夢幻の章 (13)  若き音楽監督の悩み

 世の中は師走と呼ばれる季節となり、新しいホールのこけら落としはとうとう明日に迫った。
 華音が学校へ行っている間も、鷹山をはじめとする楽団員たちは、多忙な日々を過ごしている。華音が夕方ホールへ出向いても、鷹山は打ち合わせやら来客の相手やらで忙しく、落ち着いて言葉を交わすことすらままならない状況だ。
 すれ違いの生活が、かれこれ十日あまり続いている。

 今日は土曜日で、華音は学校が休みである。鷹山に指定された時間は十時だったが、華音は早めに家を出て、新ホールへと向かった。
 すでに中には、見知らぬ大人がたくさんいた。
 それぞれが首から身分証明書を提げている。そこには、『RAMP』と大きなロゴが印刷されてあった。
 オーナーの赤城と音楽監督の鷹山がかねてより設置をすすめていた、イベント用運営スタッフチームである。
 RAMPとは、レッド・アート・ミュージック・プランニングの頭文字を取ったと、オーナーの赤城が数日前、華音にそう説明をしてくれた。
 レッドとは、『赤城』の赤を意味するらしい。
 それを悪魔な音楽監督ときたら、「リッチ・アカギ・マネー・プリーズ」のほうが的を射ている、などと相変わらずの毒舌を披露してみせていたのだが――もちろんそのことは、オーナーには内緒である。
 それにしても、華音があらかじめ聞いていたよりも、随分と人数が多いようだ。どうやら、こけら落としのためだけに雇われた臨時スタッフも混じっているらしい。


 華音が慣れぬ雰囲気に途惑っているところへ、高野和久が悠々とやってきた。
 黒のダウンジャケットの下には、Tシャツを重ね着し、下はすり切れたジーンズとスニーカーという普段着姿だ。手には何も持っていない。ときおり車の鍵と小銭が、ポケットの中でぶつかり合う金属音がする。それが高野のすべての所持品だ。
 ピアニストなのに、楽譜すら持ち歩かない。暗譜しているといえば聞こえはいいが、高野の場合、単に面倒くさがっているだけである。
「ノン君、随分早いんじゃない? 言ってくれれば、俺も一緒に家を出たのにさあ」
 いつもの飄々とした口ぶりに、華音は肩をすくめてみせた。
「高野先生は一応客演のピアニストなんだから。一緒に行動なんかしてたら、鷹山さんに怒鳴られちゃうもん」
「まあ、それもそうだよなー。で、楽ちゃんは今どこ?」
 高野にそう問われたものの、今日はまだ鷹山と顔を合わせていない。
 悪魔な音楽監督様はいったい今どこで何をしているのか――華音は持っていたカバンの中からスケジュール帳を取り出し、ページをめくった。
「今は赤城オーナーと打ち合わせ中……かな。予定通りに行動してたらの話だけど」
「大丈夫なの? 二人っきりにさせちゃって」
 高野は心配そうにして華音に尋ねてくる。
 確かに、オーナーの赤城と音楽監督の鷹山は、和気藹々とした関係ではない。
「まあ、鷹山さんは相変わらず毒吐いてるけど、赤城さんもここぞというときにはちゃんと言うし。鷹山さんの暴走を止められる唯一の人だから、赤城さんは」
「楽ちゃんだって、麗児君の強引な無茶振りにも耳を貸さずに我が道を行く唯一の人だと、俺は思うけどなあ」
 結局のところ、似たもの同士なのである。
 衝突するとなると確かに厄介なのであるが、そこは赤城オーナーの年の功だ。無駄な争いは得策ではないということをきちんと踏まえており、物事を円滑に進めるためのノウハウをしっかりと持ち合わせている。
「稲葉さんは今日の午後に来日するって。そのまま成田のホテルに泊まって、当日のお昼前にはこっちに入るって言ってたよ」
「てことは、明日の俺のリハーサルはないな、きっと。……まあ、いいけど」
 高野と華音は、運営スタッフたちの邪魔にならないよう、エントランス正面の大階段を上っていき、真新しい革張りのロビー椅子に並んで腰を下ろした。
「和奏のヤツ、稲葉のほうがいいって言ったら……俺どうなるんだろ」
 高野はどこか寂しげに、愛娘の名を口にした。
「どうなるもこうなるも、もう俺は仁美ちゃんとは別れたんだし、関係ないんだけど」

