夢幻の章 (15)  崩壊の始まり

 演奏開始前、満員となった客席ホールに、予定にはなかった場内アナウンスが流された。
 ピアノソロ交換が粛々と告げられると、当然のように客席はざわついた。しかし、第一部のソロを受け持つ高野と指揮者の鷹山が揃ってステージへ姿を現し、笑顔で客席に向かってお辞儀をすると、何事もなかったように緩やかな拍手をもって迎えられた。

 高野と稲葉が大学の同期であることは、パンフレットやポスターで大々的に告知されていた。それらには、二人が好敵手であることを煽るような宣伝文句ももれなくついており、二人の競演を楽しみに足を運んだ観客がほとんどだった。
 そのため、突然のソロ交換劇は、逆に観客を喜ばせる結果となったようだった。

 高野の指が鍵盤の上に置かれると、巨大な空間は静寂に包まれていく。
 やがて――。
 こけら落としに相応しい華々しく艶やかな音が、ステージ上からあふれ出した。



 第一部が終わった休憩時間、和奏がトイレへ行ってくると言い、一人で席を立った。
 高野の元妻は、娘がそばを離れたのを見計らい、隣に座っていた華音にふわりと語りかけてきた。
「和久君のピアノはね、いつだって奇跡的なのよ」
 そう言って、先ほどまでピアノを弾いていた男の存在に思いを馳せるように、照明の落とされたステージ上を見つめ続けている。
「稲葉君は天才的で、和久君は奇跡的――」
 ホール内の喧騒の中に、仁美の凛とした声が浮かび上がる。
 華音は黙ったまま、彼女のおしゃべりに耳を傾けていた。
「稲葉君は、こと音楽に関しては完璧主義で、どんなときでも常に100点の演奏をするのよね。それは音楽家一族という恵まれた家庭環境もあるけど……プレッシャーも当然大きかったはずだから、陰で相当な努力をしていたんだと思う。まさに1パーセントの才能と99パーセントの努力っていう感じ。正真正銘の天才的ピアニスト、ね」
 華音は素直に頷いてみせた。
 それに対して、仁美は華音の反応に構うことなく、淡々と言葉をつむいでいく。
「和久君は、他人から評価されることをとにかく嫌がって、コンクールも出たがらなかったし、練習だってしたりしなかったりだし、演奏もその日によって出来にムラがあって……でも彼はね、ここぞという場面で、こうやってサラっと120点の演奏を披露しちゃうのよねー。ホント、奇跡的ピアニストなんだから」
 いくぶん気持ちが落ち着いたのか、仁美は大きくゆっくりとしたため息を一つつく。そして、華音のほうへと顔を振り向かせ、意味ありげに微笑んだ。
「でも基本的にはねー、似たもの同志なのよ。だからこそぶつかり合うし、分かり合えたりもするのよ。ほら、この間も説明したけど、華音ちゃんのおうちにあったベヒシュタイン」
「ああ……昔、稲葉さんと高野先生がケンカして壊したって、言ってましたよね」
「そう。原因は私だっていうんだから、ホントおかしいわよねー。要するにあの二人、好みの女性のタイプが一緒ってことでしょ? あはは、自分で言っちゃった」
 仁美はどこか突き抜けたような、明るいはしゃぎ声をあげて、楽しげに笑い出した。
 その様子を見て、華音は思わず言葉を失ってしまった。
 稲葉努という男に『ロジェール』、永遠の憧れである――とまで言わしめた存在であるというのに、である。
 稲葉と高野が真剣に争っている原因がこの調子では、彼らの想いも浮かばれない。
 華音は気を取り直し、ゆっくりと尋ねた。
「あの……仁美さんは稲葉さんのこと、ちょっとでも好きだったりとか……しないんですか?」
「好きよー、好きに決まってるじゃない。友達だもん」
「……そう、ですよね」
 何を聞いても無駄なのである。
 これが、彼女の最大の武器なのだ。
 華音がそのまま黙ってしまうと、仁美は何か思い当たったように意味ありげな笑顔を見せた。
「ふふ、そういう意味じゃあ、ないのよね? そうだよねー、華音ちゃんだってもうお年頃だもんね。そういうの、聞きたいよね」
 ほんの少しの沈黙の後、仁美はゆっくりと口を開く。そしていつになく真剣な眼差しで、華音をまっすぐに見つめた。
 その両瞳が、静かに瞬く。
「しょうがないよ、二人いっぺんに選べないもの」
「じゃあ、ちょっとは稲葉さんに気持ちがあったり、とか?」
「そうねえ……もし和久君があの時、あの店に現れなかったら、いまごろ私、稲葉仁美だったかもしれないね」
 意外な言葉だった。
 華音は返答することも忘れ、ただじっと仁美を見つめ返した。
「そんなもんなのよー、恋愛って。タイミングっていうのかな。そういうの、すごくすごく大事」
 そう言って、仁美は華音の心を見透かしたかのように、穏やかに微笑んだ。
 華音はあわてて愛想笑いをし、はぐらかすように軽く首を傾げてみせた。

