奈落の章 (15)後  最後に君の名を

 一週間後――。

 蒼蒼とした木々の緑が眩しい、初夏から盛夏へと移り行こうとする季節を迎えた。
 定期演奏会が終わってから、本拠地ホールは平穏を取り戻しつつあった。
 音楽監督の鷹山が、一週間ほどのまとまった休暇を取ったことが、その一因だ。
 休暇の理由は、演奏会に訪れた養父と一緒に、急遽富良野の実家への里帰りを決めたからである。
 そのため、華音も演奏会の夜以来、鷹山とは顔を合わせていなかった。


 今日は午前中に、オーナーの赤城が本拠地ホールを訪れる予定となっていた。
 珍しく、赤城オーナーを交えての楽団の運営に関する打ち合わせがあると、華音はそう美濃部から聞かされていた。
 音楽監督の鷹山が不在であるため、打ち合わせといっても、RAMPの体制のこととか、より運営の現場に関することなのだろう――華音はそう勝手に決め込んでいた。

 正午近くになって、華音はオーナーの赤城から、本拠地ホールまで来るよう連絡を受けた。
 同居する富士川も、朝から行先も告げずに出かけてしまって、華音はマンションにひとり取り残された状態だった。そのため、赤城オーナーからの要請は、暇つぶしにちょうど良かった。
 華音は、富士川が作っておいてくれていたエビピラフをレンジで温め、簡単に昼食を済ませると、赤城に指定された午後二時に間に合うようにマンションを出て、本拠地ホールへと向かった。


 照り付ける太陽の光が、容赦なく突き刺さってくる。
 無風だ。
 膝丈のスカートは風になびくことなく、じっとりとまとわりついてくる。
 炎天下に徒歩で移動したのは無謀だった――そう華音が後悔し始めたときには、すでに本拠にホールのレンガの外壁が望めるところまで、たどり着いていた。

 本拠地ホール内は閑散としていた。午前中に打ち合わせが行われていたため、建物内のどこかには楽団員たちが残っているはずだったが、エントランス付近には誰も見当たらない。
 壁掛け時計は、午後一時五十五分を指している。もうすぐ約束の時刻だ。
 華音は急ぎ足で、赤城の待つ事務管理室へと向かった。

 すでに赤城は、事務室内の応接セットに悠然と座って待機していた。
「お疲れ様です、赤城オーナー」
「炎天下の中、わざわざすまなかったな」
 いつになく殊勝な赤城の物言いに、華音はわずかに首を傾げてみせる。
「ホントですよ、もう。身体が溶けちゃうかと思いました。あ、何かお飲みになりますか? 私、用意してきますよ」
「もう準備してある。さっきそこのコーヒーショップでテイクアウトしてきた。君の分もある」
 赤城はテーブルの上に置かれた紙袋を指し示した。
 紙袋には、有名なカフェチェーンの派手なロゴが印字されている。中をのぞくと、ホイップクリームがたくさん載ったシャーベット状のドリンクがふたつ入っていた。
 いまの華音の、火照った身体にはちょうどいい。
 華音は紙袋の中から二つのドリンクを取り出すと、一つを赤城へ差し出し、もう一つをありがたくいただくことにした。いそいそと、赤城と向かい合うようにして腰掛ける。

 ストローでクリームを崩しながら、少しずつシャーベット状の液体をすする。ほろ苦く、そして甘い。キャラメルとナッツのトッピングが、ときどき口の中へ飛び込んでくる。
 数口飲んで、暑かった身体もだいぶ落ち着きを取り戻した。
 赤城も華音にならうようにして、普段は決して使わないストローを手に取り、慣れぬ手つきで操っている。
「いったいどうしたんですか? 話って?」
 華音は、黙ったままドリンクのクリームと格闘している大男に問いかけた。
 球は投げた。あとはひたすら返ってくるのを待つだけある。
 結局、クリームとの格闘をあきらめた赤城は、ドリンクのカップにストローを差したまま、放置してしまう。
 普段あまりこういったものを飲まないのだろうか――その様子を、華音は興味深く眺めていた。

