夢幻の章 (11)後  十五年前のあの日へ

 車の後部座席は花束の香りで一杯だった。
 心配していた鷹山の運転技術も、教習所に三度も通ったという割にはまともだった。三度も通ったからこそ――なのかもしれないが。
「鷹山さん。何か音楽とか、聴かないの?」
「聴きたいの? 美濃部君、なんか持ってないのかな。適当にその辺探してみて」
「……普通、用意しておくものなんじゃないの?」
「普通? なに、普通って」
 やたらと鷹山は食いついてくる。下手なことを言うとすぐに足元をすくわれそうだ。
 華音は当たり障りのないことを適当に取り繕った。
「だから、ドライブデートするときには、女の子に聴かせたい曲を前もってセッティングしておく――とか」
「へえ……それ、誰のことを言ってるんだよ?」
 鷹山の勘繰りは執拗だ。愛ゆえの束縛もここまで来ると一種の病気である。
 しかしその対応も、今では手馴れたもの。華音はしつこく食いつく鷹山をあっさり切り捨てた。
「世間一般の常識の話です。いちいち深読みしないでください」
 しかし、その態度が逆に鷹山の好奇心に火をつけたようだ。
「だってさ、そんなのつまらないだろう? いちいちドライブコースだの聴く音楽だの決めて、その通りに進めるだけだなんて、ドキドキなにもあったもんじゃない。そこに音楽がなかったら自分で歌えばいい。もし道が行き止まりだったら引き返して来ればいい。そうさ、僕は予期せぬハプニングが大好きだ!」
 いつもの大袈裟な戯言が始まった――華音は深々とため息をついた。
「必要以上のドキドキなんか、いりません。それよりだったら、退屈なままでいいもん」
「あ、そう。とりあえず、地図だけはしっかり見てて」
 やがて車は県境に程近い山野に差し掛かった。道幅は広く視界は開けている。
 華音は再び、鷹山が折り目をつけたページに視線を落とした。
 この先には大きな湖がある。湖畔に沿うようにして道は伸び、さらにその先は隣県の都市へと続いている。
 目的地は現在地よりさほど遠くないのだ――華音は何となく思った。
 運転席の鷹山は先程から黙ったままだ。運転にもだいぶ慣れてきたらしい。ときおり景色を眺めながら、ハンドルを緩やかに動かしている。
「よそ見しないでください、危ないから」
「君がさっきから黙ってるから、退屈なんだよ。何か喋って」
「運転の邪魔したらいけないと思って。じゃあ、ちょっと聞いてもいいですか?」
 いいよ、と鷹山の軽い返事が返ってくる。
「お父さんとお母さんだった人の事故って、どんなのだったの?」
「対向車が中央線をはみ出して突っ込んできたらしい。正面衝突で、即死状態だったって――」
 鷹山は一瞬だけ、助手席の華音を振り返った。平然としている華音の表情を確認し、すぐにフロントガラスへと視線を戻す。
「僕と君は、その頃住んでいたアパートのお隣さんちに預けられてた。日本初演の交響曲かなにかをね、二人で聴きに行った帰りだったらしい。演奏会に小さい子供を連れて行くのはマナー違反だからね。大きな演奏会だと託児スペースを用意してくれるところもあるけど、きっとそのときはそれが無かったんだろうな」
 そのまま車内は沈黙状態となった。華音はそれ以上話を聞く気にもなれず、助手席側の窓に張りつくようにして、美しく色づいた白樺の黄葉を眺めていた。
 しばらくして、鷹山が沈黙を破った。
「二日後、僕たちを迎えにきたのは……乾さんだった」
 鷹山は芹沢家の執事の名を口にした。
「実は乾さんはそれまで何度か、お父さんを訪ねてアパートまで来たことがあったんだよ。英輔先生と疎遠になってからもね、いろいろ心配してたんだろうな」
 華音はそんな鷹山の説明に、ひどく違和感を覚えた。
 実の祖父である芹沢英輔のことは、鷹山自身にとってはヴァイオリンの師匠という位置付けでしかない。もちろん、華音の祖父母が自分の父親の両親であることは、頭では理解しているはずだった。
 それは華音だって同じこと――鷹山の実の父親が、祖父母の一人息子であることはとりあえず、分かっている。
 そう。
 お互いが同じ祖父母と両親を持ちながら、いつまで経っても重なり合わないという違和感が、二人にはつきまとっている。
「それからさらに二日後だ、僕と君が離れ離れになったのは――」


