奈落の章 (2)  約束

 それから二週間ほど過ぎた、昼下がりのことだった。

 積もった雪はすでに解け、土の匂いが風に香っている。春の穏やかな陽気が、長い冬が過ぎ去ったことを告げている。

 華音は鷹山が採用した企画書を持って、ある男の元を訪れることになっていた。
 ここ数ヶ月はコンサートマスターの美濃部がこの役を請け負っていてくれたのだが、今日は何故か、直々に声がかかったのである。
 高校はもうすぐ春休み、午前授業である。必然的に華音のアルバイトも、午後早い時間からとなっていた。

 オーナーの赤城と顔を合わせるのは、こけら落としが終わった打ち上げ会場以来だった。かれこれ三ヶ月ぶりである。
 赤城は本業が忙しくなると、楽団へ顔を出さないこともしばしばだった。しかし、ここまで冷戦状態が続いているのは、華音が記憶するうちでは初めてのことだった。
 さすがに一人で行くのは心細過ぎる。
 昨夜のうちに居候中の高野をつかまえて、事情を説明すると、快く同行を承諾してくれた。

 高野は市内で小さな楽器店を経営している。日中は店番のためのパートを雇い入れているため、比較的時間に融通がきくのである。
 高野の運転する車の助手席で、華音は鷹山から預かった大きな封筒入りの書類を胸に抱き締め、大きく息をついた。
「どうしたのさ、ノン君。さっきからため息ばかりついてるよ?」
 高野に指摘をされ、華音は本心を悟られぬよう、努めて平静を装った。
「そう? 自分じゃ気がつかないけど」
 高野はふうんと能天気な声を上げた。
 そのまま車内は静まり返る。
 確実に、目的地が近づいている。何度か通ったことのある道だ。
 華音は観念して目を瞑り、助手席のシートに深々と身体を預けた。
「ひょっとして、麗児君に会うの、緊張してんの?」
「……まあ」
 それが果たして『緊張』というひと言ですませられるものなのかどうか――それは高野と華音とでは大きく認識が違うはずである。
 事情を知らぬ高野は、陽気な声で明るく華音をなだめてくる。
「大丈夫だよ、きっと麗児君もノン君に会いたがってるさ」
 そんなことは百パーセント、ありえない。
 華音はもう一度、大きな大きなため息をついた。


 赤城エンタープライズ・本社ビル最上階の社長室に、二人はすんなりと通された。
 事前にアポを取っていたため、赤城はきっちりと時間を空けておいたようだった。三つ揃えのジャケットだけをクロークハンガーにかけ、茶色のベストにスラックス、仕立てのいいオーダーのシャツに濃い赤の派手なネクタイを締めている。
 ヴィヴィアン・ウェストウッド。赤城が好んでつけるブランドだ。
 自分で購入したものか、はたまた誰かのプレゼントなのか。おそらく後者だろう――華音は勝手にそう決めつけた。

 赤城は社長室内に設えてある応接セットのソファにかけるよう、高野と華音を促した。そして、自分自身も二人に向かい合うようにして腰をかける。
「まずは、おめでとう、と言うべきかな。和久!」
 赤城は嬉しそうに目元を緩ませている。
 同級生の慶事を素直に喜んでいるようだ。
 一方の高野は、嬉しいような恥ずかしいような照れたような、そんな微妙な表情をさらしている。
「そんな、めでたいってほどじゃあないけどさ。別に変わりばえのしない、単なるモトサヤだし」
 高野はこけら落としをきっかけに、別れた元妻とよりを戻すこととなった。
 現在はまだ、芹沢邸と元妻・赤川仁美のマンションを往復する生活だ。親子三人で新しく生活を始めるため、不動産屋をまわってもっと広い部屋を探しているところらしい。じきに決まることだろう。
「少々荒治療だったが、結果オーライだ。鷹山君の思いつきは偶然だったのかもしれないが、まあ――運命だったのかもしれないな」
 赤城の言葉に、高野は意外そうに目を瞬かせる。
「なんか、麗児君に似合わない言葉だなー、運命を信じるなんて」
「誰よりも信じているさ。だからこうやって、いつまでも独身貴族を謳歌している。和久のように運命の女性と出会うまではな」
「運命か……俺たち別にそんな感じじゃないんだけどな。たまたま――」
「たまたま子供ができたから、か? 充分運命的じゃないか!」
 赤城は大袈裟に、芝居がかったセリフを吐いてみせた。

