夢幻の章 (12)  天秤が傾くとき

 命日から数日が過ぎた、ある平日の午後のことだった。
 華音は制服にコート姿、そして通学用のカバンを携えたまま、とある場所を目指していた。
 晩秋の木枯らしが肌に刺すようにして吹きつける。
 もうここへ来ることはないと、華音はそう思っていた。しかし、以前ここを訪れたときとはまったく気持ちが異なっていた。

 見知ったマンションのとある部屋のドアの前に立ち、念のためドアの引き手に手をかける。
 金属同士がぶつかる鈍い音がする。やはり鍵がかかっている。
 華音はドアに背を預けるようにして、そのまま冷たいコンクリートの床に座り込んだ。

 どのくらい時間が過ぎただろう。
 やがて遠くから誰かがやってくる気配がした。その聞き覚えのある歩調に、じっと耳を澄ます。
 間違いはない。
 華音は息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に詰め込まれる。
「……華音ちゃん?」
 ピクリと華音の身体が反応する。とても懐かしい、自分の名を呼ぶ声に、華音の心は震えた。
 声のするほうを振り向くとそこには、驚きの面貌でたたずむ富士川青年の姿があった。
 部屋のドアの前に座り込んでいる華音の前に、富士川はすぐさま片膝をついてしゃがみ込む。そしてそっと華音の頬に手を伸ばし、優しくなでさすった。
「どうしたの……こんなに冷たくなって。いつからここに?」
「お昼に学校早退してから、ずっと」
「えっ、具合が悪いの? 中に入って待っていてくれれば良かったのに」
「祥ちゃんとこの鍵、取り上げられちゃったの」
 華音の言葉に、富士川はさらに驚いたように眼鏡の奥の瞳を見開かせた。
 誰に、などと説明をするまでもない。
「夕方にはね、戻らないといけないから、祥ちゃんに会うためには早退するしか――なかったの」
 愛しむような柔らかな眼差しが、華音のすぐそばで揺れている。
「前もって電話してくれれば、もっと早く帰ってきたんだよ……それなのにこんな」
 富士川はもう一度優しく頬をさすった。
 もうすでに、華音は崩れてしまいそうだった。


「お昼ご飯は食べたの?」
「ううん、食べてない」
「今作るから、ストーブにあたって待ってて」
 富士川祥は非常に器用な男だった。食事もできる限り自炊をしており、一通りの料理は作れるようだ。芹沢家に居候している頃から、執事にお茶の給仕の仕方を習ったり、家政婦に料理を教わったりしているのを、華音は昔からよく見ていた。
 キッチンで手際よく支度をする富士川に、華音は電気ストーブを前にして、背中越しに問いかけた。
「聞かないの?」
「何を?」
「私がここに来た理由」
「聞かないよ。聞かなくても分かるから」
 昔と何も変わらない。
 しかし、どうも素直になれない。華音はあえてつけ離すように言った。
「ふうん……藤堂さんからいろいろ聞いたりしてるんだ?」
「あのさ。俺は華音ちゃんのこと、誰よりも詳しいんだから。そんな、誰かに聞かなくったって、華音ちゃんの顔を見れば大抵のことは分かるさ」
 手早く調理を続けながら、富士川はキッチンから言葉を返してくる。
「じゃあ、藤堂さんに聞いてないの?」
「特になにも。別に聞くこともないし。俺のことを心配してくれるのはありがたいけど、もう別の団体のメンバーだしさ。藤堂は鷹山といろいろやり合ってるみたいだけど、あの二人は歳も近いし、結構いい組み合わせなんじゃないか?」
 スッキリしない答えだった。
 別にあかりの肩を持つ気はなかったが――彼女は誰よりも富士川を尊敬し、いつか芹響に帰ってくることだけを信じて、鷹山に真っ直ぐ向き合いぶつかっているのである。
 それなのに、当の富士川がこんな調子では、その思いはまるで報われない。
 華音は富士川に気づかれないように、小さくため息をついた。

