって……新しいホールはいつ出来るんですか?」
「三ヶ月ほどで外観は出来上がる。こけら落としは重要なイベントだというからね。協奏曲というやつを華々しく演奏したい、ということらしいんだが――」
ホールが出来て、一番初めの記念となる演奏会が『こけら落とし』だ。一度きり、二度目はない。
しかし、それすら赤城にはピンと来ないようだ。いつでも自信たっぷりの赤城が、なんとも歯切れの悪い喋り方をする。
交響楽団を買収しオーナーとなった人間としては、あまりにも頼りない。
「赤城さん、音楽のことになるといきなり弱くなっちゃいますね」
「だから鷹山君は、今日ここに君をつけて寄越したんだよ。私は交渉術には長けているが、音楽の知識はまるで薄いからね」
「別に……私も期待されるほど詳しくないんですけど」
華音は、普通の人間よりも少し多く曲の名前を知っているとか、楽器を見分けて名前を言えるとか、その程度である。
「しかし君は、『芹沢』というネームバリューを持っている」
「ああ……そういう、こと」
日本屈指の有名指揮者だった祖父の名前は、音楽関係者には広く知れ渡っている。そして最近、演奏会当日に不帰となったことも大きな話題となっていた。
確かに今なら、きっかけをつかむための社交辞令的会話には困ることがない。
しかし、華音にはまだ納得できないことがあった。
それだけなら別に、自分でなくても良かったのではないか。
――どうして鷹山さんは、私を?
「芹沢君、稲葉努というピアニストを知っているか?」
赤城のそのひと言に、華音は思わず目を瞠った。隣に座る大男を見上げるようにして、その横顔を凝視する。
散らばった点が一本の線に――。
どうして鷹山が、赤城に華音のエスコート役をさせるのを容認したのか、華音はようやく理解できた。
いつもであれば、こういった付き添いの役目は高野和久が請け負っていた。
しかし、今回ばかりはそうもいかなかった。赤城に頼まざるをえなかった、そういうことなのだろう。
ピアニスト・稲葉努。
高野和久の永遠のライバル、である。
「知ってるも何も……あの、赤城さんは高野先生と高校時代の同級生って言ってましたよね?」
「その通り。高校の三年間ね」
「大学時代の話とか、結婚してそのあと離婚したとか、そういう話とか詳しく聞いてたりしないんですか?」
「和久が話したがらないことを、無理矢理聞きだすような無粋な真似はしないさ」
こういうところが無駄に男らしい。
華音はどこから説明したらいいのか迷った。考えをまとめ気持ちを落ち着かせるために、ひとつ大きく深呼吸する。
「稲葉努って人、高野先生とは大学の同期なんです」
「そうらしいね。それは鷹山君から聞いたよ。好敵手だったんだろう?」
鷹山は高野と過去に何度か顔を合わせたことがあり、友好的な関係にはあったが、高野の詳しい私的事情までは知らないはずだった。
結婚し子供が生まれ、そして離婚をし、現在独身。せいぜい、その程度であろう。
鷹山の中では、高野と稲葉の関係を『ピアニストとしての宿命のライバル』、と捉えているに違いない。
確かに、その通りなのであるが、しかし――。
その認識と真相の間には、大きな隔たりがある。
華音は何も知らぬ大男に、隔たりを埋めるべく説明を試みた。
「その二人にはもの凄い因縁があるんです。だって、高野先生が離婚した原因って、その稲葉努にあるんですよ?」
「ふうん? 芹沢君、やけに詳しいじゃないか」
赤城は腕を組み、ソファの背に身体を預け直した。華音の説明に驚く素振りもみせない。スクープに飛びつき騒ぐこともない。信じているのか、いないのか。興味があるのか、それともないのか。
いつだってこの男は、冷静だ。
「そりゃあ、高野先生は結婚した頃からずっとうちに出入りしてたし、和奏ちゃんも、あ、高野先生の娘ね、小さい頃は何度か遊びにきてね、妹みたいにして可愛がってたんですから」
「和久に娘……か。何だか想像つかないな」
「離婚でもめたときにはそりゃ大変だったんですよ。酒飲んだくれてはうちにやってきて、そのたびに祥ちゃんが話を聞いて慰めてて――」
懐かしい風景が華音の脳裏に広がっていく。とても鮮明だ。
「祥ちゃん、お酒強くないのにいっつも付き合わされてね、結局そのまま二人ともうちに泊り込んじゃうから、私が二日酔いの介抱して――」
