奈落の章 (13)  策略に揺れる楽団

 夜明け前から降り続いていた雨が、午後になって小雨となった。夕方には完全に止むことだろう。
 今日は金曜日、芹響の本拠地ホールでは、ヴァイオリンソロの羽賀真琴を交えた予行練習、すなわちゲネプロが行われている。

 華音はいつも通り高校で授業を受け、放課後になってようやく本拠地ホールへと向かうことにした。
 以前と違って、急ぐ必要はない。赤城オーナーの小間使いをするといっても、今の芹響には『RAMP』という赤城が統括する演奏会の運営チームもあるため、特にすすんでやれる仕事は実質ないのである。
 オーナーの赤城が本拠地を訪れていれば、話し相手を務めたり、秘書の真似事もできるのだが、最近は興味のある演奏会のその当日にしか現れない。
 今頃、本業の社長業にいそしんでいることだろう。


 華音が本拠地ホールへ着いたのは、午後四時を過ぎた頃だった。
 予定では、午後三時まで演奏会第一部の「チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲」の総リハーサル、三十分の休憩を挟んで第二部の「ドヴォルザーク 交響曲第9番」の総リハーサルとなっている。

 どうやら今日は、予定通りスケジュールが進行しているらしい。
 何故なら、第一部のリハーサルを終えたらしいソリストの羽賀真琴が、帰り支度をすませた状態で、エントランス脇のベンチに座っていたからである。
 白を基調とした細身のパンツスーツに身を包み、まるでCAのように、モダンな柄の派手なスカーフを首に巻いている。遠目でも、すぐに真琴だと確認できる。
 すらりとした付き人の青年は、その側に立ったまま控えている。そして、華音の姿を確認すると、真琴に笑顔で目配せし、「車を回してきます」とその場を離れていった。

 真琴は、華音が来るのを待っていたらしい。片手を挙げてベンチから立ち上がり、意味ありげに微笑みながら、華音のほうへと近づいてくる。
「ねえ華音ちゃん、今夜一緒にご飯しようよ」
「え、今夜ですか?」
 突然の申し出に、華音は途惑った。
 食事をともにするような仲では、決してないはずなのだが――。
 そんな華音の心の内を表情から読みとったのか、真琴はさらに説明を付け加えた。
「もちろん、保護者同伴でね。ホテルのレストラン、予約しておくからよろしくー」
「保護者同伴?」
 華音が首を傾げて聞き返す。
 すると、涼風のような美しきヴァイオリニストは、にわかにはしゃいでみせた。
「祥先輩に決まってるじゃないー。だってもう二年くらい会ってないし。祥先輩に会って、明日の演奏会の英気を養いたいんだもん」
 あまりにも分かりやすいその理由に、華音は呆れ混じりのため息をこれ見よがしについてみせた。
「そういうことですか。私はダシで、ついでってことですね」
「そんなすねないの。あ、病み上がりなら和懐石とかのほうがいいよねー。よし、奮発して高いのご馳走してあげるから、任せといて!」
 真琴は華音の返事を待たずに、正面入り口に横付けされた車に向かって、善は急げとばかりに勢いよく駆け出していった。


 華音はすぐに、マンションで夕食の支度をしているであろう富士川に電話を掛けた。
 真琴からの誘いを伝えると、富士川は意外にもすぐに了承してみせた。

 華音はいったんマンションへと戻り、そして二時間後――。
 真琴の指定通り二人連れだって、彼女が宿泊する市内随一の高級ホテルへとたどり着いた。



 真琴はホテルの豪奢なエントランスロビーで、華音と富士川青年を待ち受けていた。
 きっちり身なりを整えたスーツ姿の富士川青年の姿を見つけるなり、真琴は喜色満面の笑みで飛びついてくる。華音はすでにそっちのけだ。
「ホントに来てくれたー! 祥先輩、相変わらずシュッとしててカッコいいですねえ。スーツ姿も決まってて、ホント惚れ直しちゃうー。アハハッ」
「……付き人さんは一緒じゃないんですか?」
 華音ははしゃぎまくる真琴に冷ややかな目を向けながら、『婚約者』である付き人の青年の所在を確認してみる。
 辺りを見回しても、その姿は見当たらない。
 すると、真琴は肩をすくめて、あっけらかんと言い切った。
「彼、ああ見えてかなりのやきもち焼きなの。連れてきちゃったら祥先輩と思いっきりラブラブできないもーん」
 唖然とする華音の側で、富士川は手慣れたようにして、真琴の言葉を容赦なく切り捨てた。
「いい加減にしろ羽賀。まったくお前というやつは…………変わらないな、全然」
「それって褒め言葉ですよね? 祥先輩も私と再会できて嬉しいでしょ?」
「そうだな。元気そうで何よりだ」
 何を言われてもその更に上をいく真琴のアプローチっぷりに、さすがの富士川青年も根負けしたのか――どこか懐かしそうにして、眼鏡の奥の切れ長の両眼をゆっくりと緩ませた。



