夢幻の章 (3)  断ち切れぬ宿命

 華音と赤城が向かったパーティー会場は、ビジネススーツを着用した業界関係者で埋め尽くされていた。中にはキャリアウーマン風の女性の姿もあったが、皆仕事の延長のシンプルでクールな服装だ。
 桃色のドレスを身にまとった華音は、明らかに浮いていた。
 大株主の子息令嬢が暇つぶしに遊びに来たと、周囲からは思われているに違いない。

 会場である大広間をひと通り見渡すと、隅にひときわ華やかな一群が固まっている。
 こちらは一見して業界関係者ではないことが分かる。
 欧米人が何人か混じっており、その服装もみな煌びやかだ。おそらく本家ドイツのCDレーベルと専属契約をしている演奏家たちなのであろう。
 華音はその中に、目的の人物を見つけることができた。見失わないように目で追いながら、すぐさま赤城のスーツの袖を引っ張り、合図する。
「赤城さん、あの人ですよ。今、金髪の男の人と話してる、ほら、あの人! あれが稲葉努です」
「確かかい?」
 赤城は慎重に様子をうかがっている。
「話しかけてみれば分かるでしょ。行ってきます」
 もたもたしていてコンタクトにしくじってしまったら、あとからあの悪魔な音楽監督に何を言われるか分からないのである。
「待ちたまえ。もうちょっと状況を把握してから…………おいおい」
 華音は赤城の助言も聞く耳持たず、すぐに行動を開始した。


「あの! 稲葉努さんですよね!?」
「そうですけど……」
 いきなり場違いな少女に声をかけられ、男は面食らったようだ。神経質そうなつり上がった目を見開き、二の句が継げず黙ったまま、華音の顔をひたすら凝視する。
 華音はチャンスとばかりに、相手に返答の隙を与えず、さらにたたみかけるように言った。
「写真で見るよりずーっと、カッコいいですね。知的で、芸術的で、ちゃんと人間らしい生活してそうな……」
 華音がそこまで言うと、後ろに控えていた赤城が大きな身体を寄せすばやく耳打ちしてくる。
「芹沢君、最後の部分が微妙に失礼だぞ。和久と比べているのは分かるがな……」
 前途多難だ、と頭を抱える赤城とは対照的に、目的のピアニストは別のところに反応していた。
「セリザワ?」
 それを受けて、赤城が華音の前に進み出た。そして、礼儀正しく挨拶をする。
「我々は芹沢交響楽団のものです。私はオーナーの赤城麗児といいます。彼女は音楽監督の代理で、芹沢華音。先代の音楽監督の孫にあたります。まだ高校生なもので、若さゆえのご無礼をお許しください」
 こういうときになると、すぐに子供扱いする赤城が腹立たしい。華音が赤城の顔を見上げ睨みつけると、目の前に立ちすくむピアニストは特に気にするふうでもなく、さらりと言った。
「まったく構いませんよ。明るく元気な子は好きですから――そうですか、あの芹沢さんのお孫さんでしたか」
「芹沢英輔氏のことをご存知で?」
「ええ、もちろん。お亡くなりになられたばかりですよね、確か。海外で暮らしているもので、幾分情報が遅いんですけど」
 やはり祖父である英輔の名前は広く知られている。とりあえず話すきっかけがつかめたので、華音は安堵した。
 思っていたよりも紳士的で話がしやすそうだ。
 しかし、まだまたこれから。油断はできない。
「何かお飲みになりませんか? 芹沢君はオレンジジュースだな」
 赤城はすばやく片手を挙げ、近くを通りかかったウェイターを呼び止めた。
「ああ君、オレンジジュースを一つ。稲葉さんは?」
「ワインを。赤で。ロジェールはある?」
「すぐにご用意いたします」
 ウェイターはすぐに理解したらしい。きびきびとした無駄のない動きで対応している。
「では私も同じものをもらおう」

 ――ロジェール?

