夢幻の章 (5)  企画者の苦悩

 定期演奏会の翌日と翌々日の二日間は、練習のない完全オフとなっている。気持ちを切り替えるためと称して、芹響ではいつしかそういう慣習ができている。
 しかし、それはあくまで普通の楽団員たちの話であって、駆け出しの音楽監督やコンサートマスターに休暇はない。
 そして、そのアシスタントを務める華音も、当然休みをもらえるはずはなかった。


 定演の翌日の午後――。
 華音は学校から帰るなり、芹沢邸の玄関脇の雑談スペースで、美濃部の助言を仰ぎながらひたすら企画書を書く、という作業に没頭させられていた。
 企画といっても、演目を決めるわけではない。演奏会の大まかな構成を考えるだけである。
 その企画書をまず音楽監督に提出し、使えそうなものを選び、首席陣を交えた選曲会議に持っていく、ということらしい。
 自分が考えた企画が実際に演奏会として採用される――それは、華音にとってまったくの未知の領域だった。
 文化祭のクラスの出し物でさえ、自分の意見など通った試しはない。いや、自分の考えがあるかどうかも怪しいものだ。
 誰かが決めたことに従うということが、一番楽なのだから。そう、それだけのことなのである。
 しかし、今回の企画書作りは文化祭の出し物とはわけが違う。実際に興行として金銭のやり取りが発生する。
 責任重大だ。

 ――だけど、構成なんて……私なんかが、口出ししていいことなのかな?

 構成を企画することが音楽監督の指示によるものだとはいえ、華音はどうも腑に落ちない。
 指示といっても、直接本人から聞いたわけではない。待ち受けていた美濃部から伝言を受けただけなのである。
 半信半疑というのが本音だったが、美濃部が嘘をつくような人間でないことは、華音もよく知っている。
 気を取り直し、とにかく作業を進めることにした。

 罫線のない真っ白なルーズリーフに、華音は思いついたことを箇条書きにしていく。
「普通、ピアニストが客演する場合は、前半にオケだけで管弦楽曲を演奏して、後半でソリスト交えてピアノ協奏曲を演奏する、というのがパターンだよね」
 高野和久が年に二度客演する際も、そのスタイルだった。
 ピアノ協奏曲は華であり、客演のピアニストを招くという性格上、演奏会の後半に持ってくるのが不文律だ。たくさんの演奏会を聴いてきた華音には、それがよく分かっていた。
「こけら落としも……そのパターンでいいのかな? 何かもっと入れたほうがいいの? 三部構成とか――」
 今回の企画は新ホールのこけら落としだ。最も重要な一大イベントである。
 ピアニスト・稲葉努を客演に招くというところまでは決定したが、その具体的な内容はほとんど決まっていない。
 華音は向かいに座る美濃部青年に同意を求めたが、彼はどうにも浮かない表情をしている。
「もっと違う発想でもいいんじゃないですか? 鷹山さんは随分と新しい試みにこだわっているみたいですから」
「そっか……じゃあ協奏曲じゃなくて、祝奏としてアンコールを務めてもらうとか」
「それって、アンコールって言わないですよね。むしろ祝奏なら演奏会のあたまに弾いてもらうほうが自然ですよ。こけら落としならなおのこと……でも、それだとどうしても『前座』っぽいですよね……それじゃあ客演ってことには、ならないんでしょうね」
 超一流の国際的ピアニストを前座に――いくら鷹山が新しい試みを求めていると言っても、さすがにそれはまずいだろう。
「はああああ。……どうしよう、美濃部さん」
 華音のついた大きなため息の原因は、企画書の他にもあった。
 理由は、単純なこと。
 昨日の定演が終わってから、鷹山とはいまだにひとことも口をきいていないのである。

 華音が学校に行っている間に、鷹山は芹沢邸へとやってきて、そのまま書斎にこもっているらしい。
 しかも、美濃部青年に伝言して華音に企画書を書くよう指示を出している。あえて顔を合わせることを避けているかのようだ。
 とにかく気が重かった。
 あまりいい別れかたではなかったことが、華音はとても気掛かりだった。

