奈落の章 (14)  今宵の奇跡に

 目的の人物は、先程までくつろいでいた事務室を出て、開場が始まったばかりの入場受付の近くに悠然と佇んでいた。
 来賓への挨拶のために、念のため待機しているのだろう。しかし、暇を持て余しているらしく、パンフレットを手渡す受付スタッフの仕事ぶりをさりげなくチェックしながら、一歩退いたところで高みの見物を決め込んでいる。

 華音は、美濃部とほぼ同時に、赤城のもとへとたどり着くことが出来た。
 全力疾走のお陰で、心臓が飛び出さんばかりに脈打ち、酸素の補給が追いつかない。
 しかし、悠長に呼吸を整えている時間はない。
 華音は、仁王立ちしている大男の仕立てのいいスーツの上着の背をしわがつくほどに強引につかみ、そのままロビーの隅まで引っ張っていった。

 赤城は状況を把握しきれないのか、呆気にとられたような顔で、華音と美濃部を交互に見つめている。
 美濃部青年は完全に取り乱しながらも、持ち前の理路整然とした口調で、オーナーの赤城にひと通り状況を説明した。
「……なんだって? 羽賀氏が、いなくなっただと?」
 一報を聞き、赤城は眉をひそめた。
 赤城は腕組みをして、黙ったままその説明に耳を傾けていたが、やがて理解できないといった表情で、ウウムと唸り声を上げる。
「荷物がなくなっているということは、事故や事件ではなく、故意であるということか。連絡が取れないということも、そのことを裏付けているといっていいだろう」
「故意って……嘘でしょそんな。なんで羽賀さんがそんな……」
 華音は、昨夜真琴と一緒に食事をした時のことを思い出した。
 お酒の力もあって、富士川青年に対してときめきオーラ全開ではしゃぎまくっていた姿は、いまだ記憶に新しい。
 しかもその時に、演奏会が終わった後にリハーサル室を借りて、富士川に練習をつけてもらうという約束までしていたのである。

 故意に失踪する理由が、華音には全く思い浮かばない。
 時間は刻一刻と迫っている。

「美濃部さん! 美濃部さん!」
 どこか遠くから、叫ぶような女性の声が聞こえてきた。
 ロビーにあふれる観客の人波をかき分けるようにして、演奏用の黒いサテンのロングドレスに身を包んだ藤堂あかりが、ヒールの音を高鳴らせて、華音たちのところへ向かって駆けてくるのが見えた。
 おそらく音楽監督から事情を聞かされて、事態の深刻さを把握したのだろう。あかりは必死の形相で、息を弾ませながら近づいてくる。
「美濃部さん! 緊急ミーティングを行うそうですので、急いで上手側の舞台袖までお願いします!」
「分かった。今すぐ向かうよ! あ……あれ?」
 踵を返しかけた美濃部青年の動きが止まった。一点を凝視し、瞳を数度瞬かせている。
 華音がその美濃部の視線の先を辿っていくと――受付を通り過ぎ、パンフレットを片手にして、二階席へと向かうロビーの大階段の前に、眼鏡をかけた細身の男の姿があった。
 今朝の今朝まで一緒にいた、華音がよく見知った人物である。
「富士川さんだ! 富士川さん!」
 美濃部青年の大声に、富士川はこちらを振り返った。その肩にはヴァイオリンケースを提げている。昨夜の会食で話していた、一緒に練習がしたいという後輩の要請を受け、律儀に持参してきたようだ。
「祥ちゃん!」
 華音は片手を挙げて合図した。すると富士川はすぐに気づき、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
 美濃部もあかりも、驚きを隠しきれずに、その場で固まってしまっている。オーナーの赤城だけは、意味ありげに軽く会釈をしてみせている。
 やがて、言葉を交わせる距離まで近づくと、富士川青年は困ったような笑みを浮かべた。
「みんな、そんな怖い顔をしないでくれ。羽賀は俺の後輩なんだよ。ソロやるならぜひ聴かせてもらおうと思って。ちゃんと客席で大人しくしてるから」
「怖い顔って……あ、いや、富士川さんが聴きに来てくれたことはもちろん歓迎です。ただ、今ちょっと取り込んでいまして、すみません」
「富士川さん、ありがとうございます。あとで改めてご挨拶に伺います。さあ行きましょう、美濃部さん!」
 あかりは美濃部を促し、連れ立って、舞台袖に続く防音扉へ向かって駆け出していく。
 その二人の慌ただしい靴音は、観客があふれゆくロビーの喧噪にかき消された。