 高野の元妻は無邪気に言っていた。

【和奏にね、選ばせてあげる】

【演奏会で上手だと思ったほうと一緒に……】

「稲葉は世界を舞台に活躍してるんだから、俺みたいに日本の片隅で小さな楽器屋やりながら、お遊び程度に演奏してる人間じゃ、とても比べものなんかにはならないし」
「ひょっとして引き受けたこと、後悔してる?」
「いいよ、もう。これで稲葉が納得するんだろ? そんなに仁美ちゃんのことが好きなら勝手にすればいい。和奏もそこそこ懐いてるみたいだしさ。あいつ金持ってるから、いい暮らしもさせてもらえるだろうし」
 勝ちたいという気持ちはどこにもないらしい。
 普段から口ぐせのように「音楽に優劣をつけるのはおかしい」と言っている高野である。明日のこけら落としも、なりゆきで弾かされる程度の認識なのだろう。
「家族を幸せにできなかった俺が、いまさら何も言えないから」
 それはきっと違う――華音は感じた。

 元妻の赤川仁美が。
 愛娘の和奏が。
 因縁のライバル・稲葉努が。

 どうしても高野和久という男にピアノを弾いて欲しい――たったそれだけの、純粋でひたむきな思いの存在に、当の本人だけが気づいていないのだ。
「でも、これで本当に終わるんだなーって。ちょっと未練たらしく、寂しく思う気持ちもある」
「まったく、意味が分からんな!」
 高野と華音が会話をしているところへ、別の男の声が挟まってきた。
 二人は声のほうを同時に振り返った。まだ幾分距離がある。しかしこの男は、とにかく迫力のあるよく通る声の持ち主――。
「あれ、麗児君?」
 赤城は仕立てのいいスリーピースとパステル調の派手なネクタイを身に着けて、磨き上げられた靴のかかとを小気味よく鳴らし、二人のもとへと颯爽と近づいてくる。
 その赤城の後ろから、鷹山が面白くなさそうな仏頂面でついて来ている。
 どうやら二人はホール客席で打ち合わせをし、それが終わって出てきたところらしい。
「和久、お前と稲葉氏は大学の同門なんだろう? ともに切磋琢磨し高めあった仲じゃないのか? 国際的に活躍してるからとか、家柄が良くて金があるとか、ホントお前は小さい男だ。だから、女に捨てられるんだ」
「麗児君、あのねえ……というか、地獄耳」
「お前のピアノは誰よりも上手い。それはこの俺が保証する!」
 赤城は、珍しく自分のことを『俺』と呼んだ。
 高校時代の若き二人に逆戻りする。
「麗児君の保証かあ……あんまり説得力ないんだけど。聴衆は麗児君より確実に耳肥えてるから」
 高野は珍しく、赤城に嫌味を放った。
「聴衆なんか関係ない。お前が思ったように弾けばいいんだ! 分かったか?」
「赤城オーナー、聴衆をないがしろにする発言は聞き捨てなりませんよ」
 後ろのほうから、鷹山がもっともらしいことを言った。
「ないがしろにするつもりはないがね、万人を満足させるなんて絶対に不可能だ。今回のように、稲葉氏の演奏のほうが楽しみだと思う客が大半を占める演奏会では、特にな。和久は、弾いて聴かせたいと思う『一人』のために演奏すればいい」
「ハッ、珍しくいいことを言いますね。あなたにそんなロマンティシズムを解する心があったなんて、驚きましたよ」
 鷹山の棘のある言葉に、赤城は冷ややかに眉をひそめた。しかし、いつものこととすぐに受け流す。
「一応、誉め言葉として受け取っておこう。さて……私はこれからあさってのこけら落としへ向けての最終チェックに専念する。気づいたことがあればその都度、確認させてもらおう」
「必要以上にうろうろされるのはハッキリ言って邪魔ですから。楽団員への口出しは最低限にしてください」
 また始まった――華音は半ばうんざりとなりながら、傍らの高野に目配せをした。
 音楽監督の毒に、当然オーナーはひるむことなどない。いつの間にやら、そのあしらい方は華音以上に上達している。
「演奏前にモチベーションを下げるな、だろう? 私だって、これでも少しは学んだよ」
「口だけではなく行動にも移してくれると助かるんですが」
「鷹山君」
 赤城は鷹山の牽制を遮るように、力強くその名を呼んだ。
「何でしょうか?」
「いよいよだな」
「そうですね」
「今の芹響は、君の楽団だ。この新しい本拠地のあるじだ」
 赤城は、広々とした吹き抜けのエントランスをゆっくりと見回していく。やがて、天井のモダンなデザインのシャンデリアに目をとめると、未来に思いを馳せるように、ゆっくりとその目を細めた。
「芹沢の名に恥じぬよう――期待している」


