夢幻の章 (7) 信頼は時間に比例するか NO.
車を降り、いつかの欧風ホテルに三人は到着した。
いつか来たことのある噴水池のエントランスまでやってくると、目的の人物はすぐに現れた。
稲葉努は、シャツの第一ボタンを外し、ネクタイを締めないというラフなスーツ姿だ。しかし、高貴な品位に包まれているため、ノーネクタイでもだらしのない印象は皆無だ。
「お久しぶりです、華音さん。ドレス姿も素適でしたけれど、カジュアルな服装もよくお似合いですね」
稲葉はまず華音に挨拶をした。顔見知りとなった気安さのためであろう。
それに対し、華音は笑顔で応えるのが精一杯だった。
一方の鷹山は、これ以上にない愛想笑いで稲葉に右手を差し出し、しっかりと握手を交わす。
「初めまして稲葉さん、鷹山楽人です」
「こちらこそ初めまして。……というのも何だか変な気分ですね」
「そうですね。僕は稲葉さんのことをよく存じておりますし、たぶんお互い様でしょうけど」
鷹山はとても和やかな雰囲気をかもし出している。先程までの不機嫌が、まるで嘘のようだ。
オーナーの赤城は、ホテルの中にあるちょっとした会合もできる喫茶室の席を、抜かりなく予約しておいてくれていた。
「ウィーンにあるカフェと、なんだか雰囲気が似てる」
鷹山は、店内に足を踏み入れ周囲を見回し、そう感想をもらした。
蝶ネクタイをつけた若いウェイターが、タイミングを見計らうようにして颯爽と歩み寄り、四人を奥へと案内した。
予約していた個室の席は、四人掛けの円卓だった。
奥の席に稲葉が座り、向かい合うようにして鷹山が着席した。空いているその両側に、美濃部と華音がそれぞれ座った。
「皆さん、コーヒーで良かったですか?」
美濃部は手際よく注文を確認する。先に稲葉に尋ねようとすると、レディ・ファーストですから――と、さり気ない気遣いをみせる。
「私、カフェラテがいい」
「では、僕はカフェ・ロワイヤルで」
稲葉の選択に、美濃部はひたすら感心している。
「さすがは稲葉さん、その辺の演奏家とはやはり格が違いますね! ええと、鷹山さんはコーヒーで?」
「フレッシュマンゴージュース」
あくまで最初から決めていたかのような鷹山のさらりとした返答に、美濃部と華音は思わず顔を見合わせた。
普段の鷹山であれば、決してありえない選択だ。
「あれ、鷹山さん珍しいですねえ。重度のカフェイン中毒のはずでしたよね?」
「最近どうもコーヒーの気分じゃないんだ。いろいろ事情があってね」
そう言って、音楽監督はよそいきの優雅な笑顔を造り、意味ありげに肩をすくめてみせた。
注文してまもなく、それぞれの飲み物が給仕された。
さすがに格式高いカフェだけあり、ウェイターの動きはすべてが洗練されていて、どこにも無駄がない。
稲葉はカフェ・ロワイヤルを一口飲み、優雅な所作でカップをソーサーへ戻すと、おもむろに話を始めた。
「企画書には目を通させていただきました。特に質問するところもありませんでしたし」
稲葉の言葉を聞いて、華音は驚いた。
華音が出した企画書の草案は、いつの間にか会議にかけられ、事前に稲葉努の元へと送られていたらしい。
「では、正式なオファーを出させていただきます。お願いできますか?」
「こちらの提示した条件は、ちゃんと飲んでいただけるんですね?」
「ええ、もちろん。最優先させます」
鷹山は躊躇せずに、はっきりと答えた。
「高野君は、了承してくれたんですか?」
稲葉はなぜか、鷹山ではなく華音に聞き返した。
確かに、その条件を提示してきた場所に居合わせていたのは、今は華音だけだ。
「ええ、まあ。かなり渋られましたけど、……なんとか」
「渋ってましたか。ははは、高野君らしいな」
稲葉は苦笑いをしてみせた。その程度はすでに、予想済みだったのであろう。