 音楽監督の招集がかかった若き楽団員たちの背中を見送ると、オーナーの赤城はにわかに厳しい顔つきになった。
 ちらりとエントランスの壁掛け時計に目をやり、やがて、迷いを払拭するように、力強い眼差しをしっかりと華音の顔に向けてくる。
「芹沢君、捜索はこちらにいったん任せて、君も一緒に鷹山君の判断を聞いてきたまえ。富士川君には、私から事情を説明しておこう」
 華音はうなずいた。
 すでに、ホール内の客席は半分以上埋まってしまっている。
 迷っている時間はないのである。
「分かりました。ごめんなさい、祥ちゃんまたあとでね!」
「え? あ、ああ……分かった」
 富士川青年は目まぐるしい状況の変化についていけず、呆気にとられたような返事する。華音はそれを、踵を返した背中で受けとめた。



 舞台袖には、すでに正装に着替えた鷹山の姿があった。
 ステージ上のライトはまだ落とされた状態のため、反響版の裏手は仄暗い。舞台装置を操作する一角の照明が、わずかにあたりを照らしているだけだ。
 コンサートマスターの美濃部、ヴァイオリン副主席の藤堂あかりが、それぞれ音楽監督である鷹山の両脇に立つ。程なくして、続々とヴィオラ、チェロ、木管、金管、各セクションの首席が、舞台袖へと集まってきた。
 皆すでに衣装に着替えており、小気味の良い革靴の音を辺りに響き渡らせている。
 華音は緊急招集の邪魔にならないよう、少し離れた場所から様子をうかがうことにした。

 鷹山は集まってきた首席たちを、自分の周りを取り囲むように並ばせた。
「時間が無いので単刀直入に言う。第1部ソロの羽賀がどうやら失踪したらしい」
 美濃部とあかり以外の首席陣が、いっせいにどよめきの声を上げた。
 前代未聞の非常事態である。
 開演前まで間もないこのタイミングで、何故自分達がわざわざ呼び出されたのか、ようやく理解できたらしい。
「失踪……って、そんなことありますかね?」
 チェロの首席を務める初老の男が、おずおずと言う。
 誰一人、肯定も否定もしない。お互い顔を見合わせて首を傾げるばかりだ。
 当然である。
 つい先程行われていた直前リハーサルまで、何事もなく、いい雰囲気で演奏をしていたのだから。

 鷹山は沈黙したまま、動かない。

 美濃部は舞台袖の壁に設置されたLED発光のデジタル時計に視線をやり、渋い表情をした。
「もう一度、建物内を手分けして探してみましょうか?」
 あと十分もすれば、開演五分前を知らせる1ベルの『トランペット・ヴォランタリー』が、場内へ流れることだろう。
 一縷の望みをかけてコンサートマスターの美濃部が提案するも、首席陣の反応は芳しくない。
「は? いまさら捜してどうする?」
「そうだ、そんな途中で投げ出して逃げたやつなんかと、一緒に演奏したくないですよ」
 比較的若い首席たちから、次々に批判めいた意見が出される。

 なおも鷹山は黙ったままだ。
 考え事をしているのか、身じろぎもせず一点を凝視したまま、西洋人形のように綺麗な顔を固まらせている。

「羽賀先輩が裏切ったと決まったわけではないでしょう? ……少なくとも、初めからキャンセルするつもりで、ソロの仕事を受けたのではないと思います」
 あかりが若い首席たちの軽率な発言を諌めると、緊迫した舞台袖は一瞬にして静まり返った。