 昨日は、鷹山が音楽監督に就任して初めての演奏会ということもあり、彼のもとには音楽業界の著名な人物が多数訪れていた。
 さすがに高校生が采配を振るうことができる状況ではなく、コンサートマスターの美濃部に鷹山のサポートを任せ、華音はひとり早々に帰宅したのである。
「昨日、あの後の鷹山さん、どんなだった?」
 華音は新しいルーズリーフを取り出して、とりあえず清書を始めた。ゆっくりと文字をつづりながら、それとなく美濃部に尋ねる。
「別に、いつも通りでしたよ。特に疲れも見せていませんでしたし。やっぱり演奏会慣れしてるなって、感心しましたよ私」
 それを聞いて、華音は幾分落ち着いた。演奏会前の控室での一件は、演奏会自体にはまったく影響しなかったらしい。
 さすがは二重人格者――華音はそう心の中で毒吐いた。
 そんな華音の心中をまったく悟ることなく、美濃部は淡々と説明を続ける。
「当然ですけど、芹沢先生のときとは客層が違っていましたね。新進気鋭の音楽家たちの姿が多く見られましたし。あの有名な羽賀真琴さんの姿もあって、感激しましたよ。私、大ファンなんです」
 意外な名前を、美濃部は口にした。
「羽賀真琴って、女流ヴァイオリニストの人?」
「あ、知ってます? CDとか出してますもんね。控室にもちょっとだけ挨拶に見えられてましたよ。鷹山さん、お知り合いなのかなあ。いいなあ」
 美濃部の能天気な物言いが、華音の胸を締めつける。
「あの人、祥ちゃんの大学の後輩だから。祥ちゃんがうちに居候してたとき、よく電話をかけてきたし……祥ちゃんとは仲が良かったみたい。鷹山さんのほうはよく知らないけど」
 正直なところ、その事実はすっかり記憶の奥底に追いやられてしまっていた。ここで再びその名前を聞くとは、華音は思いもよらなかった。
「あ、そうなんですか。富士川さんにそんなに仲のいい女性がいたなんて。まさか、お付き合いされてたりとか?」
「分かんないけど、あの人は好きだったんじゃないかな」
 藤堂あかりと、同じだ。
 富士川祥を慕う女の存在を聞くと、動揺を隠せなくなってしまうことに、華音は気づいていた。
 中学生だった頃に一度だけ、華音は学校の親しい友達の一人に、このことを話したことがあった。
 それは『ブラザーコンプレックス』だと、ひと言ですまされた。
 兄が好きという感情だけではなく、兄を取り巻く女性に嫌悪感を覚える――ブラコン以外の何物でもない、そう軽く笑われた。
「ああ、羨ましいなあ。私の憧れる人はみんな富士川さんのことが好きなんですよねえ……」
「みんな?」
「え、い、いや。別に何でもありませんから! 今のは聞かなかったことに」
 いつも冷静で感情を表に出さない美濃部が、珍しく取り乱している。持っていたボールペンで、目の前の紙にぐじゃぐじゃと、幾何図形を殴り書きしている。
「美濃部さん……それ、鷹山さんに出す企画書なんだけど」
「え? あ、うわわわ、すみません。……書き直してもらえますか?」
 華音はため息を吐きつつ、新しいルーズリーフを一枚取り出した。
 手を動かしながらも、華音はいまだいろいろなことを思い巡らせていた。

