夢幻の章 (10)  予兆

 その日の午後、夕方近くになってから、華音は新しい企画書の草案を作り上げた。
 半日も時間がかかったのは、鷹山が指定した「イ短調」カップリングの曲について、最低限の事を調べていたためだった。
 高野と稲葉、二人のピアニストのやり取りで、それが「ロベルト・シューマン」と「エドワード・グリーグ」のピアノ協奏曲であることは分かった。
 それらの作曲家は有名なので、華音ももちろん知っている。
 稲葉が帰ってしまったあと、華音は高野が居候している客間に押しかけ、楽曲についてあれこれと聞き出していた。
「別に、絶対その組み合わせでCD録音されてるとは限らないけどね。まあ、でも八割方そうかな。同じロマン派で、同じイ短調で、しかも二人ともピアノ協奏曲を一曲しか書いていないんだ。三楽章構成で、演奏時間はともに三十分前後。だからCDに収めやすいんだよね」
 よどみない高野の詳しい説明に、華音は素直に感心した。
 自堕落な生活を送っていても、そこはやはりピアニストだ。充分な知識はきちんと持ち合わせている。頼もしい。
「稲葉さん、『僕は必然的に第一部』って言ってたけど、どうして? 逆だといけないの? わざわざ客演してもらうのに、前半で演奏してもらうのはちょっと気が引けるんだけど」
「いけなくないけど……まあ、グリーグのほうがフィナーレが派手だし、演奏会ならそういう順番が妥当かと。それに稲葉本人が、第一部でシューマンを弾くって言ってるんだから、順番とか別に気にしなくてもいいと思うけど」
「ふうん……そうなんだ。じゃあ、鷹山さんにはそのまま提案してみる」
 高野は穏やかに頷いた。
 半ば無理矢理とはいえ、因縁の人物たちと直接会って言いたいことをぶちまけたためか、肝が据わったようだ。
 これで、演奏にも前向きな姿勢で望めるに違いない。

 結果的に鷹山の賭けは、成功したのだ。

 部屋をあとにしようとする華音の背中に、高野は付け加えるようにしてぽろりと呟いた。
「シューマンはさ、仁美ちゃんが好きな作曲家なんだよ。だから、あいつはシューマンを弾くと言ってるんだ。ホント、分かり易すぎだよ」
 きっと稲葉努というピアニストは、恋に恋する永遠の少年のような、純粋な愛をその心の内に秘めているのだろう。
 何だか憎めない――華音はそう思った。