 やがて二人が乗った車は、鷹山があらかじめ印をつけていた辺りへ到着した。
 湖に臨む小さな展望台だ。高台になっていて、下は緩やかな崖になっている。
 ここはドライブの立ち寄りポイントらしかった。混雑はしていないが、他にも数台の車が止まっている。
「この辺なのかな……ハッキリとは分からないから。さあ、行こうか」
「紅葉ももう終わり頃だけど、まだ黄色が綺麗ー」
 華音は車から降り軽く伸びをすると、わずかにはしゃいでみせた。鷹山とこうして普通のデートをできることが、とにかく嬉しくてたまらなかったのである。
 紙で包装された花束を手に、ふらりと展望台の駐車場を歩き出す鷹山の背中を、華音は嬉々として追いかけた。
「天気が良くて、良かったね」
 いっこうに返事がない。むしろ華音を振り払おうとするかのように、鷹山はその歩を早めていく。
「もうちょっとゆっくり歩いてよ、もう」
 そんな華音の懇願に耳を貸すことなく、鷹山はどんどん一人で先を行ってしまう。
 ようやく追いついたときには、展望台の広場まで辿り着いていた。
「ねえ、どうしたの鷹山さん――」
 華音は言葉を失った。
 鷹山の大きな瞳から涙があふれ、頬を伝っていくのが見えた。
 華音はそれ以上声も出せず、じっと鷹山の横顔を見つめていた。
「君の分の涙だ。どうしてこんな……この十五年という歳月が、僕たちを狂わせてしまった」

 ――僕たちを狂わせた、永き歳月。

「肉親のために、君はもはや泣くことさえできない。僕たちを本当に愛してくれていた父と母も、君にとっては『遠い昔にここで死んだ知らない誰か』なんだ」
 反論できなかった。確かに鷹山の言う通りなのだ。
「あの……ゴメンなさい」
 鷹山は手の甲で涙を拭った。
「いや、君のせいじゃない。僕があのとき、君を手離してしまったから――」
「それは仕方なかったんでしょ? 鷹山さんのせいなんかじゃない」
 わずか九歳の少年に、赤ちゃんだった幼い妹をどうにかすることなど、不可能だったのだ。
「僕の顔は芹沢の名に相応しくない、って」
 引き取ることを拒まれて。自分の身すら守ってくれる人がいないという状況で――。
「綺麗? 美しい? 整ってる? ハッ、馬鹿馬鹿しい! そんなの褒め言葉でもなんでもない! この顔のお陰で僕はすべてを失ったっていうのに。芹沢の姓を名乗る資格すらね!」
「……綺麗だったお母さんに似てるんでしょ。よかったじゃない」
 華音は鷹山の背中に軽く抱きついた。柔らかな温もりがコートの生地を通して伝わってくる。
 鷹山が抱える大きな心の闇を受け止められるのは自分しかいない――華音はそれが使命と自負し始めていた。
「それに……性格が悪いんだから、見た目くらい綺麗じゃないと、いいトコ無しだもん」
 鷹山は華音の抱擁を解くようにして振り返り、向き直った。柄にもなく面食らったような表情を見せている。
「君という人は……なんて言い草だ!」
「惚れ直した?」
「……馬っ鹿じゃないの。どうすればこの状況でそんなセリフが出てくるんだよ」
 そう言って鷹山は、花束で華音の頭を軽く叩いた。
 あふれるアルストロメリアの香りと、照れたような鷹山の笑顔に、華音の気持ちはようやく和らいだ。
 でも漠然と。
 彼をこのまま愛していてはいけないという気持ちが、華音の中に少しずつ湧いてきているのもまた事実だった。


 鷹山は目を瞑り黙祷すると、手にしていた花束を展望台の上から下の崖に向かって投げ落とした。
 湖を一望でき、素晴らしく眺めがいい。湖面は空の青を映し、木々の黄色とのコントラストが鮮やかだ。
 二人は展望台のベンチに並ぶようにして腰かけた。
 晩秋の冴えるような風に吹かれながら、しばらくの間黙って湖を眺めていた。

 突然、鷹山が奇妙なことを言い出した。
「僕が富士川さんの顔にコーヒーをかけてやったことを覚えているよな?」
 華音は素直に頷いた。
 もちろん、覚えている。
 実際にその現場を見ていたわけではなかったが、心無いヒトコトで大喧嘩へと発展させてしまったことは、まだ記憶に新しい。
 しかし、今なぜその話題を蒸し返すのだろうか。
 鷹山の憂いに満ちた瞳をじっと見つめ、華音は続く言葉を待った。
「君を困らせるようなことをしたら、絶対に許さない――そう言われたんだ」
「――う……そ?」
 場景がリアルに浮かび上がってくる。