 高野は指慣らしをするため、一人リハーサル練習室へと姿を消した。
 赤城オーナーは新ホールをくまなくチェックするために、場内を回り始めたようだ。
 鷹山と華音は二人連れ立って、一階ロビー左翼の奥へと進み、関係者以外立ち入り禁止と記された、スチール製の重い扉の中へと入った。
 ここから先は楽屋棟だ。すぐそばには階段があり、四階まで繋がっている。
 一階はおもに裏方スタッフ専用、二階は楽団員専用で大楽屋と中楽屋が連なっている。
 目指すは三階である。音楽監督専用控室および客演ソリスト用の楽屋がある。
 華音は落ち着きなく辺りを見回しながら、先に階段を上っていく鷹山の背を追いかけた。

 当然のことながら、三階楽屋にはまるで人の気配がなかった。
 静まり返った廊下を進み、二人は音楽監督専用の控室へと足を踏み入れた。
 設備はすべて真新しい匂いを漂わせている。
「今日はこの後なんだったかな?」
「今はホールで照明設備のテスト中で、録音用の音響テストは高野先生とのゲネプロでチェックするそうです。ゲネプロは二時間後で、それまで楽団員は休憩となってます」
「そう」
 鷹山の返事はそれだけだった。壁際一面に設えたドレッサーの椅子に無造作に腰かけ、気難しい仕事モードの表情のまま、じっと何かを考え込んでいる。
 やがて、沈黙が二人を包み込んだ。
 何気なく壁掛け時計に目をやると、すでにお昼近かった。華音は邪魔にならないように、そっと鷹山に声をかけた。
「お昼にします? 今すぐ取ってきますから」
「ちょっと、どこ行くの?」
 思いがけず鋭い反応が返ってきたので、華音は途惑った。
「下です。お弁当は二階の楽屋の分と一緒に、下の給湯室に置いてあるから」
「ここにいて。お弁当、いらないから」
 鷹山は威圧的な大きな瞳をしっかりと華音に向け、行動を制限しようとする。まるで駄々をこねる子供のようだ。
「……じゃあ、おなか空いたら言ってくださいね」
 華音は素直に鷹山の言うことをきいた。


 音楽監督専用の控室は静まり返っている。外部の音はほとんど聞こえてこない。演奏前に集中力を高めるため、防音が厳重に施されているためだ。
 こうやって鷹山と二人きりになるのは久しぶりだった。最近は、芹沢邸の書斎でも美濃部青年をはじめとする楽団員がいることが多い。
 華音は間を埋めるように、室内の備品を物色した。
 ドレッサーの横の壁はちょっとしたクローゼットのようになっており、たくさんの衣装を掛けておけそうだ。全身が映し出される姿見も、当然のようについている。
 華音がまだ何も掛けられていないクローゼットの中に入り込んで覗いていると、ようやく鷹山が喋りかけてきた。
「明日さ、正装だから。ちゃんと準備して、そこの衣装掛けに掛けておいて」
「鷹山さんの衣装って、どこにあるんですか?」
「乾さんに聞いてよ。先月オーダーメイドで作ってもらったやつ、もう君んちに届いてるはずだから」
「蝶ネクタイは? ワイシャツは? 靴は? 明日、ちゃんと忘れずに持ってきてくださいね。あ、あと靴下は黒いやつですよ? 指揮者は座らないからズボンの裾から見えないだろうって、油断したらダメですから。ああそうだ、高野先生にも言っておかないと――」
 華音は二人きりでの沈黙状態になるのが嫌で、思いつくままに、とにかく喋りまくる。
 すると鷹山はどこにツボをつかれたのか、突然、軽く噴き出すようにして笑い出した。
「どうしたんですか? ……なんか可笑しかった?」
 鷹山はいつまでも椅子の上で身体を揺らしながら、声もなく笑っている。
「君は絶対、世話女房タイプだな。きっと、いいお嫁さんになれる」
 その言葉の真意は測りかねたが、華音は恥ずかしさのあまり、その場でくるりと鷹山に背を向けた。


