奈落の章 (15)前 最後に君の名を
華音は音楽監督室へ向かって、ひたすら階段を駆け上がった。
その途中で、開演五分前を知らせる1ベルの「トランペット・ヴォランタリー」が、予定どおりの時刻をもって、本拠地ホール建物内に響き渡った。
このような不測の事態にも関わらず、美濃部はタイムスケジュールどおりの進行をしてみせている。
その采配の手腕に、華音は思わず感心した。
――頼りなさそうでいて、ここぞという時の機械的な仕事ぶりは、さすが美濃部さん。
速度を緩めることなく階段を駆け上がり続け、華音はやっとの思いで四階までたどり着いた。弾んだ息をなんとか落ち着かせようと、何度も大きく深呼吸を繰り返す。
当然のことだが、廊下に人影はない。陣中見舞いに訪れた来客も、すでにホールの客席に移動してしまったようだ。
そのため、不用心にも音楽監督室の扉は大きく開け放たれていた。
華音は形だけのノックをして、部屋の主の返事を待たずに、室内へと進んだ。
部屋の中は、いつにもまして雑然と散らかっていた。
片付ける人が側にいないと部屋がすぐ散らかるとは本人も認めていたが、華音に代わってアシスタント業務を行っているあかりでは、身の回りの世話まではさすがに行き届いていない。華音と違って、あかりには副主席としての仕事もあるため、鷹山本人がそこまでやる必要はないと、あかりに配慮しているためだろう。
鷹山は、慌ただしく身に着けていた正装の上着を脱ぎ、乱暴にソファの背もたれに放り投げた。そして、ようやく現れた華音に向かって、ここぞとばかりに、矢継ぎ早に指示を飛ばしてくる。
「ネクタイ、小さい方に付け替える。あと衣装の上着、一番軽いのにして。さすがにこのまま正装じゃ、演奏しづらいから」
懐かしく、そして愛しい。
こうやって鷹山の側で御用聞きができることは、華音にとってかけがえのない至福の時間である。
彼に必要とされている充足感が、華音の渇ききった心を隅々まで潤していく。
華音は鷹山に言われるがまま、衣装用のクローゼットを開け、指示通りのものを見繕った。
ここひと月余りの間に使用された形跡のあるものは、まったく整頓されておらず、雑然と掛けられている状態だった。
しかし、中身はだいたい把握している。一つ一つ確認して、目的のものをピックアップするだけだ。
華音は小規模の演奏会で使用する、伸縮素材で仕立てた衣装を選んだ。普段から演奏する楽団員たちが着用している礼装と変わらない、煌びやかな装飾のないシンプルなデザインだ。
上着と蝶ネクタイを差し出しながら、華音はおそるおそる尋ねた。
「あの……本当に大丈夫なの? 鷹山さん、ソロなんて出来るの?」
「まったく、君って人は……僕を誰だと思ってるんだ?」
華音の言葉が心外だったのか、鷹山はどこか呆れたようにして肩をすくめてみせる。
「だって、腕の傷……治ってないんでしょ?」
そう。
華音の心配は、『その曲が弾けるのか』ではなく、『その腕の状態で弾けるのか』なのである。
その心配に対する答えを、鷹山はさらりと告げた。
「僕の腕なんかどうなったっていい。少しくらい音を外しても、最後までなんとかもってくれれば、それでいいから」
華音の心は不安で一杯になった。
やってみなければ分からない――確かにそうなのであるが、一か八かとという可能性五分五分の話ではない。
成功するのか。はたまた失敗するのか。
最後まで弾けるのか、途中で演奏を中断することになってしまうのか。
すぐ先の未来のことなのに、濃霧に包まれたように見通すことができないのである。
華音が不安な心の内を隠せずにいると、鷹山はいつになく神妙な面持ちになった。そして、じっと華音を見つめてくる。
何を言われるのだろう――華音は、つかず離れずの距離を保ったまま、じっとこちらを見つめ続ける鷹山の言葉を、ひたすら待った。
