夢幻の章 (9)  女神の旋律

 芹沢家の朝食風景。
 華音は朝から緊張しながら食卓についていた。
 寝癖のついたぼさぼさ頭のままの、居候の高野が向かいに座っている。
 華音は慎重に高野の様子をうかがっていた。

 ――上手くできるかな……気が重い。

 高野は執事に温めのカフェオレを所望し、いまだ覚め切らぬ眼を両手で擦り上げている。
 そして、これから待ち受けているであろう出来事などまったく知らずに、のん気に焼きたてクロワッサンをかじっている。
「ノン君さー、久しぶりにドライブでもしようか。天気もいいしさあ、山のほうは紅葉しはじめてるんじゃない?」
「え……高野先生、出かけるの?」
 予想外の展開だ。
 華音はウインナーにフォークを突き刺したまま皿の上に放り出し、慌てて高野に食らいつく。
「ノン君、今日は完全オフって言ってなかったっけ? 友達と遊ぶ約束でもしてるの?」
「そういうわけじゃ、ないんだけど」
「あー、やっぱ俺と二人じゃつまんないか。いつもは富士川ちゃんと三人だったからなー……そーか、俺と二人じゃ」
「拗ねないでよ、先生」
「なんなら、楽ちゃんでも誘ってみる?」
「…………え」
 ますます予期せぬ展開へと進んでいく。
 華音は今の状況をどう修正し、ある人物に指示された任務をこなせばいいか、必死に考える。
「最近、仲がいいみたいだし」
「そ、それは、あの」
 華音が絶句しかけたのを、高野はどうやら勘違いしたらしい。
「やっぱり、富士川ちゃんと同じってわけには、いかないか」
 そういう問題ではないのだ。
 しかし、説明に困ってしまう。

 どうして鷹山が自分に優しくなったか――なんて。

「ごめんなさい、先生。私、鷹山さんに言っちゃったの」
「え? てことは、お互い兄妹だってことを? いつ? どうやって?」
 高野は驚きをあらわにしている。至極当然の反応だろう。
 華音は曖昧に答えた。
「えーと、いや、何か話の流れで何となく……だったかな」
「てことは。……ひょっとして、十五年前のことも聞いた?」
 高野の探るような問いに、華音は素直に頷いた。
「でもほら、他人みたいなものだから、特に兄妹ということは意識しないでフツーに監督とアシスタントということで仲良くやっていこうって、あの、そんな感じだから」
「そりゃあ、良かったじゃないの。お互い知ってて上手くやっていけるなら、それに越したことはないからさ」
 心苦しかった。
 嘘は言っていない。