 ――兄が好きという感情だけではなく、兄を取り巻く女性に嫌悪感を覚える。

 はたして、鷹山に対しても同じ感情がわくのだろうか――華音はそんな疑問を抱き始めていた。
 兄であって、兄ではない男。
 兄ではなくて、兄である男。


「ふざけるのも大概にしろよ」
 悪魔な音楽監督の第一声が、これだった。
 それなりに考えて、綺麗に清書した数枚のルーズリーフは、無情にも目の前で破り捨てられる。
 さらに鷹山は、冷徹極まりない表情で、その残骸が積もるデスクを派手に叩きつけた。
 その風圧で、華音の足元へも一片、舞い落ちてくる。もちろん華音はすくみ上がったまま、それを拾うこともできずにいた。
「君が聞いてきた稲葉氏の条件ってやつはどこに行ったんだよ? まるで話にならないね」
 大きな両目がしっかりと華音の顔を捉えて離さない。
「あ、すみません。じゃあ、すぐに別の……」
「美濃部君、君は黙っていてくれないか」
 美濃部の助けを、鷹山は皆まで言わせず却下した。
 勢いは止まることを知らない。その矛先はすべて華音に向けられる。
「僕たちはお遊びで音楽活動しているわけじゃないんだよ。君は確かにまだ高校生でアルバイトという立場だけど、もっと責任を持って仕事してくれないか? 僕を失望させないでくれ」
 公私混同を避けている――それは理解する。しかし、それにも限度というものがある。
 いや、むしろ。
「それにしても美味いなあ、これ。あー、美味い」
 鷹山はデスクの引き出しから、何やらつまみのような小袋を取り出した。食べ切りサイズ、らしい。すでに封は開けられている。鷹山はその中身を手のひらに出した。
「……何ですか、それ?」
 いぶかしげに美濃部が覗き込んだ。
 どこからどう見ても、味付き小魚である。
「乾さんに持ってきてもらったんだ。どうやら僕はカルシウム不足『らしい』から」
 鷹山は不自然に『らしい』を強調しながら、華音を睨みつけた。
 わざわざ芹沢家の執事に言いつけてまで用意させた、とは。
 どう考えても自分に対する嫌味としか、華音には思えない。
「へえ、ちゃんと健康に気を使ってらっしゃるんですね。私も気をつけないとな。やっぱり一人暮らしだと栄養偏りますもんね」
「そうなんだよ。最近心身ともに弱っててさ、昨日なんか小生意気なイノシシに足を踏みつけられるし」
 美濃部青年が事情を知らないことをいいことに、鷹山は嫌味を連発してくる。
 絶句。あきれて反論する力さえ出てこない。
「……」
「なに、君まだいたの? さっさと作り直してこいよ。期限は明日の夕方までだ。分かったな?」
 立ち尽くす華音にとどめの嫌味、そして小魚をかじる小気味よい音。

 ――なんなの? 公私混同、しすぎじゃない?