赤城は黙って、華音の話に耳を傾けている。
ときおり静かに頷き、途中で余計な口を挟むことはしない。
「だから祥ちゃんと私は、高野家の内部事情と稲葉努の素性には、やたら詳しいんです」
華音が得意げに言うと、赤城は何かに納得したように大きく頷いた。
「和久と富士川という青年は、君とは家族のようなものなのだな。君と話しているだけでそれが見えてくる」
「それは――――おじいちゃんがいたから、です。たぶん」
認めたくないが、これが現実なのだ。
華音は自分で発した言葉に、虚しさを覚えてしまう。
「高野先生はおじいちゃんのお気に入りで、祥ちゃんはおじいちゃんの弟子で。そして私はおじいちゃんの孫だった――それだけ」
今の状況は、それですべて説明がつく。
「君が勝手にそう思い込んでるだけではないのか?」
「……え?」
「そんなふうに君が考えていると、彼は救われない、きっと」
こんなにも。
赤城の言葉は、華音の心をかき乱す。
自分と富士川の何を知ってて、この男はそんなことを言うのだろうか。
――この人に、嘘は通用しない。
「赤城さんには、答えが……見えてるんですか?」
「最終的な理想形には、明確なビジョンがある」
赤城は躊躇することなく言い切った。
「ただし。それを実現するには、現在は不可能な状況だ。人の気持ちを変えるのは簡単なようで――難しいからな」
過去に自分自身が受けた体験に重ね合わせているのか――赤城は自虐的なため息を洩らす。
華音は淡々と「そうですね」と、呟くように返事した。
「そもそも、今日のパーティーはね」
赤城がその場の雰囲気を変えるようにして、新たな話題を切り出した。
「ドイツにクラシック音楽専門のレーベルがあるんだが、今度その販路を日本に広げることになってね、その新規参入を記念したレセプションなんだよ。我が社も一部資本参入しているんだ。だから私は、このレセプションに招待されているというわけだ」
赤城の説明は、弱冠高校生の華音にはとても難しいものだった。経営に携わる人間でないと聞き慣れない言葉を、赤城はいくつも口にする。
こういうときに、赤城は住む世界が違う人間なのだと、と華音は改めて感じてしまう。
「赤城さんって、何だかいろいろなことに手を出してるんですね」
「ブレーキの無い自転車をこいでいるようなものさ。とにかくこいでこいでこぎまくる。そうしないと、倒れて転んでしまうからね」
華音は、赤城の言葉どおりの情景を想像してみる。華音には到底真似できない危険な行為だ。
「……ブレーキ、つけたほうがいいんじゃないですか? いつか大怪我しちゃいますよ」
「心配してくれるのかい? それはありがとう」
赤城には何を言ってもこの調子だ。弄られ遊ばれている感が、どうも拭えない。
「話を戻すがね」
赤城は会話を冷静にコントロールし、軌道を修正した。
「稲葉努氏は、そのドイツのレーベルと契約しているんだ。今回の来日は、日本版のレーベルの立ち上げのプロモーションも兼ねて、レセプションに出席する、ということなのだよ」
つまり。
稲葉努は現在、ドイツを中心に活動しているということらしい。
『帰国』ではなく『来日』という言葉に、多少の違和感を覚えるが――。
「この稲葉氏は主に国際舞台で活躍しているピアニストで、音楽一門に生まれたサラブレッドらしい。扱いには気をつけてくれたまえ」
「プライドが高いってことですか? それなら大丈夫です、鷹山さんで充分免疫ついてますから。要するに、『うちで客演してみないかい? 稲葉さーん?』って言えばいいんでしょ」
華音はおどけたように親指を立てて、それを赤城に向けて軽く振ってみせた。
赤城は少女の答えに度肝を抜かれたのか、面食らった表情をさらしていたが――何か、赤城の心をつかんだらしい。突然、エントランスに響き渡るような大声で、大男は豪快に笑い出した。
「ははは、それでOKがでたなら、我が社の営業促進部の部長待遇で、ぜひとも君を採用させてもらうとしよう」
「ひょっとして馬鹿にしてません?」
赤城は笑うのを止め、驚いたように目を見開いた。そのまま数度、瞬きを繰り返す。
そして前髪をかき上げ、右足を左足の上に組み、華音のほうへわずかに身体を傾けた。
