夢幻の章 (8)  

 それから一週間ほど過ぎた、中秋の昼下がりのことである。
 芹沢邸では、芹響の首席陣を集めた会議が招集されていた。

 華音は書斎で一人、のんびりと本を読んでいた。
 自分のものではない。鷹山が読みかけている本だ。
 特に急いでする仕事がなければ、華音は鷹山がいつもカバンに入れている本を取り出して、それを読むことにしていた。自分の部屋に戻ればマンガ本も置いてあるのだが、取りに行くのが面倒だというのと、もう一つ。
 鷹山が普段どんな本を読むのか、興味があるからだった。
 もちろんこのことは彼も知っていて、華音が勝手にカバンを漁ることを許してくれている。むしろ嬉しいらしい。自分に関心を持たれている証だからであろう。
 鷹山は職業柄、音楽関係の書籍はどんなに小難しいことが書かれてあっても苦もなく読みふけっているが、私的な時間になるとまったく別種のジャンルを好んで読んでいる。
 かなりの読書家であるらしい。カバンを覗く度に、いつも違う本が入っている。同じ本が入っているのを華音は見たことがなかった。

 本の香りがする。それは本屋に並んでいるような新しい紙とインクのそれではなく、持ち主のまとう香りだ。
 ページをめくるたびに、鷹山の香りがした。
 それはシャツの香りだったり、髪の毛の香りだったりする。
 秋の日差しのように、鷹山の香りは華音を優しく包み込む。
 そう、これでいいのだ。
 すべてを信じて身も心も預けていれば、鷹山はありったけの愛情を注ぎ込んでくれる。
 華音が自分のすべてを預けてさえ、いれば――。


 半分も読み進まないうちに、慌しい気配が漂ってきた。数人の話し声や邸内を歩き回る音が、階下から響いてくる。
 華音は何気なく壁掛け時計に目をやった。始まってからまだ一時間も経っていない。腑に落ちず、さらに辺りの状況に注意を払っていると、コンサートマスターの美濃部が書斎へとやってきた。
「華音さん、お疲れ様です」
「もう終わったんですか? 珍しい……」
 華音が声をかけると、美濃部は胸に抱えた書類の束を、鷹山のデスクに無造作に置き、軽く伸びをしてみせた。
「天気がいいから、なんだか鷹山さん、やる気がしないみたいで。まあ今日は、こけら落としの構成の再確認だけでしたから。せっかくのオフですしね、長々と会議に時間を割く気分じゃないんでしょう」
「ふうん……で、鷹山さんは?」
 いつもであれば、まず鷹山が気難しい顔で部屋に入ってきて、その後ろから美濃部青年が登場するはずなのだが、今はなぜか単独行動だ。
「さあ……出かけたんじゃないですか? 会議のあと、玄関を出て行くのは見かけましたけど。でもほら、そこに携帯電話置きっぱなしだから、そんな遠くへは行ってないと思うんですけど」
 そう言って、美濃部は音楽監督のデスクの上に視線をやった。確かにそこには、鷹山の携帯電話が無造作に置かれたままになっている。
「まったく、気紛れなんだから。言ってることとやってることが全然違うし、ホント天邪鬼ー」
 華音はため息をつきながら、鷹山のカバンに読みかけの本をそそくさとしまい込む。
 華音が鷹山の本を――その様子をじっと眺めていた美濃部は、感心するように頷いてみせた。
「すっかり仲良しですよね、お二人」
「仲良くなんかないよ。いつもいつも、振り回されっぱなし」
「いやあ、そんなこともないでしょう? 鷹山さんが華音さんにあれこれ言ってるときは、何だかとても楽しそうですし」
「そりゃあ、ワガママ言い散らすのは楽しいでしょ……」
 そんな嫌味を口にしつつも、華音の心は晴れやかだった。
 だんまりを決めこまれるよりは、好き勝手まくしたてられるほうが、ずっとましだ。そのほうが言い返して負かす快感もある。
 彼と言葉でコミュニケーションが取れるということは、とにかく幸せなことなのだ――華音はそのことにようやく気づいた。
 最初こそ、鷹山のその口の悪さに閉口し、何度も打ちのめされたものだが、今ではその切り返しも堂に入ったものだ。


