奈落の章 (12)後  風は囁く

 華音は、楽屋棟四階にある音楽監督室へと続く階段を、一段一段ゆっくりと上っていった。
 静かだ。
 華音の重苦しい足音だけが、吹き抜けの階段に反響している。

 すんなりと仕事を再開できるとは、もちろん思っていない。
 これまでも二人は何度となくケンカをしてきたが、今回ばかりは赤城オーナーや富士川青年など第三者を巻き込んでしまっているため、もはや修復不可能な気がしてならなかった。
 しかし。
 今回の演奏会のサポート業務を外されてしまっているとはいえ、音楽監督の鷹山に挨拶しないわけにはいかない。

 華音は声を出さず、音楽監督室のドアを数度ノックした。
 意図せず、鼓動が早まっていく。
 数秒後、部屋の中から「どうぞ」と物憂げな返事があった。

 ―― 中に、いる。

 恐る恐るドアを開けると、安西青年が話していたとおり、気まぐれな音楽監督は練習を途中で切り上げたのか――スコアが応接セットのソファの座面に、乱雑に置かれたままになっている。

「いまさらどの面下げて戻ってきたんだ」
 部屋の奥に視線を向けると、鷹山は革張りの椅子にふんぞり返るように腰かけて、行儀悪く革靴のままデスクに足を載せ、憮然とした表情を見せていた。
 重症だ。
 絶対に、華音に友好的な態度はとってこないとは思っていたが、やはり口から発せられる言葉は辛辣そのものだ。
 華音は意を決して、不機嫌な悪魔に向かって軽く頭を下げた。
「オーナーの許可が出たので、外回りとかの雑用は私がやります」
「許可? 君の仕事の有無を、なぜオーナーが決める?」
 美貌の音楽監督は眉をひそめ、微かに首を傾げた。
 周囲の空気が一気に張りつめる。
 華音は薄氷を踏むように、慎重に言葉を選んだ。
「お給料払ってくれているのは、赤城オーナーですので……」
 眉間のしわはさらに深くなった。
 そして、氷はあっけなく割れ、破損した水道管のように文句が噴き出してくる。
「オーナー、オーナーって、君はどうしていつもいつもそう簡単にオーナーの言いなりになるんだよ」
 鷹山はデスク上から両足を下ろし、おもむろに椅子から立ち上がった。そして、立ちすくむ華音のほうへと、ゆっくりと近づいてくる。
 華音は息をするのも忘れ、その場で固まったまま、じっと鷹山の様子をうかがった。
 しかし華音の予想に反して、鷹山は応接セットへと向かい、散らかったスコアを両手で雑に避けるようにして、空いたところにどかりと座り込んだ。
 鷹山はどこまでも気怠そうな表情を崩さず、大きな琥珀色の瞳をゆっくりと瞬かせ、面白くなさそうに吐き捨てるように言う。
「だいたい、あの金蔓男は口出ししすぎなんだよ。僕と君の本当の関係を知ってる人間は、和久さんと乾さんとあの金蔓男くらいだろ。黙って墓まで持っていけば済む話じゃないか。君が未成年だから? そんなの理由にならないね。だったら、どうしてあの男は許される?」

 あの男――。

 それが誰のことを指しているのか、華音はすぐに分かった。
 心臓の鼓動が、大きく脈打つような音をたてる。

「あの男のところで暮らして、毎日毎日楽しいか? 家出して、馴染みの男と同棲して、楽しくないわけがないよな?」
「祥ちゃんと……私は、そういう関係じゃないって、何度言えば……分かってくれるの?」
 華音は言葉を振り絞るようにして、弱々しく鷹山に答えた。
 しかし、弁解の猶予は与えられない。すぐに反撃が飛んでくる。
「君の戯言なんか、百万回聞いたって分かるもんか」
 鷹山の息もつかせぬ口調は健在だ。持ち前の機関銃のようなしゃべりはさらに続く。
「そんなにあの男が心配か? 病気で入院していると聞けば僕を欺きないがしろにしてまで、『そういう関係じゃない』赤の他人に、逢いたくて逢いたくてしょうがない? これでも疑うなって? 理解しろって? 君はそんな馬鹿げたことを、この僕に言うんだ?」
 鷹山の勢いに押されて華音が口を閉ざしてしまうと、やがて饒舌な悪魔も勢いを失い、辺りに重苦しい沈黙が立ち込める。