いい香りがする。同級生の男子がつけているようなメンズフレグランスとは違う、深い瞑想の香りだ。
「いや、君のその分かりやすさを誉めているつもりだが。芹沢君は面白い人だな」
大人の男の匂い――なのだろうか。しかし、鷹山の持つ空気とは、やはり一線を画している。
どうにも落ち着かない。華音は雰囲気に飲み込まれぬよう、赤城を制した。
「……そこで無駄にカッコいい男のオーラ、出さないでください。使う場所、間違ってるでしょ」
「間違ってる? では、どこで出したらいいというんだい?」
「どこって、好きな人の前……とか?」
「では、まったく問題ない。私は君のことを気に入っている」
恥ずかしげもなくいけしゃあしゃあと、この男ときたら――華音は軽く目眩を覚えた。
「あのですね…… Favorite と Love は違うんですからね?」
「ほう、大したもんだな、芹沢君はさぞかし英語の成績がいいんだろうな」
むきになる華音を、大人の余裕でさらりとかわすさまは、もはや職人芸の領域だ。
「赤城さんの英語のレベルって、どれだけ低いんですか。もう、馬鹿にしすぎですよ」
「今は日常会話程度ならこなせるが……私が高校の頃はきっと Favorite なんて単語、知らなかったよ」
何を言っても、かわされるか逆に包み込まれるか――しかし、それも慣れてくると、ある種の快感さえ覚えてくる。
「あー、そういえば赤城さんはスポーツ特進科って言ってましたっけ。部活やってればいいんですもんね」
「ははは、君こそ私を馬鹿にしているじゃないか。お互い様だな」
二人は何だか無性に可笑しくなって、同時に笑い出した。
高級なホテルのエントランスで、優雅な噴水の流れる音を聞きながら――。
この美しき未知なる世界にそぐわない二人のやりとりが、なんとも滑稽だ。
「なんだかんだ言っても、私たちはいいコンビだ。そうは思わないか、芹沢君?」
「まあ、そうですね。お互い無いものを持ってるし?」
お互いが助け合える存在――そう言いたかったのだが、赤城の答えは違っていた。
「いや、君と喋っていると夫婦漫才のようで、楽しいんだよ」
「……前言撤回します」
華音は思わず深い深いため息をついてしまった。
もう、何を言っても無駄に違いない。
赤城はようやくソファから立ち上がった。そして、華音に片手を差し出し、気障なエスコート役に専念する。
「さあ、行こうか。稲葉氏の顔は分かるか?」
差し出された大きな左手に、華音は遠慮がちに右手を載せた。慣れない行動が恐ろしく気恥ずかしい。
しかし。この程度で挫けているわけにはいかない。
華音は気を取り直した。何事も『慣れ』である。
「ちょっとつり目のナルシストっぽいクールなオジサンでしょ。何かの雑誌で見たことありますよ」
「オジサン……俺とも同い年なんだがな」
そんな哀愁を帯びた赤城の呟きを、華音は軽く聞き流した。
赤城は華音を先にホテルの正面玄関へ降ろすと、駐車場へ向けて再びゆっくりと車を動かしていく。
華音はBMWを見送った後、慣れないドレスとミュール姿で落ち着きなく辺りを見回し、煌びやかな入り口をひとり、怖々とくぐり抜けた。
ホテルのエントランスには、大理石でできた大きな噴水池があった。正面の大きな螺旋階段の両脇を水が小川のように流れ、その噴水池に注ぎ込んでいる。池を取り囲むようにしてソファが並べられており、ちょっとした待ち合わせにちょうどいい。
華音は赤城が来るまで、そこに座って待っていることにした。
「待たせたな」
噴水の水の流れを目で追っているうちに、待ち人は現れた。
薄桃色のドレスに身を包んだ少女は、この高級ホテルの佇まいにも似合う身なりの整った端正な男に声をかけられ、思わず頬を赤らめる――――はずもなく。
「そんなドス利いた声、出さないでください。それじゃまるで密談の料亭に現れた、変な頭巾かぶったどこぞのワルいお奉行様じゃないですか」
可憐な容貌の少女に投げかけられた言葉に、赤城は面食らったように額を押さえてみせた。
「芹沢君、言うことが音楽監督に似てきたな……」
「一緒にいる時間が長いもので」
「……そう、か」
赤城がついたかすかなため息は、当然の如く華音の耳にも届いた。
それが何を意味するかは、言わずもがな――。
赤城は華音の右側に隣り合うようにしてソファに腰かけた。
噴水の清涼な響きが二人を包む。
