夢幻の章 (4)  奇妙な三角関係

 書斎に一歩足を踏み入れて、華音は言葉を失った。

 悪魔な音楽監督はソファに仰向けに身を横たえ、憔悴しきったように眉間にしわを寄せ、天井を見つめて大きく瞬きを繰り返している。
 ジャケットを脱ぎネクタイはすでに外され、シャツの第一ボタンを開けた状態だ。両袖は肘までまくり上げられている。
 大人しく待っているとは予想していなかったが、この異様な光景はいったい――。

「……何やってるんですか?」
「見れば分かるだろ。コーヒーを淹れようと頑張ってみたけど、志半ばにして挫折して打ちひしがれてるんだ」
 いつものことながら、鷹山の言うことはいちいち芝居がかって、どことなく嘘くささが漂っている。
 華音がその言葉を確認しようと振り返ると、部屋の隅のコーヒーワゴンはぐちゃぐちゃになっていた。コーヒー豆の入った缶はふたが開けっ放しで、コーヒーサーバーに半分ほど水が入っている。ドリップのペーパーフィルターは何枚も散乱し床にも落ちている。
 そんなに難しいことでもないはずなのに――華音はため息をついた。一人では満足にコーヒーも淹れられない鷹山の不器用さを、華音はもどかしく感じてしまう。
「コーヒーなら乾さんに頼めばいいじゃないですか……今から淹れ直しますから」
 この時間であれば通いの家政婦はすでに帰っているが、執事の乾は隣接する離れにいる。頼めばコーヒーくらい、嫌な顔一つせずに淹れてくれるはずだった。もちろんそのことは鷹山自身も承知しているはずなのに――相変わらずやることが気まぐれだ。
「もういい。飲む気がしなくなった」
 鷹山はソファから身を起こすと立ち上がり、自分のデスクまで移動した。
「ところで、そっちの首尾はどうだい、芹沢さん」
「とりあえずOKをもらいました。……ただし、条件付きですけど」
「条件? なにそれ」
 チェアの背に身を預けながら、鷹山はまくりあげられたシャツの袖を下ろし、ボタンをかけながら華音の報告を聞く。
「稲葉さんの条件は、高野先生と同じ舞台で演奏をすること。交通費だけあれば、ステージ料はいらないそうです」
「そんなこと言われても、ソリスト二人も要らないんだけどな。まあ、連弾の曲にするっていう手もあるけど」
「連弾?」
「まあ、協奏曲じゃちょっと難しいかな。でも、稲葉氏が言ってるのはそういう意味ではないんだろう? しかしまた、どうして同じ舞台だなんて……」
 鷹山は合点がいかないようだ。珍しく華音の質問にも厭わずに答え、そのままじっと考え込んでいる。
 その様子に違和感を覚えながら、華音は補足を入れた。
「稲葉さんは昔っからそうやって高野先生を目の敵にしてたんですって。競うの大好きで、高野先生をよく挑発してたみたいです。……これはあくまで高野先生側の話ですけど。実際に今日、稲葉さんに会ったらそんな感じ全然しなくて、紳士的な対応をしてくれましたよ」
「競うの大好き……か。アンチ・コンクールの和久さんにとっては、そりゃあ嫌な相手だろうな」
 高野は常日頃から、芸術に優劣をつけるのは無意味だ、と言って、コンクールと名のつくものを敬遠していた。
 若き時代に自分が出場することもなければ、中堅ピアニストとなった現在も審査員を引き受けることをしない。
 鷹山は、そんな高野の音楽姿勢を一応、理解しているらしい。
「こけら落としの件に関しては、明日の定演が終わった後に、もう一度話をしよう」
 もうすでに、午後十時近い。
 鷹山はひどく疲れているようだった。仕事の話を長く続ける気力はもはやないらしい。