すると。
綺麗な顔をした悪魔の優しい声が、華音のすべてを包み込んでいく。
「君がさっき、真琴さんのことでみんなから責められているのを、とても見ていられなかったんだ」
「鷹山さん……」
「君を助けないと――って、とっさに志願の言葉が口をついて出た。もちろん富士川さんに突然の代役は無理だ、って思ってたのもあるけど」
そう口早に説明をして、鷹山は華音が差し出していた新しい上着と蝶ネクタイを受け取った。黙ったまま上着に袖を通し、それまで付けていた蝶ネクタイをはぎ取るようにして外すと、空いた華音の手のひらの上にそれを押しつけるようにして置いた。
彼の緊張が、わずかに触れた手と手の感触から伝わってくる。
鷹山は自分で新しい蝶ネクタイを付け終えると、監督専用の机の上に恭しく置かれたヴァイオリンケースに手をかけ、ひと呼吸置き、慎重に開いた。
中から、思わずため息が漏れてしまうほど、美しい飴色のボディが姿を現した。
すべてが詰まっている。
一番弟子の気概とプライド、そしてどこまでも繊細なその響き。寵愛と恩義。芹沢の血を引くものへのゆるぎなき愛情。
それを、今。
鷹山は兄弟子から、確かに受け取ったのである。
「音楽の神様が、僕に弾けと言ってる。今宵限り、僕は『芹沢楽人』に戻る」
芹沢の血の、なせる業を――。
「ねえ、華音」
その耳慣れない響きに、華音の心臓の鼓動はトクンと大きく脈打った。
『芹沢楽人』が、初めて自分の名を呼んだ。
その慈しむような優しい眼差しは、驚く華音の顔に真っ直ぐと向けられている。
「君のその名前はね、僕が考えたんだよ」
二人の運命を狂わせた十五年の永き時間が、一瞬にして巻き戻っていく。
「子供ながらに僕が懸命に考えて、お父さんがそれに漢字を当ててくれた。『華やかな音楽が、いつもともにありますように』って」
――あ……さっき、鷹山さんの養父さんが言ってた言葉。
【ということは……お前はいま、幸せなんだな】
あの時。
鷹山の虚勢全開の硬い表情が、養父の言葉で一瞬にして崩れた、その理由は――。
「君は華音、僕は楽人。二人揃って一つの『音』『楽』になる、って」
二人揃って、一つの音楽に――。
それが、今は亡き父・芹沢卓人の、子供たちの名前に込められた願いなのだと、目の前の『芹沢楽人』は言う。
「だから、君のそばには、いつも僕がいるということを忘れないで――――芹沢さん」
分かっている。
もう、後戻りできないのだ。
普通の兄妹がそうするように、当たり前のようにお互いの名前を呼ぶことすら、自分たちはもうできない。
「言いたかったのはそれだけだよ。もう、戻ってもいいよ、富士川さんのところへ」
「いいえ。ちゃんと舞台袖までお見送りします」
「大丈夫だよ、ひとりで行ける」
「私は音楽監督の専属アシスタントです。演奏が始まるまで、側にいます」
「本当に大丈夫だから」
「集中力を妨げるようなことはしません。どんなことがあっても、側にいます」
天の邪鬼な彼の性格は、誰よりも分かっている。
鷹山はもう、拒まなかった。
「じゃあ芹沢さん、お願いがあるんだけど」
「何ですか?」
「コーヒー、淹れてくれないか?」
その懐かしい言葉に、華音は思わず顔を綻ばせてしまう。
すでに精神集中を始めて黙って背中を向けた鷹山に、華音は喜んで応えた。
「はい、今すぐに」
第一部のドヴォルザーク交響曲第9番は、最終楽章に入った。
もうすぐ出番を迎える。
鷹山と華音は連れだって、楽屋棟の四階からステージの舞台袖まで降りてきた。
華音は鷹山の精神集中の妨げにならないよう、舞台裏の隅に身を寄せるようにして、少し離れたところから様子をうかがった。
生演奏の迫力ある音が、身体のあちこちを震わせる。
やがて、第一部の演奏が終了すると、盛大な拍手が客席から沸き起こった。
拍手が収まると、二十分の休憩を挟む旨のアナウンスが場内に流れた。