 華音は部屋の中央にしつらえた応接セットのソファに腰を下ろし、再び黙ってしまった鷹山の邪魔にならないよう、スケジュール帳の整理を始めた。
 鷹山はひどく疲れているようだった。特に何をするわけでもなく、ずっと物憂げに考え事をしているだけだ。
 華音は、なんとなく気まぐれに尋ねてみた。
「悩みでも、あるんですか?」
「どうして?」
「なんか……さっきから、ため息ばかりついてるから」
 すると鷹山は、いつになく神妙な面持ちで呟くように語り始めた。
「いや……和久さんにとって、これが本当に良かったんだろうか――って」
 天邪鬼の彼にしては珍しく、素直に本音をさらしている。
 以前にもこのようなことがあったと、ふと華音は思い出した。
 鷹山が初めて芹響の定演で指揮をした日だ。あのときも本番前の控室でこうやって二人きりとなり――誰にも見せたことのない脆く崩れそうな顔を、華音に向けていた。
 艶のあるその大きな瞳には、不安げな鈍い色をたたえている。
「明日が本番なのに、いまさら何言ってるんですか? 大丈夫、和奏ちゃんはね、お父さんのことが大好きなんだから」
「……君は根本的なことが分かってないな。どう考えてもあの子はダシでしかない」
「ダシ? って、そんな」
「和久さんの未練は、そこじゃないんだ。そこじゃない……おそらく」
 鷹山は迷いを払拭するかのように、首を左右に振った。
「お陰で最近、なんかよく眠れないんだ。ちょっと昼寝させてくれる?」
 壁際には革張りの長椅子が置かれている。奥行きがあり、仮眠ベッドとしても充分使えそうだ。
 時間が来たら起こせということなのだろう――華音はそう解釈して、素直に頷いた。
「どうぞ」
 華音がそう答えると、鷹山は長椅子に移動し、自分の身体を横たえた。
 しかし、数秒後。
 鷹山はすぐさま上半身を起こした。
「ちょっと、芹沢さん」
 不機嫌そうに口をへの字に曲げながら、鷹山は手招きをしている。
 相変わらず落ち着きがない――華音は思わずため息をついた。
「……なんですか?」
「何やってるんだよ。枕がないと眠れないじゃないか」
 鷹山は頭を置くはずのスペースを、平手でポンと叩いた。
 つまり。
「…………枕?」
「いいから、早くこっちへおいで」

 ――『昼寝させて』って、そういう意味!?

 結局華音は、鷹山の要求を受け入れることになってしまう。
 華音は靴を脱いで、長椅子の端に横向きに、正座を少し崩すようにして座った。
 スカートの裾を整えたところに、鷹山は再び上半身を倒し、頭を華音の膝に預けた。頭の位置が定まらないのか、何度も頭を動かしている。
「ちょっと鷹山さん、くすぐったいからもぞもぞ動かないで」
「どっち向いて寝ようかな、右かな? でもいっつも右向いてるからたまには左にしようかな? やっぱり君の顔が見えるように上向こうかな」
「もう、動かないでって言ってるでしょ」
 落ち着きなく体勢を変える鷹山の頭を、華音は両手で押さえた。絹のような栗色の髪が指の間を流れていく。
 やがて鷹山は体勢を右下に決めると、目をゆっくりと瞑った。
 手持ち無沙汰な左手で、スカートからのぞく華音の右の膝頭を、繰り返し撫でさする。
 鷹山が呼吸するたびに、わずかに肩が揺れている。
「もうすぐだ」
 鷹山の呟く声が、華音の膝を振動させ、しっかりと伝わってくる。
「君と一緒に暮らせる」
「うん」
 華音が答えると、鷹山は目を瞑ったまま微笑んだ。
「掃除ならできるだろう?」
 もうじき訪れるであろう、待ち望んでいだ未来の生活を、淡々と口にする。
「洗濯は僕がする。得意なんだよ、こう見えても」
 華音は返事をする代わりに、鷹山の髪を指に絡ませてもてあそぶ。くすぐったいのか、鷹山は華音の膝の上でもどかしげに首を動かした。
「買い物は二人で一緒に行こう」
 特別なことでも何でもないのに、その姿を想像しただけでなんだか可笑しくなる。
「食事はさすがに期待できない、か。君はとんでもなくお嬢様育ちだしね。ハッ、始めのうちは、コーヒーも満足に淹れられなかったし」
「それ、嫌味?」
「これから少しずつ、ゆっくり覚えたらいい。料理の本、たくさん買ってあげるから」
「一緒に覚えるんじゃないの?」
 徐々に呼吸の間隔が緩やかになっていく。
「作ってるところをね……見てるのが好きなんだ」
 まるで天使のような安らかな顔だ。
 目を瞑ったまま、鷹山は言った。
「君は……僕のそばにいて。こうやって、ずっと……」
「鷹山さん」
 やがて、華音の問いかけに反応がなくなった。
「もう……眠ったの?」