「では、お引き受けいたしましょう。新ホールのこけら落としを務めさせていただけるのは、とても光栄なことですからね」
稲葉への交渉が成立したので、鷹山はさっそく、具体的に話を進め始めた。
「曲目はもう少し詰めてもいいですか? ダブルゲストとなると、構成もいろいろと変わってきますので」
「選曲は何でもよろしいんですが、構成は――同曲異演なんてどうですか」
「ど、同曲異演?」
美濃部が素っ頓狂な叫び声を上げた。
「あの、それって、ソロを替えて同じ協奏曲を同じ演奏会で二回もやるってことですか?」
その美濃部の説明を聞き、華音は愕然となった。
とんでもないことを、この天才ピアニストは言い出した。
高野和久と競わせろ、と暗に言っている。
一緒の舞台に立つことを条件に出してきたときから、華音はどうも嫌な予感がしていた。しかし、こうもストレートにこられるとは、さすがに予想していなかったのである。
「面白いでしょう? 観客にどちらが良かったか帰り際に投票してもらって、抽選で一名にサイン色紙でも……って、これはジョークですが」
物腰は柔らかく紳士的な態度だが、どことなく挑戦的な雰囲気をかもし出している。よほど自分の腕に自信があるに違いない。
華音は鷹山の表情をうかがった。
悪魔な音楽監督はこの無謀とも言える申し出に、はたしてどういう反応を示すものなのか。
「確かに一般的な演奏会では例を見ませんね。まあ、あなたと和久さんとではタッチが随分と異なりますから、聴き比べるのも面白いかもしれませんね。それでは、前向きに検討させていただきます」
その音楽監督の答えに、華音は愕然となった。
――本気で言ってる? 鷹山さんってば、そんな……。
混乱する華音の気持ちをよそに、鷹山は目の前のグラスを手元に引き寄せ、手つかずのままの甘い芳香の黄色い液体を、ストローで勢いよく吸う。そして「ちゃんとマンゴーの味がしますね」と、当たり前のことを呟いてみせた。
帰りの車の中は静かなものだった。鷹山が考え事を始めたからである。
美濃部はよく心得ているので、邪魔をしないように運転に集中している。
芹沢邸に到着すると、美濃部は玄関先に二人を降ろし、そのまま帰っていった。
――これから、どうしよう。
華音は困惑していた。
このまま一緒に書斎までついていっていいものなのか――今日の外出で幾分言葉を交わしやすくはなったとはいえ、それでも鷹山の態度は頑なだった。
玄関を入ってすぐの吹き抜けのエントランスで華音は立ち止まった。螺旋階段を上がり書斎へと向かう鷹山の背中をそのまま見送っていると、階段の中ほどで鷹山が階下を振り返った。
「さっさと来るんだ」
一瞬だけ、視線が合う。
彼の大きな瞳に自分の姿がとらえられるのは、いったい何日ぶりだろうか――華音はそれだけで崩れ落ちそうになった。
書斎に入ってからも、鷹山は沈黙したままだ。中央に設えたソファに、ゆっくりと腰を下ろしていく。
華音は部屋の端に立ち尽くしたまま、鷹山の様子をうかがっていた。
どうすればいいのだろう。鷹山からの指示はない。一緒に来るようにと言われたのだから、何か用事があってのことだろうが――雄弁なはずの鷹山は口を閉ざしたまま、沈黙の波間を漂っている。
二人きりの空間は、どうも落ち着かない。しかし、それは鷹山のほうも、華音と同じように感じているはずだった。
華音は、彼の心の内を探るようにしながら、とりあえず淡々とした口調で、あくまでビジネスライクに話しかけた。
「……高野先生が了解するとは、思えないんですけど」
すると、意外なほど簡単に、鷹山は沈黙を解いた。
「予定外の仕事になるからいい顔はしないと思うけど、それでも和久さんはプロだ。請けてくれるさ」
「鷹山さんは何も知らないから、そういうことが言えるんです。今からでも遅くないから、稲葉さんへのオファーは中止しましょう」
ひどくもどかしい。