ステージ上の照明が半分落とされ、次々に楽団員たちがいったん舞台袖へと引き上げてくる。
そして、ひときわ汗だくになって帰ってきた代役の指揮者の青年を、音楽監督は優雅な笑顔で迎えた。
「なかなかエキサイティングなドヴォルザークだったじゃないか、美濃部君!」
「からかわないでください! 必死だったので、もう何が何だか……」
「初めてであれだけ振れたら大したものだよ。さすがは芹響だ。予期せぬハプニングにめっぽう強い」
「鷹山監督のお陰で、みんなそこそこ免疫ついてますから」
普段の演奏会であれば、人によっては楽屋へ一度戻ったり、楽器の調整をしたり、水分を補給したりと、自由に行動してよいことになっている。
しかし今日は、誰一人として舞台裏から移動しようとしない。自然と、ヴァイオリンを携えた鷹山のもとへと集まってくる。
先程まで緊張の色を隠せずに、険しい表情を見せていたとは思えないほど、鷹山は穏やかに微笑んでいる。
「ああ。なんだかドキドキするなあ、僕」
大袈裟でどことなく芝居がかったように、持ち前の饒舌さを十二分に生かして、団員たちに朗々と語り出す。
「指揮者が指揮台の上にはいないけど、みんな僕の演奏を聴いてくれ。芹響と共演なんて、おそらく最初で最後だろうから、思う存分楽しませてもらうことにするよ」
誰一人、反応する者はいない。皆、不安なのだろう。
当然である。
ほとんどが、鷹山がヴァイオリンを手にしているのを初めて見る団員たちなのだから。
鷹山は団員たちの不安を払拭するように、どこまでも楽しそうに天使の笑顔を振りまいていく。
「みんな、そんな怖い顔をしないで。僕ね、このヴァイオリンの持ち主より、チャイコフスキーは上手に弾けるから、ホントに――本人どこかで聞いてないよね? あの『鬼』はすぐ怒るから……って、僕もか?」
鷹山の毒ある冗談に、あちこちから忍び笑いが漏れる。
あくまでも明るく楽観的な鷹山の姿に、取り囲んでいる団員たちの雰囲気が、徐々に前向きなものに変化していくのが、傍目の華音にもハッキリと分かった。
鷹山は、コンサートマスターの青年の方へと向き直った。
「美濃部君」
「はい! 鷹山監督のご武運を!」
鷹山は微笑んだまま、小さく首を横に振った。
そして、苦楽をともに乗り越えきた同志たちをぐるりと見渡すと、力強く頷いてみせた。
「僕一人じゃない。一蓮托生、君たちも道連れだ! よろしく頼む!」
鷹山は弓とアマティを左手に併せて持ち、右手を差し出す。
その鷹山の手を、美濃部はしっかりと握り返した。
華音はひとり、富士川の待つ客席に戻ってきた。
休憩時間は残り五分。もうじき第二部が始まるだろう。
富士川は、隣の席を華音のために開けておいてくれていた。促されるまま、隣へ着席する。
「予定通りにいきそう?」
「たぶん。鷹山さんも、美濃部さんたちも、もうなるようになれって感じかな。でも、雰囲気は良さそうだったよ」
富士川はどことなくホッとしたように、長いため息をひとつついた。
「それにしても羽賀のヤツ……相変わらずわがままでやりたい放題だな。あとで居所つかまえて説教だ」
「祥ちゃんのお説教なら、羽賀さんだったらら逆に喜んじゃいそうだけどね……」
富士川は、その華音の的確すぎる指摘を受けて、がくりと肩を落とした。
結局のところ、美しきつむじ風には誰もかなわないのだ、きっと――。
「しかし、同門の後輩として、あまりにも恥ずかしい。当日キャンセルするにしても、黙って姿を消すことなんかないだろう?」
「祥ちゃんにね、代わりに弾いて欲しかったんだと思う」
「たぶんそうだろうな。だからあんなこと言って、俺に楽器を持ってこさせたんだろう。だからってそんな簡単に――」
「祥ちゃんには芹沢の名が似合うって、羽賀さん、そう言ってたよ」