 そこへ、珍しい組み合わせの男女が、華音たちのいる書斎へと姿を現した。
 芹沢邸に居候中の高野和久と、会議に出席していたはずの藤堂あかりである。
「ああ、あかりさん。まだ帰ってなかったんだ」
 美濃部が明るく答えると、あかりは肩をすくめるようにして、背後の高野に視線をやった。
 会議が終わった後、そのまま芹沢邸二階奥の高野の部屋まで足をのばし、さらにそのあと、この書斎へとやってきたらしい。
「ええ。ちょっと気になることがあったので、高野先生にご助言を仰ごうと思いまして。それはそうと……監督はどちらですか?」
 美貌のヴァイオリニストは、訝しげに一通り室内を見回した。
 ふわりと、辺りに甘い香りが広がっていく。
「あかりさん、先生に打診してくれたのか。ごめんね、私の仕事だったのに」
 美濃部がすまなそうに言った。
 すると、後ろにいた高野が一歩前へと進み出た。だるそうにボサボサ頭をかきながら、もう片方の手に握られていた企画書の決定稿を、美濃部と華音に向かって突きつける。
 先程の会議で配られていたものだ。
「ちょっと美濃部ちゃんノン君、どういうこと? 稲葉のやつ、頭おかしいんじゃない? こんな演奏会、とても引き受けられないって」
 企画書にははっきりと『ピアノ協奏曲の同曲異演』と記されている。稲葉努が出した提案を、鷹山はそのまま受け入れたのだ。
 しかしその事情を、いまだもう一人の『客演ピアニスト』に説明をしていなかったのである。
 その役目は、美濃部と華音に任されていた。しかし、会議が終わってからにしようと、先延ばしにしていた。
 美濃部はいい機会とばかりに、淡々と説明を始めた。
「落ち着いてくださいよ、高野先生。とりあえず鷹山さんは、聴き比べをさせるためにメジャーどころの大曲を選ぶようですけど」
「大曲? うわ、それじゃますます稲葉の術中にはまるじゃないのさ。あいつ、自分のテクニックを披露するのが大好きだから。あー、やだやだ」
 高野は顔をしかめ、激しく首を横に振った。
 やはり、華音が予想していたとおりの反応である。
 高野の気持ちを汲み取ると、取り止めようと言ってあげたいところなのだが――とにかく今は鷹山のことを信じるしかない。
 華音は美濃部の援護射撃をすべく、打ちひしがれる高野に補足説明を試みる。
「確かに……稲葉さんって相当な自信家っぽかったけどね。お客さんに投票してもらって、その中から抽選でサインをプレゼントするとか言ってたし。高野先生にも、やってもらうって言ってたよ」
「……はあ? 俺、ただの楽器屋のオヤジだってーの……何がサインだ」
 確かに、高野は稲葉のように演奏家として生計を立てているわけではない。
 それでも、地元に固定ファンが大勢いる。サインを欲しがる聴衆がいてもおかしくはない。
 ただのサービス企画なら、サインくらい快く引き受けてくれるはずなのだが――宿命のライバルにそそのかされるのは、心底嫌らしい。
「でも、高野先生。前向きに考えたらですね、私たちは練習するのが一曲ですむんですよ。しかも違った解釈での演奏を楽しめるわけですし、楽団員にとっては喜ばしい限りです」
 美濃部は嬉々として、持ち前の楽天的な思考を披露してみせた。
 それに対し、藤堂あかりが首を傾げる。
「本当に、そうかしら?」
 美貌の副首席は、コンサートマスターを冷静に諌めた。
「お客様がみんな美濃部さんのような方たちばかりではないのよ。満足していただけるように弾き分けるのは、とても難しいもの。実は、そのことを監督におうかがいしたいと思って、ここまで来たのですけど――」
 あかりは空っぽの鷹山専用のデスクとチェアに視線をやった。そして、困ったような表情で、大きくため息をつく。
「いったい、どうなさるおつもりなのかしら、監督は。団員たちには早目に心積もりをさせなければならないので、演目だけでも先に知らせていただきたいのだけど――」
 美濃部は惚けたまま、じっとあかりを見つめている。
 あかりは不思議そうに首を傾げ、尋ねた。
「どうしたの、美濃部さん? 私の顔に、何か?」
「いやあ……あかりさんって格好いいなあって。あ、別に深い意味はないんだけど。なんか、私よりコンサートマスターに相応しいなあって、よく思うよ」
 その能天気なコンサートマスターの物言いが、可笑しかったらしい。珍しく、あかりは軽く噴き出すようにして笑い出した。
「美濃部さんって不思議よね。確かにコンサートマスターとしては頼りないところもあるんだけれど、まるで反感を買わないのよね」
「ははは、やっぱり頼りないか。そりゃ、富士川さんに比べたら天と地ほどの差があるし」
「そう、ね。でも……」
 あかりは意味ありげに、華音に目配せをした。
 その理由は、続く言葉にあった。
「あの人がいなくなってから分かったこともあります」
 藤堂あかりの冷たくも美しい聡明な顔立ちが、わずかに曇る。
「監督が美濃部さんのことをコンサートマスターに指名したとき、正直私は――失望しました。結局は芹響のことをなにも知らない、芹沢先生の名ばかりの弟子の考えることだって。でも今、こうして数ヶ月経って――」
 あかりは何かに吹っ切れたように、ゆっくりとため息をついた。そして、美濃部の顔をまっすぐに見つめる。
「こういうカタチもありなのかな、と思えるようになったんです。今まで経験したことのない環境ではあるんだけれど」
 華音はじっと、若き楽団員たちを眺めていた。
「芹沢先生という絶対の存在があって、それを崇拝する完璧な実力を備えたコンサートマスターがいて、皆がそれに倣う……それは今でも、私の理想形ではありますけど」
 美濃部はしきりに頷いてみせる。コンサートマスターとしての己の力量不足をかみ締めているのだろう。
 でもね、美濃部さん――と、あかりはさらに続けた。
「気難しくてわけの分からない音楽監督がいて、それに何とか上手くついていこうとするとことんお人好しなコンサートマスターを、なんだか放っておけなくて、みんなが助けてあげようと一つになる。真ん中に強く引っ張る力はなくても、外側から中心へ押していこうとする力が、今の芹響にはある――のかしら、って」
「それは……それは、私が一番感じてるよ。そして、あかりさんもその外側から押してくれている一人だってことも、充分分かってる」
「私は別にそんなつもりでは……では私はこれで。時間を改めて、またおうかがいします。よろしくね、華音さん?」
「分かりました。鷹山さんには伝えておきます」
 あかりの態度がある変化を遂げているのを、華音は見逃さなかった。彼女もまた自分と同じなのかもしれない――心の中に、一抹の不安が過っていく。
 華音はあかりの背中を複雑な面持ちで見送った。
 美濃部はいまだ惚けたまま、あかりの流れるような長くて美しい髪に見入っている。
 そして、一人憤慨するのはこの男。
「俺、今日はもう、ふて寝だ! 引きこもってやる」
 高野和久は、あかりを追うようにして、再び芹沢邸内の自分の巣へと戻っていってしまった。