 完成した企画書の草案を持って書斎へと出向くと、鷹山はちゃんと自分のデスクにいた。
 頬杖をつきながら、なにやら青と緑の模様を眺めている。遠目にはただの幾何学図形にしか見えない。
 近づきよく見ると、それは地図らしかった。青は海、緑は山の部分だ。
 なぜ地図なのか――謎だ。
 華音は鷹山の邪魔をしないように静かに近づいて、デスクの空いているところへ持参した企画書を置いた。そして、簡単に概要を説明をする。
「第一部が稲葉さんのシューマンで、第二部が高野先生のグリーグという構成でお願いします」
「ああそう、ご苦労さん。コーヒー淹れて」
「はい、今すぐに」
 鷹山は華音が置いた企画書を手に取り、その中身をざっと眺め、すぐにまたデスクの端へ押しやった。そして、再び地図帳に目線を戻す。
 暇つぶしに眺めている風でもない。仕事にはまったく関係がなさそうなのに、企画書そっちのけで熱心に見入っている。
 部屋の隅に置かれた簡易給湯スペースでコーヒーを淹れながら、華音は念のためと思い、尋ねた。
「ホントにその構成で、いいんですか?」
「君がちゃんと考えて決めたんなら、僕はそれに従うよ」
 いつになく適当な口ぶりの答えが、さらりと返ってくる。
 普段からそこまで物分りがよく従順だったなら――しかし鷹山はすべてにおいて気まぐれなのだ。舌の根も乾かぬうちに、やっぱり従えない、などと頭ごなしに怒鳴りつけるのがオチだ。
 いちいち鷹山の言うことを真に受けていたら、正常な精神状態を保つことなどできないのである。
 華音は鷹山にコーヒーの入ったカップを差し出しながら言った。
「ねえ、鷹山さん」
「なんだい?」
「どうしてこの選曲なんですか?」
「競うことと比べることとは、大きく違うからね。和久さんにしてみればどっちにしたって大差はないんだろうけど」
 鷹山は華音の質問に、顔を上げることなく淡々と流暢に答えていく。
 どうしても地図帳が気になるらしい。
「同曲異演じゃ、どうしても比較になってしまうからね。競うからには似た性質を持つ楽曲が相応しいと思って。『イ短調』はクラシック音楽愛好家なら誰しもニヤリとするくらい、定番の組み合わせだし、競い合って一つの世界を作るのにはこれしかないと思ったんだ。同じ作曲家による協奏曲一番、二番というのも考えたけれど、それも最終的には比較になってしまいそうだったから、やめた」
 ようやく鷹山は顔を上げ、地図帳のとあるページの隅を折り、目印をつけて閉じた。どうやらどこかの場所を探していたらしい。
 それについて華音は特に詮索をしなかった。聞いたところでまともな答えが返ってくるとは思えなかったからである。
 鷹山がこの調子では、特に急ぐ仕事もなさそうだ。
 華音は自分のために作ったカフェオレのカップを持って、部屋の中央に置かれた応接セットのソファに腰かけた。

 ふと。
 視線を感じ振り向くと、鷹山が自分のデスクからじっと華音の様子を眺めている。
「別にサボってるわけじゃないですよ。鷹山さんに淹れたコーヒー、ちょっと余ったから」
「何それ、泥水みたいな色」
「……カフェオレです。飲んでみます?」
「いらない」
 鷹山はゆっくりと伸びをしながら立ち上がり、コーヒーカップを持って自分のデスクから離れ、移動しはじめた。そしてカップをセンターテーブルに置き、そのまま華音と向かい合うようにしてソファに座る。
「ああ、でも本当に凄いな。こけら落としに相応しい、夢の共演だ!」
 話し相手をして欲しいのだろうか。いつになくテンションが高い。
 その証拠に、鷹山は突然、奇妙なことを言い出した。
「僕に何くれる?」
「何って?」
「ご褒美に決まってるじゃないか。我々の本拠地の、華々しいこけら落としを実現させたんだからね」
 鷹山は勝ち誇ったように得意げな笑みをみせた。
 確かに、国際的に有名なピアニストを客演として招くと言い出したのは他でもない、この若き音楽監督である。
 しかし。
 華音は音楽監督の下で働くアルバイト要員であって、褒美を取らせるような立場にはないはずだ。
 鷹山お得意の戯言だとすぐに察し、華音は負けずに返してやる。
「目途が立ったってだけで、実現はまだ先の話ですよ。それにあげられるものなんか、何も持ってません」
「モノじゃなくてもいいんだよ、別に」
 半分ほど液体が残っているコーヒーカップの縁を、人差し指で物憂げになでながら、鷹山は意味ありげな含み笑いをしてみせている。
 その綺麗な顔の裏に、悪魔が見え隠れしている。
 華音は思わず叫んだ。
「ま、まさか、…………お金?」
「馬鹿じゃないのか君は」
 見事なまでの即答が、鋭く返ってくる。
 鷹山はゆっくりとため息をついた。神妙な面持ちで、大きな両の瞳をじっと華音に向けたまま。
 何かが違う――瞬間に華音は悟った。
「いつも一人じゃ寂しいんだよ。だから今夜は、僕と一緒に――どう?」
「……今夜? あの、一緒にって」
 寝耳に水。青天の霹靂。
 あまりに唐突の予期せぬ展開に、華音は途惑いを隠せない。
「実は、もう予約してある」

 ――予約? まさか、ご褒美って……そういうこと?