華音がそう告げると、富士川の眼鏡の奥の両瞳は、驚いたようにゆっくりと見開かれた。
そこに怒りの感情は、既にない。
華音はさらに続けた。
「羽賀さんだけじゃない。同じことを思っている芹響の団員さんたちもたくさんいる。さっき祥ちゃんがみんなの前に一年ぶりに現れたときの反応……あれがすべてだと思う」
【富士川さん! 富士川さんだ!】
【弾いてくださるんですか?】
やがて、富士川青年は憑き物が落ちたように、座席の背もたれに深々と身体を預け直し、ホールの天井を仰いだ。
敬愛する師が帰らぬ人となり、音楽を続ける意味を見出せずに芹響を退団して、早一年の月日が経とうとしている。
「祥ちゃん――」
「うん? どうしたの?」
「鷹山さんのこと、助けてくれてありがとう」
「俺は別に、そんなつもりじゃ――」
「ホントに、どうもありがとう」
「華音ちゃん……いや、礼を言うのはこっちのほうだ」
いろいろなことが、ありすぎたのだ。
たった一年ほどの間に、本当にいろいろな出来事が起こり、富士川青年と華音の二人を取り巻く環境を、大きく大きく変えてしまった。
「華音ちゃんたちが頑張った。美濃部も、そして藤堂も……。赤城という人も結果として手を組んで間違いはなかったわけだし、それになんといっても――」
富士川はひと呼吸置いて、華音にその胸の内を告げた。
「鷹山が頑張ってくれたお陰で、ここまでこれた。芹響は素晴らしい楽団だ。本当に!」
休憩時間の終了を告げるベルが、ホール内に響き渡った。
客席の照明が徐々に落とされ、やがて足元の非常灯の明かりだけとなる。
すると。
盛大な拍手に促されるようにして、飴色のヴァイオリンを抱えた美貌の悪魔が姿を現した。
やがて、針を落とす音が聞こえてしまうほどの静寂が、悠然とホールに満ちていく。
音楽の女神が、ステージ上へ舞い降りてくる。
そして『芹沢楽人』は、兄弟子のヴァイオリンを構えると、空白の十五年に思いを馳せるように、ゆっくりとその大きな両瞳を閉じた。
その途中で、開演五分前を知らせる1ベルの「トランペット・ヴォランタリー」が、予定どおりの時刻をもって、本拠地ホール建物内に響き渡った。
このような不測の事態にも関わらず、美濃部はタイムスケジュールどおりの進行をしてみせている。
その采配の手腕に、華音は思わず感心した。
――頼りなさそうでいて、ここぞという時の機械的な仕事ぶりは、さすが美濃部さん。
速度を緩めることなく階段を駆け上がり続け、華音はやっとの思いで四階までたどり着いた。弾んだ息をなんとか落ち着かせようと、何度も大きく深呼吸を繰り返す。
当然のことだが、廊下に人影はない。陣中見舞いに訪れた来客も、すでにホールの客席に移動してしまったようだ。
そのため、不用心にも音楽監督室の扉は大きく開け放たれていた。
華音は形だけのノックをして、部屋の主の返事を待たずに、室内へと進んだ。
部屋の中は、いつにもまして雑然と散らかっていた。
片付ける人が側にいないと部屋がすぐ散らかるとは本人も認めていたが、華音に代わってアシスタント業務を行っているあかりでは、身の回りの世話まではさすがに行き届いていない。華音と違って、あかりには副主席としての仕事もあるため、鷹山本人がそこまでやる必要はないと、あかりに配慮しているためだろう。
鷹山は、慌ただしく身に着けていた正装の上着を脱ぎ、乱暴にソファの背もたれに放り投げた。そして、ようやく現れた華音に向かって、ここぞとばかりに、矢継ぎ早に指示を飛ばしてくる。
「ネクタイ、小さい方に付け替える。あと衣装の上着、一番軽いのにして。さすがにこのまま正装じゃ、演奏しづらいから」
懐かしく、そして愛しい。
こうやって鷹山の側で御用聞きができることは、華音にとってかけがえのない至福の時間である。
彼に必要とされている充足感が、華音の渇ききった心を隅々まで潤していく。
