夢幻の章 (11)中  十五年前のあの日へ

 次の日の朝、華音は約束通り鷹山の住むマンションへと向かった。
 鷹山の住まいはマンションというよりもこぎれいなアパートに近い、三階建ての建物だった。部屋は敷地の奥、一階の右端に位置している。
 念のため、建物の名前と部屋番号が書かれた紙を取り出し、間違っていないことを慎重に確かめた。
 次に、昨日鷹山と合わせた腕時計の盤面をチェックする――完璧だ。

 華音はドアの前で数十秒待ち、『101号』と書かれたプレートの下にあるインターホンのボタンを、七時ちょうどに合わせて押した。
 すぐに人の気配がする。鍵を外す音がし、ドアノブが回った。
 ゆっくりと開いたドアの合間から、鷹山の姿が現れた。寝起きのままの姿ではなく、きちんと着替えている。
「……おはよう。寒いから中へどうぞ」
「ほら! 七時ピッタリです」
 華音は得意気に、左腕にはめられた腕時計を鷹山の目の前に見せつけた。
 しかし鷹山は無言のまま、携帯を取り出して117をコールする。そして携帯を華音の耳に押しつけた。
『七時二分ちょうどをお報せいたします……ピ……ピ…………』
「はい遅刻、残念だね」
 昨日、鷹山に言われるがまま、華音は時計を遅らせていた。そして今、自分の時計が遅れているということは――。

 つまり、もともと時計は進んでなどいなかったのだ。

 それなのに鷹山はそんな細工までして、初めから華音に自分の言うことを聞かせようという魂胆だったに違いない。
「というわけで、君は僕の要求を聞くっていう約束だよね?」
「人のこと、騙したりして!」
 目の前で不敵な笑みを浮かべる悪魔に、華音はまんまと嵌められたのだ。
 情けない、あまりにも。


 鷹山のあとに続くようにして、華音はおずおずと部屋に上がった。
 辺りを見回し、そして感じる違和感――。
「鷹山さんって、意外と部屋汚いですね……」
「失礼だな、汚くはないよ。散らかっているだけだ。欲しいものがいつも手に届くところにないと、不安なんだよ」
 その説明だけで、華音は妙に納得させられた。
「それに今は、掃除してくれる人がいないから」
 その言い回しに、わずかな含みを感じ取った。部屋の掃除をしてくれていたのは、おそらく女性だろう。