 稲葉は、華音の耳慣れない言葉を口にした。
 ロゼ、なら聞いたことがあるが、稲葉ははっきりと『赤』と言っていた。
 よく理解できなかったので、華音は二人の大人の男のやりとりに、じっと耳を傾けた。
 赤城は感心したように頷いている。
「私はアルコールの種類にはまったくこだわらない性質でね。あなたはこだわりが強いようだ、銘柄まで指定するとは」
「フランス語で『純潔な乙女』という意味なんです。ロジェール。僕の永遠の憧れです」
 ワインの銘柄の名前だったのか、と華音はそこで初めて理解できた。同時にそれが、この稲葉という男の人間性を如実に表した言葉であることに気づく。
 ロジェール――永遠の憧れ。なかなか言えることではない。
 音楽一門のサラブレッドというのは伊達ではないようだ。その辺の男とは確実に品位と美意識に差がある。
「華音さんのような方にピッタリのワインですよ。まあ、未成年では勧められませんが――」
 稲葉は、品のある笑顔を華音に向けてくる。
 それを聞いた赤城は、訝しげな眼差しを華音に向けた。そして、ため息混じりに呟いてみせる。
「ロジェール……ね。ぎりぎりアウトかな」
 なんということを。
 一気に頭に血が上り、顔が火照ってくる。
 言葉少なにこの大男は、華音の触られたくない部分をかき乱す――。
「セーフです! 全然セーフ!」
「本当か?」
 指示語がない。何がアウトで何がセーフか。余計なことを言うと足元をすくわれそうだ。
 華音は慎重に言葉を選ぶ。
 目の前には、事情を知らないピアニストの男がいる。
「……ぎりぎり、セーフです」
「そうか――それを聞いて安心したよ」
 鷹山と自分の関係の進み具合を、赤城は言葉巧みに引き出していく。
 そんな赤城の誘導尋問に、いとも容易く引っかかってしまうのが、華音はとても悔しかった。
 すると。
 意外にも、稲葉は見当違いの方向へ話を進めた。
「ああ、ひょっとしてお二人はお付き合いされていらっしゃるんですか?」
「さすがは稲葉さん、洞察力が優れていらっしゃる。分かりますか?」
 完全、脱力。
 どうして初対面の人間にまでそのような戯言を、こうもためらいなく言えるのだろうか。
 赤城の説明に納得したのか、稲葉は軽く頷いている。
「まあ、よくあることですからね。ゆくゆくはご結婚を?」
「まだ彼女は高校生ですから、かなり先のことになりますが――」
 軽快に相づちを打って見せている赤城に、華音は怒りを押えきれず、得意げな赤城の顔を指差して、稲葉に訴えた。
「ちょっと待ってください! この人はちょっと見た目若作りしてますけど、高野先生と同い年なんですよ!? 二十歳以上離れてるのに、そんな、付き合ってるだなんてありえません。稲葉さん、洞察力ゼロじゃないですか! それに赤城さん! ふざけないで、ちゃんと否定してください!」
 華音が必死の形相で、二人の男を交互に睨みつけた。
 赤城は、稲葉とお互い目配せをし、肩をすくめてみせる。
「付き合っていません。彼女は私の『おもちゃ』だ」
「こら」
 隙のない華音の切り返しに、赤城は三度言い直す。
「彼女と私は『純粋な労使関係』だ。――これで満足か」
「何で初めっから素直にそう言ってくれないんですか。まったくもう……」
 二人のやり取りを、稲葉は驚いたような眼差しで見つめている。
 しかし、今までの会話の流れで、おおよその人間関係はつかめたのだろう。
「……ですよね。高野君と同い年なら、僕とも一緒ですもんね。すみません芹沢さん、失礼なことを言ってしまって」
「私と高野和久は、実は高校時代の同級生なんですよ」
「ああ……そうだったんですか。高野君の……」

