奈落の章 (1)  天国の両親に誓って

 昨夜から降り続いた雪が、夕方になってようやく止んだ。三月に入って雪が積もるのは、この辺りの地方では珍しいことである。
 華音はコートの襟をしっかりと締め、高校からの帰り道を一人で歩いていた。
 芹沢邸の前庭は一面、白銀に覆われている。

 一人の男が、防寒着と長靴という出で立ちで、門前の雪をスコップで除けていた。
 執事の乾である。品のいい初老の紳士だ。
 華音は通りすがりに声をかけた。
「ただいま、乾さん」
「お帰りなさいませ、華音様」
 乾は慣れない作業に悪戦苦闘しているらしい。ひたいから流れる汗がそれを物語っている。
「大丈夫? 無理しないでね」
「これも仕事のうちですから。お寒いですから、華音様は早く家の中へどうぞ」
 乾は首に提げたタオルで汗を拭い、再び雪を除ける作業にとりかかる。
 華音は乾に言われたとおり、芹沢邸の重厚な鉄製の門扉をくぐると、そのまま前庭の石畳を進み、玄関へと向かった。
 玄関脇のポーチには、美濃部の愛車・赤い軽の国産車が停まっている。
 コンサートマスターである彼が、音楽監督の元を訪れていることは明白だ。
 華音が学校へ行っている間、音楽監督の鷹山のサポート業務をしているのは、この車の持ち主の青年なのである。


 靴を脱ぎスリッパに履き替えていると、エントランスから二階へと続く大きな螺旋階段から、美濃部が降りてきた。
「あ、お帰りなさい、華音さん。書斎で鷹山さんがお待ちですよ」
 いつも変わらない。いつでも冷静で、理路整然としていて、なんといっても感情の起伏が平坦だ。もちろん、それは鷹山に比べて、である。
 華音は合い言葉のように美濃部に問いかけた。
「ご主人様の機嫌はどう?」
「まあまあ、ってとこでしょうかね」
 中途半端な答えが返ってくる。
 良くも悪くもない――微妙なラインだ。
「やっぱり、気になります?」
 美濃部は不思議そうにして尋ねてくる。
 鷹山という男はひどく気難しく、機嫌の良いときと悪いときの差がとにかく激しいのである。事前調査は欠かせない。
「そりゃあね、その日の機嫌状況によって対処法が違うから。臨機応変にいかなくちゃ、あの鷹山さんの相手なんか、到底務まらないもん」
 ふと、美濃部の手に車の鍵のついたキーホルダーが握られていることに、華音は気づいた。
「あ、美濃部さん、もしかして帰っちゃうの?」
「ええ。大学時代の友人が出張でこちらのほうへ来てるので、晩御飯の約束をしているんですよ」
 おそらく工学部時代の友人なのだろう。美濃部のその楽しそうな表情から、かなり親しい人物であることが華音にも想像がついた。
 それにしても。
 鷹山と二人きりというのは、随分と久しぶりだ。いつになく気が引き締まる。

 こけら落とし終了後の打ち上げで、鷹山が提案した『芹沢家での同居の約束』は、まだ実行に移されてはいない。
 鷹山は沈黙を保っている。奇妙なことに、オーナーの赤城も状況を静観しているようだった。
 その水面下での腹の探り合いが、華音の恐怖をいっそうあおっている。