 その時である。
 赤城はようやく意を決したように、ゆっくりと口を開いた。
「鷹山君は本日付で、芹響の音楽監督を退任した」
 ピクリ、と華音の身体が小さく反応した。
 驚きのあまり、おそるおそる赤城のほうへ顔を向けると――こちらの様子をうかがうようにしている赤城としっかり目が合った。
「た……退任? どういうことですか!?」
「誤解のないようにあらかじめ言っておくが、私が解雇したわけではない。鷹山君の自主退任だ」
「自主退任って、どうしてそんな……」
「そういうことで、当楽団の音楽監督の次期ポストは、富士川君となる」
「え……祥ちゃんがここへ戻ってくるんですか?」
「鷹山君の意向だ。富士川君と鷹山君が二人で話し合って決めたことだ。楽団員たちには先程すでに伝えた」
 華音はもう訳が分からず、赤城の顔を呆然と見つめるほかはなかった。
 富士川と鷹山が二人で話し合うことだけでも驚くことだが、芹響の今後についての取り決めが秘密裏に行われていたことを、華音はまったく知らされていなかったのである。
「鷹山君は、しばらくはヴァイオリンの演奏活動に専念するらしい。あの、兄弟子の宝物の楽器を奪っていったそうだから」
「え……嘘? だってあれは、祥ちゃんが命よりも大切にしている楽器なのに」
「音楽監督業務が忙しくて、富士川君にはしばらく使う時間がないだろうからね」
「そんな……それにしたって、祥ちゃんが一番大切にしてるものを使わなくたって、ヴァイオリンなら他にもあるのに。鷹山さん、もうそろそろ、実家からこっちへ帰ってきてるはずですよね? ちょっと芹沢邸に戻って鷹山さんと話してきま――」
「無駄だ」
 赤城は、華音の言葉を鋭く遮った。
「鷹山君は、今朝千歳から羽田へ戻って、そのまま直接、ウィーンへ向けて発った」
「い……ま……何て?」
「もう日本にはいない。古巣へ帰ったんだ」
「う……そ」
「嘘ではない。本当だ」

【君のそばにはいつも、僕がいるということを】

【忘れないで――――芹沢さん】

「いやああああああっ!」
「芹沢君! 落ち着くんだ!」
 赤城はとっさに立ち上がり、取り乱す華音をその胸にしっかりと抱きとめた。
 もがく華音の腕を、赤城は包み込むようにしてしっかりと押さえつけてくる。
「そんなの、そんなの絶対にいやあああああああっ!!」
 涙が次から次へとあふれ出し、嗚咽とともに赤城のスーツに染み込んでいく。
「何よ、勝手に現れて、勝手にいなくなって! こんなことなら、初めから私の目の前に現れなければよかったのに!」
「君の手を放してくれた鷹山君の気持ちも察してやれ」
 赤城は華音を抱きとめたまま、耳打ちするように諭してくる。
「そ……んな……」
「なにも死に別れたわけではない。確かにウィーンは近いとは言えないが、また会う機会もあるだろう」
 もう、訳が分からない。
 二人が築き上げてきた世界が、音もなく崩れていく。
「うう……ぐすっ」
「きちんと別れを告げなかったのは、君と富士川君のことを思ってのことだろう。私はそう考えているが」
「ひどい……本当にひどい……なんでこんな」
 あらがう力も、何もかも失ってしまった。
 もう、何も考えられない。
 赤城はようやく、華音を押さえつけていた腕を解放した。
「これで良かったのだ。一年前に、時間が戻った。たったそれだけのことだ」

 どこか遠くから、ざわめくような気配が近づいてくる。
 どうやら残っていた団員が、事務室の向かい側にある休憩スペースへとやってきたようだ。
 周囲に人がいないと気が緩んでいるのか、廊下中に響き渡るような大声で噂話に興じ始める。

 噂話の声の主は、華音もよく知っているヴィオラの安西青年と、おそらく彼と仲の良いオーボエの兵頭晴夫だ。
 兵頭は入団してから三年ほどの、比較的新しい団員である。
 若手ながらも、芹沢英輔〜富士川祥の時代から、鷹山楽人〜美濃部達朗の時代まで、どちらも経ている楽団員だ。

 事務室の扉は閉まっていたが、すぐ横の小窓は、換気のために十センチほど開いた状態だった。
 二人の噂話は丸聞こえである。
 事務室の中では、オーナーの赤城と華音が深刻な話をしているとは露知らず――若き団員二人は、嬉々とした笑い声を響かせている。

「鷹山監督、突然すぎじゃない? オーナーは円満な退任だって言ってたけど、ホントかね? 安西君、どう思う?」
「この間のチャイコンで、ヴァイオリン奏者としての血が再び騒ぎ出したんじゃないスか? あの怪演はさすがというか、ダテに芹沢先生の弟子を名乗ってるわけじゃないんだなって、感服しましたよねー」
「俺もそう思った。ウィーンにいた頃のことよく知らなかったんだけどさ、すげー、監督、こんなに弾けんじゃん! ってあの演奏の最中に思った」
「あ、分かるッス。『悪魔』は口ばかり達者なわけじゃなかったんだ、って最後の最後に見せつけられたという。ハハハ。あんだけ弾けたら奏者として引く手数多でしょー」
「まあ、その入れ替わりで今度は『鬼』が戻ってくるんだから、さらに気を引き締めないと……」
「新しい監督って、そんな怖いんスか? 俺、鷹山監督しか知らないから、あんまりピンと来ないんスけど」
「富士川さんは厳しいよ。安西君、覚悟しておかないと」
「マジですかー。怖いなぁ」
「富士川派の人たちは歓迎ムード一色だけどね、一人を除いてさ」
「あ、それって藤堂サンすか」
「そう。あんなに富士川さん寄りだったのに……なぁ、俺ちょっと気になってるんだけど、最近なんか藤堂女史、おかしいよね?」
「おかしいって、どうかしたんスか?」
「ひょっとして気づいてない? 顔色悪いし、最近練習も休みがちだし、あれって絶対……でも、藤堂女史に限って、まさか妊娠とかないよね?」
「え! ちょっ、相手は誰スか?」