 すっかり、油断をしていた。
 話の流れから察するに、結論は一つしか思い浮かばない。
 華音は身体を強ばらせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「別にいいだろう? そう言えば僕たち、こういうの初めてだっけ?」
 どういう顔をしたらいいのか、分からない。ご褒美くれなどと、そんなモノみたいに言われても。

 ――やだ、ホントに私、どうしよう……。

 鷹山の表情は真剣そのものだ。とても冗談ですませられる雰囲気ではない。
 華音は身構えながら、続く言葉をひたすら待った。
 すると、鷹山は軽くひとこと。
「なかなか予約が取れない、人気のフレンチレストランらしいから」
「…………れすとらん?」
 華音は思わず声を裏返らせた。
「そう。君と一緒に晩餐をする権利を、僕へのご褒美にしてくれる?」

 鷹山の口から発せられた『予約』は、想像していたような宿泊施設ではなく、人気のレストラン――。

 華音は一気に脱力し、大きな安堵とほんのわずかな失望を感じた。
 紛らわしすぎる、あまりにも。勝手に勘違いをしてしまった自分にも、腹が立つ。
 そして何よりも、ご褒美をくれなどとわけの分からない理由をつけて、遠回しに誘ってくる鷹山に、どうしようもないやるせなさを覚えてしまった。

「…………一緒にメシ食いにいこう、って素直に言えばいいじゃないですか」
「ちょっと。『メシを食う』だなんて、女の子がそんな言葉遣いをしたら駄目だよ。それに君こそ、素直に『喜んでお供させてください』くらい言ったらどうなんだ?」
 また始まった――華音はうんざりとした気持ちで、目の前で悠然と微笑む二重人格男を見据えた。
 あれやこれやと、この男はいちいち口うるさく華音の言動を諌めてくる。しかし、彼がそうやって口出ししてくることを、華音は内心嬉しく感じていた。
 しかし、それを表に出すのは負けた気がして、ついつい意地を張ってしまうのだ。
 やはり、似てきたのかもしれない、この音楽監督に。
「素直に喜べませんけど、お供はします。だって、一人じゃ寂しいんでしょ?」
 その返事のどこにツボをつかれたのか――鷹山は苦笑しながら、子分のくせに生意気だな、と独り言のように呟いた。



 華音は自室で着替えをすませ、急いで廊下を進むと、すでに鷹山は二階の階段のところで華音を待っていた。
 漆黒のトレンチコートに身を包み、襟を立てて、バーバリーのチェック柄のマフラーを軽く巻いている。
 家の中だというのに、まるで待ち合わせをしている恋人同士のようだ。

 二人が連れ立って階段を下りていくと、芹沢邸エントランスの雑談スペースで雑誌を読みながらのんびりとくつろいでいる高野と遭遇した。
「あれ、二人してどっか行くの?」
 興味深げに尋ねてくる高野に、鷹山が答えた。
「打ち合わせを兼ねて、晩御飯でもと思っていまして。あ、そうだ和久さん、乾さんに彼女の夕食の用意は不要だと伝えてもらえますか」
「うん、言っておく。楽ちゃん、何だか嬉しそうだねえ」
 華音はその高野の言葉が気になり、鷹山の表情を横目でちらりと確認した。
 これは嬉しい顔なのだろうか――華音の目には涼しく澄ましているようにしか見えない。
 嬉しそうと言われた本人は、華音に一瞥をくれるとふざけたように笑った。
「せっかくだから、芹沢さんにおごってもらおうと思いまして」
「ええ? うそ、やだ、信じられない」
 反射的に顔をしかめると、鷹山は肘で華音の腕を数度突っつき、悪魔な微笑みをみせた。
「君さ、あの金蔓男から、結構いいバイト料もらってるんだろ?」
 オーナーの赤城に対して『かねづる』とは、いつもながら随分な言い草である。
 華音は拗ねたように肩をすくめ、鷹山に向かって軽く舌を出した。
「音楽監督の年棒のほうが、ずっとずっといいくせに。おごらないですよ、別会計です」
「フン。子供のくせに、生意気ー」
「どっちが? それに、もう子供じゃないもん」
「子供なヤツに限って、そう言うんだよね。ほら、いいから早く行くよ」
 逆らって意地を張れば張るほど、鷹山を喜ばせることになるようだ。
 高野は、目の前で繰り広げられるやり取りを素直に『兄妹仲睦まじい姿』ととらえ、すっかり安心したような笑顔で、出かける二人に手を振った。