「――その他に、僕に言うことがあるんじゃないのか?」

 そのひと言で、華音の緊張感が一気に増した。
 鷹山の大きな瞳が、華音の全身を捉える。上から下までひと通り流すと、ふんぞり返るようにしてチェアの背に身を預け直した。
「何だよその服。全然似合ってないよ。オーナーの趣味、最悪」
 華音は身に着けている薄桃色のドレスの生地の感触を確かめるようにしてなでた。無理矢理着せられたとはいえ、『全然似合ってない』と言われると内心複雑だ。
「……選んでくれたの、ブティックの人ですよ。結構高いみたいだし」
「僕の許可なしに、他の男から物をもらうようなことはするな。分かるな?」
 語調はあくまで優しい。
 おかしい。なんだかとても――――普通だ。
 華音は不審げな面貌で、じっと鷹山の顔を見つめた。
「ん?」
「……電話で怒ってたから、何かされるのかと思った」
 鷹山は黙ったまま、華音を自分のもとへ手招く。
 華音はそれに素直に従った。ゆっくりと鷹山の席へと歩み寄る。
「何かして――欲しかった?」
 鷹山は座ったまま腕を伸ばすと、目の前に立つ華音を抱き寄せて、強引に自分の膝の上に座らせた。
 華音の腰に、幼い子供を抱えるように鷹山の両腕がしっかりと回される。
「して欲しいならして欲しいって、言えばいいじゃないか?」
「や……やめて」
 華音は顔をそむけて鷹山の口づけを避けた。しかし制止の懇願を聞き入れることなく、あらわになった華音の首筋に慣れたように唇を押しつけていく。

 三週間前――。
 二人が初めてキスを交わしてから、鷹山は以前よりも優しくなり、そして嫉妬深くなった。その愛情行為はわずかずつ、日を追うごとにどんどん深くなっていく。
 こうやって。
 肌の露わになるギリギリの部分に、わざと痕をつけたりする。

 ――ああ……また。

 強く吸いつかれる感覚に、軽く目眩を覚える。ゾクリとするほどの快楽に抗うように、華音は鷹山のシャツの背中をつかんだ。
「あの、ね……赤城さんに……バレてる……みたい、なの」
 鷹山は、いったん顔を上げた。
「ふうん……下世話な説教でもされたか?」
 華音の顔をまっすぐ見据え、首を軽く傾げてみせる。そして、睫毛の長い大きな瞳を瞬かせ、悪びれた様子もなくさらりと言ってのけた。
「僕は犬じゃない。時・場所・立場をわきまえずに、手を出したりしないよ」
 立場。仕事中は音楽監督。
 ちゃんとブレーキがかかっている、ということらしい。
「君はまだ、未成年だしね。楽団の総責任者であるはずの音楽監督が、法律を犯すようなことしてたら、楽団の信用丸潰れじゃないか」
 その言葉とは裏腹に、鷹山の腕の力がいっそう強まる。
 華音の心臓の鼓動が一気に早まった。
「――――ただし例外も、ある」
 鷹山は、以前つけた首筋の痕の上にもう一度軽く口つけし、耳元でささやくように言った。
「本当に、しようか」
「なに、を?」
「キスの先」
 顔がどんどん赤らんでいっているのが、自分ではっきりとわかる。
 今、ここで。それだけは――。
 華音の中に残る最後の理性の壁が、立ちはだかる。

 好きだから。愛しているから。
 そういう問題だけでは、決して乗り越えられない大きな壁が、二人の間にはある。

 華音がとっさに身を捩ると、鷹山は簡単にその束縛を解いた。膝の上から素直に華音を下ろす。
「冗談だよ。いくらなんでも今日は――――そんな気分じゃないんだ」
 鷹山は素早く立ち上がると、そのまま振り返りもせずに片手を挙げ、書斎のドアへ向かった。
「帰るよ。おやすみ、芹沢さん」

 ドアが完全に閉まる音と同時に、華音は書斎の床にへたり込んでしまった。
 まだ動悸が治まらない。
 混乱しているのが自分でもはっきり分かる。

 でも、いつか。
 鷹山の欲求を拒めなくなる日が来るのではないか。
 今日明日ではないにしても、これからずっとそばにいると宣言している以上。
 さっきのように突然迫られたら。

【一番弟子の彼が悲しむようなことはもう、しないことだな】
 赤城の言葉が脳裏をよぎっていく。
 それにしても。
 今夜の鷹山はどこかおかしかった。漠然とした違和感を華音は覚えた。

 床にへたり込んだまま、もう立ち上がる力もない。
 震えの収まらぬ右手で鷹山の唇の感触の残る首筋をさすりながら、華音は一人、部屋の隅に散らかったままのコーヒーサーバー置き場を、おぼろげに眺めていた。