 真琴が予約していた和懐石の店は、ホテル地階の奥にあった。
 石庭をイメージした中庭を眺めながら、落ち着いた雰囲気で食事が楽しめるようだ。
 華音たちは和装の店員に案内され、特に庭の景色が良いテーブル席の個室に通された。

 テーブルの上には、先付や向付のお造りなどのいくつかの料理がすでに配膳されている。
 真琴は自分が飲む日本酒の銘柄を店員に告げ、華音と富士川の分のウーロン茶を二つ注文した。
 着席し、やがてそれらが運ばれてくると、三人そろって乾杯をした。

 真琴は近況の報告もそこそこに、冷酒を水のように豪快にあおって、早々にほろ酔い加減になっている。
 アルコールにめっぽう強い性質らしい。
 いつも以上に口数が多くなる真琴のおしゃべりに、ノンアルコールの富士川と華音は、上品な懐石の酒肴を口に運びながら、淡々とつき合っていた。
「祥先輩! 私、ソロやるんです。明日、絶対聴きに来てくださいねー!」
「そのつもりだよ。しかし、お前が鷹山と組んで仕事するなんて、なんだか複雑な心境だな」
「やっぱり複雑なんですかー? もー、祥先輩と楽人君って、なんでそんなに仲、悪いんですか? 芹響の楽団員さんたち、みんな困ってますよ? 二人して華音ちゃんのこと取り合ったりするからぁー」
 すでに出来上がった酔っぱらいと化した真琴に、もはや禁句は存在しない。
 名指しされた富士川は、珍しく取り乱している。真琴相手だと、どうも調子が狂ってしまうらしい。言葉を選び、努めて落ち着いた口調で、慎重に答える。
「取り合う……って、そんなに簡単な問題じゃないんだが」
 一方の真琴は、言い淀む富士川にもお構いなしだ。酔っぱらいの戯言はさらに続いていく。
「だって、昔っからそうじゃないですか。祥先輩はいっつも華音ちゃん命で、私が何度アタックしても振り向いてくれなかったくせにー」
「……アタックって。お前のは『突撃』だろ」
 富士川青年はおしぼりで何度も額を押さえている。完全に真琴のペースに嵌ってしまったようだ。
「楽人君は楽人君で、自分が手に入れられなかったものを祥先輩が全部持ってるって、付き合ってた時よく私に言ってたし。それってそれって要するに、華音ちゃんってことだったんじゃ?」
 真琴の好奇に満ちた視線が、今度は、煮物を頬張る華音の顔へと注がれる。
 鋭い。
 鋭すぎる。
 華音はのどにつかえた里芋を、慌ててウーロン茶で流し込んだ。
「……そんなに簡単な問題でも、ないと思いますけど」
「相変わらずお前は直球だな。華音ちゃんを困らせるんじゃない」
「はぁーい」
 真琴は、敬愛する先輩にたしなめられ少しは反省したのか、話題を変え、今度は音大時代の思い出話に花を咲かせ始めた。
 懐かしい時間がゆるりと流れていく。
 華音はひたすら聞き役に徹していたが、一通り料理を堪能し、デザートである水菓子が出されたとき、真琴はふと何かを思い出したようにして、富士川に訊ねた。
「そうだ祥先輩、明日演奏会が終わったら、練習に付き合ってもらえませんか?」
「練習? 打ち上げがあるんじゃないのか?」
「またすぐにパリへ戻ってレコーディングなんです。どうしても祥先輩の師事を受けたくって」
 柄にもなく、まるで小動物のような、か弱げな眼差しを向けている。
 そんな真琴の申し出に、富士川は半ば呆れたようにして、首を横に振った。
「おいおい、国際的に活躍してるヴァイオリニストに俺が教えることなんてないよ。とっくに追い抜かれてるさ」
「えー、可愛い後輩の頼みを聞いてくれないんですか? こんなに美味しいお食事御馳走してるのにー?」
 先程までのか弱さはどこへやら。今度は大胆にも、上目遣いを駆使して、敬愛する先輩に懇願する。甘え方も堂に入ったものだ。
「まったく……分かったよ」
 富士川はあっけなく陥落した。断ったところで、肯定の返事をするまで食い下がられて、面倒臭いことになることを、経験的に知っているためらしい。
「ちょっと手荷物が増えますけど、明日は楽器持参でお願いしまーす」
「それは構わないよ。それで、何を練習するんだ?」
 富士川が肯定的な態度を見せたのをいいことに、真琴はどこまでも楽しそうにしながら、よどみなく曲名を口にしていく。
「今度のアルバム、バロックの小品集なんです。アルビノーニとか、マンフレディーニとか。祥先輩の得意なやつですよー」
「それじゃ、厳しく指導しないとな。ははは」
 珍しく、富士川は声を上げて笑った。
「やった! 華音ちゃん、リハーサル室の予約、お願いねー。祥先輩と秘密のレッスン、むふふふふー」
 華音は、羽賀真琴という女流ヴァイオリニストの、あまりのキャラクターの濃さに圧倒され、どっと疲労感を覚え、すでに返答する力を失っていた。