 どのくらい時間が経ったのだろう。
 鷹山は完全に深い眠りについている。
 こんなにも間近で彼の寝顔を見るのは初めてだった。華音はじっと、音楽監督の顔を観察するように見つめた。
 長い睫毛。くっきりと二重のあとがついたまぶた。白くきめ細やかな肌。
 男性にしておくのは惜しいほどの美貌だ。
 そして、この形のよい唇で。
 好き勝手なことを延々まくし立てたり、怒鳴りつけたり、人を小馬鹿にしてからかってみたり――ときにキスされたりもする。
 華音は膝にかけられたままの鷹山の左手に、自分の手をそっと重ねた。そしてそのままゆっくりと探るようにして、腕のほうへと手を伸ばしていく。
 自分があのときナイフで刺した辺りは――もっと上、いや、もっと後ろだったか。
 どうして、この人を好きになってしまったのだろう。
 憎くて憎くてしょうがなかったはずなのに、どうしてこんなに――愛してしまったのだろう。

 そのときである。
 突然、控室のドアが、ノックもなしに開いたのである。
 予期せぬ状況に、華音の頭の中は一瞬にして真っ白になった。
 いきなり姿を現したのは、この男――。
「鷹山君、休憩中のところ申し訳な…………い……が……」
 仰天、唖然。
 空気が一瞬にして凍りついた。
 華音は驚きのあまり声も出せず、眠る鷹山の頭を膝に載せたまま、赤城オーナーの顔から視線をそらすことができずにいた。時間が止まってしまったような錯覚すら覚える。
 赤城オーナーは、華音と鷹山の姿を厳しい顔で凝視している。
 鷹山の眠りは深い。赤城の声に起きる様子はみせない。
 華音はこの事態を知らせようと、鷹山の肩に手をかけようとした。
 すると。
 赤城が囁くような声量で「止せ」と、ひとことだけ言った。
 華音にそのまま動くなと手のひらを向けて制し、足音を発てないようにして近づいてくる。

 怖い。
 何をされるのだろう。
 どうなってしまうのだろう。

 華音はとっさに身構えた。
 赤城は華音の正面に立ち、自分の上着の内ポケットから手帳を取り出し一枚はじくと、手帳を下敷きにして、その紙に何かを書きつけた。
 書いている間も、赤城は黙ったまま、蔑むような眼差しを何度も実の兄妹に向けている。
 そして、華音に走り書きのメモを強引に押しつけるようにして差し出すと、そのまま控室を出て行ってしまった。
 おずおずと紙を開いてみると、そこには――。

《鷹山君が起きたら、芹沢君一人で私のところまで来なさい。他言無用。》

 言い訳などとても思いつかない。
 それ以上に気がかりなのは、末尾のひと言。

 ――他言無用って、鷹山さんに言うなってこと? どうして私だけ……。

 赤城がどういう思惑でこのメッセージを書き残したのか、華音には分からなかった。



 ホールのステージ上では、高野和久とのゲネプロ――最終リハーサルが始まった。
 華音は指示されたとおり、赤城の姿を探した。
 人気のない三階席へと続くロビーの椅子に、赤城は一人、足を組み上げ座っていた。
 辺りは静かだ。
 ホールへ続く二重ドアから、微かにリハーサルの音が外へ漏れ聞こえてくる。
 華音はごくりと唾を飲み込み、ゆっくりとオーナーのもとへと近づいた。