きっと富士川なら、華音の言わんとすることをすぐに理解してくれるはずだった。
高野和久と、自分とともに長い時間を過ごしてきた、富士川祥なら――きっと。
「私は……反対です。同じ曲を聴き比べさせるだなんて、どうかしてます。別に、稲葉さんに頼まなくたっていいじゃない。今までと同じように、高野先生だけに弾いてもらえばいいんだもん。誰かと比べられるのが嫌だってことくらい、鷹山さんだって分かってるでしょ?」
こんなことを言いたいわけじゃない。
どうして分からないのだろう。どうして、分かり合えないのだろう――。
「芹響は和久さんとの共演に慣れているんだ。慣れすぎてしまっていると言ったほうがいい。国際的な演奏家と共演する機会を作りたいと思うことの、どこに反対なんだ君は」
どうして、伝わらないのだろう。
どうしてこの想いが伝わらないのだろう
こんなにも――こんなにも。
「じゃあ、稲葉さん以外にしてください。そしたら高野先生と同じ舞台になんて変な条件もなくなるし。有名なピアニスト、他にも一杯いるでしょ!?」
「いい加減にしてくれよ!」
鷹山はソファから立ち上がると、立ち尽くす華音のもとへと歩み寄った。
大きな二つの瞳が、威圧的に華音を見下ろす。
「私情を交えるなよ! どうしてそんなにむきになるんだ? おかしいよ、君」
――おかしい? 私が? どうして、そうやって怒鳴るの?
もう、我慢の限界だった。
華音は、目の前の男をじっと睨みつけた。
「……いったい、誰のための音楽なの?」
「音楽は、聴衆のためのものだ。それは英輔先生が僕に教えてくれた」
「じゃあ、演奏する人の気持ちはどうだっていいって言うの? それが本当に聴衆のためになるの? おかしいのは鷹山さんのほうだよ!」
怒鳴り返される――華音はとっさに目をつぶり、身構えた。
しかし意に反して、鷹山の口調は穏やかなものだった。
「音楽に情が必要じゃないとは、言っていないよ。むしろ切っても切れない深いつながりがある」
「だったら!」
「僕の話を聞いて、芹沢さん」
突然、鷹山の両手が伸ばされ、華音の腕をしっかりととらえた。そして、華音はそのまま強引に引き寄せられる。
気づくと、鷹山のシャツの肩に自分の頬が触れていることに、華音は気づいた。
しっかりと鷹山の胸に抱きとめられてしまっている。
「やめてよもう! 放して!」
引き剥がそうと懸命になるも、感じる温もりに、抵抗する力がどんどん失われていく。
彼の香りがする。
「聞いてくれ、頼むから」
壊れる、自分自身の何かが。
どうして自分がこんなに、鷹山に感情をぶつけているのか、華音は分からなかった。
いつのまにか華音は、鷹山という男に翻弄され尽くしてしまっている。
鷹山はしっかりと華音を抱きしめたまま、耳元で静かに説いた。
「プランナーにはね、聴衆のことだけを考えて欲しいんだ。聴衆が聞いてみたいと思う素直な意見をカタチにするのが、プランナーだよ。それが実際にできるかできないか――演奏家のすべてを受け入れて、導いて創り上げるのは、僕の仕事だから。君が気にかけることじゃない」
馬鹿だ。
比べていたのは自分だ。
ずっとずっと、こんなにも彼のことを――。
幾分落ち着いたのを確認するようにして、鷹山はようやく腕の力を緩めた。そして、先程まで腰かけていたソファへと誘導し、その端に華音を座らせる。
鷹山は、華音の左隣に並ぶようにしてソファに座った。
膝の上に置かれている華音の左手に、鷹山の右手がそっと重ねられる。
「僕たちは組んでまだ日が浅い。確かに信頼しあえる仲とは言い難いよ。君が不安になるのも仕方がない。だけど――」
はっきりと言い切った。
「僕のことが、そんなに信じられない?」
手の温もりとは正反対のその鷹山の冷たい言葉に、華音は心臓を打ち抜かれてしまったような、強い衝撃を受けた。