 話の流れで――無理矢理。
 他人みたいな――兄という意識などまるでなく。

 仲良くやっていこう、と――――鷹山の愛を受け入れた自分。

 嘘は言っていないはずなのに、高野を騙しているという罪悪感で一杯だった。
 監督とそのアシスタントという関係が、うまい具合に盾となっていることが、唯一の救いだった。
「あのね高野先生、ピアノを……弾いて欲しいんだけど」
「別にいいけど、どうしたの? 珍しいじゃない」
 華音は冷静を装うのに必死だった。不慣れな挙動に不信感を抱かれぬよう、たった今思いついたかのようにさらりと言う。
「サロンのピアノで聴きたい、かな」
「サロンって、ババアの? あそこにピアノなんか置いてたんだ」
 五年前に他界した華音の祖母を、高野は生前からババアと陰で呼んでいた。それが今も抜けていない。いろいろと因縁があるらしい。
「死んでからほぼ開かずの間状態だろ、あの部屋。まあ、生きてるうちもほとんど入ったことなかったけど」
 芹沢家のサロンと呼ばれる部屋は、緑の木々や噴水のある前庭に面した、景色の良い場所だ。芹沢夫人が精神を患ってからは、夫の英輔氏の私室と書斎から一番遠くに位置するサロンで、好きな花々に囲まれ日々を過ごしていた。
 高野の言う通り、夫人が亡くなってからは使われておらず、執事や家政婦がときおり掃除をするために入る程度だ。
「高野先生って、ホントにうちのおばあちゃんが嫌いだったんだ?」
 気まぐれに聞いてみた。時間稼ぎのため――でも、ある。
 高野はカフェオレでクロワッサンを流し込むと、フウと息を一つ吐いた。
「ノン君が十五年前のこと知っちゃったんなら、もう隠しておくこともないよな」
 華音はゆっくりと唾を飲み込んだ。続く言葉をひたすら待つ。
「ノン君の両親って、実はさ、俺の大学のOBなんだよ。二人とも俺が入学するずっと前に中退しちゃってたから、先輩の先輩ってくらい歳は離れてるけどさ。それで、教授を通して何度か顔を合わせたことがあって、芹沢のオヤジと知り合う前から、二人のことは知ってたんだよ」
 初めて聞く話だったが、別に驚くことではなかった。
 高野が華音の両親に当たる人たちと、生前、何度か顔を合わせたことがあったということは、聞いたことがある。同じ大学で、教授を通して顔見知りとなったというのは、充分信憑性のある話だ。
「そのあと、二人が事故で亡くなったときにさ、俺、ちょっとした経緯で知り合ったばかりの芹沢のオヤジに招かれてて、ちょうどこの家にいたんだよ。いきなり修羅場を目の当たりにさせられて、驚いたのなんのって。小さい楽ちゃんとノン君が連れて来られて、ババアは楽ちゃんにきつく当たって……」
 鷹山が以前言っていたことを、華音はぼんやりと思い出した。
 お前のような悪魔は要らないと――そして芹沢の名を捨てさせられた、と。
 その一部始終を、高野は偶然居合わせて、目撃してしまったということなのだろう。
 十五年前の、あの日の悪夢を――。
「でもさ、もっと驚いたのは楽ちゃんのことだったんだよ。だって、楽ちゃん、鞠子さんにそっくりだったからね。……芹沢? ああ、そういうことか、って。そのとき初めて、あの芹沢先輩夫婦はこの芹沢家の人だって分かったんだよ」
 以前オーナーの赤城から見せてもらった写真の母は、本当に鷹山によく似ていた。高野がそっくりで驚いたというのは、決して大袈裟な話ではないだろう。
 鷹山は、男性であれだけ綺麗な顔をしているのだから、実物の母は写真以上に美しかったに違いない。
「で、そのとき俺も止せばいいのに、鞠子さんをかばうようなことをさ、ついついババアに言っちゃったんだよな。それからババアは俺に冷たくなった。富士川ちゃんはその一件を知らないから普通に話していたけど、俺はずーっと冷たくあしらわれてた」
 思い出して憂鬱な気分になったのか、高野は虚ろな目で長い長いため息をついた。
「おばあちゃん、高野先生がだらしがないから、いい顔していないだけかと思ってた」
「芹沢のオヤジも、ババアも、ノン君のお父さんのことを盲目的に溺愛してたんだよ。一人息子だったしね。それがまあ――窮屈だったんだろうなあ、卓人さんは。温かな家庭を人一倍夢見ていたのかもしれない。音大の在学中に鞠子さんに子供ができたときも、迷わずに大学を辞めて鞠子さんとの子供を育てようとしたっていうから。それなのにあのババアは、息子をたぶらかされ奪われた、なんて言って鞠子さんには相当辛く当たったらしいし……」
 胸の鼓動がわずかに早まっていくのを、華音は感じた。
 今まで誰も教えてはくれなかった自分の『両親』という人たちの人間像が、リアルに浮かび上がってくる。
 大学在学中に子供ができて――そのとき、華音の兄は生まれた。
 そしてその兄は、八歳になるまで両親と三人で暮らし、やがて妹が生まれて四人家族となり、その一年後――すべての家族を失ってしまった。
「だからさ、楽ちゃんがああいう性格になっちゃったのも、それ相応の理由があるんだよ」
 きっと兄である鷹山は、いろいろなことを知っているのだろう。そして、いろいろなものを持っていて、いろいろなものを失くしてしまった。
 しかし華音は、持っているありがたさが分からないため、それを失った悲しみもまた理解できない。
 それが、鷹山と華音の『現実』なのである。