 あくる日の、土曜日の昼下がり――。
 本日は午後七時より、芹沢交響楽団の定期演奏会が催されることになっている。

 久しぶりに、オーナーの赤城が、本拠地ホールへ姿をみせた。
 いつもの演奏会の時よりも、ずいぶんと早い会場入りである。
 赤城オーナーはすべての演奏会に顔を出すわけではなかったが、本業が多忙な時であれば、わずかな時間の合間を縫うようにして秘書の運転するBMVでホールへ乗り付け、一時間も滞在せずに戻っていくことも珍しくはなかった。
 しかし、今日はスケジュールに余裕があったためか、午後の早い時間から、自分自身で愛車を運転し、本拠地ホールへとやってきたらしい。
 濃茶色の、スリーピースのオーダースーツに身を包み、いつものようにヴィヴィアンウエストウッドの派手なネクタイが人目を惹いている。相変わらず、その身なりに隙はない。

 赤城は、事務管理室の隅に設えてある簡易的な応接スペースで、ゆるりとくつろいでいた。
 事務室の中には、赤城と華音の他に人影はない。受付の設営のために、事務職員はすべてロビーに借り出されているためだ。

 いつもであれば、オーナーの赤城の対応は事務職員がしているのだが、今日は、音楽監督のサポート業務を外されて手持無沙汰な華音に、その役目が回ってきたのである。

 華音は手慣れたように、赤城にアイスコーヒーを給仕する。
 氷は少なめ。ガムシロップは一つだけ。ミルクとストローはなし、だ。
 赤城はガムシロップのポーションを注ぎ入れると、かき混ぜもせずに、一気に半分ほど飲み干した。
 いつもながらに豪胆な飲みっぷりである。繊細さの欠片もない。

 華音は赤城の話し相手を務めるべく、お盆を携えたまま、向かい合うようにしてソファに腰かけた。
 赤城は周囲に人がいないのを改めて確認して、ゆっくりと喋り始めた。
「鷹山君は、ずいぶん荒れているようだな。楽団員から、私のところへちらほら苦情が届いている」
「苦情だけですか?」
「どういう意味だ?」
「羽賀さんが言ってました。祥ちゃんに戻ってきてほしいって思ってる人たちがいるって」
「そういう声があるのは、私も承知しているが――」
 オーナーの赤城は珍しく言葉の選択に迷っているのか、歯切れの悪い言い方をする。
「何というかね……私には到底理解できないのだよ。仕事に私情を交えて、ないがしろにしてしまうまで、その身を崩してしまうということが」
 何一つ、間違ったことは口にしていない。
 『到底理解できない』とまで言い切るのは、赤城自身の恋愛観が鷹山のそれと、相容れないものだということを示している。