赤城は、自分の左腕にはめられた腕時計で時間を確認した。華音がそれを覗き込もうとすると、赤城は黙ったまま文字盤が見えるように左腕を構えた。
現在十八時三十分。開始の十九時までわずかに時間がある。
「鷹山君が言っていたコンタクトを取って欲しい人物について、説明させてくれ」
「あ、はい」
そうだった、と華音は気を取り直した。
まずそれを聞かないことには話が始まらない。これはあの音楽監督から頼まれた『仕事』である。
「新しいホールのこけら落としに、世界的に有名なプレーヤーを客演として招こうという企画を立てている。そのオファーも兼ねて、コネクションを持とうということなんだ」
赤城はあくまでさらりと説明してくる。
しかしその、荷が重過ぎるあまりの大役に、華音はすでに気後れしていた。
「あの、私英語全然ダメですよ? オファーどころか挨拶だって怪しいんですけど」
ただでさえこの高級ホテルの雰囲気に圧倒され、萎縮してしまっているというのに、海外で活動する演奏家と対等に話をするなど、たかが高校生の華音の能力では不可能に近い。
華音の不安が伝わったのか、赤城は補足を入れた。
「世界的に有名と言っても、目的の人物は日本人だよ。愛嬌さえあればコンタクトは取れるさ」
日本人――ということは、とりあえず言葉は通じるのだろう。
国際的という言葉で勝手に外国人をイメージしていた華音は、完全に拍子抜けしてしまった。
「あの、こけら落としって……新しいホールはいつ出来るんですか?」
「三ヶ月ほどで外観は出来上がる。こけら落としは重要なイベントだというからね。協奏曲というやつを華々しく演奏したい、ということらしいんだが――」
ホールが出来て、一番初めの記念となる演奏会が『こけら落とし』だ。一度きり、二度目はない。
しかし、それすら赤城にはピンと来ないようだ。いつでも自信たっぷりの赤城が、なんとも歯切れの悪い喋り方をする。
交響楽団を買収しオーナーとなった人間としては、あまりにも頼りない。
「赤城さん、音楽のことになるといきなり弱くなっちゃいますね」
「だから鷹山君は、今日ここに君をつけて寄越したんだよ。私は交渉術には長けているが、音楽の知識はまるで薄いからね」
「別に……私も期待されるほど詳しくないんですけど」
華音は、普通の人間よりも少し多く曲の名前を知っているとか、楽器を見分けて名前を言えるとか、その程度である。
「しかし君は、『芹沢』というネームバリューを持っている」
「ああ……そういう、こと」
日本屈指の有名指揮者だった祖父の名前は、音楽関係者には広く知れ渡っている。そして最近、演奏会当日に不帰となったことも大きな話題となっていた。
確かに今なら、きっかけをつかむための社交辞令的会話には困ることがない。
しかし、華音にはまだ納得できないことがあった。
それだけなら別に、自分でなくても良かったのではないか。
――どうして鷹山さんは、私を?
「芹沢君、稲葉努というピアニストを知っているか?」
赤城のそのひと言に、華音は思わず目を瞠った。隣に座る大男を見上げるようにして、その横顔を凝視する。
散らばった点が一本の線に――。
どうして鷹山が、赤城に華音のエスコート役をさせるのを容認したのか、華音はようやく理解できた。
いつもであれば、こういった付き添いの役目は高野和久が請け負っていた。
しかし、今回ばかりはそうもいかなかった。赤城に頼まざるをえなかった、そういうことなのだろう。
ピアニスト・稲葉努。
高野和久の永遠のライバル、である。
「知ってるも何も……あの、赤城さんは高野先生と高校時代の同級生って言ってましたよね?」
「その通り。高校の三年間ね」
「大学時代の話とか、結婚してそのあと離婚したとか、そういう話とか詳しく聞いてたりしないんですか?」
「和久が話したがらないことを、無理矢理聞きだすような無粋な真似はしないさ」
こういうところが無駄に男らしい。
華音はどこから説明したらいいのか迷った。考えをまとめ気持ちを落ち着かせるために、ひとつ大きく深呼吸する。
「稲葉努って人、高野先生とは大学の同期なんです」
「そうらしいね。それは鷹山君から聞いたよ。好敵手だったんだろう?」
鷹山は高野と過去に何度か顔を合わせたことがあり、友好的な関係にはあったが、高野の詳しい私的事情までは知らないはずだった。