 しばらくして、和奏がトイレから戻ってきた。
 仁美は何事もなかったかのように取り繕い、娘を迎え入れる。
「さーて、続いては稲葉君ね。和奏、稲葉のオジサンのコンサートはね、ホントはものすごーく高いの。タダで聴けるなんて、とってもラッキーなんだからね?」
 そう言って仁美は、学生時代に戻ったような無邪気な笑顔を見せた。



 こけら落としの打ち上げは祝賀会と称して、通常の定演とは違い、とある市内のホテルのワンフロアを貸し切ってのフォーマルな席が設けられた。
 立食形式で、それぞれが自由に歓談できるスタイルとなっている。
 主だった来賓などそうそうたる面子に囲まれて、華音は完全に気後れしていた。
 鷹山はステージ衣装から濃灰色の細い縦縞のスーツに着替えている。そして、赤城と並ぶようにして業界関係者と挨拶を交わしている。華音はその様子を、会場の隅からひとり眺めていた。
 重圧から解放されたせいか、鷹山の表情は晴れやかだ。珍しく、惜しみない愛想笑いを振りまいている。
 そのうち、年配の婦人たちがここぞとばかりに、鷹山の周りを取り囲んだ。そのほとんどは来賓同伴の有閑マダムたちだ。少年と見紛うような綺麗な容貌の若い男を、当然マダムたちが放っておくはずがない。
 鷹山は慣れているのだろう。着飾った婦人たちを相手に上品かつ丁寧に応対し、楽しそうに振る舞っている。

 ――こうしてみると、鷹山さんって住む世界が違う人なんだな……。

 自分のことなのに、まるで他人事のように眺めているもう一人の自分がいる。
 芹沢という音楽の一門に生まれ育ったはずなのに、華音はいつでも蚊帳の外にいたのだ。
 確かにここ半年ほどで、自分のアシスタント兼雑用係としての存在意義が、広く認められるようになった。しかし、もともとはその辺りにいるただの高校生にすぎないのである。


 しばらくして、本日の主賓である稲葉努と高野和久が、華音のもとへと近づいてきた。
 いつもは連れ立ってそばにいることをよしとしない二人も、演奏会を終えて幾分気が緩んでいるようだ。
 華音は笑顔で二人のピアニストたちを迎えた。
「お疲れ様でした。二人とも、鬼気迫る渾身の演奏でしたね」
「そりゃそうですよ。相手が高野君ですから、決して手は抜けませんよ」
 稲葉はつり上がり気味の目を穏やかに緩ませて、上機嫌で答えてくる。
 一方の高野は、冴えない表情であらぬ方向を見つめている。稲葉と一緒にいるのが、どうにも落ち着かないらしい。
「俺は別に勝負してるつもりなんてなかった」
「もういいよ、高野君。あとは女神様のご神託を待つばかりだ」
 華音は念のため、会場内を見渡した。最終審判を下す赤川母娘の姿は、まだ見当たらない。
 そのときである。
 高野の背後から、少女が勢いよく飛びついてきた。
「お父さん!」
 まるでタイミングを見計らったかのように、水色のワンピースでおめかしをした高野の愛娘が登場した。
 高野はため息をついた。
「脅かすなよ和奏……心臓に悪いだろ。お母さんは?」
「お父さんの友達に挨拶しにいったよ」
「……友達? 稲葉ならここにいるけど」
 合点がいかない複雑な表情の高野に、華音は笑いをこらえながら耳打ちした。
「高野先生、それってきっと、赤城さんのことなんじゃないの?」
「あっ……そうか、麗児君ね」
 稲葉は『お父さんとお母さんの友達』であり、『お父さんの友達』というなら、高校時代の同級生である赤城オーナーのことを指しているはずだ。
 高野は自分の早とちりに、ひたすら悔やむような表情を見せている。
 もちろん、隣にたたずむ男は、勝ち誇ったような笑みを浮かべるばかりだ。
「嬉しいよ高野君。僕のことをちゃんと友達だと思ってくれていたんだね」
「止めろよ、気味悪いな」
 高野がふてくされてしまうと、そこへようやく女神様が登場した。