「できない言い訳を考えるよりもまず、できる方法を考えるのが先だ。君に、最初にそう言ったよね」
高野が弾かずにすむ理由を探すよりも。
どうすれば弾いてもらえるかを考えるのが先だ、と。
「というか、君のほうこそカルシウム不足だな。小魚食べたほうがいいんじゃないの?」
そう言って鷹山は軽く笑いながら、シャツの胸ポケットから小魚の小袋を取り出して、華音の眼前にちらつかせた。
律儀にも、常に持ち歩いているらしい。
「アーモンド混じっているやつがさ、結構美味しいんだよ。ほーら、食べさせてあげようか?」
いったい何なのだ、この男は。怒鳴ったり、冷たくあしらったり、からかってみたり――。
たった数分の間によくもここまで人格を変えられるものだと、呆れを通り越して感心さえしてしまう。
どこかでが本気でどこまでが冗談なのか。華音はいまだに理解しきれない。
「そんな頬膨らましたって、可愛くないよ。フン、それじゃ『イノシシ』じゃなくて『フグ』だ」
今度はこれか――人を小馬鹿にするのにも限度がある。
しかし。敵わないのだ、結局のところ。
どんなことがあっても、この男にだけは――。
華音は深い深いため息をついた。
「本当に……大丈夫なの?」
「そんなの僕にだって分からないよ。それは、君がちゃんと僕を支えてくれたら、きっと大丈夫」
お互いがお互いを必要としている。
それだけが、二人の間の真実なのだ。
「言っておくけど、僕は悪くないから」
「え?」
「あの男が悪かったんだから。君が食べろって言うんなら、小魚だってなんだって食べるけど――でも、あの男のことはどんなことがあっても許せないから。絶対に、許さないから」
鷹山は悪びれずに言った。
口をへの字に曲げて、恨めしそうな顔で華音を見つめてくる。
「君も悪いんだ、あの男のかたを持つようなことを言うから……」
悪魔が、拗ねている。
小魚を延々食べ続けていたその理由は、あまりにも単純明快だ。
「君がいつでもそばにいてくれないと、絶対に嫌なんだよ、僕は」
鷹山の大きな瞳が、華音にしっかりと向けられた。まるで気まぐれな子猫のようだ。
「絶対って……そんなこと言ったって、四六時中一緒にいるなんて不可能でしょ。そんなわがままは、叶えられません」
「そんなことは僕だって分かってる。そういう意味じゃないよ」
もちろん華音もそれは承知している。
要は――心の在り処の問題だということを。
しかし、ここで仕返しの一つもしてやらねば、華音の気がすまない。
「ふーん……『小生意気なイノシシ』で『可愛いくないフグ』でも、いいんだ?」
鷹山は眉を寄せた。綺麗な顔が微かに歪む。
雄弁な悪魔が、すぐに二の句が継げないでいる。
やった――華音は、えも言われぬささやかな喜びに包まれ、心の中でほくそ笑んだ。
「何なんだよ君……ホント、減らず口だな。いったい、誰に似たんだか」
もちろん鷹山さんでしょ――と言いかけた華音の言葉は、本人の唇で素早く阻止された。
鷹山と華音の間のどこからか、小魚とアーモンドの小袋が床へと落ちていく。そのわずかな音が、沈黙の室内に響いた。
鷹山の唇は、すぐに離れた。ふざけたような可愛いキスだ。
吐息を感じる至近距離で、華音は久しぶりに彼の嬉しそうな顔を見た気がした。
「立場をわきまえずに手を出したりしないって、言ってたくせに」
華音が照れ隠しに訴えかけると、鷹山はおもむろに立ち上がり、ソファから自分のデスクまで移動した。そして、チェアに腰かけふんぞり返りながら、言う。
「今は昼休みだからいいんだよ。そんなことより、コーヒー淹れてくれないか。君みたいな素人のコーヒーでもね、十日も飲まずにいると禁断症状が出てくる」
――そんなことより……か。
たったひと言ですまされてしまう、なんて。
けれど。
細かいことはもう、どうでもいい。
これが、鷹山楽人という男なのだ――華音はすべてを飲み込んで、その気まぐれな音楽監督のために、愛情を込めてコーヒーを淹れ始めた。