 ――いったい何を考えてるのか、分からない。

 華音は笑顔で美濃部を見送ると、ひとり気合いを入れ直し、階段を上がっていった。


「随分と遅かったじゃないか」
 機嫌はまあまあ、と評された男は、華音が書斎に一歩足を踏み入れるなり、眉間にしわを寄せてそう言い放った。
 デスクの端に腰をかけ、腕を組み、じっと華音の顔を見据えている。
 西洋人形のような綺麗な顔は、まるで般若のようだ。
「そうですか? ちゃんと真っ直ぐ帰ってきたんだけど」
 華音は慣れたようにさらりとかわした。まだ冬とはいえ、立春を過ぎたこの時期では、午後四時を過ぎても外は充分明るい。
 そんな暗い道を一人歩いてきたわけじゃないし――華音がそういう思いを込めて鷹山の様子をうかがった。
 しかし、悪魔な音楽監督の表情は硬いままだ。
「玄関からここへ来るまでだよ。七分もかかってる」
「計ってたんですか? 暇人ですね」
「暇じゃないからこそ、時間を浪費する君に静かな憤りを覚えているんだ。分かった? 分かるわけないか。分からないからこそ、そうやってグダグダと言い訳ばかりするんだもんな」
 完全に火をつけてしまった。
 機嫌はまあまあ、なんて嘘っぱちだ――華音は、美濃部の前向きな性格を、このときばかりは恨んだ。
 どうしてこの男はこうなんだろうか。
「……」
「どうした? 何とか言ったらどうなんだ?」
「……」
「今度はだんまりか? まったく君という人は――」
「コーヒー、淹れてあげるから」
 そのたった一言で。
 饒舌な音楽監督の攻撃がぴたりと止んだ。
 突然話の流れを変えられ、鷹山は面食らっている。
 普通の人が見たら澄ましているようにしか見えないだろうが、華音にははっきりと、その微妙な表情が分かった。
 今がチャンス――華音はありったけの優しさを動員し、鷹山のシャツの袖を軽く引っ張りながら、なだめるように言った。
「鷹山さんが忙しいのはちゃんと分かってるよ。でも、コーヒー飲むくらいの時間作って。ね?」
 無言のままだ。大きな瞳を何度も瞬かせている。
 あと一歩。
 華音はもう一度、つかんでいたシャツの袖を二度引っ張り、そして問う。
「返事は?」

「…………うん」

 勝った――作業を開始するために鷹山に背を向け、華音は声を発てないようにして、こみ上げてくる笑いを必死にこらえた。


「美味しい?」
 ふふん、と鷹山は笑っただけだった。
 つき返さずに黙って飲んでいるということは、とりあえず合格点ということなのだろう。
 鷹山はいったんカップをソーサーに戻し、デスクの引き出しを開けると、中から企画書の束を取り出した。
「君の企画書ね、少し詳しく聞きたいんだけど」
 遠目でも、企画書にはびっしりと赤ペンで書き込みがされているのが分かる。
 鷹山は、華音を演奏会の企画をするプランナーとして育てようとしている。
 華音にとって、こけら落としがいきなりのプランナーデビューとなったが、そのあとも鷹山はいくつも企画書を書かせては、目に留まったものについて、こうやって説明を求めたりするのである。
「ええと……お客様の要望アンケートで、リクエストが多かったんです」
 華音が企画したのは、ヴァイオリン協奏曲だ。別に特別なものではない。どこのオーケストラの演奏会でも普通に採り上げられている内容である。
「確かに芹響はコンチェルトを得意としてるからね。ピアノだったら和久さんだし、ヴァイオリンなら英輔先生が目をかけている若手がソロを務めるのが通例だったはずだよね。それで? 君はどうしたいの?」
 鷹山は得意の弁舌を活かし、矢継ぎ早に質問を繰り出してくる。
「有名な曲がいいと思います」
「ふうん。どうして?」
「奇をてらうには、オーソドックスなレパートリーがあってこそだから」
「なるほどね。有名って、例えば?」
 今日の鷹山は食いつきが良すぎる。なかなか引き下がろうとはしない。
 手当たり次第思いつくまま企画書を書いているため、ひとつひとつについて深く考えたことなどないのである。
 華音は苦しまぎれに答えた。
「えっと……たくさんCDとかになってるやつ」
「シベリウスとか、ブルッフとか? ……あー、なんか分かってないって顔してるな」
「すみません」
 華音は素直に謝った。
 鷹山はコーヒーを一気に飲み干すと、デスクから立ち上がった。そして、そのまま書斎を出ていこうとする。
 何か気に障るようなことでもしたのだろうか――華音は鷹山の背中を見送ったまま、その場に立ちすくんでいた。
 ドアを開けたところでようやく鷹山が振り返った。片手でドアを押さえ、もう片方の手で華音を手招いている。
「ほら、ついてきて」
「どこに?」
「下の練習室。早く」
 急かす鷹山の表情は、予想に反して優しいものだった。
 華音は胸をなで下ろし、すぐさま彼の指示に従った。