 夕暮れの冷たい風に吹かれながら、二人はゆっくりと歩き出す。
 鷹山が一歩先を行きながら、後ろへ左手を差し出した。人差し指と中指を数度曲げ、誘っている。
 どうしていいのか分からずにそのままくっついて歩いていると、鷹山は振り返った。
「ほら、手を出して」
「ど……どうして?」
「いいからちゃんと」
 そう言って鷹山は、強引に華音の右手をつかんで、再び歩き出した。
 華音は半ば引きずられながら、必死に鷹山についていく。
「ほら、ちゃんと僕にくっついて」
 鷹山は幾分歩調を緩め、華音の指と自分の指を絡めるようにして、しっかりと手を握り直した。


 二人はしばらく手を繋ぎ合ったまま、人通りの少ない住宅地の裏通りを抜け、やがて大きな緑地公園の中へと入った。
 目的地へ向かうための近道らしい。広葉樹がほのかに色づき、目に鮮やかだ。
 鷹山は静かだ。饒舌な彼にしては珍しく黙ったまま、ときおり華音を振り返っては楽しそうに微笑んで、ふざけて身体をすり寄せたり、逆に離れるようにして突然早く歩き出したり、手を繋いだままの華音を振り回す。

 鷹山には何度か抱き締められたりキスをされたり――そういう経験を重ねてきたのに、こうやって外に出て手を繋いで歩くことに、華音は異様なまでの緊張を覚えていた。
 綺麗な顔をしている彼はよく目立つ。
 すれ違う女性の視線を集めているのを知ってか知らずか、鷹山はもどかしそうに繋いだ指を動かしている。
 それが彼の左手であることに気づき、華音は思わず聞いてしまった。
「指……やっぱり治らないの?」
 鷹山はあの夜の出来事を、ほとんど口にしない。もちろんそれは、華音に責任を感じさせまいという鷹山の気遣いなのだろう。
 しかし。
 今は状況が違う。あの夜の出来事が、今となってはただの茶番となってしまったのだから、皮肉なものである。
「日常生活に不自由がない程度には治ったけどね。細かい動きはどうも上手くいかない」
 ヴァイオリニストだった彼の左腕を――華音はナイフで刺した。
 彼の愛器が赤く染まっていくさまを、華音はこの目でハッキリと見たのだ。
「君の憎しみをこの身に刻んだ、名誉の負傷だ」
 鷹山の言葉に、華音は身の引き絞られるような痛みを覚えた。
 知らなかったなんて――言い訳にもならない。
 兄のように慕う富士川祥を大切に思うあまり、憎しみにとらわれて、思わずナイフをこの手に取ってしまった。
 ヴァイオリンを弾くことだけで芹沢家との繋がりを保とうとしていた、母親似の美しい容貌が忌み嫌われた実の兄から、ヴァイオリンを弾くことを奪ってしまったのだ。
「いつまでも気にしなくていいよ。ヴァイオリンなんかもう弾かないって、言っただろう?」
「だって……」
「僕は今、音楽監督なんだから。ヴァイオリンを弾く必要はないから。もっとも、忙しくて弾く暇もないんだけどね」
 確かに鷹山は、以前華音にそう説明したことがあった。
 すべてを打ち明けられ、二人が後戻りできない境界線を越えてしまった日。

