夢幻の章 (14)  実に美しき狂乱の宴

 華音はスカートの裾が乱れるのも構わず、だだっ広い新ホールのロビーを全力疾走した。
 ホールの脇を通り抜け、そのまま楽屋棟へ入り、三階目指して階段を二段飛ばしで駆け上がる。
 立ち止まっている猶予はない。
 華音は音楽監督専用控室の扉を、蹴破らんばかりの勢いで開けた。
 だか、しかし。事の顛末を説明しようにも、呼吸が乱れてしまっていて、すぐにまともに喋れる状態ではない。
 部屋の主は、綺麗な顔を不機嫌そうに歪ませて、腕組みをしながら長椅子に腰かけていた。
 いつもの登場とは異なる華音の様子にも、悪魔な音楽監督は特にその理由を尋ねることはせず、開口一番、文句を垂れ始める。
「どこ行ってたんだよ、僕の衣装、ちゃんと掛けておいてくれよ。まったく、今日は正装だってあれほど言って――」
 事情を知らぬとはいえ、いつものようにあれやこれやと構ってくる鷹山がやけに鬱陶しくなり、華音は持っていた音楽監督の衣装カバンを、持ち主に向かって投げつけた。
 鷹山は不意をつかれ咳き込みながら、恨めしそうに衣装カバンを抱き締める。
「何するんだよ! 絶対、肋骨折れたよ! 君に慰謝料請求するからな!」
「い、慰謝料? なに馬鹿なこと言ってるんですか」
「百万円」
 鷹山は痛がる素振りを続けながら、華音のほうへ片手を差し出してくる。
「ほら早く。なに、君払えないの? じゃあ、代わりに『何でも言うこと聞きます』って宣誓書、書いてくれる?」
「イヤです。なによ、百万くらい……オーナーに言ってアルバイト代、前借りしてくるもん」
「ふざけるなよ。僕がそんなことを許すとでも思ってるのか? 君、最近口答え多すぎ。どうして素直にゴメンなさいって僕に謝れないのかな。ホント可愛くない、可愛くない、可愛くない!」
 いったん火がつくと、鷹山の機関銃のような喋りは簡単には収まらない。
 しかし、事は急を要している。今は鷹山に付き合ってじゃれている場合ではない。
 華音は気を取り直し、次から次へと浴びせかけられる鷹山の罵詈雑言を振り払うようにして、負けずに言い返した。
「もう、可愛くなくてもいいですよ! そんなことよりも鷹山さん、大変なんです! 高野先生と稲葉さんが、今の今になってソロの順番で揉めてるんです!」
「揉めてる? どういうこと?」
 鷹山の顔つきが変わった。ようやく、真剣に人の話に耳を傾けられる仕事モードに入ったようだ。大きな瞳を数度瞬かせ、しっかりと華音の顔を見つめる。
 華音は急いで説明をし始めた。
「高野先生が、自分がシューマンを弾くって言い出したの。自分が第一部にまわるから、稲葉さんは第二部で、って。稲葉さんは突然のことで面食らってるみたいで」
「つまり、二人でシューマンを弾く『同曲異演』じゃなくて、演目に変更なしでソロだけを交換する、ということ?」
「でも、そんなのありえない……」
「いや、そうでもないよ。当日のソロ代役は、この業界じゃ珍しいことじゃない。ただ、今回のようなケースは僕も経験がないな」
 こけら落としは一週間後でも三日後でも明日でもなく、今日これから開演予定なのである。
 いくら世界的に活躍するピアニストといえども、簡単に了承できることではないだろう。
「鷹山さん、どうするの?」
 すべてはこの男の決断にかかっている。
 華音はすがるような思いで、鷹山の言葉をじっと待った。
「今から打ち合わせをするから、君は上手く誘導してくれ。稲葉さん、和久さんの順で、ここへ呼んでくれる?」
「ひょっとして高野先生の要望、聞き入れるんですか? そんな、今日これからの演奏会で稲葉さんがOKするはずないですよ!」
「提案してみなければ分からないじゃないか。だから、稲葉さんとの打ち合わせが先なんだよ。分かった?」
「そんな……私、もう一度高野先生を説得してみる」
 華音は、目の前に立つ鷹山の脇をすり抜けるようにして、ドアのほうへ向かおうとした。
 すると、すれ違いざまに、鷹山に腕をつかまれてしまった。
 なぜ引き止められたのか、その理由がまるで分からない。華音は、腕を掴んだままの相手に思わず聞き返した。
「どうして?」
「和久さんは、どうしてもシューマンを弾いて聴かせたいんだよ。ある人のためにね」
「ひょっとして――――仁美さん?」
 鷹山は首を縦に振った。
「和久さんがどうしてそういうことを言い出したのか、稲葉さんは当然分かってるさ。だから、それについてどうするかを尋ねるんだ。いいかい、順番を間違えるなよ? 稲葉さんが先、はい、Go!」
 鷹山はようやく華音の腕を放して方向転換させると、ドアに向かって力強く背中を押し出した。