 壁際には大きな本棚。たくさんの本がつまっている。
 ざっと眺めると、自分が読んだことのある本もいくつか見つけることができた。いつも鷹山はここで読みたい本を選びカバンに入れ、持ち歩いているのだろう。
 本棚の隅に、ガラスの写真立てが置かれている。華音はそれに目をとめた。
 幼い少年が、母親らしき女性の胸に抱かれた赤ちゃんの頬に、笑いながらキスをしている。微笑ましいシーンだ。
 華音の背後から、鷹山が簡単に説明をしてくる。
「赤ちゃんは君、君を抱いている手はお母さん、チューしてるのは僕。写真を撮ったのはお父さん」
「へえ。私にもこんな普通の写真があるんだ……」
 もちろん華音は覚えていない。
「見てみたい? それなら、もっとあるよ」
「もっと? 鷹山さん、たくさん持ってるの?」
「十五年前から一枚も増えてないけど。本棚の一番下に、白と青のアルバムが並んでるだろ。青いほうがそうだから」
 華音は言われるがままに青いアルバムを手にとり、すすけた表紙をめくった。
 そこに登場するのは若い大人の男と女、そして男の子と赤ちゃんだ。
 鷹山によく似た綺麗な女性は、母親。
 自分によく似た線の細い男性は、父親。
 誕生日だったり遊園地だったり幼稚園だったりピアノの発表会だったり――その写真の構図は、ありふれたものばかりだ。それ以外、何も感想は出てこない。
「なんか、普通の家族みたい」
「当たり前じゃないか」
「こっちのは?」
 華音は青いアルバムの隣にあった白いアルバムに手を伸ばした。
 こちらはほとんど開いていないのだろう。表紙の質感はまだ新しい。
「……それは僕の父親に無理矢理持たされたアルバムだよ。見なくていいよ、恥ずかしいから」
「すごい。ちゃんと見出しまでついてる! 息子、小学校卒業。だって」
 ほとんどが中学、高校と多感な少年時代の鷹山だ。自分の知らない時代の鷹山の姿を垣間見ることができて、華音はつい微笑んでしまう。
 特に高校時代のものは、今の自分の歳と変わらないため、胸をときめかせながら一枚一枚、丁寧に見ていく。
「あ、嘘!? この女神っぽい格好してるの、鷹山さん!? やだ、似合いすぎ!!」
「……文化祭で、無理矢理女装させられたんだ。一生の不覚だよ」
 同級生たちの気持ちがよく分かる気がした。鷹山は無理矢理にでも女装させる価値あり、である。
 鷹山は機嫌を損ねたのか、華音からアルバムを取り上げ、それを元あった場所へと収めた。
「君の小さい頃からの写真も見たいな。今度アルバム見せてよ」
「私の?」
 アルバムは確かに存在するが、普通の家族写真はほとんどない。高野和久が気ままに写してくれた富士川との日常風景ばかりである。そんなものを到底、鷹山に見せられるはずがない。
 華音はとっさに嘘をついた。
「写真、ほとんどないの。おじいちゃん、そんなに私に興味なかったみたいだし。七五三のときに写真館で撮ったのなら、乾さんに聞けばどこかに……」
「それならもう見たよ」
「え? いつ?」
「英輔先生は君のことをちゃんと気にかけていたはずだよ。書斎のデスクには一つだけ鍵のついた引き出しがあってね、大切なものはそこにしまっておいてたらしい。鍵は乾さんが僕に託してくれた。その中に、君の写真と、そして父さんの写真もね。それからあの男の、高校時代の成績表やら音大の合格通知書やら……ホント、たいした可愛がられようだよね」
 このまま富士川の話を長引かせると、どんどん機嫌を損ねてしまう――華音は不安に駆られた。
 鷹山も気まずいと感じたのか、ため息をひとつつき、さらりと話題を変えた。
「そうそう、僕の要望を何でも聞いてくれるっていう話だけど」
「ああ……うん」
 いつになく真剣な鷹山の表情に、華音は身構えた。
 きっと、来る。
 続く鷹山の言葉を、華音はじっと待った。
 わずかに震える鷹山の声――。
「僕ね、本当は……君と一緒に暮らしたいんだ、ここで」
 華音は驚きのあまり、言葉を失った。
 それは華音の予想をはるか上回るものだった。鷹山が好んでよく口にしている『ご褒美』というレベルではない。

 一緒に暮らしたい。
 君と、ここで。

 なんと答えるべきなのか、華音は困った。
「えっと、あの……鷹山さんと二人で?」
「分かってるよ、学校の行事以外での外泊はダメなんだろう? いちいち本気にしなくてもいいよ。軽い冗談だから」
 昨日と同じ展開である。

 このままでは駄目だ――華音は瞬間に悟った。

 華音はくるりと鷹山に背を向けた。気持ちを落ち着けるため、深呼吸を何度か繰り返す。
「あのね、こけら落としが終わってから……でも、いい?」
「え……」
 鷹山の絶句したような声を、華音は背に受け止める。
「今はほら、高野先生ソロ控えてるし、余計な心配させたくないから。ひょっとしたら、春になってからとかになるかもしれないけど」
「ちゃんと僕のほうを向いて言ってよ。本当に?」
 鷹山は力任せに華音を引き寄せ、振り向かせた。
 大きな琥珀色の瞳に、今にも吸い込まれてしまいそうだ。
「本当に、僕と一緒に暮らしてくれるの? 僕が言ってる意味、ちゃんと分かってる?」
 何度も確かめるように、鷹山は問う。
 勢いに押されるようにして、華音は弱々しく頷いた。