 ようやく、鷹山が顔を上げた。
 そして、取り囲む首席たちの顔を、一人ずつ目で追ってゆく。鷹山の瞳には、動揺や迷いは見られない。あくまで冷たくそして強く、真摯な眼差しである。
「みんな聞いてくれ」
 すべての視線は鷹山へと注がれる。
「羽賀真琴がどんな理由で失踪したにせよ、今それを考えている時間はない。我々の使命は本日の演奏会に最善を尽くすことだ」
 鷹山の凛とした声だけが、舞台袖のほの暗い空間に響く。
 ごくりと、誰かが唾を飲み込む音がした。
「我々の、最善の選択を――――」

 その時である。
「あの、私……さっきロビーで、富士川さんを見かけたんですけど」
 美濃部青年が、呟くように言った。
「しかも、ヴァイオリンケースを持ってました」
 周囲から、再びどよめきの声が上がった。
 考えも及ばなかった新たな選択肢が、突然目の前に現れたのである。
「確かに富士川さんなら、弾けるよな……おととしの定演でソロやってるんだし」
「奇跡的じゃない? 偶然ヴァイオリンを持ち合わせてるなんて」
「もうそれしかないでしょ! もう、他に手はない」

 すぐ後ろで首席陣のやりとりを聞いていた華音は、どことなく妙な話の流れに、漠然とした違和感を覚えていた。
 そう、それは実に単純な疑問。

 そもそも何故、富士川青年が今夜ここへ、わざわざヴァイオリンを持参したのか――。

 それはいま、『失踪』という問題を起こしている張本人が、直接富士川青年に頼んで持ってきてもらうよう頼んだものなのである。

【何とかしてあげようか?】

 突如、華音の脳裏に羽賀真琴の台詞が蘇ってきた。

【きっかけなんてね、ほんの些細なことだったりするんだよ】

 華音はようやく、この騒動の真意にたどり着いたのである。
「信じられない……なんで……なんでこんな」
 練習に付き合って欲しいからと言って、富士川に今夜の演奏会に楽器を持ってこさせたのは、このためだったのだ。

 弟子の順番なんてこの際考えないで、音楽監督とコンサートマスターという関係に収まればいいと、涼しげな顔をして微笑む『魔性の女』。

【祥先輩は、芹沢の名が似合うよ】

 ――そんなの駄目。鷹山さんが困る、絶対に。



 それまで後ろに控えていた華音は、前に大きく進み出た。そして、首席陣の話し合いの輪に半ば強引に割って入り、ゆっくりと大人たちの顔を見渡した。
「皆さん、祥ちゃんに代役は――頼みません」
 迷うことなく言い切る華音に、大人たちの視線がすべて集中した。
 部外者が何を言い出すのだ、というどことなく冷めた眼光の数々が、容赦なく突き刺さってくる
「じゃあ、どうするの? 今から演目変更しろって?」
 チェロ首席のベテラン団員は、小さな子供を諭すように、幾分柔らかな口調で聞き返してくる。
 軽くあしらわれている――華音はそう感じたが、今はそれに怯んでいる場合ではない。
 すでに一年近くもの間、高校生でアルバイトという立場ながらも、音楽監督を始めとする楽団員たちと苦楽を共にしてきたのである。
 迷うことなんて、何もない。
 華音はしっかりと前を見据え、負けずに言い返した。
「合わせの練習もしていないソリストと協奏曲なんて、無謀です!」
「でも……富士川さんですよ? 誰よりもうちの音楽を知っている人だ。合わせること、出来ますよ!」
 すぐそばでやり取りを聞いているあかりの表情は、なぜか冴えない。
 一年前、師の芹沢英輔が不帰の人となったあの夜、無理強いして代役を押しつけて、富士川を失意に追いやったことを思い出したためだろう。
 またも、代役。それも開演までもう十分を切っている。
 とにかく時間がないのである。
 あかりは、富士川祥のソロ代役を進言する複数の意見に対し首を横に振り、華音を援護するべく口を開いた。
「華音さんの言うとおりです。中には富士川さんの音楽を知らない団員の方だっていらっしゃいます。そんな簡単に合わせられないでしょう?」
「じゃあ、どうしろっていうんだよ、この状況で!」
「そもそも羽賀さんがいなくなったのだって、華音さんとのいざこざが原因なんじゃないの?」
 若き首席たちのいら立ちの矛先が、いっせいに華音へと向けられた。
「そ……それは、分かりませんけど」
 もう、弱々しく消え入るような声で返事をするのが精一杯だった。
 事態は収拾がつくどころか、悪化の一途をたどっている。