華音は鷹山に言われるがまま、衣装用のクローゼットを開け、指示通りのものを見繕った。
ここひと月余りの間に使用された形跡のあるものは、まったく整頓されておらず、雑然と掛けられている状態だった。
しかし、中身はだいたい把握している。一つ一つ確認して、目的のものをピックアップするだけだ。
華音は小規模の演奏会で使用する、伸縮素材で仕立てた衣装を選んだ。普段から演奏する楽団員たちが着用している礼装と変わらない、煌びやかな装飾のないシンプルなデザインだ。
上着と蝶ネクタイを差し出しながら、華音はおそるおそる尋ねた。
「あの……本当に大丈夫なの? 鷹山さん、ソロなんて出来るの?」
「まったく、君って人は……僕を誰だと思ってるんだ?」
華音の言葉が心外だったのか、鷹山はどこか呆れたようにして肩をすくめてみせる。
「だって、腕の傷……治ってないんでしょ?」
そう。
華音の心配は、『その曲が弾けるのか』ではなく、『その腕の状態で弾けるのか』なのである。
その心配に対する答えを、鷹山はさらりと告げた。
「僕の腕なんかどうなったっていい。少しくらい音を外しても、最後までなんとかもってくれれば、それでいいから」
華音の心は不安で一杯になった。
やってみなければ分からない――確かにそうなのであるが、一か八かとという可能性五分五分の話ではない。
成功するのか。はたまた失敗するのか。
最後まで弾けるのか、途中で演奏を中断することになってしまうのか。
すぐ先の未来のことなのに、濃霧に包まれたように見通すことができないのである。
華音が不安な心の内を隠せずにいると、鷹山はいつになく神妙な面持ちになった。そして、じっと華音を見つめてくる。
何を言われるのだろう――華音は、つかず離れずの距離を保ったまま、じっとこちらを見つめ続ける鷹山の言葉を、ひたすら待った。
すると。
綺麗な顔をした悪魔の優しい声が、華音のすべてを包み込んでいく。
「君がさっき、真琴さんのことでみんなから責められているのを、とても見ていられなかったんだ」
「鷹山さん……」
「君を助けないと――って、とっさに志願の言葉が口をついて出た。もちろん富士川さんに突然の代役は無理だ、って思ってたのもあるけど」
そう口早に説明をして、鷹山は華音が差し出していた新しい上着と蝶ネクタイを受け取った。黙ったまま上着に袖を通し、それまで付けていた蝶ネクタイをはぎ取るようにして外すと、空いた華音の手のひらの上にそれを押しつけるようにして置いた。
彼の緊張が、わずかに触れた手と手の感触から伝わってくる。
鷹山は自分で新しい蝶ネクタイを付け終えると、監督専用の机の上に恭しく置かれたヴァイオリンケースに手をかけ、ひと呼吸置き、慎重に開いた。
中から、思わずため息が漏れてしまうほど、美しい飴色のボディが姿を現した。
すべてが詰まっている。
一番弟子の気概とプライド、そしてどこまでも繊細なその響き。寵愛と恩義。芹沢の血を引くものへのゆるぎなき愛情。
それを、今。
鷹山は兄弟子から、確かに受け取ったのである。
「音楽の神様が、僕に弾けと言ってる。今宵限り、僕は『芹沢楽人』に戻る」
芹沢の血の、なせる業を――。
「ねえ、華音」
その耳慣れない響きに、華音の心臓の鼓動はトクンと大きく脈打った。
『芹沢楽人』が、初めて自分の名を呼んだ。
その慈しむような優しい眼差しは、驚く華音の顔に真っ直ぐと向けられている。
「君のその名前はね、僕が考えたんだよ」
二人の運命を狂わせた十五年の永き時間が、一瞬にして巻き戻っていく。
「子供ながらに僕が懸命に考えて、お父さんがそれに漢字を当ててくれた。『華やかな音楽が、いつもともにありますように』って」
――あ……さっき、鷹山さんの養父さんが言ってた言葉。
【ということは……お前はいま、幸せなんだな】
あの時。