 しばらくして、富士川が二つの皿を携えてリビングへ移動してきた。
 センターテーブルの上に出来立てのチャーハンを並べ、富士川は華音と向かい合うようにして腰を下ろした。
「ほら、冷めないうちに食べて」
 華音は、自分に差し出された皿をじっと眺めた。
 卵とたまねぎとハムの芳しき匂い。そして、その見た目が富士川と自分の皿とで違うことに気づく。
「大丈夫だよ、俺のにしか、入ってないから」
 華音は顔を上げ、驚きをあらわにしながら富士川の顔を見つめた。
 言葉に出さなくても考えていることが伝わったらしい。富士川はその答えを淡々と説明し始める。
「俺が今いる団体のオーボエがさ、山歩きが趣味なんだって。冷蔵庫はもらい物のキノコだらけだよ。華音ちゃんは嬉しくないだろうけど」
 どうしようもなく胸が痛む。
 たった、これだけのこと。
 富士川祥という男は、華音にとって他人であっても、家族と同じだったのだ。食べ物の好みくらい、当たり前のように知っている。
「どうしたの、華音ちゃん?」
 富士川の声がどこか遠くで響いている。その声に被さるようにして、先日の出来事が鮮明によみがえってきた。

【それ、好きなの嫌いなの?】

 二人で初めて食事を共にしたとき、華音がプレートの隅に除けたキノコを見て、鷹山はそう言った。

【あの男はいったい何なんだよ】

【――僕は君の、……何なんだよ】

 その答えが存在するのであれば、華音自身がそれを教えて欲しいくらいだった。
 富士川祥という人間が華音にとって、どんな存在であるかということを。
 そばにいるのが当たり前の『他人』。
 祖父の愛弟子。
 華音のすべてを受け入れてくれる、かけがえのない存在。
 どんなことがあっても華音をかばい、いつでも守ってくれる。
 守ってくれていたと、今はそう言うべきなのだろうが――。

 当たり前――それが当たり前、なんて。

 胸が締めつけられる。
 鷹山の声が、華音の脳裏をよぎっていく。

【僕が知らないことを、富士川さんが知っているのか、ってことだよ】

 華音は手付かずのままのチャーハンの皿の上に、静かにスプーンを置いた。そして、向かいに座る富士川に向かって頭を下げた。
「あの……鷹山さんが、祥ちゃんに失礼なことをして、ゴメンなさい」
「どうして華音ちゃんが謝るの」
「本当に、ゴメンなさい」
 鷹山が兄弟子の富士川の顔にコーヒーをかけた、その原因が自分にあったと知った今――。
 華音にはこうする他はなかった。
「華音ちゃん、ひょっとして……鷹山の奴に辛い目に遭わされてるんじゃないのか?」
「違う。そんなこと、ない」
 確かに、平穏な日々とは縁遠い。口悪く罵られることもある。喧嘩することもある。
 だが、決してそれだけではない――。
「鍵を取り上げられたり、こうやって見つからないように学校を早退してまでここまで来たり」
 華音は否定しようと何度も首を振った。
 しかし、富士川にはそれが上手く伝わらないようだ。
「まったく鷹山の奴、俺にたてついて反抗するのはまだしも、華音ちゃんにまでそれを強要してどうするんだ!」
「どうして……祥ちゃんがそんなこと言うの?」
 違う。
 それは違う。
「どうしてって、華音ちゃんのことが心配だからに決まってるだろう!?」
「心配? 私がおじいちゃんの孫だから? そうなの?」
 富士川は呆気にとられた顔をしたまま、言葉を返さない。
 華音はさらに、たたみかけるように言った。
「そうなんでしょ? だったら、おじいちゃんがいなくなっちゃったらもう、関係ないもん。私のことは、祥ちゃんには関係ない――」
「関係ないわけがないだろう!?」
 突然の大声に驚き、華音はとっさに両目をつぶった。
 富士川が華音にここまで声を荒げるのは、華音の記憶の中では初めてのことだった。
 華音は思わずひるんだ。しかし、ここ数ヶ月で随分と免疫がついている。もちろん饒舌な音楽監督の影響なのだが――。
 華音は再びゆっくりと両まぶたを開き、じっと富士川の顔を見据えた。
「私は……私は、関係ないなんて思ってない。思ってなかったって、言うべきなのかな。関係なくなったって思ってたのは、祥ちゃんのほうでしょ」
「華音ちゃん、俺のことをそんなふうに思ってたのか?」
 目には見えないヒビが、瞬く間に大きな亀裂へと変貌を遂げた瞬間だった。
「だから、だからあのとき、私をひとり置いて出て行っちゃったんでしょ? 違うの?」
「……」
 崩れ落ちていく。
 音もなく。
 揺るぎないはずの二人の絆が壊れていく。
 いま自分が、富士川の心を傷つけそして――壊しているのだと。
「祥ちゃんから見たら、鷹山さんはおじいちゃんに反抗ばかりしていた不義理の弟子なのかもしれないけど、祥ちゃんだって今同じことしてるじゃない!」
「俺は芹沢先生に不義理を働いたことなんかない。絶対にない!」
 富士川は驚きのあまり、混乱を隠せずにいる。幼い頃から妹のように面倒を見てきた少女の変貌ぶりに、少なからず途惑いを覚えているようだ。
 誰よりも師を敬愛している自分が、まさか『不義理を働いている』と言われてしまうなど、思ってもみなかったことだろう。
「新しい楽団を率いていくのはもの凄く大変なことなの。おじいちゃんがいなくなって、古くからいた団員たちも辞めていって、今じゃ芹沢という名前を残し続けるのが忍びないくらい。でも――」
 分かって欲しかった。
 華音が富士川に伝えたかったことは、たった一つ――。
「それでも鷹山さんは楽団を背負ってくれてる。『芹沢』の名前を残そうと頑張ってる。だから、鷹山さんのことを悪く言わないで」
「華音ちゃん……」
「今ここに祥ちゃんがいてくれたらって、何度思ったか……でも祥ちゃんはいなかったじゃない!」
 富士川がずっとそばにいてくれていたら――。
 鷹山とも深入りすることなく、それなりに平穏な暮らしを送っていたに違いない。