 華音は鷹山の指示どおり、まずは稲葉努の控室へと出向き、音楽監督の控室へと連れて戻ってきた。
 先程まで取り乱していたはずの稲葉も、今はいたって冷静だ。鷹山と握手を交わしてにこやかに挨拶をし、勧められるがままにソファ奥の上座に腰かける。
「どうなさいますか、稲葉さん?」
 慎重に稲葉の様子をうかがいながら、鷹山は尋ねた。
 天才ピアニストはしばらく黙ったまま、向かい合う鷹山と華音の顔を交互に見つめていた。
 長い長い沈黙が、音楽監督の控室内を包み込む。
 やがて、ゆっくりとため息をつくと、稲葉努は観念したように口を開いた。
「……冒頭は早めですが、オケはそれに引っ張られないように。フィナーレのカデンツァは高野君よりもゆっくりです」
 稲葉は淀みなく答えた。
「稲葉さん……」
 事態の打開は難しいとの予想を裏切って、稲葉努はソロ交換による曲目変更を、なんと了承してみせたのである。
「グリーグなら、なんとかなりますから。同じ曲を弾くんじゃ、今の高野君には酷なことになるだろうし」
「よろしいんですか、本当に?」
 鷹山がもう一度確認するように尋ねた。
「僕はね、彼女が幸せなら、本当にそれでいいんですよ。高野君がそれを放棄したから、何か悔しかったのかな。ははは」
 稲葉努は気品のある柔らかな笑顔で、鷹山に答えた。
 遠い昔に思いを馳せ、稲葉は懐かしそうに語りだす。
「高野君も変わらない。昔っから、僕が本気で挑発しないと、素直に気持ちを出そうとしないんですよ。僕は死ぬまで彼女のことを愛し続けますから。彼女こそが僕のロジェールです」
「ロジェール?」
 鷹山は軽く稲葉に聞き返した。
 華音はここぞとばかりに、得意になって音楽監督に説明を披露する。
「『純潔な乙女』って意味ですよ、鷹山さん」
「どうして君がそんな言葉知ってるの?」
 鷹山は不思議そうに首を傾げている。
 華音が肩をすくめて稲葉に目配せをすると、彼は嬉しそうな笑顔をみせて、ゆっくりと頷いた。
「愛することができる人間が存在するということは、素晴らしいことなんですよ。たとえそれが叶わないものだとしても。……そばに一緒にいることだけが、愛じゃないですから」
 華音は思わず目を瞠った。
 天才ピアニストが口にした言葉が、もやもやとした華音の胸の真ん中を突き抜けていく。
 心の中の何かが、脆く崩れ去っていくのを、華音ははっきりと感じた。
「久しぶりに、全力で演奏しなければいけないようですね。高野君の本気を引き出した以上は、正面から受けてたたないと」
 稲葉の瞳は情熱に彩られている。しかしそこにあるのは『敵対』でも『挑発』でもない。
 音を奏でる『同志』としての、力強い眼差しだった。


 華音は稲葉を客演用の控室へ再び誘導した後、向かい合うもうひとつの客演控室へ出向き、今度は高野和久を呼び出した。
 厄介事を引き起こした張本人である。
 高野は説明も言い訳もせずに、いつになく硬い表情でじっと鷹山の顔を見つめている。
「楽ちゃん、俺は稲葉よりも全体的に速いかも。特に三楽章ね。弦がもたつくとちょっと辛いかなー」
 すでに稲葉にソロ交換の了承を得ていることもあり、鷹山の表情には幾分余裕があった。
「大丈夫ですよ。芹響は和久さんのピアノの呼吸をちゃんと知ってますから。いくつか確認させてください。一楽章の終わり、オーボエが入るタイミングは――」
 鷹山は淡々と譜面をめくり、気になる箇所を一つ一つ高野に確かめていく。
 飛び交う音楽用語は、華音が知っている言葉もあれば聞きなれないものもあった。
 一通り打ち合わせを終えると、高野は呟くように言った。
「俺だって弾こうと思えばあいつよりも上手く弾けるんだよ。シューマンは仁美ちゃんが好きだから、変に緊張するだけで……俺、あいつに告白とかプロポーズとか、まだ一回もしたことないんだ」
 興味深い話だ。華音は気まぐれに聞いてみた。
「へえ、いつも仁美さんのほうからってこと?」
「いや……彼女からも特にこれといって」
 煮え切らない高野の返答に、華音はさらに問いかけた。
「じゃあ、どうやって付き合って、結婚までしたの?」
「そんなの、成り行きってヤツだよ。何となく付き合ってたら子供出来ちゃったから籍入れてみた、ってだけのことだから」
「……いまさらだけど、高野先生ってばいい加減すぎー」
「いい加減? なのかな、やっぱり」
 華音に真実を言われ、高野は意気消沈しうなだれた。頭を両手で抱え、何度もかきむしる。