「はっきりと言わせてもらうがね」
 赤城は落ち着き払った声で言った。
「私は君たちのことをかなり前から疑っている。限りなく黒に近いグレーだと思っている。それでも、グレーである以上は、黙って目をつぶっているつもりだった」
 完全にアウトだ。もはや誤魔化しがきくレベルではない。
 華音は愕然となった。
「現場を押さえてしまっては、さすがの私も「黒」の烙印を押さざるをえない」
「く、黒って……膝枕くらいで、大袈裟じゃないですか?」
 言い訳を試みるも、赤城には何の効力も持たない。逆に、さらなる問い詰めをされてしまうこととなる。
「膝枕くらいだと? フッ、だったら私が今ここで君に膝枕を要求したら、してくれるというのか?」
 赤城は口の端を上げ、面白くなさそうに笑った。
 どういう答えを返せばいいのだろう。華音は必死に考えを巡らす。
「……お望みなら」
「じゃあここに鷹山君を呼んで、彼の前でやってもらってもいいかな」
 ありえない、そんなこと。
「怒られるのは赤城さんですよ」
「フン、やはり真っ黒じゃないか」
 赤城は勝ち誇ったように言った。
 華音がそれ以上何も言えず黙ってしまうと、赤城はようやく語調を緩め、諭すように問いかけてくる。
「愛しているのか、鷹山君を?」
 言葉が出てこない。
「強いられてるのではないのだな? お互い同意の上なんだな?」
 華音は黙ったまま、じっと身を固くしていた。何かを言ったら足元をすくわれてしまう。
 やがて、深い深いため息が、華音の耳に届いた。
「君たちは特殊な環境下に育ったのだから、兄妹とはいえそういう関係に陥ってしまうことは理解できなくもないが――だったらそれを、一番弟子の彼にきちんと報告できるか?」
「それは……ダメ」
 華音は首を横に振った。
 ようやく出たその言葉が、無情にも赤城の言うことをすべて認める結果となる。
 赤城は好機とばかりに、華音の触れられたくない部分にどんどん入り込んでくる。
「できないのか? どうしてなんだ? 彼は君にとって家族以上の人間だろう? 本当に愛する人間ができたのなら報告したっていいはずだ」
「鷹山さんと祥ちゃんは、お互いのことをよく思っていないから――」
「そんな建前もいいところの言い訳なんか、私には通用しない。君は、一番弟子の彼を傷つけたくないと思っているんだろう? だから言えないのだ。しかし、一生黙っておくことなど不可能だ。どちらかを告げなければならないときが、必ずやって来る」
「どちらか……って?」
「鷹山君が芹沢英輔氏の実孫で、君のお兄さんであるということ――あるいは」
 華音はごくりと唾を飲み込んだ。続く言葉をひたすら待つ。
「音楽監督とそのアシスタントが私生活でも関係を結んでいるということ。……その両方だと知ったら、まともな人間なら卒倒するだろうがね」

 ――ああ、そんな。

 容赦ない赤城の言葉に、華音は身を引き裂かれんばかりの衝撃を受けた。
 目の前の大男は、自分たちの置かれている現状を、ストレートに叩きつけてくる。
 間違ったことは言っていない。正しすぎるほどの真実だ。

 まともな人間が知ったら、卒倒する。
 実の兄妹が、男女として愛し合っている――だなんて。

 ――言えない。だって、祥ちゃんは……。

「とにかく、だ。今度私の目に余るような真似をしたら、承知しないぞ。隠れてコソコソなんて、姑息な付き合いは止めろ。とにかく、甘い考えは捨てることだな」

 一緒に暮らすという申し出を、撤回したほうがいいと華音は思った。
 このままでは、鷹山が音楽監督の立場を失ってしまうかもしれない。いや――確実に。
 オーナーの赤城が自分たちの本当の関係を知っている以上、ときが来れば解決する問題ではないのだから。