結婚し子供が生まれ、そして離婚をし、現在独身。せいぜい、その程度であろう。
鷹山の中では、高野と稲葉の関係を『ピアニストとしての宿命のライバル』、と捉えているに違いない。
確かに、その通りなのであるが、しかし――。
その認識と真相の間には、大きな隔たりがある。
華音は何も知らぬ大男に、隔たりを埋めるべく説明を試みた。
「その二人にはもの凄い因縁があるんです。だって、高野先生が離婚した原因って、その稲葉努にあるんですよ?」
「ふうん? 芹沢君、やけに詳しいじゃないか」
赤城は腕を組み、ソファの背に身体を預け直した。華音の説明に驚く素振りもみせない。スクープに飛びつき騒ぐこともない。信じているのか、いないのか。興味があるのか、それともないのか。
いつだってこの男は、冷静だ。
「そりゃあ、高野先生は結婚した頃からずっとうちに出入りしてたし、和奏ちゃんも、あ、高野先生の娘ね、小さい頃は何度か遊びにきてね、妹みたいにして可愛がってたんですから」
「和久に娘……か。何だか想像つかないな」
「離婚でもめたときにはそりゃ大変だったんですよ。酒飲んだくれてはうちにやってきて、そのたびに祥ちゃんが話を聞いて慰めてて――」
懐かしい風景が華音の脳裏に広がっていく。とても鮮明だ。
「祥ちゃん、お酒強くないのにいっつも付き合わされてね、結局そのまま二人ともうちに泊り込んじゃうから、私が二日酔いの介抱して――」
赤城は黙って、華音の話に耳を傾けている。
ときおり静かに頷き、途中で余計な口を挟むことはしない。
「だから祥ちゃんと私は、高野家の内部事情と稲葉努の素性には、やたら詳しいんです」
華音が得意げに言うと、赤城は何かに納得したように大きく頷いた。
「和久と富士川という青年は、君とは家族のようなものなのだな。君と話しているだけでそれが見えてくる」
「それは――――おじいちゃんがいたから、です。たぶん」
認めたくないが、これが現実なのだ。
華音は自分で発した言葉に、虚しさを覚えてしまう。
「高野先生はおじいちゃんのお気に入りで、祥ちゃんはおじいちゃんの弟子で。そして私はおじいちゃんの孫だった――それだけ」
今の状況は、それですべて説明がつく。
「君が勝手にそう思い込んでるだけではないのか?」
「……え?」
「そんなふうに君が考えていると、彼は救われない、きっと」
こんなにも。
赤城の言葉は、華音の心をかき乱す。
自分と富士川の何を知ってて、この男はそんなことを言うのだろうか。
――この人に、嘘は通用しない。
「赤城さんには、答えが……見えてるんですか?」
「最終的な理想形には、明確なビジョンがある」
赤城は躊躇することなく言い切った。
「ただし。それを実現するには、現在は不可能な状況だ。人の気持ちを変えるのは簡単なようで――難しいからな」
過去に自分自身が受けた体験に重ね合わせているのか――赤城は自虐的なため息を洩らす。
華音は淡々と「そうですね」と、呟くように返事した。
「そもそも、今日のパーティーはね」
赤城がその場の雰囲気を変えるようにして、新たな話題を切り出した。
「ドイツにクラシック音楽専門のレーベルがあるんだが、今度その販路を日本に広げることになってね、その新規参入を記念したレセプションなんだよ。我が社も一部資本参入しているんだ。だから私は、このレセプションに招待されているというわけだ」
赤城の説明は、弱冠高校生の華音にはとても難しいものだった。経営に携わる人間でないと聞き慣れない言葉を、赤城はいくつも口にする。
こういうときに、赤城は住む世界が違う人間なのだと、と華音は改めて感じてしまう。
「赤城さんって、何だかいろいろなことに手を出してるんですね」
「ブレーキの無い自転車をこいでいるようなものさ。とにかくこいでこいでこぎまくる。そうしないと、倒れて転んでしまうからね」
華音は、赤城の言葉どおりの情景を想像してみる。華音には到底真似できない危険な行為だ。
「……ブレーキ、つけたほうがいいんじゃないですか? いつか大怪我しちゃいますよ」
「心配してくれるのかい? それはありがとう」
赤城には何を言ってもこの調子だ。弄られ遊ばれている感が、どうも拭えない。
「話を戻すがね」