 ナイフで彼の腕を刺すこともなく、彼から強引に関係を迫られることもなく、彼に芽生える愛情に悩むこともなく、彼と実の兄妹だという現実に苦しむこともなく――。

「祥ちゃんがいつまでもそんなんだから、そんなんだから、私……」
 華音はとうとうこらえきれずに、両目から涙をあふれさせた。
 わずかな沈黙が二人を包む。
 やがて富士川は、哀しげな面貌で呟いた。
「……すべては俺の弱さのせいだ」
 富士川は華音のそばへと移動し、両手で優しく華音の涙を拭った。
「俺が華音ちゃんをこんなにも苦しめてしまった」
「祥ちゃん」
 この男が、世界のすべてだった。

【華音ちゃんを困らせるような真似をしたら、絶対に許さないからな?】

 この男は、自分のすべてを預けることのできる、唯一無二の存在なのだ。
 この男の存在を否定されることは、華音の過去をすべて否定されることと同じなのである。
 見つめ合う二人の瞳に、互いの姿が映る。
 次の瞬間。
 華音は、富士川の膝の上に抱え上げられるようにして、半ば強引に抱き締められた。
 背中に回される富士川の腕と掌の力強い感触に、華音は気が遠くなりかけた。

 ――駄目。このままじゃ……。

 鷹山に対する義理立てでもあったが、それだけではない。
 肉親としての情愛が別のものに変化していることに、華音は気づいた。
 華音は両腕にありったけの力を込めて、富士川の身体を引き剥がそうと抗った。
 富士川は途惑う表情を見せながらも、すぐにその束縛を解いた。
「私はもう子供じゃないんだから、簡単に……そういうことしないで!」
 華音は富士川の作ったチャーハンに手をつけることなく、半ば逃げ出すようにして彼のマンションを飛び出した。



 新しいホールの工事は急ピッチで進められている。内装の仕上げ作業がまだ続行中だが、今日から合わせの練習は新ホールで行われることになっている。
 華音は学校が終わる時間を見計らい、夕方近くになってからようやく新ホールへとやってきた。
 足場や建材の脇をすり抜けるようにして、仮の控室となっているリハーサル練習室へと向かった。

 部屋に入ると大小の荷物が散在していた。楽屋の内装工事がまだ終わっていないため、団員たちの荷物のほかに、据付前の大きな備品にはビニールがかけられたまま、部屋を区切るようにして壁のように置かれている。
 本来であればこの部屋は最終リハーサルを行うために使用される予定で、フル・オーケストラが配置できるほどの広さがあった。しかし今は、半分ほどの余裕しかない。
 部屋の中に人の姿はなかった。
 華音は腕時計を確認した。合わせの練習が始まるまで三十分ほどある。
 おそらく新しいステージの見学に団員たちがこぞって繰り出しているに違いない――華音は近くにあった椅子に腰かけた。