いつか来たことのある噴水池のエントランスまでやってくると、目的の人物はすぐに現れた。
稲葉努は、シャツの第一ボタンを外し、ネクタイを締めないというラフなスーツ姿だ。しかし、高貴な品位に包まれているため、ノーネクタイでもだらしのない印象は皆無だ。
「お久しぶりです、華音さん。ドレス姿も素適でしたけれど、カジュアルな服装もよくお似合いですね」
稲葉はまず華音に挨拶をした。顔見知りとなった気安さのためであろう。
それに対し、華音は笑顔で応えるのが精一杯だった。
一方の鷹山は、これ以上にない愛想笑いで稲葉に右手を差し出し、しっかりと握手を交わす。
「初めまして稲葉さん、鷹山楽人です」
「こちらこそ初めまして。……というのも何だか変な気分ですね」
「そうですね。僕は稲葉さんのことをよく存じておりますし、たぶんお互い様でしょうけど」
鷹山はとても和やかな雰囲気をかもし出している。先程までの不機嫌が、まるで嘘のようだ。
オーナーの赤城は、ホテルの中にあるちょっとした会合もできる喫茶室の席を、抜かりなく予約しておいてくれていた。
「ウィーンにあるカフェと、なんだか雰囲気が似てる」
鷹山は、店内に足を踏み入れ周囲を見回し、そう感想をもらした。
蝶ネクタイをつけた若いウェイターが、タイミングを見計らうようにして颯爽と歩み寄り、四人を奥へと案内した。
予約していた個室の席は、四人掛けの円卓だった。
奥の席に稲葉が座り、向かい合うようにして鷹山が着席した。空いているその両側に、美濃部と華音がそれぞれ座った。
「皆さん、コーヒーで良かったですか?」
美濃部は手際よく注文を確認する。先に稲葉に尋ねようとすると、レディ・ファーストですから――と、さり気ない気遣いをみせる。
「私、カフェラテがいい」
「では、僕はカフェ・ロワイヤルで」
稲葉の選択に、美濃部はひたすら感心している。
「さすがは稲葉さん、その辺の演奏家とはやはり格が違いますね! ええと、鷹山さんはコーヒーで?」
「フレッシュマンゴージュース」
あくまで最初から決めていたかのような鷹山のさらりとした返答に、美濃部と華音は思わず顔を見合わせた。
普段の鷹山であれば、決してありえない選択だ。
「あれ、鷹山さん珍しいですねえ。重度のカフェイン中毒のはずでしたよね?」
「最近どうもコーヒーの気分じゃないんだ。いろいろ事情があってね」
そう言って、音楽監督はよそいきの優雅な笑顔を造り、意味ありげに肩をすくめてみせた。
注文してまもなく、それぞれの飲み物が給仕された。
さすがに格式高いカフェだけあり、ウェイターの動きはすべてが洗練されていて、どこにも無駄がない。
稲葉はカフェ・ロワイヤルを一口飲み、優雅な所作でカップをソーサーへ戻すと、おもむろに話を始めた。
「企画書には目を通させていただきました。特に質問するところもありませんでしたし」
稲葉の言葉を聞いて、華音は驚いた。
華音が出した企画書の草案は、いつの間にか会議にかけられ、事前に稲葉努の元へと送られていたらしい。
「では、正式なオファーを出させていただきます。お願いできますか?」
「こちらの提示した条件は、ちゃんと飲んでいただけるんですね?」
「ええ、もちろん。最優先させます」
鷹山は躊躇せずに、はっきりと答えた。
「高野君は、了承してくれたんですか?」
稲葉はなぜか、鷹山ではなく華音に聞き返した。
確かに、その条件を提示してきた場所に居合わせていたのは、今は華音だけだ。
「ええ、まあ。かなり渋られましたけど、……なんとか」
「渋ってましたか。ははは、高野君らしいな」
稲葉は苦笑いをしてみせた。その程度はすでに、予想済みだったのであろう。
「では、お引き受けいたしましょう。新ホールのこけら落としを務めさせていただけるのは、とても光栄なことですからね」