 朝食もそこそこにすませ、華音は高野と一緒に、芹沢家のサロンへと足を運んだ。
 手入れの行き届いた前庭の素晴らしい眺めは、今も変わらない。
 サロンと呼ばれたその部屋の中央に、黒いビロードのカバーがかけられたグランドピアノが置かれている。
 高野が無造作にカバーを半分だけめくり上げると、無数の塵が辺りに飛び散り、光の反射を受けて漂っていく。
 華音は慌てて片手で鼻と口を覆い、もう片方の手で必死に塵をあおぎ返した。長いこと使われていない証である。
 カバーの下に隠されていた製造メーカーのロゴの刻印を見て、高野は首を傾げた。
「あ……これ」
 高野は立ったまま鍵盤に向き合い、指を這わせて軽く音階を弾く。
 その感触を確かめ、半信半疑の表情で驚嘆の唸りを洩らした。
「この鍵盤の重さは間違いない、あのベヒシュタインだ……こんなところにあったなんて」
 意外な反応だった。
 このサロンにピアノが置いてあることさえ知らなかった、芹沢家と古くから縁のあるピアニストが、何やら意味深なことを口にする。

 あのベヒシュタインが――こんなところに。

 華音は意味が分からずに、高野の袖を二度引いて合図し、説明を求めた。
 すると高野は、面倒くさそうにくしゃりと髪をかいた。
「昔さ、オヤジがプロデュースしたダイニングバーにこれが置いてあったんだよ。俺たちがまだ大学生だった頃」
 俺たち、と高野は言った。
 高野は椅子の埃を手で簡単に払い、そこへ腰かけた。そして、丁寧にいくつかの和音を打鍵し、耳を澄ます。
 完全に、本業である調律師の顔つきだ。
「あー、かなり音狂ってるな。全然調律してないのかな……って、俺がやってないんだから、調律してるわけないか」
 芹沢英輔にその腕を見込まれて、芹沢家に置いてあるピアノの調律は定期的に高野が行っていた。しかし、このサロンは芹沢夫人が生前使用していたため、まったく関知していなかったようだ。
 そもそも、芹沢夫人はピアノを弾くことはなかったし、華音もほとんど弾かないので、インテリアとして置かれていたにすぎない。
「出ない音があるって、祥ちゃんから聞いたことあるけど」
 華音がそう説明すると、高野は器用に低音から高音に向かって、粒をそろえるようにして鍵盤の試し弾きをしてみせた。
「あ、ホントだ。あいつの仕業だ。あー、ホントにこれあのベヒシュタインだよ。生々しすぎる……」
 すべてはここから始まったんだよな――と、高野は色褪せた過去の出来事を、因縁のピアノを前にして回想している。
「稲葉のバイトしてたダイニングバーに、仁美ちゃんがわざわざ稲葉のピアノを聴きに行っててさ。だから俺、勝手に飛び入りで稲葉を押しのけて弾きまくった……らしい。泥酔してたから俺はよく覚えていないんだけど。そのあと、怒った稲葉はこのベヒシュタインにやつあたりして、こいつを壊した、と。それが原因で、俺たちはずっと仲が悪い」
「ずーっと?」
「俺が大学留年したのはあいつのせいだし、逆に稲葉がショパンコンクールの出場やめたのは俺のせいみたいだし。お互いがお互いの人生狂わしてるんだ。そして結婚に離婚だろ?」
 華音が思っていた以上に、二人の関係は複雑だった。仲が悪くなるのも充分頷ける。
 お互いが、お互いの人生を、狂わせている。
 そして、結婚と離婚のことは、華音もよく事情を知っている。
「はあああ。何か嫌なこと思い出しちゃったな。気分転換に、ちょっと出かけてくるわ」
「え、ちょっと待ってよ先生! もうちょっとだけ! 待ってて」
「どうしたんだよノン君。さっきから何だかおかしいよ?」
 今朝から華音が必死になっているその理由、それは――。

 すべて鷹山に指示されてのことなのである。
 高野を指定の時間までに、それとなくサロンへ連れ出せ、と。

「ねえ高野先生、いま何時?」
 華音の問いに、高野は左手首にはめられた腕時計とサロンの壁掛け時計を交互に見比べた。
「もうすぐ九時半。この部屋の時計、ちゃんと合ってるよ」
 ちょうど約束の時間だ。
 タイミングのいいことに、廊下から話し声が聞こえてくる。聞き覚えのある声に、華音は胸をなで下ろした。