 ふと、何となく。
 華音は気まぐれに、目の前の大男に尋ねてみた。
「赤城オーナーは、誰かのことを好きになったことって、ないんですか?」
「三十八年も生きていれば、それなりの経験は積んできているつもりだが。ただし、私は恋愛で学業や仕事をおろそかにしたことはないがね」
 赤城らしい答えだ。迷いなく、自身の恋愛ポリシーを披露する。
 しかし、本当にそうなのだろうか。
 どんな人間だって、程度の差こそあれ、恋愛によって影響を受けることがあるのでは――そう華音は思い、さらに赤城に聞いてみた。
「じゃあ、一番好きだった人って、いつ、どのくらい付き合ってました?」
「一番か……別に順位をつけるものではないが、あえて言うなら大学時代かな。若さゆえの過ち、というやつだな」
 大学時代。聞き覚えのあるキーワードだ。
 華音はすぐさま、女子特有の鋭い『勘』を発動させる。
「あ、それ、ひょっとして……前に連れていかれたブティックの女の人?」
「な――」
 おそらく図星をさされたのだろう。
 あまりにも分かり易すぎる赤城の反応が、華音の目にはひどく滑稽に映った。
「あの人、オーナーと大学時代からの知り合いだって、確か赤城先輩って、そう呼んでましたよね。ただの後輩にしては、口の利きかたが妙に親しげだったから」
「……大昔の話だ。それにしても、芹沢君の観察力は侮れないな」
 赤城は動揺を抑えようと、半分ほど残されていたアイスコーヒーのグラスを手に取り、すべて一気に飲み干した。
 お替りは結構――と、グラスをテーブルの上に戻すと、小さくなった氷が涼しげな音をたてた。
 幾分落ち着いたらしい。
 オーナー赤城との恋愛談義は、さらに続く。
「今はどうなんですか? カノジョは? というか、いい年して結婚願望とかないんですか? 会社経営しててお金もあるし、背も高いし、身体も鍛えてそうだし、顔もそこそこ整ってるし、なかなかのハイスペックだと思いますけど」
「それが意外と難しくてね。並大抵の女性では、私の相手は務まらないからな。芹沢君、君ならいつでも歓迎だ。なんなら、赤城華音になってみるか?」
 この大男と来たら。いけしゃあしゃあと甘い言葉をためらいもなく口にする。
 ふざけているのは一目瞭然だ。
 華音は赤城オーナーの戯れ言に、負けることなく言い返した。
「……要するにそれって、私のこと『並大抵の女性じゃない』って言ってますよね? ヒドイ」
 華音がすねるのを見て、赤城は顔をほころばせて、楽しそうに笑い出した。


 オーナーの暇潰しに付き合い、だらだらと話し込んでいたその時である。
 事務室の扉がゆっくりと開き、そこから見知らぬ中年男性が顔を覗かせた。
 勝手が分からないのか、男はおずおずと切り出す。
「すみません。あの……」
「あ、はい。何でしょうか?」
 今日は演奏会当日のため、様々な業者が出入りするのである。
 花屋か、弁当の配達か――受け取りにサインをしようと、華音はペンを持ってその男のもとへと近づいていく。
 すると。
「あのー、鷹山楽人はどちらですか?」
 その言葉に、華音はふと動きを止めた。

 ――あれ……いま、呼び捨てにしてた?

 華音が返答に躊躇しているのを見て、赤城はソファから立ち上がって颯爽と華音の側へとやってきた。
「うちの音楽監督に、なにか御用ですか?」
 赤城はどこか訝しげにして、男の顔をまじまじと観察するように見つめる。
 呼び捨てにしているのを、赤城も聞き逃さなかったのだろう。必然的に、鷹山よりも目上の人物ということになるのだろうが――およそ音楽関係者とは思えない朴訥とした雰囲気が、赤城の胸の内に疑問符を浮かび上がらせたようだ。
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「鷹山信明といいます。楽人の父です」

 ――ということは……この人、ひょっとして富良野の!?