【別にいいんだよ、もう弾く理由もない。君が僕のそばにいてくれるのなら。……君を手に入れるためなら腕の一本や二本、惜しくなんかない――】

 華音がこうやってそばにいることで、鷹山の『悪魔』と呼ばれるような言動は、確実に少なくなった。
 天邪鬼で気まぐれではあるのだが、コツさえつかめばその対応はとるに足らない。
 鷹山との息もつかせぬやり取りは、むしろ快感だ。
「それに今は、君が僕の片腕だから――あ、いま僕、ちょっと上手いこと言ったんじゃない? 座布団、何枚?」
 鷹山は手を繋いだまま、身体を華音のほうへ押しつけて、横顔を覗き込むようにする。
 人目がある場所で無駄に至近距離をとられてしまうと、心臓に悪い。華音は平静を装い、何とかやり込めようと試みる。
「鷹山さん……なんか、黄色い着物の人っぽい」
「僕はあんなに馬鹿じゃないよ」
「鷹山さん、黄色い着物の人に失礼ー」
「君こそ名前、覚えてないし。それこそ失礼ー」
 鷹山はふざけて華音の口真似をした。
 ああ言えばこう言う。この男に口で勝てないのは悔しいのだが、だからこそ楽しいのかもしれない――華音は拗ねたフリをしながら、繋いでいた鷹山の左手をもう一度しっかりと握り直した。



 レストランに入店してからの鷹山はとても静かだった。
 もっとも、このような格調高くムーディーな場所で喋り捲られても迷惑なだけだが、こういうところはやはり大人の男だと、華音は感心させられる。
 同級生の男子はもちろん、高野や富士川とも違う。鷹山には独特の色気がある。
 オーナーの赤城も佇まいは洗練されているが、やはり体育会系出身のせいか、色気というよりもむしろ武士のような、潔い風格をたたえている。
 それに比べると、テーブルを挟んで向かい合うこの綺麗な男は、どことなく物憂げで気まぐれで神経質だ。そう見えるというだけで、実際の鷹山は、感情の起伏が激しいただの落ち着きのない男なのだが――初対面の人間の目にはそう映らない。