 そこへ女性社員がトレイに人数分の紅茶を携えて入ってきた。
 奥にいる高野、手前の華音、最後に社長である赤城にカップを差し出す。
 華音たちのカップは揃って藍色の花柄だが、赤城のカップだけ和風の彩色が施されている。どうやら赤城専用らしい。
 お茶出しの社員が去ってしまうと、高野は再び話を続けた。
「楽ちゃんがノン君と暮らしてくれるってことで、ちょうど良かったよ。これで、安心してノン君ちをあとにできる」
 高野は能天気に笑顔を振りまいている。
 気まずい話題だ――華音は高野の横で、赤城の表情をじっとうかがっていた。
 すると。
 赤城は一瞬、刺すような眼差しを向け、当てつけるようにして大きくため息をついた。
「どうしたの麗児君、そんな怖い顔して?」
 高野は不思議そうにしている。突然の態度の変化に、少なからず途惑っているようだ。
「いや――和久、隣のビルの二階に、スイーツの新しいテナントが入ったんだ。適当に見繕って買ってきてくれるか?」
「スイーツって……なに、お菓子のこと? そんな子供じゃあるまいし……」
「腹が減ったんだ。いいから行ってこい。俺の秘書に領収書を渡して、金を受け取ってくれ」
「人使いが荒いんだから……俺、麗児君の客でしょ?」
「なんなら奥さんと娘にも買っていってやったらどうだ?」
 まずい展開だ。赤城の思惑が、華音には手に取るように分かる。
 適当な理由をつけて、高野に席を外させようとしているのだ。
 華音は慌てた。
「じゃあ、私が行ってきます!」
「芹沢君はここにいなさい」
 赤城のその威圧した語調にすくみ、華音は上げかけた腰をもう一度ソファに下ろした。


 淀んだ空気が辺りを包む。
 高野が社長室の外へ出てしまってからも、赤城は表情を強ばらせたまま、向かい合う華音の顔をじっと見据えていた。
「どうやら和久は、君たちのもうひとつの関係に気づいていないようだな」
 赤城の顔は厳しい。精悍な顔つきがわずかに曇る。
「仲睦まじい兄妹? そりゃ結構なことだ!」
 華音は身構えたまま、怖ず怖ずと目の前に座る大男の顔に視線を向けた。そしてゆっくりと口を開く。
「……怒ってますか?」
「当たり前だろう。君には一度忠告していたはずだが?」
 赤城は冷静を装いながらも、その腹の中は相当煮えくり返っているらしい。
 怖い――この大男の迫力には、華音は到底太刀打ちできない。
 いくら鷹山相手にして、毒舌に負けないだけの能力が身についたと言っても、酸いも甘いも知り尽くした青年実業家の前では、それは付け焼き刃にすぎない。
 華音はソファの片隅でじっと身を固くしていた。

 なぜ赤城が怒っているのか――その理由は充分に理解していた。
 鷹山と自分が、実の兄妹であるという事実。
 消し去ることはできない血縁上の繋がりが、鷹山と華音の間に存在しているためだ。

 しかし、十五年もの間、二人は離れて暮らしてきたのである。そこに兄妹であるという意識は存在しない。
 少なくとも華音は、兄の存在すら知らなかったのだ。
 華音が二の句が継げず黙ってしまうと、赤城は大きくため息をつき、ようやく語調を緩めた。
「しかし、だ。私にも非はある。こけら落としの成功のために、あえて彼に処分を与えなかった。もはや君一人で解決できる問題ではないのだからな」
 容赦ない言葉が、華音の胸を締めつけていく。