 そう、これが最初で最後。
 高野和久という一人のピアニストの、人生賭けた大勝負である。
 愛する人のために。
 心から愛する人のためだけに奏でられる、美しき魂の調べ――。

「どうしよう楽ちゃん、ノン君……俺、ものすごいアガってきた」
 突然、高野は身体を小刻みに震わせ始めた。
 これまでは突拍子もないソロ交換劇のために、頑なな態度を貫き通していた高野だったが、いざその思惑が現実のものとなると、途端に不安にかられ始めたらしい。
 しかし。高野が自ら追い込んだ状況は、あまりに厳しい。
「リハーサルをさせてあげたいんですが、稲葉さんを通すのが精一杯で、これ以上はどうにもできません」
 鷹山は困ったような表情で、高野に告げた。
 おそらく稲葉努も、一度きりのリハーサルでは到底、不安は払拭できないだろう。
 とにかく時間がないのである。
「リハ無しは、覚悟してたよ。それにアガリ症は持病だ。俺、しばらく控室にこもって精神統一してるから。じゃあ楽ちゃん、本番でね」
 高野は鷹山と華音に軽く手を振り、そのまま音楽監督控室を出て行った。


 その後、音楽監督控室は再び静寂を取り戻した。
 一仕事を終え鷹山は疲れたのか、ソファの背に身体を投げ出すようにして預け、ゆっくりと呼吸を繰り返している。
「和久さんの愛は、ピアノの旋律なんだよ、きっと」
 天井を眺めている大きな目をゆっくりと瞬かせながら、鷹山はそんなことを呟いた。
「そしてまた彼女も、和久さんの旋律を理解することができるんだ。いいかい? 言葉じゃないんだよ。音楽も、愛する心も!」
 華音は静かに鷹山のお喋りに耳を傾けていた。
「いがみ合ってお互い関わり合いたくないって言ってるわりに、お互いの奏法を細部まで熟知してるんだから。可笑しいじゃないか? 『僕は高野君より――』『俺は稲葉より――』ってさ。リハーサルで顔を合わせていないにも関わらずね。それにね、お互い信頼していないととてもできないよ。直前でソロをチェンジするなんて」
 鷹山は一通りまくし立てて幾分落ち着いたのか、今度は一転して静かになる。
 大舞台を前にして緊張し、情緒不安定になっているようだ。
 華音は見るに見かねて、鷹山の隣に移動すると、つかず離れずの距離を保って腰かけた。
「……高野先生、『御礼』だって言ってましたけど。つまり、仕返しってことでしょ?」
「いくら仕返しと言っても、演奏会を滅茶苦茶にして楽団に恥をかかせるようなことはしないよ。稲葉さんだって、できないことを了承しないだろうしね。お互いがお互いを認めた上での『仕返し』だよ」
 鷹山は空を仰ぐようにして、深々とため息をついた。そして華音の身体に自分の身体を密着させるようにして、ソファに座り直す。
 こんなときに――華音はわずかに身を引いた。
 しかし鷹山は本気で迫っているわけではなく、緊張を紛らわそうとじゃれているにすぎない。どこか不安げな瞳の色がそれを物語っている。

 ――大人のくせに、何だか子供みたい。

 そんな鷹山が何ともいとおしくなり、華音は引きかけた身体をもう一度彼のほうへ寄せ直した。
 そして、鷹山の膝にそっと手をかけると、その手を包み込むようにして鷹山の手が重ねられた。

 しばらくの間、二人は呼吸を合わせ、時間の流れに身を任せた。
 しかし。
 これは永遠に続かない、つかの間の安らぎの時間――。
 やっと、ここまで来た。
 こうしていられるのも、きっとこれが最後――華音は心のどこかで予感していた。