「ごめんねー、遅くなって」
 高野の元妻・赤川仁美は無邪気に手を振りながら、こちらへ駆け寄ってくる。
 稲葉は着ていたジャケットの襟を正すと、仁美に向き直った。
「赤川さん、どうだった?」
「二人ともカッコよかったよ。でも、なんか悔しくってー」
「悔しい?」
 華音は思わず聞き返した。『悔しい』とは、およそ感想には似つかわしくない言葉だ。
 だってね、と女神様は続けた。
「同期にこれほど凄い演奏されちゃうとね、悔しいじゃない? 私だったらこうやって弾くのに、とか」
「お前、ここまで来てダメ出しなんかするなよ」
 稲葉とは対照的に、高野はいまだふてくされたまま、八つ当たり気味に、元妻の能天気な物言いを諌めた。
 しかし、元妻はまったくこたえていないようだ。あえて聞こえない振りをしているのだろう。
「じゃあ、約束どおり! 三人で遊園地行ってきて」
 突然、女神様は奇妙なことを言い出した。
「……行ってきて? ってお前、それ、どういうことだよ?」
「ついさっきね、申し込んできたから。私から二人へのご褒美」
「二人へのって……まさか、俺と稲葉と和奏とで!?」
 高野は周りの迷惑も省みず、素っ頓狂な叫び声を上げた。その見開かれた目には、ハッキリと『理解不能』という文字が浮かび上がっている。
 一方の仁美は、何を大袈裟な、と元夫の反応を一蹴した。
「いいじゃない? 和奏が二人と行きたいって、そう言ってるんだから」
 仁美はそばにいる娘に同意を求めた。和奏は調子よく首を縦に振っている。
「お前さ、なんでもかんでも和奏をダシにすれば俺が折れると思ってんだろ?」
「思ってるよ? だって和久君は――」
 母親の続く言葉を奪うようにして、娘が父親に告げた。
「ナイスガイなんでしょ。カッコいい男って意味なんだってよ、お父さん」
「言葉の意味は俺だって知ってるさ、この馬鹿娘。……おだてたって、お前の言うことなんか聞かないからな、今度こそは!」
 高野は人差し指を元妻の顔の鼻先に突きつけて、きっぱりと言い切った。
 すると仁美は、高野では相手にならないと諦めたのか、今度は稲葉のほうへと向き直った。
「ね、ね、いいでしょ稲葉君?」
「もちろん喜んで。なんか、楽しそうじゃない?」
 そばでやりとりを聞いていた華音も、事態収拾のために援護射撃をする。
「よかったじゃない高野先生。和奏ちゃんと出かけるのも、久しぶりでしょ?」
「ノン君そう言うけど! 遊園地に行くのも嫌なのにさ、さらにどうして稲葉と一緒に!?」
 いまだ意地を張りつづけるピアニストに、ライバルの同期は勝ち誇ったように言った。
「だったら、高野君はベンチに座って待っていたらいい。そしたらその間、僕はお姫様とデートしてるから。赤川さんの子供なら、赤川さんと同じように大切にするよ、僕は」
「うんうん、そうして頂戴。よかったねー、和奏。稲葉のオジサンに欲しいもの、何でも買ってもらいなさいね?」
 高野は、稲葉と元妻のやりとりに、ヤキモチを焼くのを通り越し、完全に呆れ返っているようだ。
「なに言ってんだよお前たち……何が仁美ちゃんと同じように、だ」
「そんなふうにされたくなかったら、和奏のそばについていてあげればいいじゃない? それだけのことでしょ」
 結局のところ、女神様に一番弱いのは他の誰でもない、高野自身なのである。
 そして、二人の愛の証である一人娘・和奏にも、なんだかんだで弱いのだ。
 自分の名前の一文字『和』を分けた、最愛の娘――。
 そして、結局こうなってしまう。
「稲葉と遊園地かあ……ピアノで競うよりもはるかにヤなんだけと。……ちょっと待て、お前はどうするんだよ」
「私は家で待ってるよ。和奏のことよろしくね? 一応、お父さんなんだから」
「仁美ちゃん、俺――」
「あ、間違った間違った。和奏ー、お父さんのこと、よろしくね。ちゃんとうちに連れて帰ってくるのよー? いい?」
「もう、しょうがないなー」
 元妻と愛娘のやりとりに唖然となっている高野和久を見て、稲葉努は噴き出すようにして、心の底から楽しそうに笑った。



