夢幻の章 (11)前  十五年前のあの日へ

 日の暮れた木枯らしの吹く街を、華音は息を切らせながら走っていた。
 目指す先は市民プラザという、多目的文化施設である。市立公会堂のような巨大施設ではないが、展示ホールや会議ホールなどの中規模施設が、一つの建物の中に集まっている。
 芹響の合わせの練習は、演奏会当日と前日のゲネプロ以外、市民プラザで行われている。
 今日も予定通り、練習が行われているはずだ。

 ようやく辿り着いた市民プラザのエントランスで、華音は帰り支度をすませた楽団員とすれ違った。
 ヴィオラの安西延彦だ。オーディションで採用された新入団員である。音大出たてで二十二歳と若く、華音との歳の差も一番少ない。そのせいか、安西はいつも友達感覚で華音に話しかけてくる。
「あ、華音サンお疲れー」
「うそ、もう終わっちゃったの?」
 華音はエントランスの壁にかけられた飾り時計に目をやった。
 針は午後四時二十分をさしている。予定では五時までだったはずだ。
「うん。今日は高野先生を交えてだったから、ほとんど通し稽古に近い状態だったんだよ。華音サン、土曜日なのに学校だったの?」
「うちの学校、来週から文化祭なの。最低でも一人一日準備の手伝いしなくちゃいけなくて……練習時間内に戻ってくるっていう条件で、鷹山さんの許可をもらったんだけど――」
 待ち構えているであろう悪魔の顔が、脳裏に浮かぶ。華音は半ばあきらめ顔で呟いた。
「きっと、機嫌損ねてるんだろうなあ……」
「監督、華音サンがいなくて寂しそうだったよ? 練習中もほとんど怒鳴ってなかったし、おとなしかった」
 安西青年の何気ないひと言に、華音は思わず動揺した。
 その心の内を悟られないように、必死に取り繕う。
「鷹山さんに限ってそんなことない、あるわけない。高野先生の手前、猫かぶってるんでしょ。どうせ今行けば、『君という人は、どうしてそんなに時間にルーズでいい加減なんだ? まったく、どういう神経してるんだよ』とか、澄ました顔で嫌味連発するに決まってるんだから――」
「フン、よく分かってるじゃないか。どういう神経してるんだろうね、君は?」
 背後から聞き覚えのある声が聞こえ、華音は飛び上がった。振り向きざまに見上げると、眉間にしわを寄せて腕組んで仁王立ちしている当の本人と目が合った。
「えっと……じゃあ俺はこれで。監督お先します、お疲れ様でした」
 安西青年は深々とお辞儀をし、逃げるようにしてその場を立ち去っていった。

 音楽監督として楽団員の前に立つときの鷹山は、わずかな妥協も許さぬほど厳格だ。そのため、若い団員からは距離を置かれている。馴れ合いの関係を避けるためか、楽団員たちと私的に食事をともにしたりすることはない。
 だからこそ。
 団員たちは華音をクッション材として重宝し、年下という気安さもあって皆親しげに話してくるのだ。
 当然そのことは、鷹山も承知しているはずだったが――。