「これまでずっと、和久さんとのグリーグを練習してきただろう? ソロ変更になったお陰で、今日の最終リハーサルも稲葉さんとのグリーグとなる。と、いうことはつまり……シューマンは完全にぶっつけってことだよ。ハッ、どうしようか、芹沢さん」
「アシスタントに弱音はいている時点で終わってますよ、監督さん」
 くすぐったい。
 鷹山の笑う声が華音の身体に伝わってくる。おそらくそれは鷹山も同じだろう。
 情緒不安定な音楽監督は、ようやく落ち着いた兆しを見せ始めた。
 二人は笑いながら、鷹山の膝の上で繋いだ手を、何度も握り直す。
「君と仕事してるとね、どうもトラブルに巻き込まれることが多いけど、それって僕の気のせいかな」
「『僕は予期せぬハプニングが大好きだ!』って、言ってたくせに」
「僕、そんなこと言った? いつ?」
「二人でドライブしたとき」
「言ったかな……ハッ、言ったかもな」
 やがて鷹山は、名残惜しそうにしながら、華音の身体からその身を離した。
「さあ、そろそろ行こうか。やることは山積みだ」
「鷹山さん、あのね」
「なに?」
 思いがけず、鷹山が真顔で振り返ったため、華音は言いかけた言葉をあわてて引っ込めた。
「えー……っと、言おうとしてたこと、忘れた」
「君はおばあさんか? バーカ」
 鷹山は呆れたようにしながら、いつもの口の悪さ発揮させる。
「もう、バカなのは鷹山さんのほうだもん」
 華音は先に部屋を出ようとドアを開けた鷹山の背中に向かって、声を出さずに唇だけを動かした。

 ――大好き。

 ずっとずっと。
 たとえこの先、そばにいられなくなったとしても。



 華音は鷹山の後に続くようにして階段を下り、二階の楽屋棟へとやって来た。
 二階には、大勢の団員たちがくつろぐ中楽屋が連なっている。その廊下で、鷹山は大声でコンサートマスターを呼んだ。
「美濃部君! スケジュール前倒しでいくから、楽団員たちを今すぐステージに集めてくれ。今すぐだ!」
 その怒鳴るような大声で、一番近くにいた楽屋からすぐさま美濃部が顔を出した。
「え? あ、はい! 分かりました」
 鷹山の声がフロア中に響いたのか、美濃部が号令をかけるまでもなく、みな流れるようにそれぞれの楽屋を出て、ステージへと下りていく。
 そこへ、不審げな面貌で藤堂あかりが近づいてきた。
「監督、何があったんですか?」
「藤堂さん、君は僕から絶対に目を離さないで。いいね?」
 鷹山の抽象的な説明に、あかりはさらに訝しげに聞き返す。
「何があったのかをちゃんと教えてください」
「どうせ君はできないとか言うに決まってる。あいにく君の説教を聞いている時間はないんでね」
「決めつけないでください。監督がお決めになったことでしたら、私は意向に沿うよう尽くします」
 鷹山にとってそれは、予想に反した言葉だったらしい。心にもないことを――そう言いたげな鷹山は、蔑むような眼差しであかりを見た。
「へえ……僕はてっきり、あの男の言うこと以外、素直に聞くことなんてないと思ってたけどな」
「どう思ってくださってもそれはあなたの自由ですけど、それをわざわざ口に出して言うことですか? 私のことなどあなたには関係ないでしょう?」
 見るに見かねて華音が仲裁しようとすると、それよりも先に美濃部が二人の合間に入り込んだ。
「あかりさん、落ち着いて」
 すでに楽屋には鷹山と華音、あかりと美濃部の四人だけとなっていた。
 鷹山は白々しくため息をついてみせた。そしてようやく、淡々と事態を説明し始める。
「稲葉さんと和久さん、ソロを交換するから。演目に変更がないのが不幸中の幸いだ」
 美濃部とあかりの表情が変わった。事態を知らされて一気に緊張が走る。
 特に経験の浅いコンサートマスターは事の重大さに気づいたのか、どう動いてよいのか分からずに立ち尽くす。
「ソロ交換って……今の今になってですか? だって、そしたらシューマンのリハは……」
「やってる時間ないから、ぶっつけで」
「ぶっつけって……こけら落としの一曲目ですよ? ただでさえシューマンは出だしが怖いのに……」
 いつもは理路整然とした美濃部が、煮え切らない歯切れの悪い喋り方をする。
 鷹山は笑顔を見せると、美濃部の肩を叩いて、さらりと告げた。
「美濃部君、君はオーナーを捜して、臨機応変に対処するようにと伝えてきてくれ。打ち合わせしている時間はないから」
「ええ? 臨機応変って――そんな」
「大丈夫だよ。音楽の知識はなくても、運営面のことならあの人は上手くやってくれる。開演は予定通りの時刻でいくと、そう伝えて。いい?」
「はい、では行ってきます!」
 使命感を帯びて意気揚々と楽屋を出て行く美濃部を見送りながら。
 ふと気づくと、藤堂あかりは呆れ顔で鷹山の顔を見つめている。
 美濃部のあしらい方に、あかりは何か思うところがあったようだ。
「どうした? フン、やっぱり説教か?」
「やるしかないんでしょう? だったら、私たちも早くステージへ行きましょう。時間が惜しいですから」
「藤堂さん」
 鷹山は先に出て行こうとする美貌のヴァイオリニストを呼び止めた。
「美濃部君のことを支えてやってくれ――頼む」
「分かっています、監督」