稲葉への交渉が成立したので、鷹山はさっそく、具体的に話を進め始めた。
「曲目はもう少し詰めてもいいですか? ダブルゲストとなると、構成もいろいろと変わってきますので」
「選曲は何でもよろしいんですが、構成は――同曲異演なんてどうですか」
「ど、同曲異演?」
美濃部が素っ頓狂な叫び声を上げた。
「あの、それって、ソロを替えて同じ協奏曲を同じ演奏会で二回もやるってことですか?」
その美濃部の説明を聞き、華音は愕然となった。
とんでもないことを、この天才ピアニストは言い出した。
高野和久と競わせろ、と暗に言っている。
一緒の舞台に立つことを条件に出してきたときから、華音はどうも嫌な予感がしていた。しかし、こうもストレートにこられるとは、さすがに予想していなかったのである。
「面白いでしょう? 観客にどちらが良かったか帰り際に投票してもらって、抽選で一名にサイン色紙でも……って、これはジョークですが」
物腰は柔らかく紳士的な態度だが、どことなく挑戦的な雰囲気をかもし出している。よほど自分の腕に自信があるに違いない。
華音は鷹山の表情をうかがった。
悪魔な音楽監督はこの無謀とも言える申し出に、はたしてどういう反応を示すものなのか。
「確かに一般的な演奏会では例を見ませんね。まあ、あなたと和久さんとではタッチが随分と異なりますから、聴き比べるのも面白いかもしれませんね。それでは、前向きに検討させていただきます」
その音楽監督の答えに、華音は愕然となった。
――本気で言ってる? 鷹山さんってば、そんな……。
混乱する華音の気持ちをよそに、鷹山は目の前のグラスを手元に引き寄せ、手つかずのままの甘い芳香の黄色い液体を、ストローで勢いよく吸う。そして「ちゃんとマンゴーの味がしますね」と、当たり前のことを呟いてみせた。
帰りの車の中は静かなものだった。鷹山が考え事を始めたからである。
美濃部はよく心得ているので、邪魔をしないように運転に集中している。
芹沢邸に到着すると、美濃部は玄関先に二人を降ろし、そのまま帰っていった。
――これから、どうしよう。
華音は困惑していた。
このまま一緒に書斎までついていっていいものなのか――今日の外出で幾分言葉を交わしやすくはなったとはいえ、それでも鷹山の態度は頑なだった。
玄関を入ってすぐの吹き抜けのエントランスで華音は立ち止まった。螺旋階段を上がり書斎へと向かう鷹山の背中をそのまま見送っていると、階段の中ほどで鷹山が階下を振り返った。
「さっさと来るんだ」
一瞬だけ、視線が合う。
彼の大きな瞳に自分の姿がとらえられるのは、いったい何日ぶりだろうか――華音はそれだけで崩れ落ちそうになった。
書斎に入ってからも、鷹山は沈黙したままだ。中央に設えたソファに、ゆっくりと腰を下ろしていく。
華音は部屋の端に立ち尽くしたまま、鷹山の様子をうかがっていた。
どうすればいいのだろう。鷹山からの指示はない。一緒に来るようにと言われたのだから、何か用事があってのことだろうが――雄弁なはずの鷹山は口を閉ざしたまま、沈黙の波間を漂っている。
二人きりの空間は、どうも落ち着かない。しかし、それは鷹山のほうも、華音と同じように感じているはずだった。
華音は、彼の心の内を探るようにしながら、とりあえず淡々とした口調で、あくまでビジネスライクに話しかけた。
「……高野先生が了解するとは、思えないんですけど」
すると、意外なほど簡単に、鷹山は沈黙を解いた。
「予定外の仕事になるからいい顔はしないと思うけど、それでも和久さんはプロだ。請けてくれるさ」
「鷹山さんは何も知らないから、そういうことが言えるんです。今からでも遅くないから、稲葉さんへのオファーは中止しましょう」
ひどくもどかしい。
きっと富士川なら、華音の言わんとすることをすぐに理解してくれるはずだった。