「そうでしたか、あなたがあの鷹山君のお父さんですか! 私は楽団オーナーの赤城です。実に面白い!」
「……面白いって、そんな」
 赤城は、長身をかたわらの華音に寄せて、素早く耳打ちする。
「鷹山君の生い立ちを語る上での『最重要人物』だろう? 実に興味深いじゃないか?」
 赤城はビジネスマン風の営業スマイルを造って、華音にさらりと指示を出した。
「君が鷹山君のところへ案内すればいい。今ならまだ監督室にいるはずだ」
「え? でも……」
 華音が音楽監督室に出入り禁止になっていることは、オーナーの赤城も知っているはずである。
 華音が腑に落ちない表情をすると、赤城はさらに付け加えた。
「君が適任だ。さあ、行ってきたまえ」



 華音は、鷹山とは似ても似つかぬ容貌の『父親』を連れ、楽屋棟の四階にある音楽監督室へと向かった。
 特に会話もなく、男は黙ったまま華音のうしろを付いてきている。

 鷹山がいるであろう監督室のドアの前に立つと、一つ深呼吸をし、意を決してノックをした。
「鷹山さん……鷹山さんいらっしゃいますか?」
「――君に用はない」
 不機嫌極まりない彼の声が、ドアの向こう側から返ってくる。
 所在は確認できた。この中にいる。
 華音はもう一度、問いかけた。
「お客様をお連れしました。お通ししてもよろしいでしょうか?」
 数秒後、勢いよく監督室のドアが開き、鷹山は一分の隙も与えずまくし立てた。
「君のことは今回のサポートから外すとあれほど言って――」
 そこまで言って、悪魔の動きがぴたりと止まった。

 琥珀色の大きな瞳が、数度瞬いた。
 驚きを通り越し、唖然とした表情を見せている。

 華音の背後に控える人物の姿を認識するのに、わずかな時間を要し、そしてようやく事態が飲み込めたのか、ふてくされるようにしてひとこと告げた。
「……どうぞ」



 鷹山はソファにどかりと座り込み、足を組み上げてふんぞり返った。
 精一杯の虚勢である。
 鷹山と『父親』は、応接セットに向かい合うように座り、華音は少し離れた場所で、立ったまま二人の様子をうかがっていた。
「よく分かったね。僕がここに居るって」
 ばつが悪いのか、向かい合った男の顔を見ようとせず、隣の座面に置かれた楽譜をぱらりとめくりながら、淡々と言う。
「いくら本屋もない田舎に住んでるからって、甘く見るんじゃないぞ。俺はお前がどこか小さくでも載ってないかと思って、それっぽい音楽雑誌を何冊か定期購読してるんだ」
「――ああ、雑誌」
「そしたら、その雑誌にここの演奏会の広告が載ってて、なんだ、お前が指揮者やってるじゃないか? ウィーンで暮らしてても連絡なんかろくに寄越す奴じゃなかったけどな、何で黙ってたんだ? 正月に帰ってきたときにも、なんも言ってなかっただろ」
「いろいろと事情があったんだよ。……しかし、音楽雑誌の広告から足がつくとは、予想外だったな。父さんは絶対にそういう類のものは興味ないと思って、ついつい油断してしまった」
「油断って……まったく可愛げのない奴だ。確かに興味なんかこれっぽっちもないけどな、俺はお前が――」
「分かってるよ。分かってるから、ここでこれ以上言うのは止めてくれよ」
 鷹山は父親の言葉を遮った。一瞬だけ、華音のほうへ視線を向け、すぐまた戻す。
 どうやら、父子のやり取りを華音に見られてしまうのが不本意らしい。
 しかし『父親』は、息子の頼みに耳を貸さず、なおも続けた。
「いいや言わせろ。俺はお前が小さいときから男手一つで育ててきたんだ。自分で決めたんならと、どんなことも自由にさせてきた。俺は音楽のことなんかまるで分からないけどな、自慢の息子がいま何やってて、どんな活躍してるのかは誰よりも知りたい」
「何が自慢の息子だよ。いい加減子離れしてくれ、まったく――」
 遅れてきた反抗期のごとく、息子がそっけない態度をとると、なぜか『父親』の表情が和らいだ。
「俺も歳を取ったな」
「そう? 二十五歳の子供がいる父親にしては、随分と若いほうだと思うけど」
 そりゃそうだ、と『父親』は頷いてみせた。
 鷹山が小学生で引き取られたとき、富良野の父親は当時大学を出たばかりだったという話を華音は聞いたことがある。
 その鷹山の説明どおり、確かに端から見ても、一般的な親子の年の差には見えない。
「今日ここまで出向いてきたのは他でもない――お前が俺に連絡もしないで、芹沢の楽団にいるのを知って、無性に寂しくなったのさ。お前がここにいるということはな、ウィーンにいるよりも、俺にとっては遠いんだよ。……もう富良野には帰ってこないのかなあって、無性に寂しくなって、ホント、ガラにもないな」
 鷹山は黙った。
 親子として、十五年もの長い時間を共にしてきたからこそ分かる、言葉の奥底に秘められた思いが、そこにはあった。
「なあ楽人、ひょっとしてお嬢さんがカノンちゃんか?」
 初めから何となく気になっていたのだろう。『父親』は、ここまで案内をしてきた少女をちらりと見やり、目の前に座る息子に尋ねた。
 鷹山は無言のまま頷くと、部屋の隅に立ちすくんでいた華音に目配せをし、ようやく口を開いた。
「ほら、僕の養父に挨拶してくれないか? 君の叔父さんでもある」
 富良野の父は、亡くなった母親の実の弟――以前、鷹山はそう話していたのを華音は思い出した。
「あの、そうです。芹沢華音といいます」
「あのときの赤ちゃんが、こんなにおっきくなったか。そうか……」
 過ぎ去りし日々に、思いを馳せているのだろう。
 鷹山の『父親』は、どこまでも優しく穏やかな眼差しを息子に向けた。
「ということは……お前はいま、幸せなんだな」
「何だよ、急にそんな」