 その束の間の静寂を先に打ち破ったのは、鷹山のほうだった。
 ゆっくりと口を開き、そして――。
「僕じゃなくちゃ嫌だって……あれは嘘だったのか?」
 鷹山の唇が震えている様子が、華音の目にハッキリと映った。

 ――違う違う違う違う。

 あふれる想いが言葉にならない。力なく首を横に振ってみせるのが、華音の精一杯だ。
「だって、音楽監督を辞めさせられたら……鷹山さんのためには、こうするしか――」
「あの男と暮らしてるのは、僕のため? それが僕のためだと、君は本当に思っているのか? 僕が音楽監督で居続けることが、そんなに大事なことか?」
「音楽監督は、鷹山さんの天職だと思う。だから、どんなことがあっても続けていてほしいの」
 華音は目の前の『兄』に、自分の譲れぬ思いを伝えた。
 その懇願の言葉に――。
 鷹山はこの世の終わりを迎えたかような、すべての感情が麻痺してしまったような表情で、華音の顔をまっすぐに見据えた。
「君をあの男に取られてまで、音楽監督をやる意味がどこにある?」
「鷹山さん……」

 ――ああ、もう。

 どうしてこの男は、こんなにも脆く、いまにも崩れてしまいそうな顔をするのだろうか。
 華音は黙ったまま、鷹山の壊れていく心の声に耳を傾ける。
「節操なく女性と関係を持ったりするようなスキャンダラスな人間は必要ない――そう、オーナーの言うとおりだよ。しかもそれが未成年で、図らずとも実の妹だなんて、狂ってると言われても仕方がない」
 透き通った琥珀の両瞳が、ゆっくりと瞬く。
 鷹山はなおも続けた。
「そう、僕はいつもそう言われるんだ。要らない、必要ない、って。君だけは違うって思っていたけど――自分で自分のやっていることが、もう……よく分からない」

 その時である。
「監督、ゲネプロのスケジュールなんですけど――」
 ドアノブを回す音がし、すぐにドアが開く。ノックもなしに中へ入ってきたのは、華音の代わりに鷹山のサポートを任された藤堂あかりだった。
「あ……華音さん?」
 あかりの両眼はこれほどまでにないくらいに見開かれている。
 鷹山は素早くソファから立ち上がり、あかりに背を向けると、ひと言で説明をした。
「今日からまた働く気らしい」
 あかりはその場の状況を把握しようと、音楽監督とそのアシスタントの少女の様子をうかがっている。
「では、私は華音さんに引き継ぎを……」
 ようやく鷹山は振り返った。
 すでに気持ちを切り替えたのか、仕事モードの顔つきに戻っている。そして、あかりが手にしていた紙の束を半ば奪うようにして受け取ると、機械的に喋り出した。
「いや、藤堂さんはこのままでいい。芹沢さんはせいぜい、大好きな金蔓オーナーの小間使いでもしてればいい」
 鷹山は華音に一瞥をくれると、再び奥のデスクのほうへ移動し、あかりから受け取ったスケジュール表に目を通し始めた。
「……分かりました」
 もう、華音のことは眼中にないようだ。
 あかりの手前、そういう素振りを見せている、と言うべきなのだろうが――華音は、途惑いの表情を浮かべているあかりの脇をすり抜けるようにして、そのまま音楽監督室をあとにした。