 ――どうしよう、このままじゃ……。

 すると。
 それまで黙って首席陣のやり取りを眺めていた音楽監督は、皆の言い争いを制するように、右手を軽く挙げた。
 一瞬にして、辺りは静まり返る。

 鷹山が発したのは、たったのひと言。
「僕が――弾こう」

 舞台袖は静まり返ったまま、誰ひとり、口を開こうとしない。
 その場にいた人間すべてが、自分の耳を疑い、キツネにつままれたような表情で固まっている。
 恐る恐る、コンサートマスターの美濃部が音楽監督に尋ねた。
「あのー、…………弾くって、何をですか?」
「僕が羽賀真琴の代わりに、ソロを務める」
 鷹山が迷いなく言い切った。

 首席陣は茫然と立ちすくんだまま、誰ひとり言葉を発しようとしない。
 何が起こったのか理解するのに、相当な時間を要している。
 もちろん、華音も同じだ。
「う…………嘘!? だ……だって……」
 鷹山は大きく透き通った両瞳で、華音の続く言葉を制した。
「でも、ヴァイオリン……どうしようかな」
 そう呟く鷹山に、美濃部は持ち前の適応力を発揮して、すかさず提案する。
「監督のストラディバリウスは芹沢邸ですか? 私、取りに行ってきます!」
「コンサートマスターがこの場を離れてどうするの? それに今からでは間に合いません」
 あかりはため息混じりに、無鉄砲なコンサートマスターを諫めた。
 そもそも、時間の問題だけではないのである。
 あかりはちらりと華音に目配せした。
 あの事件の夜のままだとすれば――ストラディバリウスには鷹山の血痕が付着したままだ。
 とても人前に出せる状態ではないことは、華音にも想像がついた。
「監督……あのヴァイオリンは、ちょっと」
 あかりは困ったような表情で、周囲に聞こえないように鷹山の耳に唇を寄せ、囁くように言った。
 鷹山は素直に頷いて、不自然なほどに親密さを醸し出しつつ、素早くあかりの耳元へ囁き返す。
「分かってる。英輔先生、他に何を持ってたかな……先生の所蔵している楽器はすべて芹沢邸からホールの保管庫へ移したから、確認してみるか……まあ、いずれにしても保管庫に入れっぱなしで、長いこと弾いてないことには変わりないけど」
「私の楽器で良ければ……ソロ向きではないですけど」
 一方の若い首席たちは、いまだ半信半疑の様子で、あれやこれやと好き勝手な意見を交わしている。
「監督が弾くって…………それって可能なんですか?」
「大丈夫なんですかねぇ……さすがに不安しかないんですけど」
「とりあえず富士川さんに聞くだけ聞いてみたほうが……」
 大人たちの意見は、一向にまとまる気配をみせない。

 鷹山が、代役を務めるのか。
 富士川に、代役を要請するのか。

 華音はもうどうしてよいのか分からなくなっていた。
 もう、時間がない。
 華音は首席陣の最終的な判断を待たずに、オーナーの赤城の元へと報告に戻ろうとした。
 その時である。