 華音は執事の乾から一通りの食事マナーは教わっていた。しかし、華音はこういうかしこまった場所がどうも苦手だった。
 作法に集中し、味わう余裕もない。鷹山の手前、無作法できないという見栄もある。
 ひたすら料理との格闘に集中していると、鷹山が話しかけてきた。
「それ、好きなの嫌いなの?」
 鷹山の言う『それ』とは、プレートの隅に除けられたキノコのことを指しているらしい。
「嫌いだから残してるに決まってるでしょ」
「好きだから最後に食べようと思ってるのかな、ってね」
「へえ、鷹山さんってそういうタイプなんだ」
 鷹山は、白身魚の上に載せられたキャビアだけをフォークですくい取り、口に運んでいる。そして、脇に置かれたワイングラスを引き寄せ、中身を半分ほど飲んだ。
 じっと食い入るように、向かい合う華音の顔を見つめている。
「私の顔に、何かついてる?」
「いや……君は、父さんによく似ているなって」
「お父さんだった人を知ってる人は、みんなそう言う」
 鷹山はわずかに首を傾げてみせた。華音の言葉に何らかの違和感を覚えたようだ。
 しかしそれ以上、何も聞き返してはこなかった。
「私と鷹山さんは似てないから、ここにいる誰も、私たちのこと兄妹だなんて信じない、きっと」
 レストランに誘われたため、華音はおとなしめの濃紺のワンピース姿である。きちんとスーツにネクタイをしている鷹山とは、周りからは普通の若い恋人同士に見えているはずだ。
「君だって、心のどこかでは信じきれていないんだろう?」
 確かに、鷹山の言うとおりなのだ。
 数ヶ月前に突然、その存在が明らかになったばかりで、共有する思い出など何一つ存在しないのだから。
 華音は食べる手を止め、フォークとナイフを皿の端にハの字になるように置いた。
「鷹山さんはいいね。お父さんとお母さんの思い出があって」
 鷹山はじっと、華音を見つめたままだ。言葉もなくゆらりと酒の酔いに身を任せている。
「私ね、なんにもないの。おじいちゃんが死んで、赤城さんがやってきて興信所で調査なんてしなければ、兄弟がいるってことはもちろん、母親だった人の名前も知らなかった」
 祖父亡き後、華音には『天涯孤独』という境遇が待ち受けていた。
 しかし。
 いま華音が置かれている状況は、まったく予想がつかなかったことだった。
 天涯孤独という言葉は、日々色褪せていく。
「鷹山さんの言うとおりなのかも。私は鷹山さんを見てても、何も思い出さないし、何も――感じないもん」
「それって、どういうこと?」
 珍しく鷹山は猜疑心をあらわにし、鋭く食いついた。
「感じないって、そういう意味じゃなくて。何というか……」
 華音は必死に考えを整理して、言葉を慎重に選ぶ。鷹山に誤解をさせたくない。
 鷹山の大きな両の瞳は、しっかりと華音を捉えている。
「僕を男として意識してくれてる?」
「……分からない」
「どうして?」
 膝の上のナプキンを握り締め、勇気を出してありのままの気持ちを告げた。
「ホントなの。今まで男の人にこんなふうな気持ちになったことって、なかったから…………その顔、馬鹿にしてるでしょ」
「してないよ」
「だって、笑ってるじゃない」
「嬉しいんだよ。嬉しくて、つい微笑んだら駄目なのか?」
「鷹山さんのは、にやけてるだけだもん。やだ、エロい」
 華音は照れ隠しのために、大袈裟に騒ぎ立てる。
 どうしてこんな顔をするのだろう。
 自分の気持ちに対する、彼の『嬉しさのあまりこぼれる笑み』が、こんなにも華音の心をかき乱す。
「まあ、お互い様なんだけどね」
 鷹山は一転して神妙な面持ちになり、呟くように言った。
「僕の生き別れの妹はね、今でも僕の中では赤ちゃんのままだから。君がお父さんに似ているから、やっぱり妹なんだな、とは思うけど。正直、実感が湧かないよね」
 酔いにまかせてさらりと自分の心情を吐露する鷹山の顔を、華音はじっと見つめていた。
「僕たちがこういう関係になってるのも、そのせいだ」
 鷹山が自分の実の妹について触れたのは、これが初めてかもしれない、と華音は思った。

 自分が知らない父親のことを、この男は知っている。
 いくら兄妹の実感が湧かないとは言っていても、自分の記憶の中の父親にそっくりだから――妹なんだろう、そう思う鷹山に、わずかな距離と一抹の不安を覚えた。


 やがて、二人のテーブルにメインディッシュが運ばれてきた。
 香気漂う柔らかな牛肉のかたまりにナイフを入れながら、華音は言った。
「鷹山さんって、……モテるでしょ?」
「何だよいきなり。調査書でも作るつもり?」
「今までに付き合ってた女の人とか、いた?」
 華音は聞きたいことをそのまま、ストレートにぶつけた。
 すると途惑うことなく、簡単に答えが返ってくる。
「過去には、そういう人がいたこともある、かな」
「何人くらい?」
「まあ、人並みにね」
 さらりと上手くはぐらかす。
 おそらく一人二人ではないのだろう。この美しい容貌では、二重人格で悪魔な性格を抜きにしても、決して女性に困るということはなかったに違いない。
「どんな人? みんな、同い年くらい?」
「芹沢さん、ちょっと……お行儀が悪いんじゃないかな?」
 鷹山は場所をわきまえるよう、華音を諌めてくる。
 確かに、付き合っている相手と食事をしている最中に、過去の女性遍歴を尋ねるのははしたないことかもしれない。しかし、華音はどうしても聞かずにはいられなかった。
「だって、鷹山さんから見たら私はずっとずっと子供なんだもん。鷹山さんが付き合ってきたような大人の女の人と比べたら、私は……ただのつまんない子供」
「へえ、まるで見てきたような言い方じゃないか。というか、君はどれだけ『大人の女』を美化してるんだよ。それに君は、つまらないどころか――面白すぎる」
 褒められている気がまるでしない。面白がらせようとしたことはただの一度もないはずなのだが、この男にとってはどうやら違うらしい。
「いつだって君は僕に反抗するし、抵抗するし、対抗してくるじゃないか。お陰で僕はいつもマンションの部屋の隅で、膝を抱えて泣いているんだから」
 また始まった――華音は音楽監督お得意の大袈裟な戯言を、白々しく聞き流した。
「私がいつそんなに逆らいました? まったく心当たりないんですけど」
「ほら、そういうところ」
 勝ち誇ったように無邪気に笑っている。やはり、面白いと思っているようだ。
 どこまでも子ども扱いされているようで、華音の心境は複雑だ。