 やがて、ゆっくりとサロンのドアが開き、まず稲葉努が部屋の中へと入ってきて、続くようにしてその後ろから鷹山が入ってきた。
「稲葉? ……何でお前、こんなところに」
 高野は状況が飲み込めず、ピアノ椅子に腰かけたまま身体だけよじらせて、茫然と宿敵を見つめている。立ち上がることさえしない。
 稲葉は鷹山から事情を聞かされていたのか、特に驚いた様子は見せていない。
「こけら落としの打ち合わせに――久しぶりだね。あの日以来だから、十数年ぶりかな?」
「謀ったな、ノン君?」
 高野は恨めしそうな目で、華音の顔をじっと見つめてくる。
「わ、私じゃなく! 悪魔の陰謀だから!」
「……余計なことは言わなくていい、芹沢さん」
 華音は逃げるようにして、鷹山のそばへと駆け寄った。

 稲葉は一歩前に進み出た。
「いったいどういうことなんだよ、高野君」
「それは俺のセリフだと思うんだけど。いちいち俺を引き合いに出すのはいい加減止めてくれ」
 いきなり険悪ムード全開だ。
 高野はピアノ椅子に腰かけたまま。稲葉がその脇に立ち見下ろす格好だ。
 絶対の、至近距離。
 稲葉はつり上がった切れ長の目を、なおいっそう引きつらせた。
「今まで日本での演奏会を拒んできた理由は、高野君が一番よく知ってるはずだよね。僕が彼女のことを忘れられずにいて、それでも彼女の幸せのことを考え、……身を引いていたっていうのに」
 彼女――高野の元妻・赤川仁美だ。
 高野はすかさず言い返した。
「身を引いてドイツに永住するとか言ってた人間が、たまたま帰ってきて、勝手に人の家に上がりこんで、人が大切にしているものを勝手に触ってか? 彼女が俺たちのまったく知らない誰かと結婚しても、お前は同じようにしてたか? 彼女の旦那が知ってる人間だから、許されるとでも思ったか?」
 滅多にみせない高野の剣幕に、華音はすくみ上がった。
 鷹山のせいだ。
 もう、取り返しのつかない状況に追い込まれてしまっている。
 傷口に塩を塗りこむような、繊細な核心に迫るやり取りは、まだまだ続く。
「僕に怒りをぶつけるのは構わないよ。僕が赤川さんのことを今でも思う気持ちに変わりはないから、高野君に責められたって仕方がない。だけどね、一つだけ言わせてもらうけど」
 稲葉は拳でピアノの上部を叩きつけた。
 ベヒシュタイン製の美しいピアノが悲鳴を上げる。
「赤川さんと離婚したっていうのは、どういうことなんだよ。結婚っていうのはね、相手の一生を背負うってことなんじゃないの?」
 ピアニストの商売道具である『手』と『楽器』を痛めつける真似をする稲葉の、その鬼気迫る表情に、高野はわずかに怯んだ。
「考え方は人それぞれだと思うけど、俺たちは違うよ。和奏ができたから、とりあえず籍入れただけで……」
「高野君の馬鹿! 大馬鹿だよ!」
「これは俺たち二人の問題だ。稲葉が口出ししてくることじゃないだろ。それに何? 同曲異演だなんて、正気の沙汰じゃない。どっちが上手いか聴き比べてもらうだなんて……聴く人のことをこれっぽっちも考えていないんだお前は。昔っからな!」

 ――ああ、もう。

 華音は責めるような眼差しを鷹山に向けてやった。
「収拾つきそうにないですよ。どうするんですか?」
 こけら落としの話も、どうやら暗礁にのりあげてしまったようだ。
 もともと無謀な計画だったのだ。今から構成を考え直すしか、道はない。
 しかし。
 鷹山は淡々としたまま、目の前で繰り広げられる状況を冷静に見極めている。そして、ゆっくりと大きな瞳を瞬かせながら、華音にそっと耳打ちをした。
「実は赤城オーナーに頼んで、『切り札』を用意してもらっている。もうすぐここに来るんじゃないかな」

 ――もうすぐここに来る。ということは、『切り札』は人物?