「華やかな音楽が、いつもともにありますように――だろ?」

 刹那。
 それまで虚勢を張っていた鷹山の硬い表情が、一瞬にして崩れていくのを華音は見逃さなかった。

 その言葉がいったい何を意味するものなのか、華音には分からない。
 しかし、鷹山父子にとって重要な意味を持つものであるらしいことは、華音にも理解できた。


 静寂を破るようにして、誰かが音楽監督室のドアを勢いよくノックする音が、室内に響き渡った。
 よほど慌てているのか、部屋の主である鷹山の返事を待たずにドアは開く。
 そこから顔を覗かせたのは、コンサートマスターの美濃部青年だった。
 来客中だったことに気づき、美濃部はにわかに動揺し、すみませんと勢いよく謝った。

 その場の空気を察したのか、『父親』はおもむろに立ち上がった。
「終わったら、また話そう。今日は近くのホテルに一泊するから」
「ということは、まさか聴いていくつもり?」
「いい子守歌替わりだ」
「いびきだけはご遠慮願います。では後程」
 『父親』はああ、と言って足早に控え室を出ていった。

 美濃部は訳が判らず、今しがた男の出ていったドアを見つめている。
「で? 美濃部君、どうしたの?」
 鷹山が尋ねると、美濃部はおもむろに喋り出した。
「あの、お二人とも、羽賀さん見ませんでした?」
 本番三十分前。もうじき、開場が始まり、観客が入ってくる頃だ。
「真琴さん? 最終リハ終わってからは、僕は見かけてないけど?」
「私は赤城オーナーの側にずっといたから……羽賀さんがどうかしたの?」
 鷹山と華音の答えに、美濃部は一気に血の気が引き、顔面蒼白となった。
「居なくなっちゃったんですよ、羽賀さん! 付き人さんの姿も見当たらなくて……いま、羽賀さんが使っていたソリスト用の楽屋を確認してきたんですけど、荷物がすべてなくなっていて……もう、何が何だか」
「美濃部君、真琴さんの付き人の『彼』には連絡してみた?」
「ええ、先程から何度も電話をかけてみてるんですけど、全然繋がらなくて……なんか、すごく嫌な予感がするんですけど」
 焦りまくる美濃部の姿に、鷹山は眉をひそめる。

 羽賀真琴の控室が、もぬけの殻に――。

 演奏開始の三十分前という、迫りくるタイムスケジュールを前にして。

 音楽監督は、取り乱しているコンサートマスターの青年に、よどみなく指示を出した。
「美濃部君、この事をオーナーに知らせてきてくれ」
「分かりました! すぐに!」
「ま、待ってください! 私も一緒に行きます!」
 華音は先に音楽監督室を飛び出していった美濃部青年の後を追うようにして、オーナーの赤城がいるであろう事務管理等へ向かって、全速力で走り出した。