 弁解をする間もなく、美しき悪魔はいっそう目線を凍りつかせ、白々しく言った。
「約束を守らないばかりか、捜しに来てみれば他の男と楽しそうに、しかも僕の悪口ね……」
「わ、悪口じゃないもん」
 予想通り、機嫌はすこぶる悪い。確かにこちらに非があるため、言い返すだけの勢いは出てこない。
 華音が黙ってしまうと、鷹山は眉間にしわを寄せ、さらににじり寄ってくる。
「猫かぶり? 澄ました顔で嫌味連発? 自分の遅刻を棚に上げて、随分な言い草だよね」
「だって、安西さんが――」
「んん? 安西君がなんだよ?」
 腕組みをし、大きな両の瞳をしっかりと華音の顔に向けて、威圧的な態度を崩そうとしない。
 どんな言い訳も認めず切り捨てるだけの臨戦体勢を、すでに整えてしまっている。
「だから、あの……」
「何なんだよ、はっきり言えよ」
「だから、今日の練習に私がいなくて鷹山さんが寂しそうだった……って、言うんだもん」
「僕が公私混同なんかするもんか。何だよ寂しそうって? まったく意味が分からないね。安西君の戯言を、君は簡単に信用したってわけか? ホントどうかしてるよ! 別に僕は寂しいなんてこれっぽっちも思っていなかったさ!」
 鷹山が猛然と喋り出したので、華音は唖然とその様子をまるで他人事のように眺めていた。
 天邪鬼もここまでくれば、逆に素直に感じるほどだ。
「寂しくなくても寂しくても……どっちだっていいですよ。だけど、ああでも言わなかったら、安西さんを誤魔化せないでしょ?」
 鷹山は観念したように目を瞑り、大きくため息をついた。とりあえずは納得したらしい。
「それより明日なんだけどさ、七時に僕の部屋まで迎えに来てくれる?」
「……え」
 華音は今まで、鷹山の住むという賃貸マンションを訪れたことはなかった。
「約束、まさか忘れているわけじゃないだろうね?」
「ちゃんと覚えてますけど……」
 反応できずに固まっている華音を見て、鷹山は勘違いをしたらしい。意地悪な微笑を向けて、試すように聞いてくる。
「早すぎて寝坊しそうだっていうなら、今晩から泊まり込んだっていいんだよ? そしたら優しく起こしてあげるから」
「な、な、なに馬鹿なこと言ってるんですか! そんなことできるわけないでしょ!」
「あ、起こす必要もないか。君を朝まで――寝かせないから」
 憂いを含んだ鷹山の流し目に、華音の身体は一気に硬直した。
 頭の中が真っ白になり、返す言葉もおぼつかない。どんどん体が熱くなって、華音にはもはやどうすることもできない。
 華音の様子の変化に、鷹山は驚いたように何度も瞳を瞬かせた。
「ちょっと、なんて反応してるんだよ君は……。耳まで真っ赤だよ?」
「だ……だって、鷹山さんが変なこと言うからでしょ!」
「そりゃそうだけど。なんだか、言った僕まで恥ずかしくなってくるじゃないか。さらりと流してくれよ」
 簡単にのせられ踊らされてしまった自分が、華音は無性に情けなかった。
「大人の冗談を真に受けるただの子供で、どうもスミマセンでした!!」
 華音はきびすを返し、恥ずかしさのあまり逃げるようにその場を立ち去ろうとした。
 しかし当然、すぐに捕まってしまう。
 鷹山は背後から華音の腰を抱き寄せるようにして、迫ってきた。
 身体の左半分が温もりに包まれる。
 こんなところで――華音は慌てて周囲を見回した。目立った人影はないが、おそらく芹響の団員たちも何人かは建物の中にまだ残っているはずだ。いつここを通りかかるか分からない。
 幸い、そばには観葉植物がある。背後は壁。あとは運に任せるだけである。
 落ち着きなく身をよじる華音を、鷹山はなおもしっかりと引き寄せる。
「話はまだ終わってないよ。……それにしても、可愛い耳してる」
 鷹山は抱き締めたままの華音を、そのまま背後の壁に押しつけた。素早く唇を寄せ、華音の耳たぶに押しつける。
 慣れない感触に華音はわずかに身体を引き、口づけされた耳をとっさに手で覆った。
 こんな公共の場所で、逃げ道を断つようにして迫ってくる悪魔な音楽監督に、華音の心臓はすでに壊れる寸前だ。
 鷹山は身体を必要以上に押しつけたまま、華音の耳元でゆっくりと囁いた。
「いいかい、明日約束の時間を守れなかったら、そのときは――僕の要求に応えてもらうからね」
「よっ、よっ、欲求ーっ!?」
 恥ずかしさと驚きによるパニックで、華音は微妙な聞き違いをしてしまった。辺り中に響くような、素っ頓狂な大声を上げてしまう。
 鷹山は、面食らったように華音の身体を離し、一歩退いた。そして、ふざけるようにして華音の額を小突く。
「……可愛い耳だなんて誉めて損したよ。君の耳、クサってんじゃないのか? しかも頭悪すぎ。フン、別に僕は要求でも欲求でも、応えてくれるならどっちだって構わないけどね」
 華音は激しく首を横に振って、力強く否定した。
「七時ですね! 一分一秒遅れません!」
「ふふん。じゃあ、お互いの時計合わせようか。いま四時半ね。君の時計二分くらい進んでるんじゃない? 僕のほうに合わせてよ」
 華音は鷹山に言われるがまま、自分の腕時計の針を遅らせた。

 その様子を見届けると、鷹山は再び厳しい顔つきに戻った。
「僕さ、これから新しいホールの視察に行ってくるから。そのあとは、オーナーが新しく雇った運営スタッフとのミーティングに出席するから、君はここで帰ってもいいよ」
 おそらく午後九時を過ぎるだろう。ここ一週間はほとんどそんな調子だ。
「鷹山さん、なんだか忙しそう……」
「そうだよ、君なんかよりやたらと働いてるんだから」
「私にできること、ない?」
 あるならとっくに言いつられているはずだが、念のために聞いてみる。少しでも鷹山の負担を減らすことができたら――という一心からである。
「して欲しいことはたくさんあるけどね。でも、君に無理強いはできないから、言わない」
「そんな、言ってくれなくちゃ分からないでしょ?」
 口に出すか出さないか、鷹山は迷っている。
 わずかな沈黙が二人を包んだ。
「じゃあ……一晩中、僕のそばにいて」
 まただ――。
 華音は同じ失敗を繰り返さぬように、平静を装いながら答えた。
「学校の行事以外での外泊は、ダメだって言われてるから、それは無理です」
 嘘ではなかった。外泊はもちろん夜遊びもしてはならないと祖父の英輔に厳しく言いつけられ、それを富士川祥が――忠実に守らせていた。
 しかし、祖父が他界し富士川もそばを離れてしまった今、そんな理由付けなどはもう無意味であるはずなのに――。
 そして。
 自分の発言を悔いるような鷹山の表情に、自分の答えが彼を失望させてしまったのだ、と華音は感じた。
 長い長い憂いに満ちたため息のあと、鷹山は嫌味を込めた口調でよどみなく言い切った。
「ほんの冗談だよ。それにしても、君が簡単に男の誘いにのらないガードの堅いお嬢様にちゃーんと育ってくれたようで嬉しいよ。本当に、ね。じゃあ僕、そろそろ行くから」
 華音は返事もできずに、練習ホールのほうへと戻っていく鷹山の背中をひとり見送った。