 抱き締められる――そう感じた瞬間、予想に反して鷹山は、華音を押し退けるようにして離れていく。
「今日でちょうどまる十五年――君を失いそして再び戻るまで……長かった、とても」
 鷹山の真意が、華音には読み取ることができなかった。
 一緒に暮らすという選択が、恋人同士としてか、それとも二人きりの兄妹としてなのか――。
 おそらく鷹山も、その線引きが曖昧だと感じているに違いない。
 しかし今の華音にとっては、別にどちらでも構わなかった。
「でも、私が家を出たら、高野先生や乾さんに咎められないかな?」
「咎めたりするもんか。和久さんは元の暮らしに戻ればいいだけだし、芹沢の家は今までどおり僕たちの仕事場だ。乾さんにもこれまでと変わりなく働いてもらうさ」
 もちろん、行く末に限りなく不安もつきまとっている。
 自分の選んだ選択肢は、事実を知るものにとっては決して歓迎されることではないのだから。
 そう、問題はたった一人。
「赤城さん、……たぶんいい顔しないよね」
「僕たちのことを勘繰っているからね、油断ができないけど――オーナーにさえばれなければ、それでいいんだよ。最後まで、シラを切り通せばいんだから」
 ばれなければいい。
 ばれてしまったらいけない関係――でも、二人が黙ってさえいれば。

【君には親兄弟の記憶がない、鷹山君には記憶がある。それだけのことだ】

 ふと。オーナー赤城の言葉が、華音の脳裏を過った。
 稲葉努とコンタクトをとるために、オーナーの赤城と二人でパーティーへ出かけたときのことである。
 会場に向かうBMWの車中で、赤城に言われた言葉が次々と鮮明に浮かび上がってくる。

【彼は君以上に分かっているはずなんだが――その罪の重さを】

 もう、綺麗事など聞きたくない。華音はすべてを振り払うようにして、鷹山の顔をしっかりと見つめた。
 お互いを受け入れることを約束した、慈しむような眼差しがそこにはあった。
「さあ、それじゃそろそろ出かけようか。僕たちのお父さんとお母さんに会いにね。僕たちがくるのをずっと待っているはずだよ――十五年間、ずっと」
 鷹山は照れたように笑って、華音の身体にゆるくまとわりつくように抱きつく。顔を見上げて「うん」と返事した華音の唇に、鷹山の唇がゆっくりと重ねられた。