 ドアが開く音がした。
 座ったまま振り返ると、そこには厳しい顔をした音楽監督が立っていた。
「なにボーっと座ってるんだよ。あとで県連の理事長が挨拶にみえるから、来たら応接室に通しておいて。あ、応接室は事務管理室の横だから、間違えるなよ」
 華音は返事をするのも忘れ、突然目の前に現れた鷹山の顔をじっと見つめていた。
 二度と同じ過ちは繰り返さない――華音は努めて冷静を装い、富士川と会っていたことを鷹山に悟られぬよう、何度も深呼吸を繰り返す。
「ちょっと芹沢さん、僕の話聞いてる?」
「聞いてません」
「開き直るなよ。まったく……君がちゃんとしてくれないと僕が困るんだからな?」
「へえー、鷹山さんが少しくらい困ったところを見てみたいですけど」
 鷹山は片眉を引きつらせた。そして大袈裟に両手を広げると、わざとらしく華音の座る椅子の周りをぐるぐると何周も歩き回りながら、嫌味を込めて言い放った。
「うわー、何この生意気娘。可愛くない。ムカつく。最低最悪。その減らず口を今すぐ塞いでやろうか?」
 鷹山は華音が逃れられぬよう、背後から椅子の背ごと抱きついた。不自然な体勢のまま、鷹山は無理矢理華音の頬に自分の頬をすり寄せる。
 この状態では、わずかでも華音が左に顔を向けると、コトは簡単にすんでしまう。
 誰かがいつ入ってくるか分からない。華音は鷹山の行動に焦っていた。
 しかし、先程まで自分がしていた行動の後ろめたさもあり、簡単に束縛を解く力が出てこない。
「し、仕事中でしょ。公私混同しないって言ってるくせに」
 理性を振り絞ってそう言うと、鷹山は腕の力をいっそう強め、華音の耳元でキッパリと言い切った。
「口で塞ぐとは限らないだろう。ガムテープで充分だガムテープで!」
「ええ? そ、そんなのヤだ……」
 この男なら本当にやりかねない――そう思っての弱気な返事が、鷹山にはそうは取られなかったらしい。その束縛を解くと、鷹山は華音の正面に回りこみ、失敬にも顔を指差していきなり笑い出した。
「何だよその顔! ハッ、冗談に決まってるだろう? ガムテープ探してる時間だって惜しいんだから。ほら、口開けて」
 鷹山はポケットから大きな飴玉を取り出しフィルムを素早く取ると、それを親指と人差し指でつまんだ。
 ビー玉のように透き通った綺麗な水色をしている。
「何するんですか?」
「いいから早く、ちゃんとほら」
 飴玉を目の前にちらつかせ、空いているほうの手を華音のあごにかけ、無理矢理口を開かせようとする。
 華音は思わず顔をそむけた。
「ヤだ、止めてよ恥ずかしい!」
「別に口移しじゃあるまいし……ああ、そっちのほうがいい?」
 鷹山はふざけて自分の口に飴を放り込むフリをした。もちろん本気ではないはずだ。その証拠に目が笑っている。
 しかし、華音は必死だった。
「わーっ! ごめんなさい、ちゃんと食べるから! ほら早く!」
 華音がツバメの子供のように大きく口を開くと、鷹山は満足げに微笑み、華音の唇の上から転がすようにしてその中に飴玉を入れた。
「糖分摂ったら少しはやる気が出てくるだろ。それ食べ終わったら、ちゃんと働けよ? 僕はまたステージで打ち合わせしてくるから」
 そう言って、鷹山はまたリハーサル練習室から出て行ってしまった。

 ソーダの味がする。
 鷹山とはいつもと変わらないやり取りだった。飴をくれたのは、疲れを見せている華音を気遣った鷹山なりの優しさなのだろう。
 その疲れの原因が「富士川祥と密かに会っていたこと」だとは、さすがに気がつかなかったらしい。

 ――祥ちゃんに、ひどいこと言った、私……。

【華音ちゃん、俺のことをそんなふうに思ってたのか?】

 ――違う。それは違う。

 鷹山に対する後ろめたさよりも、富士川を傷つけ関係を壊してしまったことに、華音は心を痛めていた。
 椅子に座っていても、富士川とのやり取りばかりが頭の中を反芻する。

