夢幻の章 (6)  信頼は時間に比例するか YES.

 明くる日、火曜日の午後――。
 華音は鷹山に言われたとおり、新しく企画書を作成しなおした。
 新しくと言っても、相変わらず白いルーズリーフに手書きしただけで、企画書と呼べるほどの仰々しいものではない。しかし、今の華音にはそれが精一杯だった。

 合わせの練習は、今日までが休みである。そのため、鷹山は朝から書斎にこもりきったままだ。
 昨日とは違い、美濃部の姿はない。オーナーの赤城が突然やってきて、うろつくこともない。
 芹沢邸は静かだ。
 華音は重い足を引きずるようにして、鷹山のいる書斎へと出向いた。

 書斎のドアをノックしようとしたその手を、華音は一度引っ込めた。
 自分の家の中であるはずなのに、どうしてこんなに緊張してしまうのだろうか。
 静かにノックをする。反応がない。
 念のためもう一度、今度は幾分強めにドアを叩く。しかし、いつまで経っても応答はない。
 華音は大きく深呼吸をし、おそるおそる書斎のドアを開けた。

 部屋に入るなり、華音は気力が削がれてしまった。
 耳障りな音が絶え間なく続く。その発生源は、不機嫌面の音楽監督だ。
 デスクに頬杖をつきながら、気だるそうに音楽雑誌に目を通している。ページをめくるたびに、そばに置かれた深皿に手を伸ばし、その中身をせっせと口に運んでいる。
 小魚だ。
 どうやら鷹山は、カルシウム不足だと言われたことを相当根に持っているらしい。
「これ以上は、高野先生の要望で譲れません……ので」
 それだけ言って、鷹山の前に新しい企画書を差し出した。
 無言だ。
 このデスクを挟んだだけの距離で、聞こえていないはずはないのだが、受け取る素振りも見せない。
 華音はその重苦しい空気に耐えられず、わざと邪魔をして雑誌の上に企画書を叩きつけるようにして置くと、勇気を振り絞って渋々頭を下げた。
「この間のことでしたら、謝ります」
 反応があった。鷹山はようやく雑誌から目を離し、ゆっくりと顔を上げた。
 綺麗な二つの大きな瞳が、華音の顔を捉える。しかし、鷹山はひとことも発することなく、ただ咀嚼を繰り返すばかりだ。
 鷹山は華音を凝視しながら、なおも小魚の皿に手を伸ばそうとする。華音はそれより先に音楽監督のエサを奪い、後ろ手に隠した。
 鷹山の指が空をつかむ。
「――――君に謝られなくてはならないことは一杯ある気がするけど、どれのこと?」
 鷹山がようやく喋った。しかし、機嫌はすこぶる悪い。
「小魚を食べろと言ったことです」
「謝って、それから?」
 華音はごくりと唾を飲み込んだ。
 上手い返答が見つからない。
 黙ったまま立ち尽くす華音に、鷹山は白々しくため息をついてみせた。
「謝るのは君の勝手だけど、僕が許すか許さないかは、まったく別の問題だから。君は今日からしばらく内勤だ。明日からの練習にもついてこなくていい」
 鷹山は読んでいた机上の雑誌を、華音が書いた企画書ごとわざと音を発てるようにして閉じ、冊子を器用に丸め、それを片手に書斎から出て行ってしまった。

 ――本当に、本当に滅入る……。

 一人書斎に取り残されてしまった華音は、そのまま備え付けのソファに半ば身体を投げ出すようにして座り込んだ。
 夏休みの間は、鷹山のそばにつきっきりで、コーヒーを淹れたりお喋りに付き合ったり、練習の日には荷物持ちをさせられたり――とにかく長い時間を一緒に過ごしてきた。
 窮屈に感じることもあったが、今こうやって一人きりにされてしまうと、鷹山という男の存在の大きさに、華音は改めて気づかされる。
 華音はもう何度目か分からない大きなため息をつき、瞑想するようにゆっくりと目を閉じた。

 学校が始まった今は、首席陣との打ち合わせや運営会議などは、華音のいない間に行われる。華音の仕事は、学校から帰ってから書斎で鷹山宛の手紙や書類をいくつか整理して、あとはコーヒーを淹れるくらいだ。
 午後から夕方にかけて合わせの練習がある日も、学校帰りに遅れて顔を出すのが精一杯。早く終われば鷹山とともに芹沢邸の書斎へ戻ることもあったが、そのまま練習場所で別れることがほとんどだった。
 ただでさえ、共有する時間が減っている。どうすれば鷹山との関係を修復できるのか、華音にはまったく見当がつかなかった。