 もし鷹山が音楽監督でなくなれば、誰の目を憚ることもなくなる。赤城とて、仕事上の付き合いがなくなった人間の私生活までは、踏み込んでこないだろう。

 でも、そんなことはできない。させられない。
 もう、ヴァイオリンを弾くことのできない鷹山が、いま音楽監督の地位を失うことになったら――。

 あまりにも、自分の責任が重過ぎる。
 自分が犯してしまった罪に、華音は縛りつけられてしまっていた。



 華音は新ホールでのリハーサルのあと、鷹山と明日のスケジュールの打ち合わせし、そのまま別々に帰途についた。
 すっかり日の暮れた暗く冷えた街を歩きながら、華音は先行き不透明な二人の関係に、ひたすら頭を悩ませていた。

 ――鷹山さんは、お兄ちゃんなんかじゃない。

 オーナーの赤城に言われたことを鷹山に告げようかどうか、華音は迷った。
 しかし、大舞台を前にした今、鷹山に余計な心配をかけさせるわけにはいかない。オーナーが鷹山には言わなかったのも、明日のこけら落としのことを考えてのことだろう。
 そう考えると、華音は結局、鷹山には言い出すことができなかった。

 赤城がオーナーであり続ける以上、二人がこのまま現在のような関係を続けていくことは、不可能だ。

 ――きっとこのままじゃ、駄目。


 華音が一人芹沢邸に戻ると、先に戻っているはずの高野の姿が見当たらなかった。
 華音は出迎えた執事の乾に尋ねた。
「ねえ乾さん、高野先生は?」
「今日はこちらにはお戻りになられないそうですよ」
 いつものように柔らかな物腰で、老執事は答えた。
「え? だって、明日は本番だよ? 夜遊びなんかしてる場合じゃ……」
「いえ、なんでもお店のほうで練習なさりたいということでしたよ」
 そんな乾の補足説明にも、華音の疑問は膨らむばかりだ。
 芹沢邸は平均的な一般家庭とはわけが違う。グランドピアノだけでも三台あり、そのどれもが美しい逸品だ。サロンに置かれたベヒシュタインを除いて、他の二台はコンサートにも耐えうる滑らかな音質で、調律などの手入れも行き届いている。高野本人が直々に作業しているのだから間違いはない。
 これまでも、こけら落としのための練習を、高野は芹沢邸のピアノで練習をしていたのだ。
 それなのに。
「練習って……どうしてわざわざ――」
 そこまで言って、華音はようやく思い当たった。

 ――あの、スタインウェイ。

 高野が当時婚約者だった元妻のために作らせたスタインウェイのピアノが、彼の店には置いてある。
 離婚するに至ったいわくつきの楽器だ。

【和久さんの未練は、そこじゃないんだ】

 鷹山が昼間そう言っていたのを、華音は思い出す。
 そして、高野は――。

【でも、これで本当に終わるんだなーって……】

 その最後を迎えるために、思い出のピアノに向かい、一人孤独に旋律を奏でているのだろうか。

 こけら落としは明日だ。
 太陽が東から昇り朝を迎えると、新しい時代の幕開けとなる華々しい祝宴が待っている。
 そして――。
 鷹山との同居の約束の期限も、明日のこけら落としが終わるまでだ。

 ――何が何だか、もう分かんない。

 とにかく今はアシスタントという仕事にだけ集中しよう――華音はなんとか気持ちを切り替えようと、努めて明るい声を出した。
「ねえ乾さん、鷹山さんの衣装ってどこ?」
「旦那様のお使いになられていたクローゼットに、ちゃんとご用意しておりますよ」
 老執事は嬉しそうに目元を緩ませた。



 いまにも雪が降り出しそうな、曇天の朝を迎えた。
 今日は芹響にとって、特別な一日となる。
 華音は朝食もそこそこにすませ、音楽監督の衣装の入ったスーツケースを肩から提げると、意気揚々と新ホールへ向かった。