高野和久と、自分とともに長い時間を過ごしてきた、富士川祥なら――きっと。
「私は……反対です。同じ曲を聴き比べさせるだなんて、どうかしてます。別に、稲葉さんに頼まなくたっていいじゃない。今までと同じように、高野先生だけに弾いてもらえばいいんだもん。誰かと比べられるのが嫌だってことくらい、鷹山さんだって分かってるでしょ?」
こんなことを言いたいわけじゃない。
どうして分からないのだろう。どうして、分かり合えないのだろう――。
「芹響は和久さんとの共演に慣れているんだ。慣れすぎてしまっていると言ったほうがいい。国際的な演奏家と共演する機会を作りたいと思うことの、どこに反対なんだ君は」
どうして、伝わらないのだろう。
どうしてこの想いが伝わらないのだろう
こんなにも――こんなにも。
「じゃあ、稲葉さん以外にしてください。そしたら高野先生と同じ舞台になんて変な条件もなくなるし。有名なピアニスト、他にも一杯いるでしょ!?」
「いい加減にしてくれよ!」
鷹山はソファから立ち上がると、立ち尽くす華音のもとへと歩み寄った。
大きな二つの瞳が、威圧的に華音を見下ろす。
「私情を交えるなよ! どうしてそんなにむきになるんだ? おかしいよ、君」
――おかしい? 私が? どうして、そうやって怒鳴るの?
もう、我慢の限界だった。
華音は、目の前の男をじっと睨みつけた。
「……いったい、誰のための音楽なの?」
「音楽は、聴衆のためのものだ。それは英輔先生が僕に教えてくれた」
「じゃあ、演奏する人の気持ちはどうだっていいって言うの? それが本当に聴衆のためになるの? おかしいのは鷹山さんのほうだよ!」
怒鳴り返される――華音はとっさに目をつぶり、身構えた。
しかし意に反して、鷹山の口調は穏やかなものだった。
「音楽に情が必要じゃないとは、言っていないよ。むしろ切っても切れない深いつながりがある」
「だったら!」
「僕の話を聞いて、芹沢さん」
突然、鷹山の両手が伸ばされ、華音の腕をしっかりととらえた。そして、華音はそのまま強引に引き寄せられる。
気づくと、鷹山のシャツの肩に自分の頬が触れていることに、華音は気づいた。
しっかりと鷹山の胸に抱きとめられてしまっている。
「やめてよもう! 放して!」
引き剥がそうと懸命になるも、感じる温もりに、抵抗する力がどんどん失われていく。
彼の香りがする。
「聞いてくれ、頼むから」
壊れる、自分自身の何かが。
どうして自分がこんなに、鷹山に感情をぶつけているのか、華音は分からなかった。
いつのまにか華音は、鷹山という男に翻弄され尽くしてしまっている。
鷹山はしっかりと華音を抱きしめたまま、耳元で静かに説いた。
「プランナーにはね、聴衆のことだけを考えて欲しいんだ。聴衆が聞いてみたいと思う素直な意見をカタチにするのが、プランナーだよ。それが実際にできるかできないか――演奏家のすべてを受け入れて、導いて創り上げるのは、僕の仕事だから。君が気にかけることじゃない」
馬鹿だ。
比べていたのは自分だ。
ずっとずっと、こんなにも彼のことを――。
幾分落ち着いたのを確認するようにして、鷹山はようやく腕の力を緩めた。そして、先程まで腰かけていたソファへと誘導し、その端に華音を座らせる。
鷹山は、華音の左隣に並ぶようにしてソファに座った。
膝の上に置かれている華音の左手に、鷹山の右手がそっと重ねられる。
「僕たちは組んでまだ日が浅い。確かに信頼しあえる仲とは言い難いよ。君が不安になるのも仕方がない。だけど――」
はっきりと言い切った。
「僕のことが、そんなに信じられない?」
手の温もりとは正反対のその鷹山の冷たい言葉に、華音は心臓を打ち抜かれてしまったような、強い衝撃を受けた。
「できない言い訳を考えるよりもまず、できる方法を考えるのが先だ。君に、最初にそう言ったよね」