 そこへウェイターが所望した飲み物をトレイに載せてやってきた。
 それぞれがグラスを取ると、赤城と稲葉は軽くグラスを掲げて乾杯の意思を交わした。華音も慌てて二人の真似をする。
 稲葉は優雅にグラスを鼻先に近づけて軽く赤い液面を揺らす。目を閉じ軽く頷くとほんの一口、ゆっくりと含んだ。
 稲葉のワインを飲む仕草は洗練されている。華音はその様子に見とれていた。
 一方の赤城は、相変わらず豪快だ。以前アイスティーを飲んでいたときと同じように、あおるように一気に半分ほどを胃に流し込む。
「芹沢英輔さんのことは、よく知っていますよ。高野君が気に入られてましたから」
 お酒が入り、ほんの少しだけ稲葉が饒舌になった。
 自分たちのよく知る男の名を口にし、楽しげに語りだす。
「大学のときにですね、芹沢英輔氏がプロデュースしたダイニングバーでピアノを弾くバイトをしたことがあるんです。そこのバーで、高野君は飛び入りで演奏したことがあって、その演奏が気に入られたんでしょうね。それが縁で、今でもお付き合いがあるようですし」
「へえ、そういう経緯なんですか。高野先生のこと、初めて聞いた」
 華音は興味深く話を聞いていた。祖父の英輔が過去にバーをプロデュースしたというのも、そこで稲葉と高野がピアノを弾いていたということも、まるで別世界の話のようだ。
 それがきっかけで、高野は芹響の専任の客演ピアニストとして現在に至っているのだから、人生何が起こるか分からないものである。
「あいつはピアノを弾くのだけは上手いからな。私は素人だがね、高校のとき、和久のピアノを聴いて初めてクラシックの良さを認識した」
「へえ。なんか、面白いですね」
 今度は赤城の話だ。クラシック音楽にうといスポーツ特進科の赤城が、音楽科の高野の弾くピアノを聴いている姿――滑稽だ。
「赤城さんは高校時代の同級生で、稲葉さんは大学時代の同期なんですよね。赤城さんと稲葉さんは今日初めて会ったのに、高野先生を通して繋がってる。そして私は、大学を卒業した後の高野先生のことを知ってるから、三人合わせたら、高野先生の半生をまとめられる……かも?」
 華音がそう言うと、稲葉は納得したように頷いてみせる。
「高野君を通して繋がっている、何のつながりもない三人、ね。確かに奇妙だ、面白いですね」
「まあ、和久の半生をまとめる必要性はまったく無いが……」
 赤城が、もっともらしいことを言った。

 稲葉はじっとロジェールの赤い液体をグラス越しに見つめている。そして、突然ぽつりと呟くように言った。
「高野君は今、独身だっていう噂を聞いたんですけど」
 やはり、避けられなかった。
 華音は、ある程度予想していた気まずさと向き合わされてしまう。できることなら、今回のオファーは高野の離婚のこととは別にして欲しかったのだが――しかし、そうことは上手く運ばない。
 華音が返答に躊躇していると、赤城が代わるようにしてきっぱりと言い切った。
「その通り。五年前に離婚した」
「あ、赤城さん!」
「事実だ。隠す必要はない」
 確かに隠す必要はないのかもしれない。しかし、不必要にさらけ出し逆なですることもないのではないだろうか――。
 話の流れが良からぬ方向へと進んでいる。
「五年前……そうか……あれからもう、五年も経つんだ」
 稲葉は憔悴しきったように、深いため息をついた。ずっと下を向いたまま、グラスを持たないもうひとつの手で目頭を押さえている。
「あの……稲葉さん?」
「残念だよ、本当に」
 冷たく言い放つ稲葉の顔は、どことなく寂しげだ。
「離婚するぐらいなら、初めから結婚なんてしなければ良かったのに」
 その言葉がいったい誰に向けられたものなのか――高野か、もしくはもう一人か。
 重苦しい負の感情をまとい、不透明な影を帯びている。
 やはりこの稲葉という男が、高野が離婚したことに深く関わっていることに間違いはないようだ。
「ああ……すみません、つい個人的なことを。ここだけの話にしておいてください」
 そう言って笑顔を造り、ロジェールという名の赤ワインを飲み干した。空になったグラスを、通りかかったウェイターに優雅な所作で渡し、お替りは結構、と一言添える。
 赤城もそれにならいグラスを空けると、今度はウィスキーのロックを所望した。
 ウェイターは指示を聞き、空のグラスをトレイに載せ、邪魔にならないよう人波の合間をすり抜けるようにして去っていく。