 華音は喧騒に包まれた会場をそっと抜け出し、ホテルのロビーを一人、ゆっくりと歩いていった。
 その先には眺望ラウンジがあり、全面ガラス張りのスペースがある。昼間は街並みを一望でき、午後八時を過ぎた現在は、色とりどりの鮮やかなネオンが煌いている。
 展望ラウンジとその周辺ロビーは照明を半分以下に落としてある。夜景を楽しめるように、というホテル側の配慮らしい。
 ほのかな灯りが癒しとくつろぎの空間を演出している。

 もう十二月。クリスマスのイルミネーションが街じゅうを彩っている。
 華音は窓にそって設置されている手すりに身を預けるようにして、美しい煌めきをひとり眺めていた。
 何度も大きなため息をつく。

【でもそれが自分じゃなく鷹山のお陰なのかと思うと――妬ける】

 富士川の言葉が、何度も何度も華音の脳裏をかすめていく。

【もう、俺は――華音ちゃんには必要ないってことかな】


【――妬ける】


 突然、背後から誰かに抱きつかれる感触がした。
 華音は驚きのあまり、逃げるようにして身をよじり、慌てて振り向いた。
 そこにいたのは、華音がよく知る香りをまとう男だった。
「鷹山さん? もう……ビックリさせないでください」
 華音は相手を確認し、抗うのを止めた。
 ホテルのロビーの絨毯に足音が吸い込まれて、鷹山の近づいてくる気配に華音はまったく気がつかなかった。
 華音は軽くため息をつくと、鷹山と距離を置くようにして一歩退いた。
「こんなところにいていいんですか? 来賓の方への挨拶、全部すんでないんでしょ」
「いいんだよ、あとはオーナーに任せておくさ。疲れきって営業スマイルする気力もない」
 鷹山は窮屈そうにしながらネクタイを緩め、シャツの第一ボタンを外した。
 如何ともしがたい、気まずい空気が流れる。
 華音は場の雰囲気を取り繕うべく、思案を巡らした。
「えっと、じゃあ何か飲み物を……」
「必要ないよ。どうしたんだよ、何だかよそよそしいじゃないか?」
「だって……向こうにたくさん人がいるもん。いつロビーへ出てくるか分からないし」
 思いつくがままに、適当な言い訳を試みる。
 つい先ほどまで考え巡らせていたことをあわてて隠そうとする華音に、鷹山は特に気づいた様子はない。あくまで淡々とした調子で言葉を返してくる。
「別にいまさら隠すこともないだろう? 団員たちだって、口には出さないだけで、僕たちの関係に気づいてる」
「……そうなの? かな、やっぱり」
 舞台袖での団員たちの冷やかすような態度を思い返してみると、鷹山の言うことはおそらく正しいのだろう。
「知らないやつらの目からは、ありきたりの恋人同士に見える。君が演奏する楽団員だったらね、公私混同だと言われてしまうだろうけど。君は僕専属のアシスタントだから、誰の文句も受ける筋合いはない」
 そう言いながら、鷹山は華音の腕を引き寄せて、おもむろに抱き締めた。
 華音は誰にも見られていないか辺りを何度も確認し、急いで鷹山の抱擁を引き剥がした。
「誰かに見られたらどうするの?」
「ハッ、誰も来ないよ」
 しかし、何度その腕を解こうとしても、鷹山はじゃれるようにして、いつまでも華音の身体にまとわりついてくる。
「兄妹だって知ってる人も、いるんだから。こういうことは、ここではちょっと……」
「せっかくのロマンティックな夜景を目の前にして、何もせずに黙ってろって?」
 ようやく、鷹山は華音の身体にじゃれつくのを止めた。そして、展望ラウンジの分厚いガラスに額を擦りつけるほどに近づいて、街の夜景を興味深げに眺め始める。
 鷹山の大きな瞳に街のネオンが映り、繊細な輝きを放っている。
「雪が降り出したら、最高に気分が盛り上がるんだけどな。そうは上手くいかない、か」
 無邪気に夜景を眺めている鷹山を横目で見て、華音はようやく覚悟を決めた。