「君たちのおおよその話は聞かせてもらったよ。ならば話は簡単だ!」

 楽屋棟へと続く廊下のほうから、凛とした低音が響き渡った。
 紛糾する仄暗い楽屋裏へ姿を現したのは、華音が今まさに報告に行こうとしていた、良く見知った身なりの整った大男だった。
 その後ろには、秘書のような佇まいのスラリとした青年が付いてきている。
 二人は、音楽監督の判断に口を挟まぬよう、少し前からつかず離れずの場所で、こちらの様子をうかがっていたらしい。
 もちろん、後ろへ控えるようにして立っていたのは、芹響の元・コンサートマスターの、富士川祥だった。
「オーナー、それに富士川さん!!」
 美濃部がそう声を上げたのをきっかけに、そこにいた首席陣たちはいっせいにわき立った。
「富士川さん!」
「富士川さんだ!」
 場の空気が一変したのを、華音は感じた。
 もちろんそれは、招かれざるものに対する拒否感ではなく、救世主が現れた安堵感のような、どこまでも懐かしい雰囲気に包まれている。
 富士川は、華音に見せたことのないような厳しい顔をして、旧知の楽団員を静かに見渡した。
「一年ぶりだな、みんな。久しぶりだ」
「弾いてくださるんですか?」
 チェロ首席の男の言葉に、富士川は硬い表情を崩さず、静かに首を横に振った。
「いや、ソロなんてそんな簡単にできるものじゃないよ」
 そう言って富士川は、輪の中心へと進み出た。
 華音は緊迫した空気に声も出せず、固唾を飲んで見守った。見守るほかはなかった。
「鷹山――」
 富士川は、肩から提げていたヴァイオリンケースを、鷹山が腕を伸ばせば受け取れるぎりぎりのところへ差し出した。
「お前が弾くなら、これを使え」
 取り囲んでいる首席陣が静まり返った。
 鷹山はじっと、差し出されたヴァイオリンケースを凝視している。
「あなたのヴァイオリンを、ですか? ……それはできません、お断りします」
 鷹山は冷徹な表情を崩さず、なんのてらいもなく拒否の態度を示した。
 やはり、というか、しかし――。
 あかりは深々とため息をつきつつ、何とか鷹山を説き伏せようと試みた。
「この期に及んで、まだそんなことを言うんですか? いまは意地を張っている場合では――」

「違うの、藤堂さん! 祥ちゃんも鷹山さんも!」

 華音はもう、自分自身が抑えきれなくなっていた。
 勝手に身体が動き出し、次から次へと、思いが言葉となってあふれ出していく。
「あのね祥ちゃん、鷹山さんはね、祥ちゃんがそのヴァイオリンをどんなに大切にしているのか知っているから、『借りたくない』じゃなくて『借りられない』って言ってるの!」
 華音は幼い頃からそうしてきたように、真っ直ぐに富士川を見つめた。
 そして背後を振り返る。この世で唯一無二の存在を――。
「鷹山さん、それでも……それでも祥ちゃんは鷹山さんに、自分のヴァイオリンを貸すって、そう言ってるのよ?」

 崩れていく。
 
 お互い目と目を合わせ数秒――しかしその時間は、永遠にも等しい。

 鷹山は観念したように長い長いため息をつき、自身の愛器を差し出している兄弟子に問いかけた。
「……本気ですか?」
「ああ」
 返事はたったのひと言だった。
 嘘偽りのない思いを、その短い言葉からすべて読み取り、そして――。
「では、あなたのヴァイオリンをお借りします」
 そう言って鷹山が兄弟子の差し出すヴァイオリンケースに手をかけると、富士川はゆっくりとその手を離した。