「君だってすぐ大人の女になる」
 鷹山は再びワイングラスを引き寄せ、あおるようにして残っていた液体を一気に飲み干した。アルコールの刺激にわずかに眉を寄せ、空いたグラスをテーブルの端のほうへ押しやる。
「きっと、もっともっと綺麗になる。そして僕は――他の男たちを寄せ付けないようにする気苦労を、今以上に背負わされることになるんだろうな」

 そう遠くない未来の話を、目の前の男はしている。
 鷹山はずっと華音のそばにいて、変わらぬ愛情を注いでくれると確信させてくれるような――そんな不思議な気持ちにさせてくれる。
 そんなことを、華音は今まで考えたこともなかった。自分が夢中になり翻弄されすべてを捧げてしまえるような、そんな男が目の前に現れるとは。

 鷹山が現れて、華音の人生は確実に変化した。

 しかし同時に、不安が湧き上がってくるのも事実だった。
 彼の愛が、本当に自分を一人の女性として捧げているものか、それとも。
 決して断ち切ることができない、血の繋がりによる愛情なのか。

 ――お兄さん……か。

 このままずっと、音楽監督である鷹山のそばで、楽団を支えるサポーターに徹して、公私共に良きパートナーとして生きていけたら――。

 華音はデザートを食べながら、目の前で食後のコーヒーを静かに楽しむ鷹山をおぼろげに眺め、心からそう願った。



 食事を終えレストランを出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。
 鷹山はトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、星を仰ぎ見ながら前を歩いている。
 芹沢邸付近は閑静な住宅街だ。この時間になると車通りはもちろん、人通りもほとんどない。門扉まであと角をひとつ曲がるというところで、鷹山はいきなり立ち止まった。
「来週の日曜日、予定空けておいてくれる?」
「あの、予定では仕事はお休みですよね? 何か追加ですか?」
 華音は暗がりでバックから手帳を取り出そうとすると、鷹山はすばやく制した。
「仕事じゃない。二人でちょっと遠出しようと思ってね」
「……それって、ひょっとしてデートですか?」
 華音が訝しげに尋ねると、鷹山は軽快に笑ってみせた。
「そうやって改まって言われると、なんだか気恥ずかしいけどね。まあ、それはもうちょっと落ち着いたら、だな。今は楽団の運営を軌道にのせることで一杯だ。とりあえずこけら落としが終わるまでは、ね」
「分かってますよ。今はそれが私たちの一番の目標ですから。……じゃあ日曜日は何? 遠出って、どこへ?」
 デートではないとすると、仕事がらみということだろう。
 どこかの演奏会を聴きに行くのだろうか。
 しかし、鷹山の口から出た言葉は、まったく別のものだった。