 ホールへ到着すると、すでにエントランスでは数名のスタッフたちが忙しそうに動き回っていた。
 受付担当の若い女性スタッフが、華音に向かって意味ありげに目配せをしてくる。
 その視線の先を何気なく辿ると――。
 エントランスの奥にある休憩スペースに設置されたベンチに、男が一人座っていた。
 黒皮のコートに、白のスーツとグレーのシャツ。モノトーンでまとめているが、暖色系の内装で統一されたホール内では、その白黒のコントラストがとてもよく目立つ。
「稲葉さん!? 随分と早かったんですね。会場入りはお昼前って、聞いてたんですけど……」
 華音は慌てて、男のもとへと駆け寄った。
 そこにいたのは、本日の主賓であるピアニスト・稲葉努だった。
 華音は腕時計とエントランスの大きな壁掛け時計を交互に見て、現在の時刻を確認する。
 時計の針は、九時ちょうどをさしている。
 稲葉は涼しげなつり目をゆっくりと細め、肩をすくめてみせた。
「僕もそのつもりだったんですけど、昨夜遅くに高野君から電話をもらいましてね。話があるから、朝イチで会場入りしろって、脅されたんですよ」
「脅された? 高野先生にですか!?」
「ああ、そんなに驚かなくても大丈夫ですよ。ようやくやる気を出してくれて高野君に宣戦布告でもされるんだったら、僕としては嬉しいですから」
「はあ……そうなんですか?」
 稲葉努が好戦的な人間であることを、華音は高野から聞かされていた。実際それを目の当たりにし、華音は妙に感心してしまう。
 しかし、この好戦的なピアニストを呼び出した本人の姿は、まだ見当たらない。
「もう皆さんおそろいですか? 高野君が来る前に、先に赤城さんと鷹山君にご挨拶したいんですが」
「ええ。稲葉さんと高野先生の控室は、鷹山さんと同じ三階ですから、ご案内しますよ。オーナーは……まだ来てないかもしれないです。あの人、本業とかいろいろと忙しいみたいで」
 二人が連れ立って楽屋棟へ向かおうと、エントランスを横切ろうとした。

 そのときである。

「稲葉――」
 華音と稲葉の前に立ちはだかるようにして、高野和久が姿を現した。
 昨日のリハーサル時とまったく同じ服装だ。芹沢邸には寄らずに、自分の店から真っ直ぐホールへ来たのだろう。本番前だというのに髪はボサボサのままだ。
 稲葉と高野が顔を合わせるのは、芹沢邸での打ち合わせ以来、ほぼ二ヶ月ぶりのことだった。
 高野は、宿敵の顔を、冷ややかに見つめている。
 華音は固唾を飲んで、その様子を見守った。
「よかった、来てくれて。ここまで来て逃げられたら、どうしようかと思ったよ」
「逃げるわけないだろう。お前に言いたいのはひと言だ」
 稲葉は、ようやく本気を出したライバルの挑発的な眼差しに、満足げに目を細めてみせた。そしてそのまま、続く高野のひと言を待っている。
「俺が――シューマンを弾く」
「えっ? ち、ちょっと、高野君?」
 呆気に取られている稲葉に、高野は更にたたみかけた。
「稲葉は後半にまわれよ。お前が前半で弾こうってのがそもそもの間違いなんだ」
 こけら落としの演目は、第一部で稲葉努ソロによるシューマンのピアノ協奏曲、第二部で高野和久ソロによるグリーグのピアノ協奏曲、となっている。
 宣伝ポスターやチケットはもちろんのこと、受付で配布される予定のプログラムにも、そのとおり印刷されている。
 華音は目の前の二人のピアニストのやり取りを、ただ呆然と眺めていた。眺める他なかった。
「何を言い出すんだよ、高野君!? もうすぐ開演だっていうのに」
「俺を同じ舞台に引きずり出した『御礼』だよ。ゴメン、ノン君。そういうことだから、楽ちゃんによろしく」
「――よろしくって、そんな……嘘」
 華音の頭は真っ白になった。
 とんでもない事態に発展してしまったことだけは、かろうじて分かる。
「ちょっと待ってよ、高野君! 高野君って!」
 困惑する天才ピアニストは、足早に去っていく宿敵の背に向かい、必死に叫ぶ。
 しかし高野和久は歩を緩めることなく、右手を上げて、遥か遠くから背中越しに叫んだ。
「音楽の女神に愛されている天才ピアニストなんだろ、稲葉努は!」
 できないとは言わせない――そんな高野の挑発が、エントランスいっぱいに響き渡った。