 気分を変えるようにして、赤城がようやく本題を切り出した。
「現在建設中のコンサートホールのこけら落としに、是非稲葉さんの客演をお願いしたいのですが」
「高野君は弾かないんですか?」
 赤城は目配せをして、稲葉の質問に対する答えを、華音に振った。
「ああ……えっと、高野先生は六月と十二月の定演のときに客演するという暗黙のルールができちゃってるんですよ。それで、こけら落としという祝いの席に、どうせなら新たなインターナショナルな風を吹かせたいというのが音楽監督の意向でして。あの、本当なら音楽監督が直々にお話を持ってくるべきだったんですけど、まあ、今日はどうしても抜けられない用事がありまして」
 稲葉が興味深そうに頷いていたので、華音はそのまま説明を続けた。目的達成まで、もう一押しだ。
「うちの音楽監督はなんかこう……ちょっと変わってるというか。ロクに面識もないのに、いきなり稲葉さんに客演してくれっていうのも、確かに無謀だとは思うんですけど……ね」
 華音は、稲葉の表情を観察するように見た。特に困ったような素振りも見せていない。
「今の芹響さんの音楽監督って、鷹山という若手のヴァイオリニストでしょう? 名前と顔は知ってますよ」
「ええ? 鷹山さんのこと、知ってるんですか?」
 意外な事実だった。
 おそらく知らないだろうと、あえて名前を出さずに話を進めていたのだが――。
「ベルリンとウィーンはそんなに離れていませんから、何かのイベントで顔を合わせたことがあるという程度なんですが。彼のヴァイオリンは素晴らしかった。日本で監督業に専念してるなんて、もったいないと思っていたんです」
 華音はようやく納得できた。
 ヨーロッパを拠点に活動していたということでは、稲葉と鷹山は共通している。日本にいる演奏家よりも、お互いの活動には詳しいはずだ。
 それを聞いて、赤城は思いついたように言った。
「そう言われてみると、私は鷹山君のヴァイオリンを見聞きしたことはまだないな」
「そうなんですか? オーナーでいらっしゃるのに?」
「あー、この人、クラシック音楽の『ど素人』ですから」
 ど素人、という部分に力を込めて、華音は仕返しとばかりに嫌味を放つ。オーナーのことも、すでに『この人』呼ばわりである。
「素人だからこそ、その良し悪しが純粋に分かるということもある。私の中では技術的な上手下手はどうでもよくてね、感動するかしないか――それだけなんだよ。鷹山君は、ヴァイオリン奏者として本当に優秀なのか?」
 赤城は、出資する前に調査させた紙上での情報しか持っていない。鷹山の演奏歴には詳しくても、それがどのくらいのレベルなのか、まったく見当がついていないようだ。
「たぶん。鷹山さんがまだ音楽監督になる前に、一度だけ聴いたことがあるけど……日本に来てからはもう全然弾いてないし」

 あの夜。
 鷹山がストラディバリウスで奏でてみせた、美しくも悲しきツィゴイネルワイゼンの調べを、華音は昨日のことのように思い出す。
「へえ……じゃあ、もうヴァイオリンを弾く気はないのかな。一日弾かないでいると、その三倍のスピードで技術が衰えていくんですよ。まあ、ピアノとヴァイオリンじゃ違うかもしれないですけど」

 鷹山がヴァイオリンを弾くことはない。
 もう、――弾けない。
 自分がそうさせてしまったのだから。

 稲葉の何気ないひとことが、華音の胸に深く突き刺さった。

「……だいぶ話がそれてしまいましたね。こけら落としの客演の話ですけど」
 稲葉が話を戻した。
 いつのまにか音楽監督の鷹山の話になってしまったが、あくまで本題は、新しいホールのこけら落としのための客演要請である。
「確かに、あなた方とは初対面ですけどね。芹沢英輔氏のことも高野君のこともよく知っていますし、華音さんが考えているほど、客演のオファーは突飛な話ではないですよ。――弾いてもいいですけどね」
「ホントですか!?」
 願ってもない展開に、華音は思わず声を上ずらせた。
「ただし、条件があります。そう難しいことではありませんよ、きっと」
 条件――。やはり、すんなりとはいかないようだ。
 ギャラや使用楽器の指定など、金銭的なことなら好都合なことに、ここにオーナーの赤城がいる。
 しかし。選曲についての条件となると、いささか厄介だ。あの音楽監督がすんなり条件を聞き入れるわけがない。
 稲葉は意味深な微笑を、華音と赤城に見せた。
「高野君も同じ演奏会で弾くのなら、OKしましょう」
「……え?」
「ステージ料のことでしたらご心配無用です。交通費だけで結構ですから」
 稲葉の条件が何を意味するのか、華音は理解できなかった。
 茫然としたままの華音を横目に、稲葉はスーツの内ポケットから名刺を取り出し、赤城と華音に一枚ずつ手渡した。
 それを受け、赤城もすばやく自分の名刺も交換するように手渡す。さすが手馴れている。
 華音はもちろん名刺など持っていない。あとで鷹山に渡すため、そのままバッグにしまいこんだ。
「僕は、これから半年間は今回のプロジェクトのために、月二回のペースで来日する予定ですので、打ち合わせはその際にでも。直接連絡取るときはこちらへ。僕のエージェントが対応いたしますので。いいご縁があると良いですね――では」
 稲葉が二人に軽く手を挙げその場を離れると、すぐにまた次の招待客につかまった。ピアニストとしての腕前は超一流。その人気は高いようだ。