「事故現場へ。命日なんだよ、父さんと母さんの」

 鷹山の言葉がすぐに理解できなかった。
「僕ね、あの日以来一度も会いに行っていないんだ。二人で一緒に、会いに行こう」

 十五年前の、あの日へ――。

「やっと二人になれたから。今年の命日は、ようやく二人がそろったからね」
 怖い、とても。
 鷹山の奥深くに眠り続ける闇が、華音の心の不安をいっそうかき立てる。
「じゃあ芹沢さん、約束だから。また明日ね、おやすみ」
「あの、鷹山さん」
 踵を返した鷹山の背中を、華音は呼び止めた。
 鷹山は立ち止まり、その場で振り返った。
「どうしたの?」
「今日はご飯をおごってくれて、ありがとうございました」
「部下への投資だよ。その分、ちゃんと僕のアシスタントを頑張ってもらわないと」
「――鷹山さん」
 華音は鷹山の元へと歩み寄り、首に腕を回すようにしてしっかりと抱きついた。
「どうしたの、芹沢さん?」
 抱きつかれたまま、鷹山が耳元で囁く。突然の出来事に驚いているのか、言葉少なだ。
「本当に……このままでいいの?」
「どういう意味、それ」
 トレンチコートの肩に顔を押しつけながら、華音はさらに言う。
「私が鷹山さんのそばにいてもいいの?」
「何なんだよ、いまさら。もうそばにいるだろう」
「この先、ずっと?」
 鷹山は返事をせず、抱きついている華音の耳元で、ただ呼吸を繰り返す。
「このままじゃどんどん、私……ただの妹になっていくんじゃないかって――」
 長い沈黙が二人を包んだ。柔らかな温もりだけが伝わってくる。
 華音の心の悲鳴を、そして隠し切れない不安を、鷹山は受け止めたようだ。
「『ただの妹』は、兄貴にこうやって抱きついたりしないよ。それはそうと――そろそろ僕から離れてくれないか」
 華音は腕の力を緩め、ゆっくりと顔を上げた。
「お酒も入ってるし、『酔った勢いで――』じゃ理由にならないだろ。僕を犯罪者にするつもりか君は。最後までしたあとで、そんなつもりじゃなかったなんて言い訳は、認められないよ?」
 華音は慌てて鷹山の身体から離れた。
 鷹山の口から呆れ返ったような長い長いため息が、白い煙のように冷え込む夜の空へと立ちのぼっていく。
「君はホント、男がどんな生き物か分かっていないようだな。女性が自分から抱きつくということは、誘っているのと同じことなんだぞ?」
 ちょっと油断をしていると、すぐギリギリの部分に鋭くくい込んでくる。
 動悸が収まらない。
 華音は努めて冷静なフリをして、逆手にとって鷹山に仕掛けた。
「ふーん……そういう経験、したことあるんだ」
「今はそういう話をしてるんじゃないだろう?」
 さすがに場数が違う。簡単にこの男は崩せない。
 しかし華音は負けずに、さらにたたみかけた。
「女に抱きつかれてその気になって、そのままヤラシイことしちゃったりしたんだ?」
 鷹山がわずかにたじろぐのが、華音には分かった。
 黒なのだ、きっと。
「想像力が逞しいのは結構だけど、いいかい――君が他の男にこんな真似したら、絶対に、絶対に許さないからね」
 図星を指され動揺を隠そうと、得意の弁舌を振るいだす鷹山が、華音の目には滑稽に映った。
 完全に形勢逆転。
「あ、話をそらそうとしてる。やっぱり、したことあるんだ! やだー」
「言っておくけど、僕の美意識レベルはかなり厳しいんだ。僕が心を動かされるなんて、そこに愛が存在しないのであれば――絶世の美女じゃないと、まず無理」
 鷹山はきっぱりと言い切った。
 と、いうことは。つまり。
「それって……暗に、美人ならOKって言ってません?」
「音楽も、女性も、美しくあるべきだ。それだけだよ。だから君も、常に美しく、ね」
 鷹山は自分のマフラーを首から外し、向き合う華音の首に優しく巻きつける。
「コートだけだと寒そうだから――それ、あげるんじゃないから。明日ちゃんと僕に返してね」
 そう言い残して、鷹山は華音に背を向けどんどん遠ざかっていく。

 華音は鷹山の香りのするマフラーに頬を寄せ、寒空の闇の中に独り、しばらく立ち尽くしていた。