 ――今しかない。

 華音には演奏会が始まる前、心に決めたことがあった。

 いつになるか分からないけれど。
 自分たちの本当の関係を知る人間がいなくなる、そのときまでは。

 この想いを封印しよう――と。


 華音は大きく深呼吸をすると、勇気を振り絞り、おずおずと話を切り出した。
「一緒に暮らすっていう話なんだけど……もうちょっと待って欲しいの」
「待つってそれ、いつまで?」
 夜景から目を離すことなく、淡々と返事をする鷹山の声からは、まるで深刻さは感じられない。
「それは……分かんない」
 華音は夜景に背を向けた。そして、そのまま鷹山にも背を向けてしまう格好となる。
 とても視線を合わせられる雰囲気ではなかった。
「芹沢さん、こっちを向いて」
 振り向くことはできない。
 揺れる。揺らいでしまう。
「こっちを向けって言ってるだろ。聞こえないのか?」
 華音の背中に、鷹山の声が突き刺さった。迫のある低音が、森閑としたロビーに響き渡る。
 これ以上彼を怒らせて騒ぎが大きくなってはたまらない――華音は泣きそうになるのを必死にこらえながら、恐る恐る鷹山のほうを振り返った。
 すぐさま、彼の大きな二つの瞳にしっかりと捉えられる。そしてその視線は、華音をどこへも逃さぬようにして、艶やかに絡みついてくる。
「だって……赤城さんには……もう、隠し切れない」
 あまりの緊張に声が震えてしまっているのが、華音自身にも分かった。
「そういうことか。それじゃあ、仕方がないね」
 それっきり、鷹山は黙ってしまった。
 気の遠くなるような重苦しい沈黙が、二人の間に流れていく。
 鷹山は黙ったまま、ラウンジのガラスに背を預け、無表情で後頭部を軽く数度、打ちつけた。分厚いガラス特有の、低く鈍い音が辺りに響き渡る。
 華音は鷹山の表情をうかがうようにして、重い口を開いた。
「……怒ってる、の?」
「別に。要するに、オーナーが文句を言えなくなればいいんだろう?」
 その答えに、華音は胸に一抹の不安を覚えた。
 オーナーを黙らせる方法など、華音にはまるで見当がつかない。普通の方法では絶対に不可能だ。
 何故だろう。心臓の鼓動がどんどん早まっていく。
 鷹山はもう一度だけ、背後のガラスに後頭部をぶつけ、そのまま空を見据えた。
 そして、長い長いため息とともに、ゆっくりと言葉を吐き出していく。
「僕が、君の家に引っ越す」
 華音は思わず自分の耳を疑った。そして、事も無げに言う鷹山の綺麗な横顔を、穴の開くほどに見つめてしまう。
「……冗談でしょ?」
「一緒に暮らしてくれるって、約束したよね。何だよいまさら、冗談って? 別に誰に遠慮することもない。僕を拒む人間も、もうこの世にはいない」
「拒むだなんて――」
「母さんはこれでもかというほど憎まれて虐げられた。そして僕もね」
 淡々とした声の裏側に、狂気と憎悪をひそませている。
 彼がとても、怖い。
「でも、もう僕たちを引き裂く邪魔な人間はいなくなった。僕があの家で君と暮らしても、誰からも余計な口出しはされない」
「それって……兄妹として暮らすってこと? 私たちが本当の兄妹だって、みんなに言うってこと?」
「そうだよ」
 華音は言葉を失った。
 二人で新しい生活を始めるのとはわけが違う。
 兄妹であることを公にしてしまったら――。