 部屋から出て事務管理棟へ戻ろうと歩き出すと、すぐに背後から、音楽監督室のドアが開く音がした。
 振り返ると、そこに立っていたのは藤堂あかりだった。
 ムスクの香りをまとわせている美しきヴァイオリニストは、何かを言いたげにしてたたずんでいる。
「あの、華音さん……私」
「え? いえ、いいんです! 私のことは気にしないでください! ホール出入り禁止にならなかっただけ、マシですから」
 鷹山は持ち前の饒舌さを生かして喋りまくってはいたが、頭ごなしに怒鳴りつけて追い出すようなことはしなかった。オーナーの小間使いでもしてればいいと、いつものように悪態をついていただけだ。
 こちらが拍子抜けしてしまうほどに――。
「それより藤堂さん、鷹山さんに振り回されて大変ですよね。本当にすみません」
「大変だなんて、そんな……なんとか監督のお力になれればと思っているんですけど、なかなか」
 あかりは目を伏せながら、小さくため息をついた。
 その様子から察するに、思うようにいかないもどかしさ故の気苦労が積み重なっているのだろう。
 監督室の中から、鷹山の声がする。
「呼ばれたので、行きます。それでは」
 あかりはまだ何かを言いたげにしていたが、華音に会釈し、再び音楽監督室のドアの内側へと消えていった。



 アルバイト再開の許可を取り付けた、次の日――。

 羽賀真琴をソロに迎えたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏会は、二日後に迫った。
 今日はオーケストラだけの通常練習で、明日はソロの羽賀真琴を交えてのゲネプロが予定されている。
 真琴は、ゲネプロの前に自主練習がしたいと、マネージャーを通じて楽団側に連絡してきた。美濃部青年がその対応をし、リハーサル室の一つを開けるよう手配していたのを、華音はそばで聞いていた。
 あとで、挨拶だけでもしにいこうか――それくらいは許されるだろう、と華音はのんびりと考えた。

 とにかく、今は仕事である。
 華音は事務管理室でひとり、プログラムに他団体の演奏会のチラシを挟み込む作業をすることにした。
 冊数も多く、気の遠くなるような作業だが、それでも音楽監督のアシスタントよりは、ずっとずっと気楽な仕事である。

 ドアの向こうの廊下で、何やら首席陣の動きが慌ただしい。
 歩きながら話しているのか、通り過ぎざまに、コンサートマスターの美濃部を始めとした数人の話し声が聞こえてくる。
「監督、休みだって?」
「体調が優れないそうで」
「明日は羽賀さんとのゲネプロだよ? 夜遊びばっかしてるからじゃないの?」
「やっぱり? そういえば藤堂女史も今日、珍しく遅刻してきたしさ」
「え、たまたまでしょ? 見てきたような噂話は感心しないよ」
「ちょっと待って、華音さんとはどうなったの?」
 事務室に華音がいることを知らずに、それぞれが好き勝手なことを言う。
 やがて気配は遠ざかり、話し声は聞こえなくなった。

 ――鷹山さんが、体調不良で休み? 藤堂さんが遅刻?