 華音は先行き不透明の未来を憂い、大きなため息を吐き出した。
 この調子では、こけら落としの実現には、まだまだ程遠い状況と言えよう。
「あー……やっぱり高野先生、拗ねちゃった」
「説得するのには、時間がかかりそうですねえ。私も鷹山さんと相談して、何か対策を練りますから。華音さん、そんなに落ち込まないでください」
 相変わらず、鷹山の姿はない。
 いつもであれば、そろそろコーヒーを欲しがる時間だ。
 ちゃんと鷹山の所在を確認しようと、華音がようやくソファから腰を上げたそのとき、書斎のドアが開いた。
 やっと帰ってきた――そう思って顔をそちらに向けると、そこに立っていたのは芹沢家の老執事、乾であった。
 珍しくノックをせずに一歩部屋の中へと入り込んだ執事は、いつもと変わらず落ち着いた佇まいで、華音に緩やかに話しかける。
「華音様に、可愛らしいお客様がお見えでございますよ」
「お客? 私に?」
 すると、執事の背後から、華音よりも頭一つ分ほど背の低い女の子が、元気よく飛び出してきた。
 人懐っこい笑顔を見せて、手を振っている。
「やほー、カノちゃん」
「和奏(わかな)ちゃん!? どうしたの、久しぶりだね。すごい、おっきくなったー!」
 突然目の前に姿を現したのは、華音がよく知る少女だった。