 鷹山の後ろで一部始終を眺めていた華音は、えもいわれぬ気持ちで一杯になっていた。
 音楽監督として仕事をしているときの鷹山は、溌剌としていて格好いい。人の心理を読み、その扱いも上手い。
 どんな突発的事態にもすぐに対処できる瞬発力。そこには、華音にだけ見せる脆く崩れそうな繊細さは、どこにも見られない。
 鷹山にとって芹響の音楽監督は、まさに『天職』なのだろう。

 ――やっぱり、この人から『音楽監督』は奪えない。


 鷹山と華音は、楽屋棟から舞台袖までやってきた。
 反響版に仕切られたステージから、煌々としたライトの光がもれて、薄暗い舞台袖をほのかに照らしている。
 団員の数名はすでにステージへ移動し、それぞれ楽器のチューニングを始めている。残りの団員はいまだソロ交換の事態を知らないため、舞台袖で悠々と談笑している。

 三階の控室から下りてきた稲葉努が、舞台袖へと姿を現した。
 もうじき稲葉との最終リハーサルが始まるのだ。
「芹沢さん、君はこれから高野さんのご家族と一緒にいて、そのあとは会場で聴いていて」
 いったい何を言い出すのだろう――華音は途惑いを隠せない。
「あの、でも。そしたら、鷹山さんのサポートは誰がするんですか? いつもの定演とはわけが違うんですから。ただでさえソロが換わって混乱してるっていうのに」
「ジャッジは公平であるべきだから。君が彼女たちのそばにいて、ちゃんと見届けてきてよ」
 鷹山は、そのまま稲葉努のほうへ向かおうとした。
 華音はとっさに鷹山のシャツの袖に手をかけ、思わず引き止めた。
「そんな……鷹山さんを放っておいてなんて、行けない」
 その瞬間。
 引き止められ振り返った鷹山が、石像のように固まった。しっかりと目を見開き、華音の顔を凝視したまま、じっと動かない。
 周囲から、若い団員たちのささやく声、そして、どよめくような笑い声が起こった。
「うわわ、可っ愛いー」
「すげー、あの監督が照れてる……」
「こらこら聞こえるって! しーっ」
 もちろん筒抜けだ。
 華音は楽団員たちの微妙な反応に、無意識に自分のとった行動が、無性に恥ずかしくなってしまった。
「ハッ、……大丈夫だよ、僕はこれでも舞台慣れしてるんだから」
 音楽監督はようやく表情を緩めると、そっとアシスタントの手を振り解き、そのまま背を向けた。
 はたして鷹山は本当に照れているのだろうか。確かに、いつもはどこまでも饒舌で何を言っても三倍返し必須の彼が、何も言えずに黙ってしまうことなどあり得ないのだが――。
 しかし今の華音には、それを確かめる術も余裕もなかった。


 ステージ上では、稲葉努との最終リハーサルが始まっている。
 華音はふと、高野がどうしているのか気になり、一人で三階の客演控室まで戻ってきた。
 すると。
 水色のワンピースに白のコートを手に携えた少女が、高野の控室の前にたたずんでいるのを見つけた。
 高野の一人娘・和奏である。演奏会前に陣中見舞いにやってきたのだろう。
「あ、ちょうどいいところに。どうしたの和奏ちゃん? お母さんは?」
「中にいる。お父さんね、お酒飲んでグダグダしてるの。子供は外で待ってろって」
 華音はため息をついた。またか、という諦めにも似た気持ちである。
「高野先生はいつもだよ? グダグダって、どのくらいかな?」
 華音は中の様子を確かめようと、客演控室のドアをほんの少しだけ、そっと開けた。気づかれないように細心の注意を払いながら、中を覗き込む。
 華音の下に和奏がもぐりこみ、二人で一緒に中の様子をうかがった。