 いつまでも悩んでいられない。今日は芹沢交響楽団の定期演奏会である。
 発足してから初めて、日曜日の昼に演奏会を行う運びとなった。
 そして、華音にとって公式演奏会デビューである。もちろん鷹山にとっても、公の場で指揮者として初めての舞台となる。

「毎度様、旬菜亭です。お弁当九十個、お届けにあがりました。サインお願いします」
 市立公会堂の楽屋口に、次々と関係業者がやってくる。
 華音はその対応に追われていた。慣れていれば片手間にすませられることも、すべてが初めてのことで勝手が分からない。
 弁当はいつどのタイミングで、どこへ持っていけばいいのか。たったそれだけのことですら、華音は途惑いを覚える始末だ。

「江崎生花店です。花束、全部で七つ、どちらへ置きましょう?」
 今度は花。
 演奏会が終わった後に指揮者がもらう花束や、楽団員個人宛のものもあり、それぞれに受け取りのサインをする。

 ――置く場所。置く場所?

 いつもどこに置いているのだろう。
 個人宛なら受付のそばのテーブルに並べてあるが、指揮者用のものは――あとで美濃部に聞くしかない。
 とりあえずすべて受付へ運んでもらうように指示すると、花屋はそれに従った。

 そこへ、いつぞやの公会堂事務局の職員であるビヤ樽青年が、手に電報の束を持ってやって来た。
「公会堂宛に届けられた分です。ロビーに貼り出すのであれば、書庫から展示パネルも出してきますが、どうなさいますか?」
 華音の処理能力はすでに限界を超えていた。
 演奏会一つを運営させるのに、考えなければならないことがこんなにもあるとは、予想だにしていなかった。いまさらながら、美濃部青年の事務能力の偉大さを思い知らされる。
 その危うい華音の仕事っぷりが、ビヤ樽青年にもおそらく見て取れたのだろう。淡々としながらも、気を利かせてアドバイスをしてくる。
「進行は今までの芹響さんの定演に則った形でよろしいんですね? 今日のプログラムは管弦楽曲集のようですので、大きな配置の変更はないとして……指揮台の位置だけ、確認させて欲しいんですが」
「……指揮台の位置? 舞台の真ん中でいいんじゃないんですか?」
 華音は当たり前のことを言ったはずなのだが、どうやら意味が違ったらしい。
 ビヤ樽青年は、ため息混じりに説明をした。
「指揮者によってこだわりがありますから、初めて演奏されるときには立ち位置のチェックが重要なんですよ。次回演奏される際にはそのデータをもとにステージを組みますし。指揮者さんか、そうでなければコンサートマスターの方に立ち会っていただきたいのですが」
「分かりました。それじゃ今、呼んできますので」


 華音は鷹山を呼びにいくため、楽屋棟へと向かった。
 楽団員たちは二階の大楽屋を使用する。
 三階は個室だ。指揮者や客演ソリストに割り当てられる。
 鷹山に割り当てられた控室も三階だった。
 華音は賑やかな二階を通り過ぎ、さらに階段を上がっていくと、辺りは一転して閑散としていた。

 ふと。
 藤堂あかりが鷹山の控室に入っていくのが見えた。
 華音は思わずその場に立ち止まった。

 立ち聞きするのはよくないことだと分かっているが――あかりの行動が気になり、華音はすかさずドアに近づき耳をくっつけて、中の様子をうかがった。


『いったい、どういうつもりなんですか?』
『挨拶もなしに音楽監督の部屋に乗り込んでくるとは、大したもんだな』
『富士川さんの顔にコーヒーをかけたって、どうしてそんな大人気ない真似を』

 華音は驚きのあまり、呼吸するのも忘れてしまう。
 昨日のシティフィルの演奏会での話に違いない。

『人聞きの悪い。あれは事故だよ、手が滑ったんだ』
『そんな言い訳、信じるとでも思ってるんですか』
『信じるも信じないも君の自由だけど。別に、火傷するほど熱くもなかったし』
『どうして……どうしてなの。あなた、そんなに富士川さんのことが憎いの?』
『言いがかりをつけるのも大概にしてくれないか。僕は音楽監督だ。この先、楽団に留まるというのであれば、もう少し大人しくしてもらわないと――』