「もちろん、あの男にも」
 違う。
「あの男が入り込む隙間なんかどこにもない」
 しかし鷹山は平然としたまま、大きな瞳を瞬かせるばかり。
 こんなの、違う。
 それより何より。
「待って。もう少し落ち着いたら、そしたら私が鷹山さんのところに行くから、それで――許して。お願い」
 分からない。
 好き。愛している。
 けれど、あの家は――。
「許す? 何言ってるんだよ、君は。どうして君の家じゃ駄目なの?」
 鷹山は可笑しくなさそうに、嘲るような目をして笑い出した。
「君の考えてることなんか、すぐに分かるんだよ、僕は」
 鷹山の蔑むような物言いに、華音は震え上がった。
「富士川さんは君と一緒に何年、あの家で暮らしていたかな。高校入学から大学卒業するまでだっけ? 七年、か……まあそのあとも、ずっと入り浸っていたんだろうけど」
 鷹山の思惑が読めた。
 そこには愛など存在しない。
「僕が英輔先生の孫だって知ったら、あの男はショックを受けるかな? ハッ、いい気味だよまったく! 一番弟子という地位に甘んじて自惚れてるからそうなるんだよ」
「そんなことして、どうするの? 鷹山さんは、これから私に妹になれって、そう言うの? もう、そうやって祥ちゃんのこと憎むのは止めて」
「嫌だね。あの男はそれだけのことをしてきたんだ。当然の報いだ」
「だから、祥ちゃんは本当のこと何も知らないって――」
 鷹山の目が凍りついた。眉間にしわを寄せ、蔑むような眼差しを容赦なく向ける。
「君の口からそんな言葉聞きたくない。あの男のことがまだ心のどこかに残ってるんだろう? だから僕にそういうことを平気で言うんだ! 許せない絶対に!」
 もう何を言っても無駄だ。
 華音はすくみあがってしまい、言葉も出せない。
「そんな偽りの過去なんて必要ない。僕はそんなもの、認めない。君の中の、あの男のすべてを抹消してやる――」
 華音は弱々しく首を横に振った。
 そのまま鷹山と顔を合わせていることができず、震えながら鷹山に背を向けた。

 怖い。聞きたくない。
 逃げ出したい。でも、愛してる。
 一緒にいたい、私だって。

 そのわずかな躊躇が、背後の鷹山を狂わせた。
 華音は鷹山に背後から羽交い絞めにされた。普段からしているような、じゃれてまとわりつくというレベルではない。抵抗を許さぬほどの強い力で、華音の身体を締めつける。
 本気なのだ――華音は声にならない悲鳴を上げた。
 うなじに唇を押しつけて上へ上へと這わせ、左の耳たぶに激しく吸いついてくる。
「お願い止めて、苦し……い」
 鷹山の腕に両手指をかけ、華音は懇願した。
「君は僕のものなんだから」
 恐怖と快感が入り混じり、身体が小刻みに震えだすのを華音は感じた。耳を弄られながら、鷹山の吐息が囁きとともに耳穴へと送り込まれる。
「僕だけのものなんだから」
 頭の中で、何度も何度も繰り返される。決して消えることのない烙印のごとく、脳髄に焼きつく。
 ――そう、私はあなたのもの。
 鷹山の手が上着の裾から中へと差し込まれ、もどかしそうに腰の上のくびれをなでさすり始める。
 声を出してしまいそうだった。それが拒絶なのか懇願なのか、華音にはもはや分からなくなっていた。
 そして、ここがどこであるのかさえも――。