赤城は会話を冷静にコントロールし、軌道を修正した。
「稲葉努氏は、そのドイツのレーベルと契約しているんだ。今回の来日は、日本版のレーベルの立ち上げのプロモーションも兼ねて、レセプションに出席する、ということなのだよ」
つまり。
稲葉努は現在、ドイツを中心に活動しているということらしい。
『帰国』ではなく『来日』という言葉に、多少の違和感を覚えるが――。
「この稲葉氏は主に国際舞台で活躍しているピアニストで、音楽一門に生まれたサラブレッドらしい。扱いには気をつけてくれたまえ」
「プライドが高いってことですか? それなら大丈夫です、鷹山さんで充分免疫ついてますから。要するに、『うちで客演してみないかい? 稲葉さーん?』って言えばいいんでしょ」
華音はおどけたように親指を立てて、それを赤城に向けて軽く振ってみせた。
赤城は少女の答えに度肝を抜かれたのか、面食らった表情をさらしていたが――何か、赤城の心をつかんだらしい。突然、エントランスに響き渡るような大声で、大男は豪快に笑い出した。
「ははは、それでOKがでたなら、我が社の営業促進部の部長待遇で、ぜひとも君を採用させてもらうとしよう」
「ひょっとして馬鹿にしてません?」
赤城は笑うのを止め、驚いたように目を見開いた。そのまま数度、瞬きを繰り返す。
そして前髪をかき上げ、右足を左足の上に組み、華音のほうへわずかに身体を傾けた。
いい香りがする。同級生の男子がつけているようなメンズフレグランスとは違う、深い瞑想の香りだ。
「いや、君のその分かりやすさを誉めているつもりだが。芹沢君は面白い人だな」
大人の男の匂い――なのだろうか。しかし、鷹山の持つ空気とは、やはり一線を画している。
どうにも落ち着かない。華音は雰囲気に飲み込まれぬよう、赤城を制した。
「……そこで無駄にカッコいい男のオーラ、出さないでください。使う場所、間違ってるでしょ」
「間違ってる? では、どこで出したらいいというんだい?」
「どこって、好きな人の前……とか?」
「では、まったく問題ない。私は君のことを気に入っている」
恥ずかしげもなくいけしゃあしゃあと、この男ときたら――華音は軽く目眩を覚えた。
「あのですね…… Favorite と Love は違うんですからね?」
「ほう、大したもんだな、芹沢君はさぞかし英語の成績がいいんだろうな」
むきになる華音を、大人の余裕でさらりとかわすさまは、もはや職人芸の領域だ。
「赤城さんの英語のレベルって、どれだけ低いんですか。もう、馬鹿にしすぎですよ」
「今は日常会話程度ならこなせるが……私が高校の頃はきっと Favorite なんて単語、知らなかったよ」
何を言っても、かわされるか逆に包み込まれるか――しかし、それも慣れてくると、ある種の快感さえ覚えてくる。
「あー、そういえば赤城さんはスポーツ特進科って言ってましたっけ。部活やってればいいんですもんね」
「ははは、君こそ私を馬鹿にしているじゃないか。お互い様だな」
二人は何だか無性に可笑しくなって、同時に笑い出した。
高級なホテルのエントランスで、優雅な噴水の流れる音を聞きながら――。
この美しき未知なる世界にそぐわない二人のやりとりが、なんとも滑稽だ。
「なんだかんだ言っても、私たちはいいコンビだ。そうは思わないか、芹沢君?」
「まあ、そうですね。お互い無いものを持ってるし?」
お互いが助け合える存在――そう言いたかったのだが、赤城の答えは違っていた。
「いや、君と喋っていると夫婦漫才のようで、楽しいんだよ」
「……前言撤回します」
華音は思わず深い深いため息をついてしまった。
もう、何を言っても無駄に違いない。
赤城はようやくソファから立ち上がった。そして、華音に片手を差し出し、気障なエスコート役に専念する。
「さあ、行こうか。稲葉氏の顔は分かるか?」
差し出された大きな左手に、華音は遠慮がちに右手を載せた。慣れない行動が恐ろしく気恥ずかしい。
しかし。この程度で挫けているわけにはいかない。
華音は気を取り直した。何事も『慣れ』である。
「ちょっとつり目のナルシストっぽいクールなオジサンでしょ。何かの雑誌で見たことありますよ」
「オジサン……俺とも同い年なんだがな」
そんな哀愁を帯びた赤城の呟きを、華音は軽く聞き流した。