 華音は再び玄関横の雑談スペースへと戻ってきた。そのままぐったりと、一人掛けソファに身を投げ出すようにして座る。
 すぐ後を追うようにして、美濃部も鷹山の書斎から出て、一階までやってきた。先程と同じように、華音の向かい側のソファに腰かける。
 うなだれている華音に気を遣ってか、美濃部はなだめるようにして言葉をかけてくる。
「鷹山さん、華音さんに厳しいですよね。私だったらへこんじゃうと思いますよ」
 仕事に厳しいというならまだ、我慢もできる。
 しかし。
「……絶対根に持ってるんだ。性格悪すぎ」
「ケンカでもしてるんですか?」
 はたしてあれがケンカと言えるのだろうか。そう言うにはあまりにも一方的すぎる――華音は深々とため息をついた。
「何も破り捨てなくたっていいじゃない……どうしたいのかを口で言えばいいのに、あんなあてつけに小魚なんか食べたりして」
「へ? あれって、あてつけなんですか?」
 華音は美濃部に、演奏会前の控室でのやりとりを簡単に説明した。
 それを聞いて美濃部青年は目を丸くし、驚きをあらわにする。
「うわ、華音さんもよくやるようになりましたねえ。あの鷹山さんに仕掛けていくなんて。で、華音さんに小魚食べろと言われて、鷹山さんはそれを素直に食べてるってわけですか。……まるで小学生ですね」
「そんなの小学生に失礼だよ。だから『悪魔』なんて陰口叩かれるんだ。なによ、人のこと『小生意気なイノシシ』って! 美濃部さん、イノシシだよ? どう思う!?」
 そう二人が話をしているすぐそばで、不意に足音がした。
 音のするほうを振り返ると、観葉植物の合間に、よく見知った大男の姿があった。
「フン、ケンカができるということは、それだけ仲がいいという証拠だ。まるで兄弟ゲンカだな」
 いつものように、まるで我が家であるかのように芹沢邸へと入り込む。
 相変わらず身なりがキッチリとしていて、隙のない佇まいだ。
「ああ、オーナー。お疲れ様です」
 姿を確認して、美濃部はすぐに立ち上がり、礼儀正しく挨拶した。
 一方の華音は、ソファに座ったまま軽くため息をつき、恨めしい顔でオーナーの顔を見上げる。
「……赤城さん。それ、嫌味ですか? というか、よっぽど暇なんですね」
「君のことをいつも気にかけている、と思ってくれると嬉しいんだが。君に対する、私の精一杯の愛情だ」
「愛情はいいですから、知恵をくださいよ。……っていっても、クラシック音楽オンチのオーナーじゃ、あんまり期待はできないですけど」
 華音がいつものように赤城を軽くあしらってみせると、そばで見ていた美濃部が驚嘆の声を上げた。
「うわ、華音さん……鷹山さんにだけじゃなくてオーナーにも結構やりますねえ。頼もしいなあ」
「そうだな、芹沢君の言う通りだ」
 赤城は大人だ。あの悪魔な音楽監督のように、華音の戯言にいちいち怒ることはしない。赤城の気性とそのあしらい方は、最近一緒にいる時間が多かったせいで、自然と身についた。
「ただ、私には企画力が備わっている。おそらく、そこの美濃部君よりも企画を通すノウハウは持っていると思うがね」
「さすが、やり手の実業家は言うことが違いますね。ぜひそのノウハウを私にも教えてくださいよ、オーナー」
 そう言って、美濃部は先程まで自分が腰かけていた席に赤城を促した。そして、どこからか小さな椅子を調達してきて、華音の隣になるように座った。こういう細かな気遣いを素早くこなせる美濃部は、さすが雑用のプロというところである。
 美濃部がメモを構えるのを待って、赤城は説明を開始した。
「企画というのは、そうそう簡単に通るものではない。10あればそのうち9は捨てられると思っておいたほうがいい。だから、企画が通らなかったからといっていちいち落ち込んでいるようでは、プランナーとして失格だ。常により良いものを目指すという向上心は、絶対に必要だ」
 心の内を見透かされているような気がして、華音は動揺した。たったひとつの企画を却下されて怒っていた自分が、急に恥ずかしくなってしまう。
 学校の文化祭レベルの話ではないことくらい、自分でも分かっていたはずだ。
「音楽の企画は粗方決まりきっていて、なかなか新しい取り組みも出にくいだろうが、そこは持ち前の若い目線と発想力で、あっと言わせるといい」
 赤城には迷いがみられない。
 統率力と決断力を兼ね備えているからこそ、青年実業家として名を馳せることができるのだろう。
 華音と美濃部は一言も発することなく、ひたすら赤城の話に耳を傾ける。
「もうひとつ、君は自分自身で楽器を演奏をしないだろう。それは、決して不利なことではないと私は思うね。逆の見方をすれば『聴衆のエキスパート』であるともいえる。幼い頃から、聴くだけはたくさん聴いているはずだからね。聴衆の目線で考える企画はきっと面白いと思う」
 自分で演奏をしないからこそ。
 そういう考え方もできるということを、華音は初めて知った。
「まあ、これは鷹山君の受け売りだがな」
「鷹山さんの?」
「君にはゆくゆく、楽団のプランナーとして働いてもらいたい、彼はそう考えているんだよ」
 初耳だった。
「あー、なんだか分かる気がするなあ」
 一通りメモを書き終えた美濃部は、独り言のように呟きを洩らした。
「演奏する立場に回ると、業界の常識ってやつに、どうしてもとらわれちゃうんですよね」
「鷹山君は君たちを、その『業界の常識』にとらわれない人材として重用している。特に芹沢君のことは、いろいろと考えているようだな。君を直接稲葉氏へ引き合わせたのも、考えがあってのことだろうね」
 そう言われてみれば、確かにその通りだった。
 華音は自分で稲葉努というピアニストに会って、この耳で彼のオファーへの条件を聞いてきたのだ。
 それを『業界の常識』にとらわれて、不可能だと自分で勝手に判断してしまった。それを、鷹山は怒ったのだ。
 ただ、そのやり方は、かなり意地悪いものだったが――。
「やっぱり高野先生を説得するしか、道はないってこと……か」
「あいつは変に女々しいんだ、昔っからな」
 同級生の容赦のない一言に、華音と美濃部は思わず顔を見合わせて、曖昧に頷いた。


 その日の夜遅くに、高野は芹沢邸へと帰ってきた。
 高野が自室として使用しているのは、芹沢家の二階にある客間だ。鷹山が普段仕事場として使用している書斎や祖父の私室とは、中庭を挟んでちょうど向かい側に位置している。
 高野と華音の部屋は同じ棟にある。華音は部屋の中で授業の予習をしながら、部屋の外の物音に注意を払っていた。

 高野が階段を上ってくる音が遠くから聞こえてきたのは、すでに午後十一時を回った時間だった。
 パジャマにカーディガンを羽織り廊下へ出ると、目的の人物がフラフラと歩いてくるのが見えた。
 どうやら酔っているらしい。
「聞いたよ。まるで召集令状だ」
「先生、誰に聞いたの。鷹山さん?」
「いや、つい今しがた、麗児君にね。ウチの店の前で待ち伏せしてて、そのまま居酒屋に強制連行。しかも割り勘ー。麗児君金持ってるくせに、同級生なんだから割り勘は当然だって。そんなこと言ってるから、いつまで経っても結婚できないんだってーの。ケチな男はもてないんですよーだ」
 お酒が入っているせいで、高野はいつも以上によく喋る。
 話がどんどん脱線しそうだったので、華音は慌てて軌道修正を試みる。
「じゃあ、離婚したときのことも、赤城オーナーに説明したの?」
「喋りたくなくたって、麗児君が根掘り葉掘り聞くもんだからさ」
「うそ――信じられない」