 そこまで聞いて、華音はとっさにドアから身を離した。
 昨日の夜、華音とオーナーの赤城がパーティーに出ているとき、鷹山と行動を共にしていたのはコンサートマスターの美濃部だ。
 華音は足音を発てないようにして鷹山の控室の前から離れると、事の真相を確かめるべく、コンサートマスターの美濃部を捜すため、急いでその場から走り去った。


 目的の人物は、ホール入り口の受付付近でスタッフの仕事を見守っていた。
 華音は飛びつくようにして美濃部の腕をつかまえると、そのままエントランスの端へと引きずっていった。
「美濃部さん! 昨夜のシティフィルの演奏会の話……本当なの?」
「ああ……もう伝わっちゃったんですか。まあ、あんな公衆の面前じゃ、隠そうったって無理な話ですけど」
 美濃部は相変わらずあっさりとしている。そして、自分が見聞きしたものを、そのまま華音に説明し始めた。
「どっちもどっち、だったと思いますよ。私、鷹山さんのそばを離れていたので、はっきり聞こえなかったんですよ。内容はよく分からないんですが、富士川さんのほうが先に鷹山さんに何かを言ったんです。気づいたときには鷹山さんが富士川さんの顔めがけて、持っていた紙コップのコーヒーを、こう……」
 美濃部は身振りで再現してみせる。
 華音はまるで自分が顔に褐色の液体を浴びせかけられたように、思わず目をつぶった。
 鷹山は事故だといっていたが、明らかに故意であったと予想がつく。
「祥ちゃんは、いったい何を言ったんだろ……」
「鷹山さんはああいう人ですから、いったん火がつくとなかなか収まらないですし」
 昨夜の鷹山の態度がおかしかった意味が、華音はようやく分かったのである。
 二人の間に何があったのだろう。華音の不安は募るばかりだった。

「華音さん、公会堂のスタッフとの打ち合わせはもう、終わりました?」
「あ……そうだ、美濃部さん。ステージに行ってもらえますか? 指揮台の位置を決めるのに、コンサートマスターに立ち会って欲しいって言ってました」
「ええ? 私が決めていいんですかね? ……なんか、いつまで経ってもコンサートマスターに慣れてこないんですよ。分かりました、すぐに」
 指揮者かコンサートマスター、と言われたのだから、別に美濃部でも構わないだろう。
 なにより。
 華音は今この状況で、鷹山の控室に入って行く気には到底なれなかった。


 開演まで一時間を切った。
 ステージで最後のリハーサルを入念に行う団員もいれば、大楽屋で弁当片手に談笑するものもいる。基本的に自由時間だ。
 いくら仕事に奔走しているからといって、一回も顔を出さないのはまずい――華音は気が進まないながらも、鷹山の控室へと向かうことにした。

 音楽監督のときの鷹山は、厳しい顔つきをしている。
 華音が控室へ入っていくと、鷹山はすでにステージ衣装に着替えていた。糊の効いた純白のシャツに、シルバーグレーのスラックスとベストを着けた状態まで出来上がっている。上着はまだハンガーに吊るされたままだ。
 白い肌と栗色の髪。すらりとした細身の身体。グレーの衣装を身にまとう鷹山はよく目立つ。