 辿り着いた答えが、正解であって欲しくない。華音はそう切に願った。
「鷹山さん、正気なの? 話し合いで解決どころか、滅茶苦茶になっちゃう!」
「ならないよ。まあ、それが『消火剤』となるか男殺しの『爆薬』となるか、大きな賭けであることは確かだけど」
 鷹山はあえて名前を出していなかったが、華音の予想は確信へと変わった。

 高野と稲葉を直接会わせるだけでなく。
 二人の仲違いの原因である赤川仁美を、この修羅場に呼ぶ――だなんて。

「興味のほうが大きかったというほうが正しいかな。和久さんと稲葉氏、二人の男をとりこにさせた女性だよ? どんな素適な人なのか、この目で見てみたいじゃないか?」
 嘘か本当かは分からない。
 だが、興味本位で素適な女性を見てみたかったなどと、鷹山は相変わらず好き勝手なことを喋りまくっている。
 どうして自分の前で、そんなことを平気で言えるのだろうか――華音は反応に困り、はっきりと聞こえなかったフリをした。
 すると。
「どうしたの、いきなり黙ったりして」
「別に」
 怒声が飛び交う中、鷹山は不謹慎にも堪えきれずに吹き出した。
「何でそんな突然投げやりになるんだよ、君は。馬っ鹿じゃないの」
 嘲り蔑むような眼差しで、華音の顔をしげしげと見つめている。
 わざと怒らせるようなことを言って、どう反応するか楽しんでいる――悪趣味だ。
 それを分かっていながら、いとも容易くのってしまう自分が哀しい。
「ば……馬鹿って。ただ『別に』って言っただけじゃないですか」
 勝ち誇ったような鷹山の表情に、さらに余裕が加わる。
「もちろん君が一番素適に決まってるだろ――って、言って欲しかったか?」
 華音は激しく首を横に振った。心の内を見透かされているようで恥ずかしくなり、必死に否定する。
「本当にどうしようもないやつだな、芹沢さんは」
 完璧に、手綱を握られてしまっている。
「どうしようもなく――馬鹿だ」
 そんな鷹山の楽しそうな呟きが、華音の胸を静かに震わせた。
 目の前では高野と稲葉の言い争いが続いている。

 そこへ、とうとう。
 芹沢家の執事に案内され、『切り札』がサロンに姿を現した。

「カノちゃん、また来ちゃった!」
「わー、華音ちゃんお久しぶりねー、元気だった?」
 華音がよく見知っている母と娘は、無邪気に手を振っている。
「和奏ちゃん! それに仁美さんも! ご、ごめんね……今、和奏ちゃんのパパ、取り込み中で」
 広々としたサロンの中央では、因縁のベヒシュタインを前にして、二人の男がいまだ激しく怒鳴り合っている。
 高野の元妻・赤川仁美はいきなりの修羅場に物怖じすることなく、にこやかに微笑んで鷹山に挨拶をした。
「初めまして、音楽監督さん。あら、随分と美少年なのねえ」
 喋り方が気さくで柔らかい。悪魔な音楽監督も、すっかり子供扱いである。
 さっそく、鷹山は調子を狂わされているようだ。大きな目を瞬かせ、軽く肩をすくめてみせる。
「……少年、というほど若くもないんですが。すみません、わざわざご足労願いまして」
「いいのいいの。あの二人ね、昔っからしょっちゅうケンカしてるのよ。仲裁なら慣れてるから」
 二人のピアニストは、新しい来訪者の存在に気づいていない。

 『切り札』はわざと一つ、咳払いをしてみせた。
「貴方たちー、演奏会のことでまた周りの人たち困らせてるんですって?」
 罵り合う声がぴたりと止んだ。
 突然、辺りが静まり返る。
「ひ、ひ、仁美ちゃん!? どうしたんだ?」
 高野は動揺の色を隠せない。突然現れた元妻の姿に、目を瞠ったまま固まっている。