 いつまで経っても、動悸が収まらない。
 華音の頭の中で、鷹山の囁く声が反芻する。

【一晩中、僕のそばにいて】

 冗談と本気の区別がつかない。ほんの冗談だという鷹山の優しさゆえのはぐらかしも、一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、簡単に冗談で片付けられない領域へと追いやられていく。
 一晩中。一晩中、そばに。
 いったいどうしたらいいのか、華音はまったく分からなかった。
 きっと鷹山は、今まで付き合ってきた女性たちとは、夜をともにするような関係を築いていたに違いない。これまでの自分への接しかたで、それは簡単に想像がつく。
 付き合うからには、そういう深い関係を望んでいる――おそらく。いや、確実に。
 鷹山の要求を受け入れずにいれば彼を失望させることになり、いつか自分のもとから離れていってしまうのでは――そんな妄想が華音を苦しめる。

 ――もっともっと、大人にならなくちゃ……ダメなんだ、私。

 廊下の真ん中で呆然と立ち尽くしていると、華音は背後から女性に声をかけられた。
「待って、華音さん」
 藤堂あかりだった。
 柔らかなファーを襟にまとったアイボリーのコートにスエードの手袋。手にはヴァイオリンケースを携えている。
 辺りに広がるムスクの香り。
 あかりは芯の通った眼差しを、しっかりと華音に向けている。
「監督から何かを?」
 いつから見られていたのだろう――華音は愕然となった。
 先程は周囲に人影は見当たらなかった。見られていたとしてもおそらく遠目。ハッキリとは分からなかったはずだ。
 きっとカマをかけているのだ――華音は努めて冷静を装って、あかりに向き直った。
「……いえ、何でもありません」
「本当にこのままで、いいんですか?」
「どうして、そんなことを言うんですか?」
 彼女が何を言いたいのか、華音には何となく察しがついた。しかし、あえてはぐらかすように聞き返す。
 あかりは続けた。
「……分かりません。監督は非常に華音さんのことを気に入っていらっしゃるようですけど――」
 言葉を濁してはいるが、きっと気づいている。

 音楽監督の鷹山が、華音を部下として重用しているだけではない、ということを――。

「華音さんのことが心配なんです、とても。私がこの楽団に留まっているのは、富士川さんがいつかこの楽団に帰ってきてくれることを願って、ただそれだけなんです。……私があの夜、華音さんに言ったことを覚えていらっしゃいますか?」
 あの夜。
 鷹山の腕を刺した、あの日の夜だ。
 あかりは忌まわしき惨劇の、唯一の目撃者である。
「私は、富士川さんの帰る場所を守っているだけなんです。芹沢先生の名ばかりのお弟子さんの手から――」
「鷹山さんは鷹山さんなりに精一杯楽団を守ろうとしています。それに名ばかりだなんて、決してそんなことありません」
 あかりは穏やかに頷き、諦めとも取れるため息をひとつついた。この数ヶ月の間に、鷹山の実力は、あかりにも認めるところがあったはずである。
「富士川さんは芹響になくてはならない人だって、私は今でも思っています。……監督は富士川さんとは違います。大きな大きな心の闇を抱えている――」
 過去の出来事をあかりは知らないはずである。鷹山が芹沢家の人間であることも、華音の実の兄であることも――。
 しかし。
 あかりにはそれだけではない何かが見えているのでは――華音は漠然とそう感じた。
「私でも分かるくらいですから、華音さんにはきっと、もっといろいろなことが見えているのかもしれません」
 彼女の言う、鷹山の大きな心の闇。
 その存在は、確かに否定できないことだった。

 兄弟子の富士川に対する並々ならぬ敵愾心を、華音は何度となく見せつけられてきた。
 初めて鷹山にキスをされたときも、富士川への嫉妬に狂ったように、力ずくで押さえ込まれ――そこには恐怖しかなかった。

 しかし、事情をすべて知った今。
 鷹山に対してあるのは、すべてを捧げてもいいと思えるほどの愛情だけだ。
「鷹山さんは、私を必要としてくれているんです。でも、祥ちゃんは私の力なんて必要じゃないんです。一人で何でもやっちゃうから……」
「必要とされるって、とても嬉しいことだもの。それは分かるわ。でも――いいえ……私が口を挟むことではなかったですね」
 あかりはそこまで言うと、簡単に引き下がった。一礼をして、そのまま華音とすれ違うようにして過ぎ去っていく。

 あかりの言葉に、釈然としないモヤモヤ感が残された。
 富士川と過ごした日々は、今では遠き日の思い出だ。
 こうなることは運命だったのだ――華音は自分自身を納得させるよう、何度も何度も己の心に言い聞かせた。