「運営スタッフは今回、赤城オーナーに指揮を任せているけど、普通のイベントの運営とはやはり違うからね、分かるところは君が助言をしてやってくれ。あとは……なんだったかな」
 とりとめのないことを思いついたままに喋っている。やはり落ち着かないようだ。
「緊張、してるんですか?」
 華音の問いに、鷹山は大きな瞳を瞬かせながら緩やかに問い返した。
「英輔先生は――どうだった?」
「……分かんない」
「ん?」
 微妙な空気だ。二人きりの空間。
 出会ったばかりの頃は、二人きりになると緊張で居心地が悪かったが――今は違う。
「おじいちゃんの楽屋に行ったこと、なかったから。入っていいのは、祥ちゃんだけだったし」
「あのさ」
「分かってる。その名前を口に出すな、でしょ」
「まだ何も言ってないじゃないか」
「そのことじゃないんですか?」
 鷹山はテーブルの上を指差した。
「ネクタイ、どっちがいいかな」
 華音は呆気にとられた。そんなこと、わざわざ他人に決めてもらうことだろうか。
 鷹山が指差した先には、グレーの大きさの違う二つの蝶ネクタイがある。
「別にどっちでもいいんじゃないですか」
「どうしてそうやって適当なこと言うんだよ。演奏家にとって衣装は特別な意味を持つものなんだよ」
 いちいち逆らうと長くなりそうなので、華音は子供のようなことを言う音楽監督に、ひとこと助言をした。
「……そっちの小さめのほうが、カッコいいかも」
「じゃあこれ、つけて」
「ええ?」
 また、何を言い出すのだろう。この男は。自分でできることまで人にさせようとする。
 しかし、音楽監督の言うことは絶対だ。特に演奏会直前で神経過敏になっているときは、すべてを聞き入れることがアシスタントの務めだ。
「時間がない。早くしてくれ」
「…………はい」
 華音は選んだ蝶ネクタイを手に取ると、留め金の端と端を持って鷹山と向き合った。
 腕を伸ばし、鷹山の首の後ろに手を回す。
 音楽監督は無言のままだ。
 近い。近すぎる。
 緊張して手が震え、上手く金具が止まらない。
「首、絞めるんじゃないぞ」
 鷹山は痺れを切らし、ふざけて悪態をついた。

「ひょっとして君、怒ってる?」
 こんな至近距離で。真面目な顔で。いつキスされてもおかしくないほど近い場所で、探るように尋ねてくる。

【本当に、しようか】

 昨夜の鷹山のささやきを思い出して、華音は恥ずかしさで顔が熱くなった。
 無理矢理関係を進めようとしたことを、言っているのだろうか。華音が拒んだ態度を気にしているのか、それとも。
 その動揺を悟られまいと、努めて冷静に対応する。
「私に怒られるようなことでもしたんですか? なに弱気になってるんですか、鷹山さんらしくない」
 しかし、鷹山は華音の思惑とは違うことを返してきた。
「美濃部君から聞いたんだろう、昨日の一件」

 ――なんだ……そっちのこと、か。

 なんて顔をするのだろうか――この音楽監督は。
 普段楽団員たちにはおよそ見せたことのない、脆くてすぐに崩れてしまいそうな表情をする。
 艶やかな瞳に映る不安定な心。

 どちらかに引きずられては困る――そんな赤城の意見は、到底聞き入れられるはずがない。

「理由は何であったにせよ、公衆の面前で兄弟子の顔にコーヒーをかけるなんて、人として恥ずかしいと思います。怒りっぽいのはカルシウム不足なんじゃないですか? 今度書斎に小魚用意しておきますよ」
「…………」
 何も言い返してこない。三倍返し必須の、雄弁で饒舌な音楽監督が、珍しいことにありえないほど大人しく、ネクタイをつけ終えるのをじっと待っている。
「はい、できました。じゃあ、私は受付のほうにいますから、時間になったら舞台袖に待機してくださいね。たぶん美濃部さんが呼びに来てくれますから」
「ちょっと」
 半ば逃げるようにして控室を出て行こうとする華音を、鷹山がひとこと呼び止めた。
 ドアノブに手をかけたまま、その場で振り返る。
「なんですか?」
「いいからちょっと」
 鷹山は手招きをする。近くまで寄ると、指で自分の耳を指し示し、耳を貸せという仕草をする。
 華音は素直に従い、鷹山のほうへと耳を寄せた。
 何か指示し忘れていたことでもあったのか、それとも別な何か――。
 鷹山は、華音の耳元に唇を寄せるやいなや、いきなり怒鳴った。
「誰が小魚なんか食べるか、バーカ!」
 華音は反射的に耳を両手で塞いだ。これ以上できないくらい両目を見開いたまま、バランスを崩し床にへたり込む。
「そんなつまらないこと言うためだけに呼び戻さないでください! 鼓膜、破れるでしょ!?」
 鷹山はツイと顔をそむけた。
 もはや、まともに話を聞く気は無いらしい。
 拗ねた悪魔への仕返しに、華音はステージ用の革靴の上から鷹山の足を思い切り踏んづけてやる。
 そして、ぎゃああとか骨折れたとか凶暴人間だとか、大袈裟に喚き散らす彼の声を背に、そのまま控室を飛び出した。

 ――本当に、本当に気難しいんだから…………もう、知らない。

 それが二人の、初めての演奏会の本番前、最後のやりとりだった。