 役者がすべてそろった。
 華音は鷹山に寄り添い、彼のシャツの背をつかんで、じっと成り行きを見守った。

「赤川さん……この間はどうもね」
 稲葉は礼儀正しく、軽く会釈をした。
 落ち着いている。しかし、気を遣って具体的な会話を避け、最低限の言葉だけを口にしているようだ。しかしそれが逆に、傍目には意味深な関係に映ってしまう。
「いいのよ。日本に帰ってきたときはいつでも遊びに来てね。この子も喜ぶから」
 一瞬にして、高野を取り囲む空気が凍りついた。その音が聞こえてきそうなほどの、分かりやすさだ。
 高野はそばにいた娘を引き寄せて無理矢理膝の上に座らせると、羽交い絞めのまま背後から頭突きをし、鼻をつまんで左右に揺さぶった。
「和奏、何喜んでたんだよ? んん? お父さんにちゃーんと説明してくれる?」
「だ、だっで……おびやげぐれだんだもん」
 鼻呼吸を断たれ口で必死に息継ぎしながら、娘は必死に弁解をする。
 理由を聞いて、高野は再度、愛娘に頭突きをくらわした。
「モノでつられてんじゃないよ、お前は!」
「こーら、自分の娘をいじめたりしないの」
 高野の元妻は苦しがる娘を見て、能天気に笑っている。父と娘がじゃれている姿が楽しくて仕方がないようだ。
「もう。二人がケンカしちゃうなら、私が弾いちゃうんだからね?」
「……え」
 その言葉の意味することを、高野と稲葉はすぐに理解できないでいた。

 私が弾く――いったい何を?

「シューマンだったら貴方たちよりも上手なんだから。ほら、どいたどいた」
 『切り札』は高野を押しのけるようにして椅子に腰かけると、ベヒシュタインの鍵盤に指を載せた。

 やがて、静かに演奏が始まった。
 高校の音楽教師らしい、基本を押さえた丁寧な演奏だ。ときおり首を傾げるも、楽しげに複雑な旋律を奏でている。
 二人のピアニストは黙り、女神の旋律に酔いしれている。

 しかし。
 最後の最後で、彼女の指は和音を思い切りハズしてしまった。
 たった一音のミスタッチで、短調がいきなり長調に――。
 ある意味、天才的だ。

「ちょっと今の、凄すぎるよねー。せっかくのシューマンも台無し、あはははは」
 自分自身の失敗を無邪気に笑い、女神は二人のピアニストを振り返った。

 ――絶句。

 同じことを思ったのだろう、いがみ合う二人は一瞬だけ目線を交わし、それぞれ別の方向を見て空を仰いだ。
 争う気はもう、削がれてしまったらしい。
「素晴らしい。やっぱり男殺しの『爆薬』だったかな? 凄いな」
 鷹山がふざけたように華音に耳打ちした。

「ダメねえ、やっぱり毎日練習しないと」
 高野の元妻は首をしきりに傾げながら、絶句したまま立ちすくむ二人のピアニストに、柔らかな笑顔を見せた。
 仲裁なら慣れているから、と彼女が言っていたのは確かに間違いではなかったが、お互いを納得させるというよりは、争う気力を失くさせる、といったほうが正しいだろう。
 あまりにも天真爛漫で、どこか能天気なのである。
 ここにいる稲葉が彼女を、ワインの銘柄『ロジェール』になぞらえていると、オーナーの赤城が言っていたことを華音は思い出した。

 ロジェール――純潔な乙女、と。

「DとF、鳴ってないね」
 稲葉は彼女の迷演に対して、そう感想を洩らした。
 演奏の良し悪しに対しては特に言及せず、一流ピアニストのよく利く耳で、鳴っていない音を正確に聴き取ったようだ。
 それを聞いた高野は、恨めしそうな眼差しを稲葉に向けた。
「……お前が壊したんだろうが。まさか、忘れたわけじゃないだろうな」
 時間が遡っていく。
 二人は今、学生だった頃の世界に引き戻される。
「君が赤川さんにショパンを弾いてあげたピアノ、だろう? 赤川さんの心を手に入れた思い出のピアノか?」
「なんだよ、その言い方」

 あの夜。
 大学時代の稲葉努のバイト先だった、祖父のプロデュースするダイニングバーで。
 高野は酔いに任せて稲葉を押しのけ、ピアノを弾いて。
 初めて人前でショパンを、それも彼女が最も好きなショパンの幻想曲を弾いて聴かせて。

 そして、彼女は――。

 稲葉はすべてを振り払うように、首を激しく振った。
「あれからいつもいつも、赤川さんは君の話ばかり。高野君が高野君が、って。今でもそうだよ。赤川さんとの会話には君の話しか出てこない」
 高野はすぐに二の句が継げず、一瞬、元妻に視線をやった。目が合うと、彼女は悪びれずに肩をすくめてみせる。
「……それは俺だって同じだよ。仁美ちゃんは昔っから稲葉君稲葉君って、お前の話ばかりで――うんざりなんだよ」