 パーティーはまだ続いている。
 しかしすでに、午後九時を回っている。
 酒席は宴たけなわ。
 赤城は早々に会場をあとにすることを提案してきた。もちろん、未成年の華音のことを気遣ってである。
「私の秘書を呼ぶから、芹沢君はその間、デザートでもどうだ?」
 ワインやウィスキーを水のように飲み干していて、それでも赤城は普段と何ら変わらない。しかし、さすがに自分の愛車を運転して帰るわけにはいかないだろう。
 赤城は携帯を取り出すと、手馴れたようにコールをし、出た相手に素早く、迎えに来るよう指示を出した。


 赤城の愛車BMWが、ホテルの駐車場を出てゆっくりと芹沢邸に向かって走り出した。
 会社からタクシーでホテルまでやって来た赤城の秘書が、運転席でハンドルを握っている。スーツ姿の若い男だ。
「どうだい、今日は勉強になったか?」
「夢中でしたよ。使い走りのほうが気楽です」
 慣れない服を着て、慣れない大人たちに大勢囲まれて。華音はぐったりと後部座席のシートに身を預け、傍らに座る赤城のお喋りに付き合っていた。
「あとは鷹山君の意向を聞くだけだな。条件付きだがOKをもらったんだからまあ、まずまずといったところだろう」
「絶対、何か企んでますよ、稲葉さん」
 まずまずどころか、問題山積のような気がしてならない。
「フン、要するに和久と稲葉氏は、ピアノの好敵手でもあり恋のライバルでもあったというわけなんだな? それが和久の別れた奥さんということだろう?」
 赤城は随分と察しがいい。
「そしてその彼女が、きっと『ロジェール』なんだろう。稲葉氏にとってのね」
 ロジェール――純潔な乙女。
 とある天才ピアニストの、永遠の憧れ。
「それにしても、子持ちの人妻つかまえてロジェールとは……ヨーロピアン・ジョークか?」
 狭そうにして足を組替えながら、赤城はそんな戯言を口にする。
「どうしてそんな歪んだ発想しかできないんですか。高野先生の元奥さんって、確かにロジェールって感じですよ」
「そうか、君は面識があるんだったな」
「稲葉さんって、そんなに仁美さんのこと想ってるんだ…………高野先生、かなりの修羅場かも」


【あれからもう、五年も経つんだ】

 結婚したのは十年前で、離婚したのは五年前――。
 憔悴し、深く嘆息を洩らす稲葉。
 いったい何が、二人の間に起こったというのだろうか。

【離婚するぐらいなら、初めから結婚なんてしなければ良かったのに】

 五年前の記憶に苛まされる高野と稲葉。彼ら二人がこの先どうなっていくのか、華音はまるで見えてこない。


 BMWは街を抜け、住宅街へと進んでいく。夜は車の流れがスムーズだ。もう芹沢邸のそばまで来ている。
 長い長い一日だった。
「明日は定演だったな。英輔氏が亡くなってから二ヵ月ぶりの、通常の定演だ」
「なんだかドキドキする。何度も何度も芹響の定演は行ってるのに」
「それは私も一緒だ。おそらくクラシックのコンサートなんて、小学校のとき以来だ」
「……た……頼りなさすぎる。いいんですか、オーナーともあろうお方がそんなんで」
 不安要素は両手一杯に存在する。
 ただ、少なくとも緊張の理由は赤城とは違う。
「私、運営側にまわるの、初めてなんです。いつも『関係者』だったけど、『観客の一人』でしか、なかったから」
 門前で停止させたBMWの右扉から赤城は颯爽と降り、左側に回り込むと、華音のためにドアを開けた。
 最後までやることが小憎らしい。
 差し出された赤城の手を借りて、慣れないドレスの裾をたぐり寄せるようにして、やっとの思いで車から降りる。

 ふと、気づく。
 二階の書斎に、明かりがついている。

 こんな遅い時間に、鷹山が仕事場である書斎にいるのは珍しいことだった。
 待っているのだ――華音はすぐに悟った。
 誰が一緒なのだろうか。行動を共にしていたはずの美濃部青年か、居候中の高野和久が暇つぶしの相手をしているか――広大な前庭を挟んだ門前からはそこまでは分からない。
 しかし、夕方の電話の調子では、機嫌がいいことはまるで期待できないだろう。
「さあ、私がしてやれるのはここまでだ。ここからは鷹山君と二人で、一つ一つ解決していきたまえ――いろいろな問題を、ね」
 赤城は意味深な言葉を投げかける。
 華音は返事をせず、そのまま赤城に背を向けて門をくぐると、重い足を引きずるようにして、悪魔な音楽監督の元へと向かった。