 高野はもうすでに衣装に着替えた状態でソファに寝転がり、その前には赤川仁美がこちらに背中を向けて立っている。
「……どのくらい飲んでるの?」
「気付け薬だ。たいした量じゃない」
「量はたいしたことなくても、和久君は平均よりもずっとずっとアルコールに弱いんだから! 気をつけないと」
 高野は首を振り、のそのそと上半身を起こした。
「いつまでも奥さん面するなよ。こんな茶番に付き合わされるんだ、飲まなきゃやってられないっての」
 高野は目の前のテーブルから缶に入ったお酒らしきものを手に取ると、元妻に当てつけるようにして飲み干す。
「茶番だなんて。まだ怒ってるの? 和久君って、昔っから執念深いよねえ」
 元妻が慣れたようにお気楽に言うと、高野は酔いに任せて空になった缶をテーブルの上に叩きつけた。
「怒るに決まってるじゃないか……お前もピアニストなら分かるだろう。彼女のために作らせたピアノを、他の男に弾かせたりなんかしたら、怒らずにはいられない」
 高野の真剣な眼差しが、別れた伴侶に向けられた。
 しかし。返ってくるのは相変わらずこんな調子だ。
「おっかしー。何でそこで怒るかなあ」
 陽気に笑い声を上げながら、元妻は続けた。
「他の誰でもない、稲葉君だから弾かせたのよ」
「…………はあ?」
「どうして分からないかなー、和久君は」
 高野は言葉を失っている。言っていることがまったく理解できていないようだ。
「稲葉君は和久君にとって、かけがえのない大切な友人でしょ。もちろん、私にとっても――」
「でも稲葉は、お前のことを友人だとは思ってない。特別な感情を抱いてる」
「知ってるよ。ずっとずっと前からね」
 高野の両目が驚いたように見開かれた。瞬くこともしばし忘れたまま――。
 元妻は楽しそうに言った。
「和久君と付き合う前から、知ってたよ。それでも、私は和久君を選んだのよ。もっと自信を持ちなさいよー」
 高野は肩を落としながら、諦めにも似た深い深いため息をついた。
 もう、どうでもよくなってしまったらしい。
「仁美ちゃん。俺、シューマンを弾くから」
「へぇー、交換したの?」
「うん。ついさっき、無理矢理」
「あらあら、稲葉君も大変ねえ。でもきっと平気よね、天才だもの」
 愛する女性にこうも軽くさらりと言われてしまっては、稲葉も報われないだろう。
 高野はため息混じりに呟いた。
「……二度目だ、あいつの弾く曲奪うの」
「あ、ホントだー。あのときとおんなじだね。私が、和久君のピアノに恋した日――」
「悪いけど、俺はその日のことあんまり覚えてないから」
「じゃあ、今日のことは覚えていてね。私がもう一度、和久君のピアノに恋をする日、だから」
 彼女がそう、優しく告げると。
 高野は元妻の前で珍しく、照れたようなほころんだ笑顔をみせた。

 一部始終を見ていた二人の愛娘・和奏は、深々とため息をつき、背伸びして背後の華音に耳打ちした。
「恥ずかしいの……カノちゃんあたし、もう、見てられない」
 華音は笑いながら和奏を抱き締めて、そっと控室のドアを閉めた。


 その後――。
 華音は仁美と和奏を連れ、新ホールの内部を案内していた。
 しばらくすると、高野の元妻がごった返すエントランスの一角を指差した。
「ほら見てあそこ。富士川君じゃない?」
「あ、ホントだ。カノちゃんちのお兄ちゃんだ」
 その言葉に、華音の緊張は一気に高まる。指差された方角を見ると、そこには。

 ――うそ……祥ちゃん。

 背の高い富士川のことは、すぐに見つけることができた。
 向こうもすぐに気づいたらしい。
 仁美と和奏は状況を察して、いったん華音のそばを離れていった。
 富士川は、白髪の紳士の後ろに控えるようにして、ゆっくりと近づいてくる。
 やがて華音の前で二人は足を止めると、後ろにいた富士川は事務的に、礼儀正しく挨拶をした。
「県連を通してご招待いただきました。本日はまことにおめでとうございます」
 華音には見覚えがあった。祖父と交友のあった、音楽界でも高名な人物だ。

 大黒芳樹。
 富士川が所属する団体・シティフィルの常任指揮者を務めており、その昔は祖父と同じくヴァイオリニストとして名を馳せたことで広く知られている。

 大黒氏は華音の姿をとらえると、目を細め、気さくに話しかけてきた。
「いやー、ちょっと見ないうちに随分ときれいなお嬢さんになったな。英輔さんが大切にしてきただけのことはあるね」
「そうですね」
 富士川は機械的に相槌を打った。
 祖父と同じような立場の人間とはいえ、富士川の態度は師に対するそれとはまったく違っていることに、華音は驚いた。
 付き合いが浅いと言ってしまえばそれまでなのだが――。
「君にとっては懐かしい人もたくさんいるんじゃないか? 私は先に席についているから」
 そう言って立ち去ろうとする大黒氏に、華音は慌てて説明をした。
「あの、招待席は一階の中央ブロックです。青の制服を着たうちのスタッフが誘導してくれますので、最寄りのドアからお進みください」
「ありがとう。では富士川君、ごゆっくり」