「そこまでだ、鷹山君」

 動きが止まった。
 廊下が折れた辺りから、低音のきいた張りのある声。
 それは、鷹山の動きを止めるのには充分な効果があった。
「違うの! これは違うの、赤城さん!」
「いいから、じっとしてて」
 鷹山は華音を背後から抱き締めたまま、顔だけをゆっくりとオーナーへと向けた。

 赤城はゆっくりとほの暗いロビーを歩いてくる。
 一歩。また一歩。
 確実に、そのときが近づいていく。
 崩壊――。

 赤城は目の前に立ちはだかり、威圧的な眼差しで、絡み合う二人を見下ろした。
 腕を組んで黙ったまま、じっとこちらを見据えている。
「覗き見ですか? 無粋な人ですねあなたも――悪趣味だ」
「言い訳があるなら、先に聞こう」
「プライベートまでいちいち詮索される筋合いはないですよ」
「ここは君の家じゃない。公共の場で大人の男が女子高生に手を出すのは、決して褒められた行為ではないな。あまりにスキャンダラスだ」
 鷹山に後ろから抱きつかれたまま、華音はなんとか自由になる両手で、自分の両耳を塞いだ。
 聞きたくない。お節介な説教はもうたくさんだ。
 その手の甲に、鷹山はなおも口づけてくる。
 赤城が見ている前でなんてことを――華音は慌てて耳を塞ぐのを止め、身をよじった。
 しかしそれを制するように、腰を引き寄せている鷹山の手にさらに力が込められる。
 あくまで、挑戦的だ。
「僕たち、一緒に暮らすことにしましたから」
「鷹山さん……止めて」
「なんだと? 芹沢君、本当か?」
 赤城は華音を睨みつけた。普段は冷静な青年実業家も、本気で怒らせるとその迫力は桁違いだ。
 なんとか否定しようと力なく首を横に振るも、火のついた赤城には、まるで効果がない。
 赤城は再び、鷹山を鋭く睨みつけた。
「だったら、音楽監督は辞任したまえ! 私はオーナーとして、君たちの関係に到底、責任が持てないからな」
「一緒に暮らしません! だから、辞めさせないで! お願い赤城さん!」
 すると。
 鷹山は突然気が触れたように、大声で笑い始めた。そしていっそう、華音を抱き締める腕の力を強めていく。
 目の前に立つ赤城の顔が、わずかに歪んだ。
「あなたもご存知のとおり、僕たちは血の繋がった正真正銘の兄妹ですよ? 兄妹が一緒に暮らして、誰に迷惑がかかるというんです? 兄妹が仲良くしてて、何がいけないんです? 音楽監督を辞任する必要なんかどこにもないですよ」
 鷹山が腕の力を緩めると、華音はひざに力が入らずに、その場へゆっくりとへたり込んだ。
「あの忌々しい呪われた屋敷で、僕たち兄妹は二人きりで生きていくんですよ。ずっと、ずっと一緒に――」
 絆はやがて束縛へと姿を変えていく。
 華音はロビーの絨毯の上にへたり込んだまま、怖々と顔を上げた。
 赤城オーナーと鷹山が、お互い凄んだ形相で睨み合っている。
「『仲良くする』というのは、君にとっては随分と都合のいい言葉だな」
 赤城の口から発せられた、至上の幸福を約束した残酷なひと言。
 鷹山の、母親譲りの綺麗な顔がほんの一瞬、悪魔の如く引きつった。
「解釈は、どうぞご自由に」
 鷹山は、足元に座り込んだままの華音の頭に、自分の右手をのせて愛しそうに優しくなでた。
 ほんの数秒の時間が、永遠にも感じられる。
 そのもどかしい感触に、心震わせながら。

 すべてが崩れ始めたのだと、華音はおぼろげな意識の中でそう悟った。


(夢幻の章 了)