【和久が話したがらないことを、無理矢理聞きだすような無粋な真似はしないさ】

 そう言って格好つけていたのは、間違いなくあの大男、オーナーの赤城だったはずだ。いまだ記憶に新しい。
「仕方がないから、稲葉の素性だけは、教えておいたけど。だって麗児君、俺を脅してくるんだもん。いいからさっさと吐けって、お前は刑事かっつーの」
 目的のためには手段を選ばない――相変わらず強引だ。
 高野は途惑いを隠せないような顔で、じっと華音の顔を見つめる。
「ノン君、分かってるだろう? 何とか楽ちゃんを説得してくれないかなあ? 俺、あいつと同じ舞台で弾くのは嫌だから。誰に何と言われても絶対に嫌だから」
「私、言ったんだよ? 反対だって。でも、鷹山さんは稲葉さんの条件飲んで正式にオファー申し込むつもりだし。……高野先生、私の命がかかってるの。何とか前向きに!」
 華音は顔の前で両手を合わせ、必死に頼み込んだ。
 しかし、それはあっけなく切り捨てられる。
「稲葉の顔なんて見たくないんだよ。ノン君、短い付き合いだったね。楽ちゃんの手にかかっちゃってちょうだい」
 高野は冗談で言ったつもりなのであろうが、華音にしてみればまったくしゃれにならないことなのだ。
 本当に、何をされるか分かったものではない。
「顔、合わせなかったらいいんでしょ? だったら、アイマスクとヘッドフォンつけて楽屋入りして、演奏するときだけ外して、また家に帰るまでアイマスクとかつけていけば?」
「そこまでして俺も弾かなくちゃダメ? それだったら、意識失くすまで酒飲んで、夢見心地で弾くほうがマシだ」
「じゃあ高野先生、鷹山さんに直接、弾きたくないって言ってよ」
「俺が楽ちゃんの口に勝てるわけがないじゃないの。いいように丸めこまれて、おしまいだよ」
 一通りの攻防がすむと、二人は顔を見合わせたまま、同時に深々とため息を吐いた。
 お互いの置かれている状況は、充分理解しあっているのだ。
「どいつもこいつも、簡単に弾け弾けって……麗児君なんか、お前はそれしか取り柄がないんだから、なんてひどいこと言うし」
 ここまで高野がこだわる理由。それはきっと、一つのこと。
「ねえ、高野先生。……仁美さんと和奏ちゃんのこと――」
 華音は、かつて高野の家族だった人々の名を口にした。
 明るく陽気だった妻と、元気で活発だった娘。
 手放してしまった過去への執着。忘れられるはずのない悪夢。
「もう、いいんだそのことは。過ぎてしまったことだから」
 高野はシャツの胸ポケットから煙草の箱と安物の使い捨てライターを取り出した。気分を落ち着かせようと、一本取り出し口に咥え、ライターを構えた。
 しかし、火はなかなか点かずに、擦れる音だけが辺りに響く。
 やがて高野は諦め、煙草を口から離し、ライターと一緒に力任せに握り締め、そのまま廊下の壁を殴りつけた。
「何で俺なんだよ――――もう俺と、比べるなよ……」
 声が震えている。怒っているのか、泣いているのか。いずれにしても高野が滅多に人に見せることがない姿だ。
「高野先生――」
 何と言えばいいのだろう。
 こんなにも切ない高野の顔を見て、どうして演奏を頼むことができようか。
 もう一度、鷹山に決死の覚悟で挑むほか道はない――華音が思い直した、そのとき。
 喉の奥からやっと絞り出したような覇気のない声で、高野が言った。
「……稲葉と、顔を合わせないという条件で。いいかいノン君? これだけは守ってよ」
 華音は思わず目を見開いた。予想に反して、高野の返事は、条件付きながらも何と『OK』だったのである。
 おそらく、苦渋の決断に違いない。もちろん、鷹山と華音のことを気にかけてのことだろう。
「うん……ありがとう」
 高野は憔悴しきったしまりのない表情で、そのまま華音に背を向け客間へと消えていく。

 その背中を見送りながら。
 本当にこれでよかったのか――華音は鷹山の冷たく綺麗な顔を思い浮かべ、また大きなため息をついた。