 ――なんて気まずい……。

 華音が口を開こうとした瞬間、後ろから和奏が飛びついてきた。
 大黒氏が去るのを待っていたらしい。
「お兄ちゃん!」
「あれ、和奏ちゃん? 久しぶりだね。仁美さんもお変わりなく」
 富士川は、古くから高野の家族と付き合いがあった。高野一家が芹沢家にやってくるたびに、お喋りに遊びにと付き合うのは、いつも富士川の役目だった。
「この前カノちゃんちに行ったんだよ! でもお兄ちゃんいなかったから、つまんなかったー。ねえねえ、今どうしてるの?」
「ふーじかーわ君? なんだ、元気そうじゃない。んーでも、ちょっと痩せたかな? ねえ、華音ちゃん?」
 富士川と言葉をかわすこともままならない状態で、急に話を振られてしまい、華音は途惑うばかりだった。しどろもどろになりながら、目の前に立つ長身の男をちらり見やる。
「え? そ、そうですね……でも、祥ちゃんはもともと痩せてるから」
 華音は当たり障りのない返答をした。
 すると、赤川仁美は職業病なのか、先生が生徒を説教するように富士川にくいついた。
「また一人であれこれ思い詰めて、悩んでるんじゃないでしょうね? ダメよ? 男の人ってどうしてこうも意地っ張りなのかなー。富士川君は前科があるんだから、自分の身体は大切にしないと!」
「前科って……まるで犯罪者扱いですね」
 富士川は楽しそうに笑った。古くからの友人と懐かしい思い出を語り合うかのような、そんな優しい表情をみせている。
「あら、犯罪よ! 富士川君が倒れたりしたら、大切な人を悲しませることになるのよ? 犯罪よ犯罪ー!」
「俺には、悲しんでくれる家族はいませんから」
「何言ってるの、華音ちゃんがいるじゃない?」
「――そうでしたね」
 無機質な声色で、富士川は淡々と言った。
 さらりと過去形で。
「あらやだ、私ったら気がつかなくてー。さ、和奏。先に座ってましょ」
「えー、何で? 始まるまでまだ三十分もあるよ。もっとお兄ちゃんと一緒にいる」
「いいから、こっちへいらっしゃーい。じゃあ、またねー、富士川君」
 赤川仁美は、芹沢家の複雑な事情を知ってか知らずか、気を利かせるようにして、渋っている娘を連れて客席へと姿を消した。


 ロビーは一般客や招待客でごった返していた。
 祝いの席に相応しく、普段の演奏会に比べてみな服装も煌びやかだ。持参する花束の香りが辺りに漂う。
 ロビーの片隅のベンチに、華音と富士川は取り残された。周囲には大勢人がいるのに、どことなく空虚感がまとわりつく。
 何ともしがたい気まずい空気が流れる。
 二人きりにはなりたくなかった。
 富士川は黙ったまま、穏やかな表情で行き交う観客を他人事のように眺めている。

 華音は沈黙を破るようにして、富士川に話しかけた。
「この前は……ごめんなさい」
「別に、華音ちゃんが謝る必要はないよ」
 淡々としたものだ。思わず拍子抜けしてしまうほどだ。
「本当はここへ来るのを遠慮させてもらおうと思ったんだけどさ、大黒先生がどうしてもって。どうせみんなは舞台裏にいるだろうし、顔を合わせずにすむかなと思って。……ひょっとして、迷惑だったかな?」
「そんなことない。来てくれてありがとう」
 いつもと変わらない富士川の態度に、華音は安堵した。
 このまま自然に疎遠になっていくものだとばかり思っていた。
 鷹山相手だと露骨に無視をされ口をきかなくなってしまうのに、富士川は華音が何をしても何事もなかったように接してくれる。
 あんなにもひどい言葉をぶつけてしまったというのに。