 その昔は別の姓を名乗っていたが、現在の名は赤川和奏。
 高野和久が離婚した元妻に引き取られた、正真正銘の高野の一人娘である。

 幼い頃は、本当の姉妹のようにしてよく遊んだ仲だった。
 もう小学校高学年であるはずだ。離婚でもめていたときは、和奏はまだ小学校に上がる前だったと、華音は記憶している。
 その少女が久しぶりにここへやってきた理由は、至極単純なこと――。
「お父さん、カノちゃんちで暮らしてるって聞いたから」
「ああ、うん。そうなの。事情を話すと長くなるんだけどね……」
 すべてを説明するとなると、祖父の死までさかのぼらなくてはならない。
 しかし、ここでわざわざ身内の不幸を口にするのは、華音にはためらわれた。
 すると。
 それまでそばで成り行きを見守っていた美濃部が、二人に近づいてきた。好奇心をあらわにして、親しげに少女に笑いかける。
「へえ、高野先生の娘さんですか! はは、ホントそっくりですね。私、部屋まで行ってすぐ呼んできますよ」
 ふて寝すると言っていたが、それはついさっきの話だ。まだ寝入っていないはずだ。

 美濃部が意気揚々と書斎から出ていってしまうと、華音と和奏は二人きりとなった。
 和奏はなぜか落ち着きがない。何かしらの違和感を覚えているようだ。
「あの人も、カノちゃんちのオーケストラの人?」
 あの人、も。
 和奏が何を言わんとしているのか、華音はようやく分かった。しかし、華音はあえて触れずに、軽く頷く。
 さらに和奏は、無邪気に尋ねてくる。
「あの、背のおっきいメガネのお兄ちゃんは? 出かけてるの?」
 幼い頃に何度も芹沢邸に遊びに来ていた和奏は、富士川祥のことも当然よく見知っていた。
 やはり、聞かれてしまった――華音は心中複雑な思いで、和奏に説明をする。
「祥ちゃんならもう、ここにはいないんだ。いろいろあって」
 そう。
 いろいろと、ありすぎたのだ。
 事情を知らない小学生の女の子には、とても説明しきれないほど――。
「ふーん。じゃあ、さっき庭で寝てた男の人も、いろいろっていう中に入ってるの?」
「庭?」
 和奏の言葉を聞き、華音は窓辺に寄った。
 すると。
 悪魔な音楽監督が、前庭の木陰で柔らかな陽の光を浴びながら、気持ちよさそうに寝転がっているのが見えた。
 どうりで、先程からずっと姿が見えないはずだ。
「そうだね。いろいろあって、の中に入ってる」
 華音は窓を大きく開けた。爽やかな秋風が心地よく部屋の中へと吹き込んでくる。