 嘘。
 嘘。
 もの凄く、嫌な予感がする。

 赤城は勢いよくドアを開け、休憩スペースで談笑する若き楽団員に詰め寄った。華音も慌ててあとに続く。
「……君たち、今の話は本当か?」
 突然目の前に現れたオーナー赤城の勢いに押され、兵頭と安西は揃って、ひっくり返らんばかりに身体をのけぞらせた。
「お、お、オーナー!? あの、いえ、その……」
「華音サンも!! あ……あの、ウワサですよ、ウワサウワサ」
 たじろぎ慌てふためく若き団員たちを横目に、赤城は淡々と言った。
「君たちは早く戻りたまえ」
 そそくさと逃げ出すように立ち去る兵頭と安西の背中を見送ると、赤城は華音を促し再び事務室の中へ戻った。開け放していた小窓も閉め、内側からきっちりと施錠する。

 あまりにいろいろなことがありすぎて、もう華音はパンク寸前だった。
 いや、もうとっくに、思考能力の限界は越えてしまっている。
 一方の赤城は、さすが年の功――場数が違う。
「藤堂君から、直接事情を聞かねばなるまい」
 オーナーの赤城は、あくまで冷静に、このあと取るべき行動を、頭の中で素早く組み立てているようだ。
「ちゃんとお付き合いしているパートナーがいて、結婚も視野に入れているなら何の問題もないが――そうでなければ、いささかデリケートな問題だからな。芹沢君、君も同席してくれないか」
「……どうしてですか」
 意味が分からない。

 妊娠?
 相手?
 知りたい――いや、そんなの知りたくない。

 その複雑な心の内が華音の表情に出てしまっていたのか、赤城は補足するようにさらりと説明してくる。
「父親の可能性がある人間を、同席させるわけにはいかないんでね。楽団関係者の男性陣では面談は務まらないだろう」
「父親の可能性って……楽団員の中にですか?」
「あくまで可能性だ。彼女の妊娠は確定ではない。しかし、私の考える『可能性』と君の考える『可能性』は――おそらく一致していると思うがね」
 その赤城の怜悧なひと言に、華音はさらに心臓が引き絞られるような思いがした。



 赤城オーナーは、応接室へ場所を移し、そこへ渦中の人・藤堂あかりを呼び出した。
「最近体調が優れないということを小耳に挟んだのだが、大丈夫か? もしこのまま続けるのが難しいのであれば、一時的に休団することも考慮するが」
「あの……ご心配をおかけして申し訳ございません」
 安西青年たちの噂どおり、確かにあかりの顔色は冴えない。
 華音は単刀直入に尋ねた。
「あの、本当なんですか――赤ちゃんがって……」
 赤城が驚いたような視線を向けてくる。デリケートな問題だと釘を刺していたはずなのに、デリカシーの欠片もない――そう言いたげにして、白々しくため息をつく。
 華音のストレートな問いに、じっと身を強ばらせているあかりに、赤城は確認するように尋ねた。
「プライベートにまで口を挟むつもりはないが……事実なのか?」
 長い沈黙があった。
 やがて、このまま隠し通せないと観念したのか、あかりは小さく頷いた。
「本当です、すみません。このままでは楽団の皆さんに、ご迷惑をおかけしてしまいますので」
 あかりは、オーナーの赤城をまっすぐに見つめた。
「私、退団します。退団して、実家へ戻って、一人でこの子を育てます」
 もうすでに覚悟はできているのだろう。あかりの目に、迷いは見られない。
「一人で、ということは……つまり、父親の名は明かせないということか?」
 赤城の口調は穏やかだが、事実を探るべく、追及の手を緩めようとはしない。
 あかりは途惑いの表情を隠せずにいる。
「それは――あの」

「そんなの駄目だよ!」

 次の瞬間。
 ドアを打ち破るようにして入ってきたのは、美濃部青年だった。
 いつも理路整然として飄々としている男が、血相を変えてあかりの前に立ちはだかる。
「美濃部さん……」
 藤堂あかりがオーナーから直々に呼び出されたことを受け、先ほど噂話に興じていた若手の団員が、その呼び出された理由を、このコンサートマスターの青年に話したに違いない。