鷹山の虚勢全開の硬い表情が、養父の言葉で一瞬にして崩れた、その理由は――。
「君は華音、僕は楽人。二人揃って一つの『音』『楽』になる、って」
二人揃って、一つの音楽に――。
それが、今は亡き父・芹沢卓人の、子供たちの名前に込められた願いなのだと、目の前の『芹沢楽人』は言う。
「だから、君のそばには、いつも僕がいるということを忘れないで――――芹沢さん」
分かっている。
もう、後戻りできないのだ。
普通の兄妹がそうするように、当たり前のようにお互いの名前を呼ぶことすら、自分たちはもうできない。
「言いたかったのはそれだけだよ。もう、戻ってもいいよ、富士川さんのところへ」
「いいえ。ちゃんと舞台袖までお見送りします」
「大丈夫だよ、ひとりで行ける」
「私は音楽監督の専属アシスタントです。演奏が始まるまで、側にいます」
「本当に大丈夫だから」
「集中力を妨げるようなことはしません。どんなことがあっても、側にいます」
天の邪鬼な彼の性格は、誰よりも分かっている。
鷹山はもう、拒まなかった。
「じゃあ芹沢さん、お願いがあるんだけど」
「何ですか?」
「コーヒー、淹れてくれないか?」
その懐かしい言葉に、華音は思わず顔を綻ばせてしまう。
すでに精神集中を始めて黙って背中を向けた鷹山に、華音は喜んで応えた。
「はい、今すぐに」
第一部のドヴォルザーク交響曲第9番は、最終楽章に入った。
もうすぐ出番を迎える。
鷹山と華音は連れだって、楽屋棟の四階からステージの舞台袖まで降りてきた。
華音は鷹山の精神集中の妨げにならないよう、舞台裏の隅に身を寄せるようにして、少し離れたところから様子をうかがった。
生演奏の迫力ある音が、身体のあちこちを震わせる。
やがて、第一部の演奏が終了すると、盛大な拍手が客席から沸き起こった。
拍手が収まると、二十分の休憩を挟む旨のアナウンスが場内に流れた。
ステージ上の照明が半分落とされ、次々に楽団員たちがいったん舞台袖へと引き上げてくる。
そして、ひときわ汗だくになって帰ってきた代役の指揮者の青年を、音楽監督は優雅な笑顔で迎えた。
「なかなかエキサイティングなドヴォルザークだったじゃないか、美濃部君!」
「からかわないでください! 必死だったので、もう何が何だか……」
「初めてであれだけ振れたら大したものだよ。さすがは芹響だ。予期せぬハプニングにめっぽう強い」
「鷹山監督のお陰で、みんなそこそこ免疫ついてますから」
普段の演奏会であれば、人によっては楽屋へ一度戻ったり、楽器の調整をしたり、水分を補給したりと、自由に行動してよいことになっている。
しかし今日は、誰一人として舞台裏から移動しようとしない。自然と、ヴァイオリンを携えた鷹山のもとへと集まってくる。
先程まで緊張の色を隠せずに、険しい表情を見せていたとは思えないほど、鷹山は穏やかに微笑んでいる。
「ああ。なんだかドキドキするなあ、僕」
大袈裟でどことなく芝居がかったように、持ち前の饒舌さを十二分に生かして、団員たちに朗々と語り出す。
「指揮者が指揮台の上にはいないけど、みんな僕の演奏を聴いてくれ。芹響と共演なんて、おそらく最初で最後だろうから、思う存分楽しませてもらうことにするよ」
誰一人、反応する者はいない。皆、不安なのだろう。
当然である。
ほとんどが、鷹山がヴァイオリンを手にしているのを初めて見る団員たちなのだから。
鷹山は団員たちの不安を払拭するように、どこまでも楽しそうに天使の笑顔を振りまいていく。
「みんな、そんな怖い顔をしないで。僕ね、このヴァイオリンの持ち主より、チャイコフスキーは上手に弾けるから、ホントに――本人どこかで聞いてないよね? あの『鬼』はすぐ怒るから……って、僕もか?」
鷹山の毒ある冗談に、あちこちから忍び笑いが漏れる。