 そこへ、美濃部に連れられるようにして、再び高野が書斎へとやってきた。
 高野は完全に取り乱している。
「お前、どうしてここに……」
「どうして、じゃないでしょ。可愛い娘がせっかく会いに来てあげたのに」
 離婚してからは学校の長期休みになると、半月ほど高野の部屋で二人一緒にすごす程度だった。しかしこの夏は、高野が芹沢邸に居候し始めたため、会わずじまいだったらしい。
「お母さんは? 一緒じゃないの?」
「内緒。だから、ひとりで来た」
「勝手にここまで来たのか!? 危ないだろ、お前。そういうところがあいつそっくりなんだよな、まったく」
 高野は無鉄砲な娘を叱った。しかし、どうも迫力に欠ける。娘にはついつい甘くなってしまうようだ。
「カノちゃんちは何度も来てるから、分かるもん。お父さん、今度の演奏会で、ピアノ弾くんでしょ」
「え? 何で和奏が知ってるの」
 意外なことを、娘は突然口にした。一人驚く高野をよそに、和奏は得意げにしゃべり出す。
「お母さんが友達としゃべってたの、聞いちゃった」
「……友達? お母さんがそう言ってたのか?」
「うん。お父さんとお母さんの友達だって」
 高野は愕然とした表情で、両手で頭を抱え、髪を激しくかきむしった。
 娘の説明で、高野にはすべての事情が飲み込めたらしい。
 よみがえる五年前の忌まわしき記憶――。
「ひょっとして稲葉? あいつ、また家まで行ったのか!?」
「玄関先で話してただけだよ。すぐに日本を発つって言ってたから」

「……またなの?」
「また、なんですか?」
 傍観者を決め込んでいた華音と美濃部の呟きが、ほぼ重なった。

 離婚に至った事の顛末を、高野は怒り収まらない様子で、息もつかせぬ勢いで語り始めた。
「五年前のあの日、あいつが日本へ帰ってきたことを俺は知らなかった。いや、別に連絡してこなかったことを怒ってるわけじゃない。きっと稲葉は、俺たち家族の前に突然姿を見せて、驚かせようという気持ちがあったんだろう。でも、あの日は俺がたまたま芹響の定演のリハーサルで、家を留守にしていたんだ。仁美ちゃんにしてみれば、大学時代の懐かしい同期だ。家に招き入れたのも、まあ、しょうがないことだと思うよ。でも。でもさ。それで、娘と一緒になってはしゃいで、俺が彼女のために特別に作らせたスタインウェイをあいつに弾かせた! 俺のいないときにだよ!?」
 華音は和奏を後ろからしっかりと抱き締める。
 おそらく和奏にとって初めて聞く話だろう。少なからずショックを受けてしまうのではないか――そんな考えが華音の脳裏をかすめた。
 傍らの美濃部はしきりに頷いて、淡々と聞き返している。
 状況適応力はピカイチらしい。
「あー、ひょっとして、高野楽器に置いてあるあのスタインウェイがそれですか?」
 街角の小さな楽器店に、スタインウェイという一流ブランドのグランドピアノがひっそりと置いてあるのは、店主自身がピアニストだから――という理由ではなかった。
 あまりにも生々しい離婚劇の、『遺物』に他ならないのである。
 高野は滅多に出さない大声を上げて幾分すっきりしたのか、トーンを落としてさらに続けた。
「そんなことでって思われるかもしれない。それだけなら、いくらなんでも離婚しようだなんて思わなかったかもしれない。和奏のためにもね。でもそれをさ、彼女はずっと隠してたんだよ。俺が怒ると思って、気を利かせたんだか何だか知らないけど。俺は一ヶ月も後に、当時幼稚園児だった和奏の口からその事実を聞かされて、唖然としたよ」

 ――おかあさんがね、しらないおじさんに、ピアノをひいてっていったらね、おとうさんみたいにじょうずだったの。ワカナのことね、おとうさんにそっくりだねって、そのおじさんがいってたよ。

「昔からそうなんだ仁美ちゃんは。『言っても行かないって言うと思って』とか『言ってもダメだって言うと思って』とか、そうやって決めつけるんだ、俺のこと!」
 高野が元妻の下の名を口にした。
 どうやら無意識らしい。まるで恋人同士の痴話喧嘩のようだ。
「でも仁美ちゃんは言うんだ。私にくれたピアノなら、私の自由にしていいってことでしょ? って」

 そう、たったそれだけのこと。他人から見ればそう思えてしまうことでも。
 当の本人にとっては、重要なことなのだ。
 ピアニストが、同じくピアノを愛する婚約者のために、特別に作らせた楽器を――。