 一階の練習室はいくつかあるが、鷹山が選んだのは一番大きな部屋だった。
 ここはグランドピアノのほかに、カルテットの練習ができるほどの余裕がある。防音のため、小さな天窓しかない。昼間でも電気が必要な、薄暗い空間だ。
「君は僕の隣に座って」
 鷹山に言われるがまま、華音は彼の左側に並ぶようにして横長の椅子に座った。
「シベリウスは――この辺りの旋律が有名かな」
 鷹山は鍵盤に右手を載せ、わずかな迷いも見せずに、頭の中に描いた音を再現してみせる。
 実際には、ヴァイオリンソロのパートであるらしい。
「ああ、聴いたことある……かな」
 華音の記憶は曖昧だ。芹響が演奏したことのある曲なら大抵は分かるが、ヴァイオリン協奏曲はピアノ協奏曲に比べて、採り上げる回数が少ないのである。
「次はブルッフ。僕、これ好きなんだ。これも有名だよね」
 有名という認識は、鷹山と華音では随分と開きがある。
 もともとヴァイオリンを専門として本場ヨーロッパの音楽に触れていた彼と、日本の演奏会で聴いているだけの自分では、同じ舞台に上がれるはずがない。
「そしてこれが、チャイコフスキー」
「あっ…………これ」
「意外と難しいんだ、この曲。特に第三楽章」
 懐かしい旋律に、華音の心は静かに震えた。
 この曲だけは、はっきりと分かった。過去の記憶が鮮明に呼び起こされる。

 三年前。
 芹響の定演で、一番弟子の富士川がヴァイオリンソロを務めた曲である。
 富士川は初めてソロを任されて、毎日毎日狂ったように練習していた。
 寝食忘れて没頭するあまり、とうとう倒れてしまい、入院する騒ぎにまで発展したのである。

 ――この部屋だったな……祥ちゃんが練習してたの。

 いまでも耳を澄ますと、ヴァイオリンの旋律が聴こえてきそうだ。

「手を出して」
 鷹山の声に、華音は我に返った。現実世界に引き戻される。
 隣に座る男の表情を確かめると――彼の綺麗な横顔が微笑んでいた。
「一緒に弾こうよ」
 鷹山の左手が、華音の腰を引き寄せる。
「別に、まったく弾けないわけじゃないだろう? ちょうちょ、とかさ」
 いくら楽器演奏の素養がないとはいえ、童謡の旋律くらいならピアノで弾くことはできる。
 華音は、腰を抱く鷹山の左手に自分の左手を重ね合わせ、右手を怖々と鍵盤の上へ移動させた。

 重なりゆく音。
 しかし、耳につくのはオクターヴではなくて不協和音。

 鷹山が奏でたのは、まったく別の旋律だ。繊細そうな長い指が、鍵盤の上を跳ねるように動き回っている。
 華音は面倒臭かったが、渋々ツッコミを入れてやった。
「……それって、ちょうちょじゃなくて、『蝶々夫人』でしょ」
「はい、正解。へえ、すごいね君、天才だ!」
 鷹山はわざとらしく大袈裟にはしゃいでみせた。いつものことながら、人を小馬鹿にしたような表情で、華音の顔をしげしげと覗き込んでくる。
 鷹山が弾いていたのは、プッチーニの歌劇『蝶々夫人』の有名なアリア「ある晴れた日に」である。
 ふと。華音の脳裏に疑問の二文字がよぎる。
「……鷹山さんって、ピアノ弾けるの?」
 鷹山の答えは華音の予想通りのものだった。
「それ、オケの監督にわざわざ聞くことか?」
 愚問だったのかもしれない。普通に考えたら、ウィーンで音楽修業をしていたような人が、楽譜が読めないということもないだろう。
「弾けない人だって中にはいるかもしれないでしょ。いままで鷹山さんが弾いてるところ、見たことなかったし……」

 そう。
 出会ってすでに九ヶ月。もうじき十ヶ月になろうというのに、ピアノに触れる彼を見たのは初めてだった。
 音楽と無縁の業界にいるわけではない。むしろ、ど真ん中にいる。