 鷹山は先程から成り行きを見守ったまま、黙っている。
 普段であれば一言も二言も三言も多い饒舌な音楽監督が、つかず離れずの距離で腕組みをしながら眺めている。
 いろいろ考えを巡らしているらしい。

 意外にも、解決の糸口はすぐに訪れた。
 またもや女神様降臨、である。
「こんなことでいちいち争ってるから、まっとうな人生送れないのよ。いい歳して、ねえ」
 たった一言で切り捨てた。お見事、という他はない。当事者の彼女に言われてしまっては、身もフタもないだろう。
 ただ、稲葉はともかく、高野がまっとうな人生を送れていないことは、周知の事実である。
 図星を指された当の本人は、片手で額を押さえつつ言い訳を始めた。
「人のこと言えないだろ……俺がバツイチってことは、お前もバツイチなんだからな?」
「あ、そうだったわねー。でも、私は和奏と一緒だから、とりあえず普通にお母さんしてるし」
 相手にならないと諦め、高野はそばにいた娘を引き寄せた。問いただすように、しっかりと両腕をつかむ。
「ホントか? なあ和奏、お父さんだけには本当のこと言っていいんだよ?」
 しかし、娘はあくまで冷静だ。
「何なの、お父さんもお母さんも。どっちもどっちでしょ」
 和奏はきっぱりと言い切った。現在の状況をきちんと把握できているようだ。
「さすがは和奏! なかなか鋭いわねえ。じゃあね、和奏に選ばせてあげる」
「は? お前……何言い出すんだよ?」
 呆気にとられている高野を横目に、元妻は楽しげな笑い声を上げた。
「和奏が上手だと思ったほうと、三人で遊園地行こうか。どうせだから、冬休みに思い切って『ねずみーランド』まで!」
「お母さんホント!? うそ、やったー!!」
 母と娘は場所もわきまえず、大袈裟にはしゃぎまくる。
「ねえ。二人とも、この娘のために弾いてくれる?」
「赤川さんの頼みなら、喜んで」
 稲葉は二つ返事で、すぐに引き受けてみせた。
 一方の高野は、嫌悪感いっぱいの渋面を惜しげもなく曝している。
「そんなに聴きたけりゃ、あとで店まで来い。わざわざ演奏会で弾かなくてもいいだろ。あのスタインウェイで夜通し弾きつづけてやる。止めてと言われても絶対に止めてやらないからな。それに遊園地なんて、俺はもう懲り懲りだ」
「え! お父さん、行ったことあるの?」
 娘の目が輝いた。
 懐かしい、遠い日の思い出――。
「一回だけな。お前をずっと肩車してたお陰で、しばらく腕が上がんなくてピアノ弾けなくなったんだぞ」
「うそ、私も一緒に行ったんだ? 全然覚えてないやー」
「お母さんはみやげ物屋に入ったっきりでいつまで経っても出てこないし、お前はビービー泣き出すし……いい思い出なんか一つもない」
 高野の説明だけで、華音にはその光景が容易に想像できた。
 きっと妻に無理矢理、連れて行けとせがまれたのだろう。
 小さな子供の世話などまるでできない高野が、苦手な人込みを避けるようにして、泣き喚く幼児を前に途方に暮れている姿――。
 あまりにも分かり易すぎる。
「そんな昔のこと、よく覚えてるのねえ。ふふ、執念深いー」
 一方の元妻は、相変わらずこんな調子だ。
 高野は半分うなだれながら、残る力を振り絞って訴えかけた。
「とにかく俺は! そんな遊園地なんかに釣られて、ピアノ弾いたりなんかしないからな?」
「いいじゃない、一生に一度くらい稲葉君と同じステージに立ったってー。じゃあ、和久君は棄権するのね? ――だってよ、和奏?」
 仁美は年甲斐もなく、少女のように拗ねてみせた。娘のこともまるで友達のような扱いだ。
「いいからつべこべ言わず弾け、オヤジー」
「オ、オヤジ……って言った? 今!?」
 高野は面食らっている。
 知らない子供にオジサン呼ばわりされるよりも、はるかにダメージが大きいようだ。
「どうするの? 和奏が頼んでるのよ?」
 高野は迷いを見せている。
 期待に満ちた四つの瞳が、高野に向けられている。
 やがて深々と大きくため息をつくと、高野は投げやりに言い放った。
「……分かったよ。和奏が弾けって言うからだぞ? 遊園地なら、勝手に二人でも三人でも行ってくればいいじゃないか。俺は知らないからな」
 すると。
 突然、仁美は楽しそうに笑い出した。
 高野の反応は、すべて見通されていたことらしい。
「いくつになっても、ほーんと和久君はナイスガイねー」
「お父さん、ナイスガイねー。……お母さん、ナイスガイって、何?」
「…………」
 母親を真似た愛娘のひとことに、高野は再び絶句してしまった。