 ――あの小魚。

【華音さんに小魚食べろと言われて、鷹山さんはそれで素直に食べてるってわけですか】

 美濃部に言われたことを、華音はふと思い出した。
 鷹山との関係がおかしくなったのは、あの控室での一件以来なのである。
 しかし、そもそもの原因は、その前日の出来事にあるはずだ。

 鷹山が、公衆の面前で兄弟子である富士川の顔にコーヒーをかけた、ということ。

 そのことを知って華音は――あのとき、鷹山になんと言っただろうか。もうはっきりとは思い出せない。ただ、彼を相当傷つけてしまったであろうことは、今なら分かる。
 初めのうちは、あの陰険ぶりがとにかく腹立たしく思えたが、時間が経つにつれ、華音はどんどん自己嫌悪に陥ってしまっていた。
 鷹山の冷たくそっけない態度に、いつのまにか自分がひどく傷ついていることに、華音は気づいた。

 ――謝っても許す気配すら見せない、なんて。

 そのとき、ふと。
 華音の脳裏に浮かんだのは、優しかった富士川祥の姿だった。
 比べるのは無意味だと分かっている。しかし、どうしても比べてしまう。
 二人があまりにも対照的すぎるのである。

 ――祥ちゃんなら……いや、祥ちゃんとはケンカすることなんか、なかったけど。

 どんなことでも、富士川はありのままの華音を受け入れてくれた。たとえ華音に非があったとしても、すべてを許してくれた。
 しかし、鷹山は違う。華音の言動一つ一つに、喜怒哀楽をぶつけてくる。
 とにかく――――滅入るのだ。



 そんなすれ違いの状態が、さらに十日あまり続いた。
 今日は土曜日、華音は学校が休みである。
 そして楽団も、土日祝日は演奏会などの催事があるとき以外、基本的にオフとなっている。

 本日の音楽監督の予定は、午前十時より外出となっていた。
 芹沢邸の書斎に鷹山が顔を出すかどうかは微妙だ。直接マンションから出かける可能性のほうが高い。
 最近の仲違いで、すっかり鷹山の行動も把握できなくなってしまっている。
 こういうときに限って、愚痴を聞いてくれる相手はいない。最近本業が忙しいのか、オーナーの赤城も芹沢邸に姿を見せない。来たら来たで鬱陶しいのだが、ストレス解消の足しにはなるのに、なかなか思い通りにはならないものである。

 アルバイト開始時間の九時になり、華音はとりあえず書斎へと向かった。
 鷹山はやはり姿を見せていない。ということは、必然的に華音がするべき仕事はない。
 華音は応接セットのソファに座り、壁一面の書棚に収められた書籍や楽譜の背表紙を、ひたすらぼうっと眺めていた。
 すっかり給料泥棒となっている――そうため息をついていると、突然、書斎のドアが開いた。
 その音に驚き、華音は慌てて振り返った。すると、そこに立っていたのは、コンサートマスターの美濃部青年だった。
「いたいた、華音さん。今日はこれから僕の車で出かけますので、すぐに準備して欲しいんですけど」
 そう言う美濃部は珍しくネクタイを締めている。演奏するときの蝶ネクタイ姿はよく見るが、まるでどこかの会社の営業マンのような地味なスーツ姿を、華音は初めて見た。
 その物々しい雰囲気に、華音は思わず尋ねる。
「美濃部さん、そんな格好してどこに行くの?」
「あ、これは一応、ですから。華音さんはいつも通りでいいって言ってましたよ」
 美濃部の伝聞調の喋り方に違和感を覚える。華音はすかさず尋ねた。
「……誰が?」
「もちろん鷹山さんに決まってるじゃないですか。もう、車に乗って待ってますよ」
 聞くまでもなかった。一気に緊張感が高まってしまう。
 それにしても――。
 こうやって用事があっても、すべてこの美濃部青年に伝言する鷹山のやり方が、華音の心をいっそう憂鬱な気持ちにさせた。