 ――やっぱり、祥ちゃんは特別。

「それにしても凄いホールだ。芹沢先生が生きていたときだって、こんなホールで演奏するなんて考えられなかった」
 富士川は辺りをゆっくりと見回した。素直に感心しているようだ。
「祥ちゃんのせいなんだから」
「俺のせい? どうして?」
「公会堂を乗っ取ったりするから」
 ストレートすぎる言葉に、富士川は面食らっている。気持ちを落ち着かせようとしているのか、眼鏡のフレームを軽く持ち上げ直す。
「あのときは、とても芹響が定演を続けていけるとは思えなかったからね。いまさら何言っても、言い訳にしか聞こえないと思うけど」
「もういいの、すんだことだし。だからね、祥ちゃんのせいでこの専用ホールができたの。わずらわしい行政の手続きに悩まされないように、って」
「ははは、そうか。俺、責任重大だな」
 拗ねる子供を上手くあやすように、富士川はさらりとかわした。
 付き合いは長かったため、その扱いは手馴れたものだ。だから富士川とは、そうそう口喧嘩には発展しない。
 楽だ――華音はふとそんなことを思った。
 大切な人なのだ。
 たった一人の、大切な家族。
 たとえ血の繋がらない他人であったとしても、華音にとってはかけがえのない大切な人なのだ。

 しばらく二人は黙ったまま、観客が行き交うせわしないロビーを眺めていた。
 沈黙がいつの間にか心地よい。昔の二人に戻ったような、そんな感覚に陥る。
「悔しかった……のかな。鷹山に言われた言葉が突き刺さって」
 突然、富士川が呟くように言った。
 想いが言葉となってあふれ出す。
「楽団を存続させるかどうかは、俺が言い出すのじゃダメだって。芹沢の名を持つものが、華音ちゃんが言い出さなくちゃダメたって、そうあいつに言われてさ」

 告別式のあった日の夜。
 鷹山がウィーンからやって来た、あの日のことだ。
 楽団の今後を話し合う席で、確かに鷹山はそう言った。

【それを、富士川さんが言い出すのでは駄目なんだ。『芹沢』の名を持つ君が――いいか、君が言わなくては駄目なんだ】

「俺は、そんなことできるわけがないと思ってた。華音ちゃんに楽団のことが分かるはずがないし、自分にも自信がないことを華音ちゃんなんかに……ってさ。もちろん、楽団のことで華音ちゃんに心配や苦労をかけさせるなんて、絶対にしたくないことだったし――」
 富士川の言っていることは決して間違ってはいないのだろう。祖父が突然この世を去ってしまったあの状況では、誰だって同じことを思ったに違いない。
 華音自身も、まさか楽団の仕事をするなんて思ってもみなかった。
「鷹山は俺とはまるで逆だ。華音ちゃんを小間使いのように扱って、振り回してさ……でも、今の華音ちゃんはとても活き活きしてる」
 華音は思わず目を瞠った。
 富士川の眼鏡の奥の目が、優しく緩む。
「あの大黒先生に対しても堂々としてて、さっき客席へと誘導してただろう? 驚いたよ、俺の知らない華音ちゃんだったから」
「祥ちゃん――」
「前はあんなじゃなかった。芹沢先生に縁のある音楽界の重鎮が来ると、いつも俺の後ろに隠れてたのに」
 確かに。そうだったかもしれない。
 何かあると、いつもそうやって富士川の背に隠れ、そしてかばわれていた。
 でも今は。
「そんなことしてたら、鷹山さんに怒鳴られて罵倒されて終わりだから。そんなのにいちいち負けてられないし」
 華音がそういうと、富士川は深い深いため息を一つついた。憑き物が落ちたような、そんな穏やかな笑顔を華音に向ける。
「華音ちゃんのことは何でも知ってたつもりだったのにさ、なんだかもの凄く新鮮だった」
 照れくさそうにしながら、富士川はしみじみと言う。
「ここ数ヶ月で随分と大人っぽくなったし」
「そんな、お世辞ばっかり」
「俺が華音ちゃんにお世辞を言ってどうするの。小さい頃から可愛かったけど、今はむしろ綺麗になったというか」
 誉められて嬉しくないわけがない。幼い頃からの自分を知っている人物に言われると、それは尚のこと。
 華音は気恥ずかしさを隠しながら、富士川にお礼を言おうと口を開きかけた。
 そのとき。
「でもそれが俺じゃなく、すべて鷹山のお陰なのかと思うと――妬ける」
 一気に全身の血が引いた。
 喧騒のロビーが一瞬にして無音になる。
 何も聞こえない。何も見えない。
「もう、俺は――華音ちゃんには必要ないってことかな」

 演奏会開始五分前。
 1ベルのトランペット・ヴォランタリーが、ロビーいっぱいに鳴り響く。
 じゃあね、とひと言言い残し、そのままホール客席へと向かう富士川の背中を、華音はただ呆然と見送った。