 問題。これは問題。
 解決しなければならない、『問題』。

「しかも、君たちのはproblemじゃない。tabooだ」
 鷹山のことを好きになるのは――ひとりの男として愛するのはタブーだと、目の前の大男はそう言い切る。
「いいか、超自然的な危険な力をもつ事物に対して、社会的に厳しく禁止される特定の行為。それが禁忌――タブーだ。未成年だから分かりませんじゃ、すまされないぞ」
 赤城の強い口調に、華音は反射的に両目をつぶった。
 鷹山に怒鳴られるのとはわけが違う。感情のままに浴びせかけられる言葉ではない。
 自分の過ちを突きつけられ、じわじわと追い詰められていく。
「堅苦しいことを言うようであれだが、彼が音楽監督としてうちの楽団に留まり続けるには、社会的な信用を損ねるような真似は慎ませることだな」
 赤城は言葉を選んでいる。
 難しい言葉を使って、回りくどく華音を説き伏せようとする。
「私と約束できるか? 彼ときちんと一線を引いて暮らすことを」
 同居したあとに予想される行為を、赤城は言いたいのだろう。
 赤城の説教めいた言葉は、華音の胸にいちいち茨のように突き刺さる。
「もちろん私には、君たちを離れさせる権限はない。君たちが本当の兄妹である以上ね。これは、あくまで年長者としての提言だ」
 そこまで言うと、赤城はゆっくりと息を吐いた。
 言いたいことを一通り口に出して落ち着いたらしい。赤城は目の前に用意された紅茶のカップを取り、一気に中身を飲み干した。
 空いたカップをソーサーに戻すのを待ってから、華音は探るように尋ねた。
「公表……しないんですか?」
「して欲しいのか?」
 華音の質問に、赤城は質問で返してくる。
「君が嫌がることを、私がわざわざすると思うか?」
「充分してきてると思いますけど」
 赤城は面食らったように目を瞬かせ、やがてその強ばった表情を崩した。
「フッ、気づかないところが、まだまだ若い証拠だな」
 赤城は可笑しくなさそうに笑った。
「楽団員たちの中には、君たちのことをすでに恋人同士として認識している人間もいるようだ。ここであえて兄妹だとばらすことは、悪戯にスキャンダルを増長させる元だ。マスコミに食いつかれたら、私も黙っていられないから、そのことだけは肝に銘じておけ」
 赤城は二人の血縁関係を公表するつもりはないらしい。
 それは、波風を立てたくないという、楽団のオーナーとして保身から来るものなのか、それとも――。
 しかし、今の華音には、それをうかがい知る術はない。
「鷹山君のことを、この先もずっと音楽監督を続けさせたいのであれば――もう一度だけ言う、彼とはきちんと一線を引いて暮らすんだ。分かったか?」

 音楽監督を、続けさせたいなら。

 赤城の言葉が頭の中でおぼろげに響く。
 華音はきつく唇を噛んだ。
「返事はどうした?」
 自信は、まるでない。
 一線を引いて――いったいどうやって。

 鷹山の欲求を拒める自信は皆無に等しい。
 抱き締められる腕を振り解くことはできない。戯れに繰り出されるキスも、すべて受け入れてしまう自分がいる。
 好きだから。愛しているからそばにいたい――たったそれだけのことなのに。

「鷹山君からなんと言われているか知らないが、『兄妹としてあの家で暮らす』と、私はこの耳で確かに聞いたのだからな」
 赤城は狭そうにしながら足を組み替えると、身の置き所が定まらないのかソファの背もたれから身を起こし、再び身を預け直す。
「言っておくが、君のような小娘一人に恨まれたところで、私は痛くもかゆくもない。むしろ、楽団の醜聞を世間に晒してビジネスチャンスを失うことのほうが、よっぽど苦痛だ」
 この男の目を誤魔化すことは、不可能だ――華音はこの先訪れるであろう未来の生活に、とてつもない不安を覚えた。