 美濃部の勢いは止まらない。
 珍しく感情をあらわにして、声を荒げる。
「あかりさんは芹響に必要な人なんだ。富士川さんが帰ってくるまで、身を呈してこの楽団を守ってくれたのは、あかりさんじゃないか! それを簡単に退団するだなんて……なんて馬鹿な人なんだ、貴女は!」
「馬鹿って、そんな。……いえ、たしかに――馬鹿な女ですよね」
 悲しげに目を伏せるあかりの繊細な表情を、美濃部は憐憫の眼差しでとらえる。
 そして、くるりと向きを変えると、あかりを背にかばうようにして、そのままオーナーの赤城の前に進み出た。
「赤城オーナー。お腹の子の父親は、私です」
「み……美濃部さん?」
 驚きのあまり、あかりは言葉を詰まらせている。
 美濃部は背後のあかりへ、意味ありげにちらりと一瞬だけ視線をやる。
「隠す必要はないよ。ちゃんと責任をとるから」
「そんな……私」
「あかりさんとあかりさんのお腹の子供は、私が一生面倒みます!」
 何の迷いも見せずに、美濃部は目の前の大男に言い切ってみせた。
 赤城と華音は、目の前で繰り広げられている異様な光景を、ただ茫然と眺めるばかりだった。



 美濃部とあかりが応接室から出て行ってしまうと、華音はどっと疲れを覚えてしまった。
 もう、訳が分からない。
 何が真実で、何が偽りなのか――。
「藤堂さんのお腹の中の赤ちゃんって……」
 華音の疑問を、赤城は最後まで言わせずに遮った。
「我々にできるのは推測だけで、真実は彼女自身にしか分からないことだ。美濃部君が、藤堂君のお腹の子は自分の子供だと言うんだから、我々としてはそれを真実として受け止めるしかない」
「そんなの……そんなの信じられない」
 真実は、一つしかない。
 美濃部の言い分は、到底納得できるものではない。
 しかし。
 赤城は首を横に振った。
「確かめるなんて無粋な真似は止めておけ」
「どうして?」
「君が受けている以上の辛さを、彼女はすでに味わっている」
 その赤城の言葉が、華音の心をいっそう苦しめた。
 そんなことが、あっていいはずがない。


 誰かが、応接室のドアを数度ノックした。
 赤城にはすでに誰なのか分かっているのか、「入りたまえ」と上役としての言葉遣いで応答してみせる。

 そこへ入ってきたのは、富士川祥だった。
 きっちりとスーツを着込み、仕事モードの硬い表情のまま、静かに赤城の前に進み出る。
「改めて、ご挨拶に伺いました。赤城オーナー」
「ああ、ご苦労さん。監督室の引き継ぎはもうすんだか?」
「ええ。前任の監督の指示通り、荷物を仕分けて、必要なものは発送しておきました」
「兄弟子の君に、引っ越し業者の真似事をさせてしまって、申し訳なかったな」
 性分ですから――と、富士川青年は穏やかな笑顔を見せる。
 しかしその、どこまでも自然な二人のやり取りが、華音にはとても現実として受け入れられるものではなかった。
「祥ちゃん……」
 富士川は、華音のその表情からすべてを読み取ったのか、心配そうに見つめてくる。
「黙っていてゴメンね。オーナーの赤城さんから正式に説明があってから、華音ちゃんには話そうと思っていたんだ」
「どうして……どうして鷹山さんがいなくなっちゃうの? どうして鷹山さんが」
 途惑う華音を落ち着かせるように、富士川はそっと華音の頭を撫でさすった。
 慈しむような優しい感触が、想いとなって華音を包み込んでいく。
「そのうち、帰ってくるよ。俺の楽器を預けたから、嫌でも必ず、返しに戻ってくるから」
「ホントに帰ってくる……かな」
「うん。いつか必ず――帰るべきときが来たら」

 それがいつかは、分からない。
 それでも。
 必ず帰ってくると、目の前の男は言う。

 嘘偽りのないまっすぐな富士川の言葉は、悲しみに打ちひしがれた華音の心を、わずかに癒していく。

 赤城は自分の判断は間違っていなかったと確信したのか、富士川と華音のやり取りを満足気に眺めている。
 そして。
 楽団の未来に思いを馳せるように、赤城は激励の言葉を述べた。
「富士川君。これからは君の時代だ。私は引き続きオーナーとして、新しい芹沢交響楽団のさらなる発展を期待したい」
 すると。
 新しい音楽監督は、その心の内に秘めた確固たる思いを吐露するように、オーナーに応えた。
「分かっています――約束は守ります。『芹沢』の名と、この命にかけて、必ず」


(奈落の章 了)