 娘は驚いている。
 両親の勝手な都合で離婚家庭となってしまったが、しかし、今は幼稚園児ではない。
 大方の事情が飲み込め、和奏は呆れたように言った。
「お父さん、お母さんのこと大好きなんでしょ? だったらさっさと謝ればいいのに」
 愛の結晶として存在しているはずの娘に図星を指され、高野は複雑な面持ちで言い訳をする。
「何で俺が謝るんだよ。好きとか嫌いとかさ、そういう問題じゃないんだよ……子供には分かんないと思うけど」
「あのね、私は『高野和奏』のほうがいいの」
「…………何で?」
 和奏は高野の脛に思い切り蹴りをくらわした。
 鈍い音がし、やわな中年男はその場へうずくまる。
「こらこら、女の子がそんなことするんじゃない……いててて」
「何で? じゃないでしょ! それでも父親か!」
「らしいね。和奏は嫌味なほど俺に似てるしな……」
 高野はくたびれたようなため息をついた。
 そして、なぜか和奏も同じようにため息をつき――。
「あのおじさんが言ってたよ。今度お父さんとピアノで勝負するんだ、って」
 高野は恨めしそうな顔を娘に向けた。
「稲葉のやつ、いつまで経ってもくだらないことを……あのさ、音楽ってのは勝ち負けじゃないんだよ」
「お母さん、喜んでたよ」
 その娘のひとことに、高野は鋭く反応した。
「……うそ。あいつ、何て言ってた?」
 気になるらしい。高野は真剣な面持ちで、娘にすがるように尋ねる。
 愛する女性が産んでくれた自分の子供に、わざわざ問う内容としては――余りにも頼りない。
「稲葉君のピアノが聴けるなんて、とっても感激って。…………それを私に、今度お父さんに会ったら、そう言ってたってお父さんに言えって。ホント、二人ともアホらしいんだから」
「相変わらず、ノーテンキなこと言いやがって……まったく、人の気も知らないで!」
「あー、なんか仁美さんらしいな」
 華音は高野の元妻の性格を思い出し、妙に納得した。
「いいの? お父さん! お母さん取られちゃっても知らないよ」
「知らないよそんなこと。お母さんがいいならそれでいいよ。俺にはもう関係ないんだし」
「だから私は、『高野和奏』のほうがいいって、さっきから言ってるじゃないか! お父さんの馬鹿!」
 分かっている。
 それは高野にも分かっているのだ。
「……なあ、和奏。お父さんさ、別にお前やお母さんが嫌いでこうしてるわけじゃないんだよ。もうお前も大きいんだから、分かるだろ? でもな、稲葉のことは嫌いなの。稲葉が仁美ちゃんに言い寄るのはもちろん嫌いなの。でも一番嫌いなのは――仁美ちゃんがいつまで経っても稲葉稲葉って俺にうるさく言うことなんだよ。俺は稲葉の話なんか聞きたくない、関わりたくないんだ。本当に勘弁してくれ」
 高野は半ばうなだれながら、娘の頭をゆっくりとなでた。
「美濃部ちゃん、悪いんだけど和奏のこと車で送ってやってくれる?」
「あ、別に構いませんよ。私もいま帰るところでしたので」
「ヘタに俺が送っていって、仁美ちゃんにぐちぐち言われるのも嫌だし。今度は、ちゃんとお母さんに行き先言ってから来るんだぞ?」
 父親の問いに、和奏は黙ったままだ。
「返事はどうした? ん?」
「――また、来ていいの?」
 二つの目が父親を見上げる。
「ダメって言ったって、どうせ来るんだろうが、和奏は」
 高野は、和奏の鼻をいたずら半分につまんだ。そのまま軽く左右に振る。
 あしらい方が慣れている。今までも何度もこうしてきたのだろう。
 和奏もそれを嫌がらずに弄られたまま、照れたように笑った。
「へへ、よく分かってるじゃん」
「父親だからなあ、これでも」
 ひたすら濃い親子のやり取りをただ眺めていた美濃部と華音は、お互い顔を見合わせて苦笑いをした。