 廊下の外がなにやら騒がしい。耳をすますと、忙しない足音が近づいてくるのが分かる。
 重苦しい空気の社長室へ、ようやく高野が戻ってきた。両手一杯に、可愛い包装紙の袋を携えている。
 その袋の中の菓子が放つ、ふわりと甘い香りが室内に漂った。
 赤城の顔に朗らかな笑みが戻った。
「意外に早かったな。客はどのくらいいた? 主な客層は?」
 矢継ぎ早に質問を浴びせかけるそんな青年実業家に、高野は恨めしそうな眼差しを向けた。
「マーケティングならさあ、自分の部下にさせたら?」
 どうやら行列に並ぶのに疲れたらしい。高野はもう二度と行かないとぼやきながら、テーブルの上に袋を投げ出すようにして置き、ソファにどかりと座り込んだ。
 そんな高野の嫌味も、赤城はさらりとかわしてみせる。
「お前だっていっぱしの経営者なんだから、常にそういう視線で物事を見なければ、すぐにつぶれてしまうぞ」
「へいへい。ノン君、ホント頼もしいオーナーだね。麗児君がついている限り、芹響は安泰だよ」
 赤城がオーナーである以上、安泰でいられる――。
 逆に取れば。
 安泰であるためには、赤城は手段を選ばない、とも言えるのではないだろうか。
 華音は反応する気になれず、黙って高野の言葉を聞き流した。


 どこからか、ドアを二度ノックする音がした。
 来客が出入りする廊下に面したドアとは別に、側壁には隣室へと続くドアがある。華音と高野には、向かい合う赤城の向こう側にそのドアが見えている。音はそこから聞こえていた。
 赤城は振り返ることなく、張りのある声で「どうした」と返事をした。
 ドアの向こうは、赤城の直属下である社長秘書課の部屋らしい。
「お話中、失礼いたします」
 入ってきたのは、赤城の秘書を務める若い男性社員だった。
 華音にはその男の顔に見覚えがあった。
 赤城と二人でレセプションのパーティーへ出かけた際、飲酒した赤城に代わって車を運転して、自宅まで送り届けてくれたのは、この若き青年である。
 彼もそれを承知しているためか、華音に軽く会釈をした。そして、すぐ態度を硬化させると、用件を手早く社長の赤城に伝える。
「社長、大黒芳樹様の秘書の方がお見えになっておりますが、いかがいたしますか?」

 ――大黒芳樹の、秘書? 

 聞き覚えのある名に、華音は思わず反応した。
 赤城は何かを考えたあと、意味ありげに華音の顔に一瞬だけ目線をやり、やがて秘書に指示を出した。
「電話で話していた用件であれば、私が引き受けると――そう伝えてくれるか」
「承知いたしました」
 赤城の秘書は用件をすませるとすぐに、出てきたドアの奥へと下がった。

 華音はどうも腑に落ちなかった。
 同じ音楽業界の人間としてコンタクトを取ることは別に不思議なことではない。
 しかし、楽団の運営の実権を握っているのは、実質音楽監督の鷹山である。彼に話を通すのであれば、オーナーの赤城ではなく、コンサートマスターの美濃部に話をつけるのが妥当だ。
「大黒さんがどうかしたんですか?」
「すまないがトップシークレット扱いだ。まずは、気難しいうちの音楽監督様に、お伺いを立てなければいけないからな」
 赤城にそう言われ、華音は素直に引き下がった。
 それなら、いずれ鷹山の口から自分に語られることになるだろう――華音はそう納得し、それ以上赤城に詮索をするのを止めた。
 結局のところ、大人同士の難しい話には、ついていけないのである。


 高野が戻ってきてからの赤城は、終始楽しそうな表情で雑談話に花を咲かせているほど、穏やかだった。
 高野に心配させまいと、華音も適当に相槌を打つ。話題がほとんど高野の再婚話に関係していたため、華音が自分から喋る必要もなかった。
 帰りがけにようやく、鷹山から預かった企画書を赤城に渡すと、ろくに中身も見ずに決裁の押印をすませた。
 そして書類を差し戻す最後にひと言、高野に聞こえないようにして、赤城は素早くつけ加えた。
「次は無いと思え」
 一瞬の隙をついて怜悧な眼差しを向ける大男に、華音は何となく既視感を覚える。
 やはり、彼に似ているのだろう――華音は妙に納得した。