 そのときである。
「それ、おいしい?」
 壁のように置かれている備品と備品の間から、突然一人の男が顔を出した。
 ヴィオラの安西延彦だった。携帯電話を片手に、無邪気に手を振っている。
 華音は驚きのあまり飴玉を飲み込みそうになった。喉に詰まらせる寸前で何とかくい止め、喋りやすいようにそれを右頬に収める。
 華音は怖々と尋ねた。
「あ、あ、安西さん……いつからそこに?」
「華音サンの登場する少し前くらいから、かなあ。俺、ここの陰でメール打ってたから」
「じゃあ、ひょっとしてその……ずっと聞こえてた?」
 華音はすっかり無人だと思い込んでいたのだ。先程の鷹山とのやり取りを聞かれていたとしたら――。
「口を塞いでやろうか、ってくだり?」
 飄々とした安西青年の言葉に、華音は全身の血が引いていくのを感じた。
「安西さん、本気にしないで! 鷹山さんってね、ああいうことを平気で冗談言う人なの!」
「華音サンには、でしょ? 誰にでもってわけじゃないよね? なーんか怪しいと思ってたけど、やっぱりそうなんだーって感じ」
 完全に疑われている。安西青年は妙に納得したように華音の顔をしげしげと見つめて頷いている。
「誤解しないでください! だから違うって」
「別に隠さなくったっていいんじゃない? さっきみたいな監督を見てると、何か安心する。厳しいだけの人間じゃないんだなーって」
「違うって、言ってるでしょー!?」
 もう何を言っても無駄のようである。

 華音と安西青年が言い合っているところへ、再びリハーサル練習室のドアが開いた。
 入ってきたのは、コンサートマスターの美濃部だった。
「二人ともなんだか楽しそうだね。何の話?」
「あ、美濃部サンお疲れ様です。いや、それがですね。華音サンと監督が――」
 華音は慌てふためき、安西青年の続く言葉を遮るようにして説明をした。
「いつもの罵詈雑言のことですから! 気にしないでください美濃部さん!」
 華音の必死の形相を見て、安西青年は告げ口する気を無くしてしまったらしい。軽くため息をつき、肩をすくめてみせる。
 そんな安西青年に、美濃部はコンサートマスターらしく助言をした。
「安西君、まだステージ見に行ってないんだろ? いま鷹山さんとあかりさんが、団員たちの配置をチェックしてるから、行ってくるといいよ」
「そうなんですか。んじゃ、そろそろ行ってきますかー」
 安西青年は意味ありげな愛想笑いを華音に向け、自分のヴィオラを携えて、リハーサル練習室を出て行った。

 ――絶対、気づかれた……。

 華音はどっと疲れを覚えていた。
 美濃部は特に気にしているふうでもない。それが唯一の救いだった。
「華音さん、手帳を貸してください」
 美濃部は華音が学校へ行っている間、代わりに鷹山のスケジュール調整などのサポート業務をしている。華音が楽団の練習場所へやってくると、引継ぎと称して二人で打ち合わせを行うのが恒例となっていた。
 二人がそれぞれ持っているスケジュール帳を二つ並べて、内容が同じになるよう互いの空欄を埋めていくのである。
「ねえ、美濃部さん」
「どうしたんですか、華音さん?」
 美濃部が華音のスケジュール帳を写す作業を、鷹山からもらった飴を舌の上で転がしながら、じっと眺めていた。
 そして、戯れに聞いてみる。
「美濃部さんは祥ちゃんと鷹山さん、どっちが好き?」
「それって、もちろん人間としてってことですよね?」
 美濃部は顔を上げず、文字を書く手を止めることなく淡々と答えた。
「どちらもそれなりに……じゃ、今の華音さんの助言にはならないのかなあ」
「助言だなんて――そんなつもりじゃなかったんだけど」
 どうして華音がそんなことを尋ねたのか、おそらく美濃部には分かっているはずだった。
 深い部分は知られていなくても、華音の心の迷いが透けていて、それが美濃部の目には見えているのだろう。
「私が客観的に見た意見を述べてもいいですか?」
「うん」
 富士川祥と鷹山楽人という、二人の弟子の間に挟まれた少女の心の葛藤を、美濃部は理路整然と解いていく。
「華音さん、鷹山さんに負い目を感じているんじゃありませんか?」
「……え?」
「そして、それが富士川さんに対しての負い目にもなってるのかな、って」
 華音は言葉を失い唖然としたまま、美濃部青年の顔を食い入るように見つめた。
 負い目――負い目だなんて。
 鼓動が早まっていくのを華音は感じていた。
「無理しないでいいんですよ、華音さん」
「美濃部さん……」
「華音さんにとって富士川さんがどんな存在であるか、私はよく分かっていますよ」
 それはまさに天の声にも等しかった。

 鷹山のそばから絶対に離れたくない。
 そして、鷹山と一緒にいるためには、富士川の存在を切り捨てなければならない。
 しかし。
 華音にはどうしても、富士川を切り捨ててしまうことなど――できないのである。

「あの二人が、いつか和解してくれたら――いいんですけどね」
 二人の弟子をよく知る美濃部の言葉が、今の華音には何よりの救いだった。