 高野親子と美濃部が書斎から出ていってしまうと、書斎は一転して静寂に包まれた。
 ふと窓の外に目を向けると――先程と変わらず、前庭にある樫の樹の木陰で、鷹山が日除けのために顔にスコアを載せて、半ば居眠りをするかのようにくつろいでいる。
 華音は二階の書斎の窓から身を乗り出すようにして、下に向かって叫んだ。
「鷹山さん! ずっと聞こえてたんでしょ?」
「……あれだけ大きな声で騒いでたら、嫌でも聞こえるよ。というか、君のその声もうるさいよ、昼寝の邪魔だ」
 鷹山の不機嫌そうな声が、はっきりと華音に返ってくる。
 やはり横になっていただけ、らしい。
 華音は困った素振りを見せながらも、内心可笑しくてしょうがなかった。
 天邪鬼な鷹山が『邪魔だ』というときは、もっと構って欲しいという意思表示なのだ。
 受けてたってやる――そう意気込んで、華音は急いで書斎を出て一階へ下り、前庭へと回った。


 横たわる音楽監督のもとへと、華音は芝草を蹴散らしながら走り寄る。
 そして、華音はそのまま鷹山の顔を覗き込むようにして立ち、起き上がる手助けをしようと、片手を差し出した。
「昼寝って、今は仕事中でしょ? ほら、早く起きて」
 鷹山は顔にかけていたスコアを取った。わざとらしく迷惑そうに眉間にしわを寄せ、大きな目を何度も瞬かせ、華音を見上げている。
「……白のフリフリが丸見えだよ。もっと視線を気にしろよ。君、女の子だろ?」
 華音は一気に顔面蒼白になり、差し出した手で慌ててスカートの裾を押さえた。
「へえ、やっぱり白なんだ」
 鷹山はアザラシのように芝生の上を転がって、ひたすら身体を揺すって声もなく笑っている。
 蒼白の顔がみるみるうちに紅に染まっていくのが、華音には分かった。
 この男は。この男ときたら――。
「君のその反応さ、最高だ。色と合わせて、九十五点をつけてやる」
「…………あとの五点は、何なの?」
「本当に見えてたら、だろ。やっぱり」
 まるで子供だ。
 華音は肩をすくめ、今度はスカートに細心の注意を払いながら、鷹山が寝転がる隣へ腰を下ろした。
「ねえ鷹山さん、やっぱりこれ以上……溝を深めるようなことは止めましょう?」
 鷹山はようやく起き上がった。服についた芝生を軽く払い落とす。
 日除けにしていたスコアを華音に差し出し、目線の動きだけで華音に指示を出す。取り出したところへしまっておけ、ということらしい。
 こうやって、言葉のないやり取りができるようになったことは、出会ったばかりの頃から比べると、まるで奇跡のようだ。
「来週ね、また稲葉氏が来日するときに、直接二人を引き合わせてみようと思うんだ」
「高野先生と稲葉さんを? そんな、高野先生は稲葉さんと顔を合わせたくないって言ってるのに」
 華音の心に一抹の不安がよぎる。
 しかし、鷹山は大きく綺麗な二重の瞳を、ゆっくりと瞬かせるばかりだ。
「溝が深まる? いや、むしろ音楽でつながっている。だから、分かり合えるんだ」
 つながっている。分かり合える。
 こういうことを苦もなく言える人なのに――どうして鷹山自身は、それができないのであろうか。
 もちろんその原因が自分の存在であることに、華音は罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「和久さんたちのやりとりを聞いていたら、昔の自分を思い出した」
 膝と膝が触れ合うところで、穏やかな涼しい風に吹かれながら、華音は鷹山の言葉に耳を傾ける。
「あれが本当の親子の姿だ」
「へえ……そうなんだ」
 華音は曖昧な返事をした。
 曖昧にならざるをえなかったのだ。
 『本当の親子の姿』という記憶は、華音の中には決して存在しないものなのだから。

 ――思い出せるものが、ない。

 親を亡くしてしまった哀れな兄妹――しかし、共有するはずの思いが、二人は通じ合えないのである。
 鷹山はどこか淋しげに、天高い秋の青空を仰ぎ見ている。
「どうしたの、鷹山さん」
「もう失くしてしまったな――僕と君は」

 自分の何気ない一言が鷹山を追い詰めていることに、気づかされた瞬間だった。