 華音が着替えをすませて玄関の外へと出ると、美濃部の愛車が芹沢邸の玄関のポーチに横付けされるようにして停まっていた。街でよく見かける国産の軽自動車だ。
「狭くて申し訳ないんですけど、後ろへどうぞ」
 美濃部に勧められるがままに、華音は車に乗り込んだ。少しでも鷹山と距離を置くために、運転席の後ろの窓にしっかりと身を寄せる。
「あの……どこに行くんですか?」
 すでに助手席に乗り込んでいた鷹山に、華音は怖々と聞いてみた。
 まともに口をきくのは、いったい何日ぶりのことだろうか――。
「オーナーがアポを取っておいてくれた。稲葉氏が再来日しているんだ。とりあえず、ご挨拶にね」
 そっけないながらも、とりあえず質問には答えてくれる。ただ、助手席のシートに深く腰をかけて、後部座席にいる華音のほうを振り返ることはしない。前だけを見て淡々と答えるだけだ。
 鷹山の言うとおり、稲葉というピアニストはたしかに、たびたび来日するようなことを話していた。
 美濃部も運転席に乗り込みながら、二人の会話に入ってくる。
「鷹山さんって、あの稲葉努とお知り合いなんですか?」
「正式に会うのは初めてかな。近くて遠い、そんな関係だから。古くは英輔先生というつながりがあったし、今でも和久さんという共通の知り合いがいる」
 勢いよく、車は発進する。堅実そうな見かけによらず、美濃部は豪快にアクセルを踏む。これから有名な演奏家に会うことができるということで、相当気分が高揚しているようだ。
 美濃部はハンドルを捌きながら、嬉々として助手席の鷹山に話しかける。
「そう考えたら芹響のメンバーって、すごいですよね。国際的な演奏家とつながっている人がたくさんいますから。同門っていいなあって、少し羨ましいです。私なんか工学部でしたから、同期といえば大企業のシステムエンジニアがせいぜいですよ」
 華音は後部座席にいながら、音楽監督とコンサートマスターのやりとりをただ眺め、部外者を決めこんでいた。
「僕に言わせたら、美濃部君のほうがすごいと思うけどね。君は大学に入ってからヴァイオリンを始めたんだろう?」
「ええ、まあ。でも、とりあえずエレクトーンを小学校から習っていたので、楽譜は読めたんですけどね。だから、ど素人ではなかったと思います」
「そこなんだよ。ピアノを学ぶと必然的にクラシック音楽に造詣が深くなるけど、エレクトーンはまったく別の部分が鍛えられる。楽器をやらない芹沢さんみたいな人だと、理解しづらいと思うけど」
 突然鷹山が、華音へ話を振ってきた。
 たったひと言、『芹沢さん』と言われただけで、華音は平常心をかき乱される。
 しかし、ろくに返事をする間もなく、鷹山はどんどん話を進めていってしまう。
「美濃部君はどうしてこの道に進んだの?」
「芹響に入ったのは、何となくですよ。正直受かると思ってませんでしたから、プロの入団試験ってどんなものなのかなあと思って、純粋な好奇心だったんです。で、受かっちゃったから、就職活動、止めちゃったんですよね」
 随分と適当な理由だ。
 流れに身を任せる、典型的な『なるようになれ』タイプの人間なのだろう。
「その前はどうなの? 大学でオーケストラのサークルに入ろうと思ったきっかけは?」
「それは、ヴァイオリンが軽かったからですよ」
 美濃部はさらりと答えてみせた。
 鷹山は納得したように頷いている。しかし、華音にはまるでその意味が分からない。

 ――ヴァイオリンが、『軽かった』?