あくまでも明るく楽観的な鷹山の姿に、取り囲んでいる団員たちの雰囲気が、徐々に前向きなものに変化していくのが、傍目の華音にもハッキリと分かった。
鷹山は、コンサートマスターの青年の方へと向き直った。
「美濃部君」
「はい! 鷹山監督のご武運を!」
鷹山は微笑んだまま、小さく首を横に振った。
そして、苦楽をともに乗り越えきた同志たちをぐるりと見渡すと、力強く頷いてみせた。
「僕一人じゃない。一蓮托生、君たちも道連れだ! よろしく頼む!」
鷹山は弓とアマティを左手に併せて持ち、右手を差し出す。
その鷹山の手を、美濃部はしっかりと握り返した。
華音はひとり、富士川の待つ客席に戻ってきた。
休憩時間は残り五分。もうじき第二部が始まるだろう。
富士川は、隣の席を華音のために開けておいてくれていた。促されるまま、隣へ着席する。
「予定通りにいきそう?」
「たぶん。鷹山さんも、美濃部さんたちも、もうなるようになれって感じかな。でも、雰囲気は良さそうだったよ」
富士川はどことなくホッとしたように、長いため息をひとつついた。
「それにしても羽賀のヤツ……相変わらずわがままでやりたい放題だな。あとで居所つかまえて説教だ」
「祥ちゃんのお説教なら、羽賀さんだったらら逆に喜んじゃいそうだけどね……」
富士川は、その華音の的確すぎる指摘を受けて、がくりと肩を落とした。
結局のところ、美しきつむじ風には誰もかなわないのだ、きっと――。
「しかし、同門の後輩として、あまりにも恥ずかしい。当日キャンセルするにしても、黙って姿を消すことなんかないだろう?」
「祥ちゃんにね、代わりに弾いて欲しかったんだと思う」
「たぶんそうだろうな。だからあんなこと言って、俺に楽器を持ってこさせたんだろう。だからってそんな簡単に――」
「祥ちゃんには芹沢の名が似合うって、羽賀さん、そう言ってたよ」
華音がそう告げると、富士川の眼鏡の奥の両瞳は、驚いたようにゆっくりと見開かれた。
そこに怒りの感情は、既にない。
華音はさらに続けた。
「羽賀さんだけじゃない。同じことを思っている芹響の団員さんたちもたくさんいる。さっき祥ちゃんがみんなの前に一年ぶりに現れたときの反応……あれがすべてだと思う」
【富士川さん! 富士川さんだ!】
【弾いてくださるんですか?】
やがて、富士川青年は憑き物が落ちたように、座席の背もたれに深々と身体を預け直し、ホールの天井を仰いだ。
敬愛する師が帰らぬ人となり、音楽を続ける意味を見出せずに芹響を退団して、早一年の月日が経とうとしている。
「祥ちゃん――」
「うん? どうしたの?」
「鷹山さんのこと、助けてくれてありがとう」
「俺は別に、そんなつもりじゃ――」
「ホントに、どうもありがとう」
「華音ちゃん……いや、礼を言うのはこっちのほうだ」
いろいろなことが、ありすぎたのだ。
たった一年ほどの間に、本当にいろいろな出来事が起こり、富士川青年と華音の二人を取り巻く環境を、大きく大きく変えてしまった。
「華音ちゃんたちが頑張った。美濃部も、そして藤堂も……。赤城という人も結果として手を組んで間違いはなかったわけだし、それになんといっても――」
富士川はひと呼吸置いて、華音にその胸の内を告げた。
「鷹山が頑張ってくれたお陰で、ここまでこれた。芹響は素晴らしい楽団だ。本当に!」
休憩時間の終了を告げるベルが、ホール内に響き渡った。
客席の照明が徐々に落とされ、やがて足元の非常灯の明かりだけとなる。
すると。
盛大な拍手に促されるようにして、飴色のヴァイオリンを抱えた美貌の悪魔が姿を現した。
やがて、針を落とす音が聞こえてしまうほどの静寂が、悠然とホールに満ちていく。
音楽の女神が、ステージ上へ舞い降りてくる。
そして『芹沢楽人』は、兄弟子のヴァイオリンを構えると、空白の十五年に思いを馳せるように、ゆっくりとその大きな両瞳を閉じた。