 もう、迷う時間は残されていない。音楽監督は次々に決断し、采配を振るっていく。
「申し訳ないが、急遽プログラム順を入れ替える」
 首席陣は、音楽監督のまくし立てるような指示に、黙って耳を傾ける。
「第一部に予定していたチャイコンは後半の第二部に回す。ドヴォルザークが先だ。美濃部君、僕に代わって君が第一部を振ってくれ」
「え……ち、ちょっと監督、真面目に言ってますそれ!?」
 いつになく唖然とした表情を見せるコンサートマスターに、音楽監督は一瞬、ふざけたような笑みを浮かべる。
「文句は真琴さんに言ってね。準備に少しかかりそうだから、時間を稼いでほしい。頼む」
「うーん、期待に沿えるかどうか分かりませんが、やるだけやってみます」
 美濃部はもうなるようにしかならないと腹を括ったようだ。
「藤堂さん、美濃部君の代わりに首席を務めてくれ。君ならできる」
「……はい、お任せください」
 あかりはもう何を言っても無駄だと悟っているのか、それでもなんとか前向きに支えようと、意外にも笑顔で応じた。
「赤城オーナー、プログラム順の変更とソロの交代を運営チームに伝えて、臨機応変に対処願います」
「了解だ。すぐに手配しよう」
 赤城はお安い御用とばかりに、すぐに携帯電話を胸ポケットから取り出した。
 個々がとるべき行動を見出し、緊急招集されていた首席陣はそれぞれ散っていく。待機している一般の楽団員たちへの伝達はこれからだ。立ち止まることは許されない。

 舞台裏には、鷹山と富士川と華音の三人だけが残された。
「――芹沢さん」
 鷹山は意味ありげに富士川に目配せをした。
 そして感情をすべて押し殺したような無機質な声で、淡々と告げる。
「君は僕と一緒に、監督室まで来てくれ」
 それだけ言うと、鷹山は華音の返事を待たずに踵を返して、富士川のヴァイオリンケースを携えて、楽屋棟のほうへと早足で立ち去ってしまった。
 華音は鷹山の背中を見送ったまま、途惑いを隠せずに、その場に立ちすくんでいた。
 すると。
 富士川は先程までの仕事モードの厳しい顔つきから一転して、柔らかな笑顔を華音にみせた。
「華音ちゃん、行っておいで。鷹山のところへ」
「でも……」
「俺は客席で待ってるから」
 眼鏡の奥の切れ長の両瞳が、穏やかに緩む。
 その慈しむような富士川青年の優しい眼差しに、華音は微笑みで応えた。
「ありがとう、祥ちゃん。行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
 富士川青年は勇気づけるように、華音の背中を優しく押した。



 華音は薄暗い楽屋裏から出て、煌々と灯りに照らされた楽屋棟へ続く廊下を、鷹山を追いかけひた走った。
 目指すは、楽屋棟四階の音楽監督室である。
 リノリウム張りの光沢のある床で足を滑らせてしまわないよう注意を払いながら、無作法構わず、勢いよく廊下を駆け抜けていく。
 そして、楽屋棟四階へと続く階段の手前に差し掛かったときである。
 華音は急いでいた足を止め、思わず立ち止まった。
 なんとオーナーの赤城が、華音の行く手を阻むようにして立ちはだかり、待ち受けていたからである。
 この状況で、鷹山と二人きりになることを咎めてくるのか――華音は大男を見上げ、わずかに怯んだ。
 すると。
 意外にも、赤城は微かに目元を緩ませ、どこか感慨深げにゆっくりと頷いてみせた。
「見事だった。君が君自身の手で、二人を引き寄せたな」
「赤城オーナー……」
 そう、それはオーナーの赤城麗児が、当初から描いていた『理想のあり方』。
「本当に、よくやったな」
 ときに強引。ときに冷血。そして、ときに粋な計らいをする、戦国武将のような男。
 何もできなかった自分を、適度な距離を保ちつつここまで見守り助けてくれていたのは、他の誰でもない――この大男なのである。
 雇用主であり、支援者であり、同志であり、父であり、ときに騎士として護ってくれる、かけがえのない圧倒的存在感を持った男。
 華音は赤城の顔をしっかりとらえ、楽団の未来の展望に思いを馳せるようにして、力強く頷いた。 
「まだ、終わってませんよ。これからです、オーナー!」
「ああ。奇跡的な夜になりそうだ。さあ、行ってきたまえ」
 その言葉を合図に、華音は赤城の脇をすり抜けて、鷹山の待つ音楽監督室へと向けて、猛然と階段を駆け上がり始めた。