 その会話が何を意味しているのか、華音はすぐに理解できずにいた。
 パンフレットにチラシを挟み込む手を止め、しばし考える。

 その時である。
 突然、前触れもなく事務室の扉が勢いよく開いた。
「ちょっとー、何? 私がパリ行ってる間に、雰囲気がらりと変わってるんだけど。華音ちゃん、楽人君を捨てて祥先輩とより戻したって、ホント!?」
 威勢よく中へ入ってきたのは、羽賀真琴だった。
 華音は驚きを通り越し、ただ茫然と、目の前に現れたすらりとしたショートヘアの美女を見つめた。
 ソロを受け持つゲストであるはずなのに、パリ帰りのヴァイオリニストは、ホール内をあちこち散策しては休憩中の楽団員を捕まえて、持ち前の人懐っこさを生かして噂話に興じていたようだ。
 こちらから挨拶に出向くまでもなかったな――と、華音はふとそんなことを思った。
「祥ちゃん、病み上がりなので側についているだけです。捨てたとかより戻したとか、そういうことじゃないですから」
「相当荒れてるみたいだねえ、楽人君。完全、本業をないがしろにしてるみたいだし、このままじゃ降ろされるのも時間の問題じゃない?」
「そんな……」
 音楽監督を辞めさせないために、別居という選択をしたのに、その行動が徒となって監督業務を半ば放棄する事態となっているのだから皮肉なものである。
「団員たちにもそういう風が吹き始めてるし」
「そういう『風』って?」
「祥先輩に帰ってきて欲しいって人が、少なからず存在してるってこと」
 真琴は、仕方がないといったふうに、短くため息をついた。
 もちろん華音自身も、あかりを始めとする富士川祥を慕う「富士川派」と呼ばれる楽団員の存在は知っている。
 しかし、富士川がコンサートマスターを退き退団してからもうじき一年――鷹山が音楽監督になってからは、「富士川派」は鳴りを潜めている。少なくとも華音はそう思っていたのだが、真琴は楽団にとってあくまで第三者ということもあり、団員たちは気安く本音を話したのだろう。
 噂とはいえ、その信憑性は高い。
「楽人君は、こうやって精神不安定なところがあるのがねー、団員たちもそれについていくのは大変だろうし」
 真琴の話を聞き、華音は昨日、鷹山に言われた言葉を思い出した。

【君をあの男に取られてまで、音楽監督をやる意味がどこにある?】

 華音が深々とため息をつくのを見て、真琴はさらりと言った。
「何とかしてあげようか、華音ちゃん?」
「何とかって、何ですか?」
 華音が訝しげに聞き返すと、真琴は何故か優雅に微笑んでみせる。
「ハッキリ言ってさ、美濃部君なんか、全然大したことないし。中立的といえば聞こえはいいけど、つまりは中途半端で皆のお手本になるようなタイプじゃないんだよ。楽人君の、新しい風を吹かせようという心意気も分かるんだよ? でも、それを支えるのが美濃部君じゃ、役不足」
「……まあ、そりゃあ、祥ちゃんと同じというわけにはいきません」
 真琴は華音の反応に気を良くしたのか、ひときわ胸をときめかせたような目をして、芝居がかったように喋りだす。
「昔見たことあるんだけど、芹沢先生にね、祥先輩が指示を受けると、忠犬のような目をして真剣にそれを仰いで、率先して実践して、皆がそれに倣う……」
 うっとりと、過ぎ去りし日々の美しい思い出を思い出すかのように、真琴は一人満足げに頷いている。
「だからさ、別に美濃部君じゃなく、祥先輩でもいいんじゃないの? それこそ弟子の順番なんてこの際考えないでさ」
 その言葉に、華音は唖然となった。

 音楽監督とコンサートマスターという関係に収まればいいと、この涼しげな美貌のヴァイオリニストはあっけらかんと言う。

「……ありえなくないですか? もし仮に、ですけど、そうなったら美濃部さんはどうするんです?」
「彼はそういうことにはこだわらないでしょ。もともと事務仕事が好きなようだし、ステージマネジメントを任せればいい」
 おそらく間違ってはいない。美濃部青年であれば、確かに二つ返事で了承するだろう。
「前も言ったけどね、祥先輩は芹沢の名が似合うよ」
 真琴は意味ありげに華音に微笑んでみせる。
 しかし、問題は山積している。
 それよりなにより――。
「でも、いまさら戻ってこれないですよ。鷹山さんが許すはず……ないですから」
「そう? きっかけなんてね、ほんの些細なことだったりするんだよ」
 自由奔放な風が、凛とした笑みをのせて颯爽と通り抜けていく――。
 そして。
 この、羽賀真琴が残した一言が、やがて大きな事件を引き起こしてしまうことを、華音はのちに知ることとなる。