 罪。これは罪。
 十五年の歳月が生み出した、決して償うことのできない罪。



 マンションの裏手に見覚えのある車が停まっていた。
 赤い国産の軽自動車だ。
「美濃部君に今日一日、貸してもらったんだ」
 鷹山はキーホルダーがついた車のキーを軽く上に投げ上げ、落ちてきたところを器用に空中キャッチした。
 さり気ないふうを装って格好つけたがっているのだ――華音は可笑しさを懸命にこらえながら、鷹山の表情をうかがう。
 澄ました綺麗な顔が、相変わらずそこにあった。
 そのままじっと食い入るように見つめていると、鷹山がそれに気づき、わずかに首を傾げて聞いてくる。
「どうしたの、芹沢さん?」
「鷹山さんって、車の免許持ってるの?」
「実家に帰ったときしか運転しないから、ペーパードライバーに近いんだけどね。まあ、北海道の田舎じゃぶつかる物もないから、なんとかなってるけど」
 鷹山の運転する車に乗せてもらえる――華音の気分は一気に高揚した。
 一緒に出かけると誘われたときは、公共の交通機関を使うものだとばかり思っていた。これは予想外の展開だ。
 鷹山の知られざる一面を見られるのが、華音は素直に嬉しかった。
「あ、これギアの場所、実家の車と違う。サイドブレーキの解除はどうするんだろ?」
 しかし、その運転技術に関してはかなりの期待薄だ。美濃部青年の車の運転席で、勝手が分からず騒ぎ立てる鷹山が、華音の目にはなんとも滑稽に映る。
 鷹山は、こと音楽の分野に関しては、他の若手の追随を許さぬほど才能も実力もあふれているというのに、ひとたび仕事を離れると一人で満足にコーヒーを淹れられなかったり、部屋の片づけが苦手だったり――不器用な一面をさらしている。
 しかしそれが逆に、どこか放っておけない気持ちにさせられてしまい、決してマイナス要素にはならないのだから、不思議なものである。
「僕ね、自慢じゃないけど教習所に三度通ったんだよね」
 シートベルトを着けるためにお互い身体をよじる。前髪が触れ合う至近距離で、鷹山はそんなことを呟いた。
「通い始めたあとにすぐにウィーンへ留学することになって、一時帰国したときに一ヶ月集中コースみたいなのに申し込んだけど、途中で飽きたから止めた。でも、さすがに父親に嘆かれてさ、免許取るまでウィーンへ戻らせないとか意味不明なこと言って、大喧嘩になって」
「……で?」
「お前は口ばっかり達者でどうしようもないロクデナシだ、って父親に殴られた。お陰で、今こうして僕は自動車の普通免許を所持してる」
 鷹山が言う『父親』とは、富良野にいるという『育ての父』のことだろうと、華音はすぐに察した。
 先程鷹山の部屋の中で見つけたアルバム写真のことといい、おそらく鷹山は養父といい関係を築いてきたに違いない。殴られたというのはおそらく鷹山が大袈裟に言っているだけで、本当に鷹山のことを理解しているからこその、遠慮のない親子のやり取りだと華音には聞いて取れた。
 本人がそれを意識しているかどうかは不明だが――。
「僕、運転で精一杯だからちゃんとナビしてね」
 手渡されたのは、いつか鷹山が書斎で見ていたことのある地図帳だった。ページのひとつに折り目がつけられている。

 ――前からずっと、考えてたのかな。

 仕事の合間にこの地図を眺め、ある場所を。
 十五年前のとある事故現場を、鷹山はずっと探していた。
「ええと、どこを通っていくんですか」
「とりあえず、花屋から」
 華音は言われるがまま、一番近くの花屋への道筋を説明した。


 二人は街角のフラワーショップを訪れた。郊外型の店舗らしいゆったりとした空間だ。
 目眩く花の芳香に満ちた店内をゆっくりと物色し、やがて鷹山はあるピンク色の花を指差した。
「これがいい。好きな花のほうがきっと喜んでくれる」
「アルストロメリア?」
 華音がそう呟くと、鷹山はすぐさま振り返り、大きな瞳を数度瞬かせた。
「そう。よく知ってたね、この花の名前」
 いつものような小馬鹿にしたような口ぶりではなかった。珍しく、素直に感心してみせている。
「この花、好きだったのはお母さんだった人じゃなくて、お父さんだった人?」
「そうだけど……どうして?」
 むせ返るような花の匂いが、見つめ合う二人を幾重にも包み込む。
 華音はゆっくりと口を開いた。
「アルストロメリアは、おばあちゃんがとても好きだったから。そうなのかな……って」
 瞬間。
 鷹山の綺麗な顔がわずかに歪んだ。かすかに眉間にしわを寄せ、空を仰ぎ見るようにして深いため息を漏らす。
「君のおばあさんと僕のお父さんは、本当の『母と息子』なんだな」
 気に障ったのだ――華音は考えなしに言ってしまったことをひたすら悔いた。
 鷹山が十五年前に芹沢家で受けた仕打ちを思えば、彼の前で祖父母の話をするのは禁句であることくらい、分かっていたはずなのに。
 すぐに鷹山は花屋の店員を呼び止め、アルストロメリアの花束を注文した。
 店員の作業する様子をじっと眺めながら、鷹山は華音にそっと耳打ちした。
「僕と君は遠く離れていたけど、こうやって同じ花の名前を知っていた。何だかとても変な感じがするな」
 鷹山が見せた微笑みは、哀しさと優しさとが交じり合い、やがて一つになっていく。
「包装は紙にしてください――早く土に還るように」
 鷹山は花屋の店員に、ひとこと付け加えるようにして告げた。