 よく知っている市立公会堂のロビーで。
 たくさんの来場客の合間を縫うようにして、二人の弟子が互いに近づいていき、言葉を交わした。

 居合わせた美濃部青年の説明によれば、富士川が何かひとこと言ったあと、それに対し鷹山が件のコトに及んだ――と。

【華音ちゃんを困らせるような真似をしたら、絶対に許さないからな?】

 華音は愕然となった。
 きっと、言う。自分がよく知っている富士川祥なら、間違いなく言う。
 そして、鷹山は手にしていたカップコーヒーの中身を、兄弟子の顔にかけた。

 ――なんてことを。

「英輔先生の名を汚すようなことをしたら……そう言われるのなら、言い返すだけで終わったはずなのに」
 動悸が止まらなかった。
 何となくは分かっていた。しかし、こんなにもはっきりと認識させられたのは初めてのことだった。
「三ヶ月ぶりにまともに顔を合わせて、最初に出る言葉がそれか? 他にもっと言うことがあるだろう?」
 自分のせいなのだ。
 富士川と鷹山がお互いを激しく嫌悪するのは、華音自身の存在意義にあるのだ、と。

 兄であって、兄ではない。
 兄ではないけど、兄である。

 華音の中でねじれているものが、周囲を取り巻く人々を苦しめている。
「なんだよ、絶対許さないって。どの口がそれを言うんだよ?」
「だって祥ちゃんは……」
「――だって、何?」
 鷹山は表情を硬化させた。
 ここで富士川のことをかばってしまったら、もう取り返しがつかない。かといって鷹山に同調することもできない。
 華音は身じろぎもせず、考えを必死に巡らせた。
「……祥ちゃんは本当のこと、何も知らないから」
「僕が英輔先生の孫で、君の本当の兄だってことを?」
「そう、知らない」
「しかも、お互いそれを承知で付き合ってることも?」
「……」
 承知とは言っても、華音にとってはうわべだけの認識でしかない。
「あの男が本当に大切にしてるものがね、見えたんだよ。芹沢という名でもなく、芹響でもなく……」
 鷹山が何を言いたいのか、華音は理解した。
 そうかもしれない。しかし、そうではないかもしれない。
 富士川祥が本当に大切にしているものが、鷹山の言う通りだとするなら。
 確かに、大切にされていたという自覚は華音にもあった。

【――華音ちゃん】

 不意にどこからか、富士川が自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 もう過去の話。
 すべては過ぎ去ってしまった時間なのだ。
「富士川さんと君はどういう関係なんだ?」
「どういうって、別に」
 華音は言葉を濁した。
「隠さず言えよ」
「別に……隠すことなんかないけど」
 嫌な流れだ。鷹山の目が凍りついている。
 華音は半ば自棄になりながら、鷹山に訴えた。
「だから。祥ちゃんはおじいちゃんのお気に入りで、私はおじいちゃんの孫だったから、いろいろと面倒を見てくれていた……それは鷹山さんだって知ってるでしょ?」
「知ってるよ。でも僕が求めているのはそんな上っ面の答えじゃない」
 鷹山は大きな瞳をゆっくりと訝しげに瞬かせながら、毅然と言い切った。
「僕が知らないことを、富士川さんが知っているのか、ってことだよ」
「それは……しょうがないじゃない。祥ちゃんとは小さいときからずっと一緒にいたし……鷹山さんとはまだ半年――」
「それは違うよ」
 鷹山は首を横に振った。
「僕は君のことたくさん知ってる。君が母さんのお腹の中にいた頃から知ってる。君が生まれた日のことだって、ちゃんと覚えてる。でも、何にも知らない。あの家でどんなものを食べどんなことを学び、笑い、泣き、怒り、そして喜び――そんな君の姿は僕じゃなくて、あの男が持っている」
 何も間違ったことは言っていない。むしろ的確だ。
「悔しいんだよ。本当ならすべて僕のものなのに――」
 華音はじっと、鷹山の話に耳を傾けていた。
 もはや返す言葉も見つからない。頭の中でいろいろなことが渦巻いて、まとまらない。
「あの男と君には十数年という共有した時間がある。僕と君にはたった一年しかない。その一年も、君の記憶の中には僕はいない」
 そう。
 鷹山は半年前に出会ったばかりの、他人でしかない。
 記憶なんか、存在しない。
 そこにあるものは――。
「あの男はいったい何なんだよ」
 分からない。そんなことを聞かれても。
「――僕は君の、……何なんだよ」
 鷹山が華音に対してどういう答えを求めているのか、まるで予想がつかなかった。