「……はい?」
 後部座席の端で、華音は思わず声を裏返らせてしまった。
 運転中の美濃部には華音の表情は見えていないはずだったが、その驚きの反応がツボをついたようだ。語り尽くせぬ異色の経歴を、意気揚揚と語り始める。
「私、それまでヴァイオリンに触ったことなかったんです。もちろん、どんなものかは知ってましたよ。たぶん一般的な人たちよりも音楽に対する知識はありましたから。形や大きさ、弦の数、どんな音がするのか……でも、触ったことはなかったんです」
 鷹山が興味深げに頷いている。
 美濃部は気を良くしたのか、更に続けた。
「大学の管弦楽団のサークルを見学させてもらったとき、ヴァイオリンを持たせてもらったんです。あまりの軽さに驚いたのなんのって。それからは興味津々ですよ。どう共鳴したら、この繊細なボディからあんな音が出るんだろう、音を発生させるメカニズムってどうなってるんだろう、って。小さな子供みたいにはしゃいでしまいましてねえ。ヴァイオリンを始めた理由はまあ、それだけなんですよ」
 美濃部という人間は本当に面白い、と華音は思った。
 華音は自分で楽器を演奏しないが、大勢の演奏家たちを幼い頃から見てきた。
 音楽を心から愛し、そしてストイックに追求する人間ばかりだった。音楽が恋人、と言って憚らない人もたくさんいた。
 それを美濃部は、共鳴だとかメカニズムだとか、およそ芸術としての音楽とは程遠いことを、しきりに口にする。
 そのことは当然、助手席の音楽監督も感じているはずだ。
 鷹山は、運転する美濃部に尋ねた。
「どうして僕が、君をコンサートマスターに指名したか。君自身はどう思う?」
「うーん、そうですね……私が一番、芹響のカラーに染まっていないから――ですかね」
「いいや、むしろ逆だよ美濃部君。君が一番、芹響のカラーを引き継いでいるんだ」
「え? そんな……芹沢先生の音楽を一番色濃く受け継いでいるのはお弟子さんたちのほうだと、私は思いますけど」
「英輔先生の音楽じゃないよ。『芹響の音楽』だよ」
 それだけ言うと、鷹山は黙ってしまった。
 しばらく車中は無言になり、走行するエンジン音だけが単調に響く。
 やがて大通りに差しかかり、渋滞しはじめた。
 華音は後ろからじっと、鷹山のくせのない栗色の髪を見つめていた。
 鷹山は退屈なのか、しきりに顎を触りながら、緩慢な景色の流れを眺めている。そのうちそれにも飽きたのか、ぼそりと呟くように喋り始めた。
「僕の兄弟子という男はね、英輔先生にすべてを染められ尽くして、芹響の音楽には染まっていなかったんだ」
 僕の兄弟子という男――。
 あえて名前を出さずに説明をする鷹山が、ひどく無慈悲に思えた。淡々とした鷹山の語り口が、なおいっそう華音の心ををかき乱す。
 同じ師を持っていたはずの二人の確執が、垣間見える。
 この場からすぐに逃げ出したかった。
 しかし、走行する車中ではどうすることもできない。ただじっと、身を硬くしている他はない。
「でも、芹響はもともと芹沢先生の楽団ですよね。『芹沢先生の音楽』と『芹響の音楽』はどう違うんです?」
「芹響は英輔先生が音楽をする手段として設立されたわけだけど、それは英輔先生が聴衆のためを思って、聴衆に音楽を伝えようと、ホールというひとつの空間で音楽を通して繋がろうと、そういう思いがあったからなんだ。あの男はね、聴衆のためじゃなく英輔先生のために弾いているんだよ。英輔先生が欲しいと思う音を出す機械さ。聴衆のことなんか考えていないんだよ。だから……」
 鷹山が一瞬、後部座席に向かって首を振ってみせた。
 そして、はっきりと一言――。

「だから、英輔先生が死ぬと、楽団からはじき出される」

 冷酷な悪魔の言葉に、華音は心臓を引き絞られるような苦しさを覚えた。
 はじき出されるなどと、まるで不用品扱いだ。
 あまりにも、切なすぎる。

 ――止めて。お願いだから。もう、分かったから。

 どうしてこんなにも、鷹山は負の感情をぶつけてくるのか、華音は分からなかった。
 華音が苦しむと分かっていて、あえて冷たい言葉を口にしているようにしか思えない。
 そして、ふと気づく。
 これは、兄弟子の富士川にではなく、無意識のうちに富士川をかばった華音に対する『負の感情』なのだ。

 ――だから、あの小魚を。……ほんの冗談のつもりだったのに。

【公衆の面前で兄弟子の顔にコーヒーをかけるなんて、人として恥ずかしいと思います】

【怒りっぽいのはカルシウム不足なんじゃないですか? 今度書斎に小魚用意しておきますよ】

 ようやく鮮明に思い出した。
 確かに華音は、鷹山にそう言ったのだ。

 十年以上家族のように過ごしてきた人間と、出会ってまだ数ヶ月足らずの人間を、無意識のうちに比べそして――片方をかばってしまった。
 一連の出来事を聞いたとき、華音はコーヒーを顔にかけられた富士川に同調していた。
 自分も一緒に琥珀の液体を浴びせられたような――そんな気がしたのである。
 そのため、鷹山がどうしてそういう行動をとったかなんて、まるで考えていなかった。
 どうして、鷹山の気持ちを汲み取ってあげられなかったのだろうか。

 これが、ともに過ごしている時間の長さの差、なのであろうか。

「まあ……確かに追い込まれた、って感じではありましたけどね……でも、富士川さん一人のせいじゃないと私は思ってますけど」
 美濃部は一方に肩入れせずに、その場を上手くまとめた。
 客観的に物事を判断できるのはさすがと言えよう。

 鷹山と華音の距離は、ますます広がるばかりだ――。