「では、お二方がこけら落としのソロを務めてくださるということで――よろしいでしょうか?」
 嵐が収束したのを見計らうようにして、それまで傍観していた音楽監督が、ピアニストたちに確認するように尋ねた。
 すでにやる気満々の稲葉は、傍らの高野に目配せをする。
「どうなんだい、高野君?」
「言っただろ、和奏が弾けって言うから弾くんだからな? そもそもお前と競うつもりはまったくないから、勘違いするなよ」
 高野の牽制も、どこ吹く風。稲葉はまったく動じる様子はない。
 むしろ、むきになる高野の姿に満足しているようだ。

 了承の確認が取れたと判断して、鷹山は表情を緩めた。
「稲葉さんからは同曲異演という提案がありましたが、変更させてもらいます。クラシック音楽愛好家には馴染みの深い、CD録音では定番のカップリングを。――お二人には、『イ短調』でお願いしたいのですが。それぞれどちらを受け持つかはお任せしますので」
「あー、イ短調……ちょっとだけ意外な選曲。でも、同曲異演より、ずっとマシかな」
 高野がようやく、少しずつ前向きな態度を見せ始めた。
 そして、元妻は相変わらずはしゃぎまくる。
「わー、イ短調? 楽しみだねえ、和奏? ――あ、ねえ、音楽監督さん?」
「なんでしょうか?」
「あとのことはよろしくね。私にできるのは、ここまで」
 仁美は意味ありげな微笑みを鷹山に向けた。
 天然なのか計算なのか分からない。
 鷹山は慣れたように極上の愛想笑いを返す。
「……善処します、とだけ言っておきましょう。では、外まで送らせてください。芹沢さん、ちょっと」
 鷹山は華音の耳元で素早く指示を出す。
「ここからは君の仕事だ。ソロと演目の構成が決まったら僕に報告してくれ」
「え? あ、はい……分かりました」


 母と娘が鷹山に促されるようにしてサロンをあとにすると、稲葉努は惚けたようにため息をついた。
「本当に赤川さんって、昔と変わらないな。いつまでも若々しく、そして瑞々しい」
 それを聞いた高野は、露骨にうんざりとした顔となる。
「そうかあ? よく見りゃ、目じりに小じわとか一杯あるだろ」
「そういうことを言ってるんじゃないよ、高野君……」
 再び雲行きが怪しくなってきたので、華音はとっさ話題を変えるように仕向けた。
 とにかく必死だ。
 もうこのサロンには高野と稲葉の他には、華音だけなのである。
 上手く話し合いを進めて演奏会の構成を決めるところまで持っていかないと、あとで鷹山に何を言われるか分からない。責任重大だ。
「あの! 鷹山さんが言ってた『イ短調』って、何の曲なんですか?」
「え? ノン君、分かりましたって、楽ちゃんに言ってたじゃない」
「だって、聞ける雰囲気じゃなかったから……」
 稲葉は右手を自分の胸に当て、誇らしげに答えた。
「そうそう、『イ短調』ね。じゃあ僕がシューマンを弾こう。必然的に僕が第一部を受け持つことになる、かな。高野君はグリーグね。君は北欧の抒情的な曲が似合う」
「……仕方がない。今回は稲葉が主賓のようなものだからな。弾きたいほうを弾けばいい」
 宿敵のいいなりになるのは、高野にとって甚だ不本意であるようだったが、演奏会の主旨を思い直したのか、大人しく譲歩してみせた。
「ありがとう、高野君。本当に夢のようだ、君と同じステージで演奏できるなんて」
「ふん、『彼女の前で演奏できるなんて』の、言い間違いだろ」
「もちろん、それもある。でも、高野君と弾けるのも本当に嬉しいと思ってるよ。――ショパンのときのようなことには、ならないからね?」
 そう言って稲葉は過去を懐かしむように、時が止まったままのベヒシュタインをなでた。