高野が弾かずにすむ理由を探すよりも。
どうすれば弾いてもらえるかを考えるのが先だ、と。
「というか、君のほうこそカルシウム不足だな。小魚食べたほうがいいんじゃないの?」
そう言って鷹山は軽く笑いながら、シャツの胸ポケットから小魚の小袋を取り出して、華音の眼前にちらつかせた。
律儀にも、常に持ち歩いているらしい。
「アーモンド混じっているやつがさ、結構美味しいんだよ。ほーら、食べさせてあげようか?」
いったい何なのだ、この男は。怒鳴ったり、冷たくあしらったり、からかってみたり――。
たった数分の間によくもここまで人格を変えられるものだと、呆れを通り越して感心さえしてしまう。
どこかでが本気でどこまでが冗談なのか。華音はいまだに理解しきれない。
「そんな頬膨らましたって、可愛くないよ。フン、それじゃ『イノシシ』じゃなくて『フグ』だ」
今度はこれか――人を小馬鹿にするのにも限度がある。
しかし。敵わないのだ、結局のところ。
どんなことがあっても、この男にだけは――。
華音は深い深いため息をついた。
「本当に……大丈夫なの?」
「そんなの僕にだって分からないよ。それは、君がちゃんと僕を支えてくれたら、きっと大丈夫」
お互いがお互いを必要としている。
それだけが、二人の間の真実なのだ。
「言っておくけど、僕は悪くないから」
「え?」
「あの男が悪かったんだから。君が食べろって言うんなら、小魚だってなんだって食べるけど――でも、あの男のことはどんなことがあっても許せないから。絶対に、許さないから」
鷹山は悪びれずに言った。
口をへの字に曲げて、恨めしそうな顔で華音を見つめてくる。
「君も悪いんだ、あの男のかたを持つようなことを言うから……」
悪魔が、拗ねている。
小魚を延々食べ続けていたその理由は、あまりにも単純明快だ。
「君がいつでもそばにいてくれないと、絶対に嫌なんだよ、僕は」
鷹山の大きな瞳が、華音にしっかりと向けられた。まるで気まぐれな子猫のようだ。
「絶対って……そんなこと言ったって、四六時中一緒にいるなんて不可能でしょ。そんなわがままは、叶えられません」
「そんなことは僕だって分かってる。そういう意味じゃないよ」
もちろん華音もそれは承知している。
要は――心の在り処の問題だということを。
しかし、ここで仕返しの一つもしてやらねば、華音の気がすまない。
「ふーん……『小生意気なイノシシ』で『可愛いくないフグ』でも、いいんだ?」
鷹山は眉を寄せた。綺麗な顔が微かに歪む。
雄弁な悪魔が、すぐに二の句が継げないでいる。
やった――華音は、えも言われぬささやかな喜びに包まれ、心の中でほくそ笑んだ。
「何なんだよ君……ホント、減らず口だな。いったい、誰に似たんだか」
もちろん鷹山さんでしょ――と言いかけた華音の言葉は、本人の唇で素早く阻止された。
鷹山と華音の間のどこからか、小魚とアーモンドの小袋が床へと落ちていく。そのわずかな音が、沈黙の室内に響いた。
鷹山の唇は、すぐに離れた。ふざけたような可愛いキスだ。
吐息を感じる至近距離で、華音は久しぶりに彼の嬉しそうな顔を見た気がした。
「立場をわきまえずに手を出したりしないって、言ってたくせに」
華音が照れ隠しに訴えかけると、鷹山はおもむろに立ち上がり、ソファから自分のデスクまで移動した。そして、チェアに腰かけふんぞり返りながら、言う。
「今は昼休みだからいいんだよ。そんなことより、コーヒー淹れてくれないか。君みたいな素人のコーヒーでもね、十日も飲まずにいると禁断症状が出てくる」
――そんなことより……か。
たったひと言ですまされてしまう、なんて。
けれど。
細かいことはもう、どうでもいい。
これが、鷹山楽人という男なのだ――華音はすべてを飲み込んで、その気まぐれな音楽監督のために、愛情を込めてコーヒーを淹れ始めた。