 それなのに――。

「どうしたの、芹沢さん?」
「私、鷹山さんのこと全然知らないんだなー、……と、思って」
「これから少しずつ知っていけばいいよ。ピアノはさ、子供の頃はたぶん他の子供よりも弾けてたと思う。でも、中学からはヴァイオリンに力をいれてたから、今じゃとても……さすがに和久さんのようには弾けないよ」
「えっ! 高野先生のようにって、あのレベルが比較の対象なわけ?」
「鼓膜破れるから、静かにして」
 耳元の大声に、鷹山はわずかに身をのけぞらせ、顔をしかめた。
 高野和久は今でこそ小さな楽器屋の昼行灯店主だが、世界的に活躍するピアニストとも対をはるほどの実力の持ち主だ。その気があれば演奏活動だけで食べていけるだろう。
 ただし、本人は面倒臭がりのため、芹響の客演しか引き受けようとしない。
「これからは毎日だから。覚悟してて」
「これから?」
「もうすぐね。毎晩でも」
 腰にかけられた手の力がいっそう強まった。
 華音の身体は完全に鷹山に預けられている状態だ。呼吸する振動が、触れている部分を通して伝わってくる。
「本当にこれで良かったの? 鷹山さんは満足?」
「一緒に暮らす理由が、『兄妹』だから――ってこと?」
 華音は身体をよじり、鷹山の顔をすがるように見つめた。
 ガラス玉のような大きな琥珀の瞳の上に、長い睫毛が揺れるさまが間近に見える。少し伸び上がれば、頬に口づけてしまえるような至近距離だ。
「これで、堂々と君のそばにいられるし」
「お兄ちゃんとして?」
 もう一度だけ、確認するように問う。何度確かめても不安がつきまとい、拭い去ることはできない。
「あれは言葉のアヤだよ。何事も結果オーライだ」
 言葉の『アヤ』――。

【兄妹が仲良くしてて、何がいけないんです?】

【僕たち兄妹は二人きりで生きていくんですよ。ずっと、ずっと一緒に――】

 鷹山の発する『兄妹』という言葉は、そこはかとなく重過ぎる。
「公表するつもりはないよ。乾さんにしろ、和久さんにしろ、君のおばあさんが僕にしたことを覚えてるんだから。いまさら芹沢の人間であることを表に出したくないことくらい、分かってくれてる。オーナーだって口ではああ言ってても、結局は体面重視の人だから、わざわざ表立たせて騒ぎを大きくしたりしないさ」
 鷹山のよどみない説明を受け、とりあえずいまは、幸せの部分にだけ目を向けていよう――華音はそう自分自身に言い聞かせた。
 鷹山との同居は、良くも悪くも賑やかになりそうだ。
 どうなるかはまったく分からない。不安もあるが、わずかに期待もあるのもまた事実だった。
「ねえ、いつこっちへ越してくるの?」
「和久さんがこの家を出ていくのと入れ替わりにね。もう、君を一人にはさせないから、安心して」

 もう、君を――。

 鷹山の艶のある瞳が、わずかにかげりを見せる。
「ひょっとして――不安?」
「だってこの家じゃ、二人きりというわけにはいかないし……」
 執事も家政婦もいる。楽団の関係者も出入りする。
 一緒に生活をともにするとなると、いま以上に公私の線引きが難しい。
 どうやって振る舞えばいいのか、華音には悩みどころだ。

 すると突然、鷹山は大声を上げて笑い出し、華音の身体をふざけるようにして押し退けた。そして、緩んでもいないシャツの襟を、きつく締め直すような仕草をする。
「ちょっと。なに狙ってるんだよ君は? なんだか僕、襲われそうで怖いな」
「べっ、別に何も狙ってないもん! そういう意味じゃなくて!」
 鷹山お得意の『大人の冗談』には、いつまで経っても慣れることはない。いきなりやってくるため、その対処にいつも慌てふためいてしまう。
 そんな華音の反応が、鷹山にとっては大満足だったらしい。ひと通り笑い終えると再び体勢を戻し、柔らかな笑顔を造って華音の頭をゆっくりとなでた。
「離れて暮らしている間、君がどうやってこの家で過ごしていたのかを知りたいんだ。僕も君のことを、もっともっと知りたい」
「鷹山さん……」
 失われた十五年を取り戻そうと必死になっている――華音にはそう思えた。
「君を怖がらせるようなことは絶対にしないさ。天国の両親に誓ってね」

 高野と入れ替わりに――。
 それはきっと、遠くない未来の話なのだろう。
 何故なら、高野がもうすぐこの家を出ていく理由が、確かに存在するのだから。